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ゲーテの晩年の1日

2012年04月22日 | カ行
           レオポールト・ヴィンクラー著
           牧野 紀之訳

・これはゲーテの晩年の生活を1日にまとめて描いたものです。ヴィンクラーさんの大作家に対する敬慕の情に満ちた文章だと思い、訳しました。(牧野 紀之)


 朝6時。ゲーテの寝室にはカーテンを通して11月の淡く弱々しい光が差し込んでいる。眠気まなこに少し表情を崩し、頭を振り、手をモゾモゾと動かし、そして目覚める。やっと目を開いたゲーテはなおも笑みを浮かべたまま溜息をつく。

 ああ、折角素晴らしい景色を見ていたのに、どうして終わってしまうのだ。南の海の岸辺に立つギリシャの美しい女神・ヴィーナス、銀色に輝く波頭、空には消えなずむモルゲンロート。この完成された古代美の与えてくれるほのぼのとした雰囲気。だがこれもようやく褪せてしまった。さて、起きなければならぬ。仕事が待っている。

 伸びをして腕にさわる。しばらく前から腕に神経痛が出て、痛むのである。脚に出来た湿疹も痒くて困る。顔をしかめる。体に故障があると目覚めも楽しくない。

 今日は休むとしようか。いや、起きよう。休むのはダメだ。この程度の事で作家としての日課を休む訳には行かない。歳は取ったがこれ以外は悪くない。仕事の力は衰えていないし、歳よりも若く見える。さあ、起きるんだ。いつもの仕事だ。

 ゲーテはベッドに垂らしている紐を引いて呼び鈴を鳴らす。ドアが開いて従者が静かに入ってくる。「お早うございます、檀那様」。「お早う」と応える。従者はカーテンを開ける。「天気はどう?」と聞くが、直ちに自分で答える。「昨日予想した通りだな、曇ってる。まあ、いい。明日は多分晴れる。こういう事が分かっていると、いつも晴々した気持でいられるものだ」。

 起き上がり、顔を洗い、自分で髭をそる。ゲーテは他人(ひと)の手で顔に触られるのが嫌いなのだ。続いて椅子に座る、従者が理髪用の前掛けを掛けて髪を整える。ゲーテはいつも外見を気にしていて、不意の来客があっても困らないようにしているのである。調髪の間、従者と言葉を交わす。これまでの長い人生の間にあったちょっとした事を話したり、従者との世間話に花を咲かせたりする。民衆がどういう考えを持っているかと聞くこともする。自分の認識が世の変化に遅れないように努力しているのである。

 耳では従者の言葉に傾聴しているが、口では時々自分の意見を言う。それでも心ではそれらとは別にその日の仕事の事を考えている。ワイマール公国の王女の誕生日にちょっとした詩を贈るんだったな、と思い出す。冒頭の句はもう頭の中にある。その後も大筋は出来ている。

 着替えと整髪を済ませると、従者がミルクコーヒーとラスクを運んでくるので、朝食を美味しく食べる。昼食は何かね、と聞き、「それは楽しみだ」と応える。

 それから着替えの間に頭に浮かんだ事をすばやくメモする、あるいは従者に書き取らせる。この仕事は従者にとっては特別名誉なことである。

 書斎に行くともう書記が待っている。変わりないかなどと二言三言(ふたことみこと)言葉を交わしてから、口述を始めるのである。

 書記は部屋の真ん中のテーブルに席を取り、ゲーテはメモの置いてある斜面台の前に立つ。両手を背中に組み胸を張って部屋の中を行ったり来たりすることもある。

 ちょうど『ファウスト』第2部を口述しているところだ。ゾルゲ女史が老ファウストを訪ねてくる場面である。ファウストはこの女性に会った事がない。女性はファウストに息を吹きかけて眼が見えなくしてしまう。しかし、老人は雄々しく立ち向かい、自分の人生訓を語る。

 「この世の事は十分に知り尽くした」。
 続けて人間存在を擁護して言う。
 「勇敢な人間に対しては世界はその扉を開く。
  人間はしっかりと立ち、周りを見回す。」
 「前進する時には苦しみも喜びもある。
  勇者は片時も自己満足しない」。(1)

 (1) 関口存男氏はこのそれぞれ2行から成る2個の句の大意について次のように注しています。「腕ある人間が断乎として行動すれば現世は必ずこれに対して報いる所がある(人生は生き甲斐があるように出来ている)、かるが故に男子すべからく奮起して以て現実を踏まえて立て、前後左右の現実をシッカリにらめ……」、「真の人間は、好い加減なことに満足して惰眠に堕してはいけない、時々刻々野望に鞭打たれ、前進また前進のあわただしき移動心境の内に現世の喜怒哀楽を満喫すべきである」。

 ゲーテはそこでいったん止まる。窓辺へと歩み寄り外を見る。「そうだな、自分もこの長い人生をそうして生きて来た訳だ。この方針でここまで来られたのだ」。

 『ファウスト』用のメモを机の上に戻し、それを慈しむようになでる。いくつかのメモは何十年も前のもので既に黄色くなっている。ずっと持っていたのだ。この作品自体、彼の作家人生とほぼ重なる(1)。他のメモは比較的最近のものだ。

(1) 『ファウスト』はゲーテ24歳の頃に書き始め(原ファウスト)、死(1832年)の前年に第2部を仕上げた、とされる。

 この大作の仕事はまだ続いている。ゆっくりと考え考えだけれども、それは昨今の自分の生き方と同じだ。それもようやく終わりに近づいた。断片的になるかもしれないが、ともかくけりをつけなければなるまい。

 もう少し口述筆記をしてから「今日はここまでにしよう」と言うと、従者が朝食を持って来る。鶏の冷肉が少しと白パンにワインである。全て美味しくいただく。

 朝食を終えると馬車を玄関に呼んでそれに乗る。従者が肩に温かいマントを掛ける。お気に入りのつば付き帽子を被り、手には竹の鞭を持って近辺の一周ドライブに出かける。

 ゲーテの眼は今でも鋭く、光を失っていない。馬車の上からせわしなく周囲を見ては雲の動きを観察し、うっすらした霧から透けて見える山々の形と色彩を注視する。下方に眼をやって道を見ることも忘れない。文学の仕事の傍らで自然科学者としての研究も続いているのである。

 道のわきにある石の塊に気づくと馬車を止める。降りてかがんで観察する。ポケットから小さな金槌を取り出して石を叩き、2,3個の石を馬車に持ち込む。

 更に進んで近くの鉱業所に来ると長めの中断をする。所長を呼んで仕事はうまく行っているかと訪ねる。採掘した鉱石の見本を持ってこさせ、今後の採掘方法について指示を出す。それから帰宅するのである。

 帰途でもゲーテの注意深い観察は続く。道端の木や草、枝の小鳥とその巣に眼をやり、晩秋とはいえ最近の温かい日々で芽を出した新しい草を見て喜ぶ。その内、馬車のゴトゴトいう動きで眠くなる。眼を半分閉じると、最近マリーエンバートから帰ってきた時のような感じを覚える。

 あの時は相変わらずの恋情に囚われそうになり、そこから何とか逃れて来たのだったな、わしの人生はこれの繰り返しだった、自分自身を救い、仕事を優先して、恋の喜びから逃げて来たのだったな、これが自分の運命だと思ってな。

 今や完全に眼を閉じる。馬車の側面に頭をもたせかける。

 この間の逃げ帰りにはこれまでになく傷ついた。ゲーテらしい予言能力で、これで恋の甘美な苦しみから永遠におさらばすることになると分かっていたからだ。「マリーエンバートの悲歌」の中にはその苦悩が好く描かれている。この原稿は上等な革製の紐で結んで机の秘密の引き出しにしまってある。特に親しい友達にしか朗読していない。

 あの恋を捨てたのは物凄く辛かった。しかし、こういう事は我が人生には付き物だったな。若いころ既にこれを学んだ。ライプチヒのケートヒェン・シェーンコプフと別れた時だ。次はゼーエンハイムのフレデリーケ・ブリオンだった。その次はあのロッテ〔シャルロッテ・ブッフ〕だ。これは「若きウェルテルの悩み」として結晶した。

 いつでも別れは辛かったが、思えば我が人生は苦しみの人生だった。人生は「毎回毎回改めて持ち上げなければならない重い荷物」のようなものだ。

 馬車はヴァイマールの市街に入って行く。馬のひづめのパカパカいう音で憂欝な仮眠から眼覚める。背筋を伸ばして座り直し、眼を大きく開けると、すぐに我に返る。迷妄は既に消え去り、耳には『ファウスト』の1節が聞こえている。それはしばらく前に考え付いたもので、近い内にその悲劇の掉尾(ちょうび)を飾る予定だ。

 「たとえ妖怪変化が出没しようとも、大悟した人間はその歩むべき路を歩む。
  切磋琢磨を忘れず努力を怠らない人間は必ず救済される」。(1)

(1) 前半は、煩瑣な抽象論やくだらぬ感傷性にわずらわされることなく、はっきりと現実を見つめて行動せよ、との意。後半は、努力主義の人間は必ず救われるという考えでファウスト全篇の中心思想(以上、関口氏の注釈。訳は一部拝借)。

 そうだ、そうだ、その通りだ。迷妄を追い払うのだ、邪魔を乗り越え、常に新たな創造に邁進するのだ!

 車は玄関前で止まる。従者が既に待っている。「閣下、着替えの時間です」。「分かっている、すぐ行く」とゲーテは応える。若者のような軽い身のこなしで階段を上がり、庭に面した部屋に入る。

 昼食には客が来るのだ。盛装しなければならない。外国の高位の客がヴァイマールに来ていて、歓迎の祝宴を開くのである。それには幾組かの友人夫妻も招待してある。

 ゲーテはもう一度少しの間調髪用の椅子に座り、従者に髪を整えてもらう。それからフロックコートを着、金の針をマフラーに刺し、胸にはヴァイマールの勲章とナポレオンから授与されフランスのレジオンドヌール勲章を下げる。もう一度鏡を見てから、背筋を伸ばしてゆっくりと階下の応接室に降りて行く。

 そこには既に客が待っている。客は広い玄関階段を上がってきたのであるが、その階段横の台にはイタリアで買ってきた彫刻が並び、高価な絵画が壁に掛かり、ガラス戸の付いた棚には他の芸術品が収まっている。更にサイドテーブルの上にはエッチングやその他の版画の入った鞄が置いてある。

 昼食は2時からの予定である。その少し前に客間のドアの内側に立っている従者が「閣下のお出ましです」と告げる。ドアを開ける。サッとゲーテが入ってくる。威厳を感じさせる様子である、それは殿様のような威厳である。というのも、ゲーテは精神界の覇者だからである。態度がどことなくぎこちないが、背はすっくと伸ばしている。微笑みを浮かべ、主賓の所に歩み寄り、懇(ねんご)ろに挨拶する。他の客たちにも歓迎の言葉を述べる。素晴らしい応接間に立っている1人1人の所へ向かい、相手に合わせた会話を交わす。

 それも終わる頃、従者が「食事の用意が出来ました」と告げる。ゲーテが先頭に立ち、皆を案内して食堂に行き、着席する。メインディッシュはガチョウに栗を詰めてローストしたものである。その後、デザートにアップルパイが出る。

 ゲーテは甘い物は食べない習慣である。そこでスイスチーズを一切れ取る。コーヒーも午後には飲まないようにしているので、ワインを飲む。これは南ドイツの人間らしく若い頃から嗜(たしな)んだ。

 長い食事の間、疲れも見せず客と話す。常に座の中心となり、会話をリードする。これまでの経験談をする、その時の問題や人間の本性に関係した事を話題にする、特に芸術や学問や文学の話を好む。得意の「色彩論」や植物についての博識を披露することは何度もあった。

 間には客の仕事や研究について質問することも忘れない。客はゲーテが色々な分野で深い洞察と広い見識を持っているのを知ってびっくりする。ゲーテは冗談を言って笑うこともある。そのもてなしは実に魅惑的である。その間でも空になったワイングラスをそのままにしておくことはない。
 客はゲーテの生き生きした精神に感嘆すると同時にその健啖ぶりにも感心する。皆、ゲーテの内容豊かな話や光り輝く眼や素晴らしい頭の虜になるのであり、要するに、天才ゲーテの人となり全体に呪縛されるのである。かつて作曲家のメンデルスゾーン・バルトルディはこの人を「キラキラした眼を持つ老魔術師」と評したが、今でもそれはそのままなのである。

 食事が終わるとゲーテは鞄の中にしまってある芸術作品を皆に見せる。日に一度は素晴らしい芸術に接してそこから気を受けるべきだという考えである。1つ1つの作品についての説明がまた、その作品の特長を明らかにする独特のものである。こうして一時を過ごした後、客は帰る。

 するとゲーテは2階の自室に行き、肘掛椅子に腰をおろして休憩する。心弾む食事ではあったが、この歳では休んで自分に集中する時間も必要である。いまでも人と会うと初めは少し内気で堅い所もあるが、人と会う事自体は彼は本当に好きだった。実際、自分でも書いている。しばらく人から離れていると、人の顔を見るだけで好きになる、と。社交的な場では最初はとっつきにくく儀式張っているように見えるが、根は「育ちの好い少年」のままなのである。これはかつて婚約時代に書いた詩の中での言葉である。実際、ゲーテは生涯、穏やかさと忍耐強さと全ての事に対する理解力とを持ち続けた、と言ってよい。人々を導き、困っている人には救いの手を差し伸べたいという熱い衝動で生きて来た人であった。

 夜になった。もう一度馬車を走らせて、お城での会合に出る。記念行事があるのである。ゲーテは一般的には外出は少ない方なのだが、大きな行事に欠席する事はなかった。半時ほど貴族たちと過ごしてから帰宅する。

 白い木綿の心地よい室内着に着替えて机に向かう。明日の仕事の準備をし、心に浮かんだ考えやひらめきを書きとめ、日記を書くのである。日記は何十年も前から書いている。
 その後、読みかけの本を読み、パンを一切れ食べてワインを口にする。それらを終えて初めてベッドの脇にある背の高い椅子に移るのである。数年後ゲーテは死ぬことになるのだが、それもこの椅子の上である。息を引き取る前のしばらくの間、膝の上の毛布に指で字を書いていたと言う。

 快い疲労感が襲ってくる。椅子の背に頭を凭せ掛ける。随分寂しくなったなあ、歳を取ったからなあ、妻の死んだのはもうだいぶ前の事だ、息子のアウグストもだ、旧友もほとんど鬼籍に入ってしまった、生涯仲間のように応援してくれた公爵も、そして嗚呼、シラーもだ。
 ゲーテはこの自分と渡り合える唯一の友の事を思うといつも心が痛むのだった。自分を本当に理解してくれたのはシラーだけだったなあ。中年の頃、作家としての活動に自信を失い、どうして好いか分からなくなっていた時、彼の励ましがあったからこそ再び筆を執ることが出来たのだ。

 あの最大の理解者のシラーももういない、とゲーテは悲嘆にくれる。そのほかにも多くの理解者がいなくなった。一番長生きしたのは自分だけか。いつも時代を超越して生きて来たからかな。残る仕事はライフワークのあの超大作を完成させることだ。

 この作品あればこそ自分は持っているのだ。自分の力と若さはここから生まれてくるのだ。この作品に関わり、どこにいても人間としての精神的安定を保ち、スケールの大きな考えを持っている事、これが自分を支えて来たのだ。

 ゲーテの生き方を貫いた思想と原則は「ファウスト」の中で普遍的な意義を付与されている。それは終幕の次の言葉である。

 「そうだ、この考え方にこそ自分は帰依してきたのだ。
  これこそ智慧の最後の結論だ。
  自由と永世に相応しい人だけが
  自由と永世を日々戦い取る宿命を負う」

 ゲーテは身を起こす、寝床に就くためだ。その前に再度窓辺に行く、明日の天気を予測するのが習慣だった。月が出ている、星の明るい光が空から降りている。明日も晴天のようだな、又心弾む一日になるだろう、作家として1日1日を意義あらしめるのだ。
 生きる事はゲーテにとっていつも大なる喜びであった。「ファウスト」の中でこの事をトュルマー(塔守の名)がこう語っている。

 「幸せ者の眼よ、
  お前の見た事どもは
  どれも皆、
  やはり素晴らしい事だったなあ」

 ゲーテは窓の外を見やる。その眼差しは宇宙の星と同じように光り輝いている。上方の無限に目を遣る、「ファウスト」の最終幕で天使たちが救いと慰めの言葉を与えてくれるが、それは又ゲーテ自身の心からの慰めでもある。

 「常なき物ごとは
  [永遠の真理の]模写でしかないのだ」。


カント認識論の現実的意味

2012年04月16日 | カ行
    その1(構想力)

 第1項・哲学する姿勢

 ○○さんも言ったように、カントの演繹論を読んでいると「構想力」というものが大きな役割を果しているように見えます。へーゲルのカント論だけしか知らないと、こういうものがあることも知らないで終ってしまいそうですが、自分でカントを読んでみると、これが分かる。
 と同時に、自分でカントを読んでみるとまず気づくことは、「へーゲルのカント論から描いたイメージと大部違うな」ということだろうと思うのです。つまり、へーゲルのカント解釈はものすごく強引な所があると思うのです。

 しかし、ここで「強引」ということは必ずも「悪い」という意味ではないのでして、この点もよく考えてみなければならないのです。実際、そういう「強引な」へーゲル的解釈とそういう「強引さ」のないサラリーマン教授たちのカント研究とを比較して、どっちが哲学にとって意味があるかと考えてみれば簡単に分かるように、ヘーゲルのカント解釈が強引であるということは、第1に、へーゲルのカント研究はそれだけ強い主体的な問題意識に基いたものだということであり、第2に、強引といっても根拠がない訳ではなく、やはり根本は鋭く見抜いているということなのです。ただ、サラリーマン教授のように、枝葉末節を気にしないというだけなのです。ですから、私たちがカントを考える際にもこのへーゲルの態度は学ぶ必要があると思うのです。

 第2項・構想力とは「ひらめき」の事

 そこで本論に帰つて、ここで出てきました「構想力」というものについて考えてみますと、これは「対象が現在していないのにその対象を直観において表象する能力」(B版151頁)とされています。そのほか「感牲に属する自発性」とか「感性を先天的に規定する能力」とか言われています。では、これを一体どう考えたらよいのか。前回、カントが認識というもので考えていることは、人間の認識が方法をもって行われるという面に立脚しているのだとお話しましたが、それではこの構想力はその「方法に基づく認識」のどういう面を捉えているのでしょうか。これが問題です。

 そこで私は考えてみたのですが、これはいわゆる「ひらめき」に当たるのではないかと思うのです。例えば、幾何の証明の問題などを考えてみますと、うまい所に補助線を1本引くと、それに適用できる定理がおのずと浮かんできて、証明がスラスラ進むということがあります。しかし、その補助線がひらめかない限りどうしようもないというような場合です。この場合を考えてみますと、そこで適用されるべき定理は方法であり、カントで言えば、これを極端に一般化したものが純粋悟性概念ということになるのだろうと思うのです。しかし、概念=方法だけではその方法は適用できない。一般的なものである方法と個別的なものであるその実例(目前の問題)とを結び付けるものが「ひらめか」なければならない。だから、方法の適用のためにはその「ひらめき」に当たる構想力が必要だということになるわけです。

 これは何も幾何だけではない。現に今問題になっているカントを考える時でもそうです。カント哲学の現実的意味を考えるという「方法」をお話し、しかも「人間が認識する時、頭の中に予め持っているものを対象の中に持ち込むと言ってよいような側面はないだろうか」とまで具体化して問題を出したのに、皆さんは答えがひらめかなかった。それは何も知らなかったからではなくて、私から言われれば分かる事なのに、自分ではひらめかなかったのです。

 第3項・カントの偉大さ

 このように考えてみますと、カントの構想力というものには十分な現実的根拠があることが分かってくるわけです。そして、或る哲学の偉大さとは、結局は、その哲学がどの程度現実を深く捉えているかに依るわけですから、カント哲学はやはり歴史に残っているだけのことはあると分かるわけです。

 しかも、ここで大切な点は、カントのこの構想力というものは、カントが人間の認識能力を直観と悟性とに二大別し、それぞれを受容性と自発性として特徴づけたにもかかわらず、それらと矛盾するのではないかと思われるのに、あえて「感性の物における自発性」として構想力を持ち出したことなのです。ここに、自分の立てた大きな枠組みとの矛盾をも厭わず現実に忠実たらんとするカントの鋭い感覚を見ることができます。そして、この現実感覚こそ、哲学者に限らず、あらゆる人の偉大さを決める最大の要素なのです。この点は、「ヘーゲル哲学と生活の知恵」(『生活のなかの哲学』に所収)にも書きましたが、もう一度この事をしっかりと理解しておいて欲しいと思います。

 第4項・先験的統覚

 続いて、今回私が考えました事は、やはり「先験的統覚」の問題であります。A版の107ページを見ますと、「意識のかかる統一(これが先験的統覚ですが)がなければ我々の内にはいかなる認識も生じえないし、また認識相互の結びつきも、認識の統一も不可能である」と言われています。

 この言葉は我々の言葉に翻訳するとどうなるでしょうか。手掛かりは「認識相互の結びつき」と「認識の統一」という言葉にあると思うのです。皆さんは「認識相互の結びつき」とか「認識の統一」という言葉を聞いたら、何を思い浮かべますか。

 やはりそれは「思想」とか「世界観」とかいうものだろうと思います。しかるに、先験的統覚というものは自覚された自我のことですから、カントのこの言葉の意味は、人間が世界観とか思想といったものを持ちうるためには自我に目覚めていなけれはならない、ということになるわけです。そして、こう取れば、それは全く正しいということが分かるわけです。子供や精神薄弱で自我の目覚めに達していない人は、世界観を持つことは出来ません。

 第5項・カントとヘーゲルとの違い

 さて、それでは人間はどのようにして世界観を作るかといいますと、それは自我に目覚めた思考が、当人のそれ以前の一切の経験を総括し、それを人間とは何かという中心テーマの下にまとめあげることによって作られるわけです。そして、それは、当人のその後の生き方と考え方を決めていくわけですから、人生観とも呼ばれるわけですが、それはともかく、このような面はカント哲学にどう反映されているでしょうか。

 すると、カントがカテゴリーとしてあげた12個の概念は、万人がそのような総括によって作り上げる考え方に共通するもっとも普遍的なものと見ることができると思います。そして、この同じ問題に対してへーゲルの与えた答が彼の論理学体系だったと思うのです。そして、この2つの答えはものすごく異なったものなのです。

 そこで私の考えたことは、この2つがなぜかくも違ったものになったのかということです。はっきりした事は分かりませんが、根本的には、問題をこのように明確に立てたか否かの問題だと思います。私の問題提起はかなりヘーゲル的なのですが、カントには自我の目覚めの論理化という意識はほとんどないのではないか、と思います。もう1つの理由は、方法というものをどう考えるかということで、それを「単なる見方」と捉えるか、「同時に世界観でもあるもの」と捉えるか、の相違だろうと思います。いうまでもなく、カントの方法観は前者であり、へーゲルのそれは後者でした。

 この方法観の相違というものはなかなか大切な問題でして、唯物史観の理解においても、それを単に土台・上部構造関係でだけで捉えるのは「単なる見方」的な方法観だと思うのです。それに対して、やはり一定の通史観をバックにして、しかもプロレタリアート独裁をその結節点と見ることまで含めて考える見方こそが唯物史観の正しい把握ではないかと思うのです。

 第6項・スターリンはマルクス主義におけるカント的段階

 こう考えてみれば簡単に分かるように、理論と方法を分裂させたスターリンのマルクス解釈はカント的立場に立つものであったわけです。ついでに言っておきますと、ミーチン流のマルクス解釈、これは今日いわゆる正統派の教科書に書かれている代物ですが、それはみな根本的にはカント的立場に立っています。スターリンはその典型でしたが、スターリン批判後もこの点は少しも変っていません。そして、マルクス解釈におけるカント的段階を止揚してへーゲル的段階にまで高めようとした人が梯明秀氏で、それを基本的に完成させた人が許萬元氏です。私はこう見ています。

 ここまで言ったので、誤解を避けるためにもう一言付け加えておきますが、マルクス解釈におけるへーゲル的段階は決して最高の段階ではないのでして、マルクス研究は更にマルクス的段階まで引き上げられ、人民的段階にまで上らなければなりません。そして、これを目指しているのが我々の「生活のなかの哲学」という思想運動なのです。

 第7項・ヘーゲル的「個別・特殊・普遍」観の重要性

 大分横道にそれましたが、最後に、それでは方法を「単なる見方」でなくして、「同時に世界観でもあるもの」にするには、理論的にはどこが問題かと言いますと、やはり、それは個別と特殊と普遍という概念の捉え方だと思うのです。

 カントが普遍と特殊(個別)を悟性的に対立させていたことは、カントが、一般的法則は先天的に与えうるが、特殊法則には更に経験の援用が必要だと言っている所などによく出ています(B版165頁)。そのため、カントの説には特殊法則が含められず、一般法則も深まらなかったのです。これに対してヘーゲルは、「自己を自分で特殊化する普遍」という考え方を発見することによって、この対立を克服するのです。

 この点から見ても、「昭和元禄と哲学」(『生活の中の哲学』に所収)以来、私が繰り返し力説しています「個別・特殊・普遍」についての正しい見方の確立がいかに決定的に重要かが分かろうというものです。

         その2(図式と原則)

 第1項・問題の確認

 今回のテーマは図式論と原則論でした。まずここで確認すべきことは、図式と原則とはどういう関係にあるのかということであり、それと関連しているのでしょうが、前回に主要テーマになりました構想力とここで初めて出てきました判断力とはどう関係しているのか、ということです。

 図式と原則の関係については、○○さんから指摘のありましたように、B版175頁によくまとめられているようですが、この言葉を読んで意味が分かるでしょうか。

 図式とは「純粋悟性概念が使用されうるための唯一の感性的条件」であり、原則とは、「この条件のもとで純粋悟性概念から先天的に生じて、他のすべての先天的認識の根底に存する総合的判断」とされていますが、まあ、簡単に言って、図式を一層具体化したものが原則である、と言ってよいのではないでしょうか。

 ともかく、この図式と原則の項では、認識主観が主観内に予め持っている先入観、つまり方法をもって具体的事例を研究する際、その研究はどのようになされるか、という認識論上の大切なテーマが扱われています。

 第2項・図式とは何か

 そこで、この問題に対する答えとしてカントの出したものが、まず「図式」ということであったのです。例によって、我々はカントの言葉を我々の言葉に翻訳しなければならないのですが、カントの言っている図式とは我々の言葉で言うとどうなるでしょうか。

 その手掛かりとしては、形像と図式の区別が一番よいと思いますが、カントは図式は形像そのものではなくて、「概念を形像化する一般的方法の表象」という言い方をしています(B版180頁)。ここで「形像」とは個々のイメージ、ないし個々の実物が考えられているのでしょう。カントの出している例で言えば、個々の三角形ないし、個々の三角形についての個々の像がそれに当たるのでしょう。カントは対象そのものと、対象についての認識主観内の像とをはっきりは区別していませんが、そこは今は言わないことにしましょう。こういう事ばかり問題にして、「意識から独立した客観的実在」とやらを振り回して得意になっているのが俗流「弁証法的唯物論者」なのです。

 私の考えた所では、この形像と区別された図式とは、典型とか実例とか言われているものであり、我々の言っている所の「普遍として機能している個別」のことだと思うのです。例えば三角形について考える時、たしかに我々は或る一個の、個別的な三角形を頭の中に描いたり、黒板に書いたりして考えるわけですが、その時その個別的な三角形は三角形一般として機能しているわけです。三角形を代表しているわけです。ですから、これがカントの図式に当るものだと思うのです。たしかにカント自身は「図式は形像の中に内在しうる」とは言っていませんが、これはカントの悟性的思考の限界です。しかし、大切な点は、そのようなカントの不十分さではなくして、カテゴリー(方法)の適用の際には図式が要るという形で、自分自身の「個別と普遍を対立させるだけですませる考え方」にあえて疑問を投げかけ、後にへーゲルにおいて基本的に完成される概念的個別への道に一歩を踏み出したことを確認することであり、このような重要な点を現実の中に感じとったカントの偉大な現実感覚を認め、受け継ぐことだと思います。

 第3項・原則とは何か

 続いて、原則論ですが、カントが原則論で展開したことは何だったかというと、私の解釈した所では、恐らく、それはこういうことだろうと思うのです。

 例を第3の原則「経験の類推」の中の第2の原則に取りますと、それは「一切の変化は原因と結果とを結合する法則に従って生起する」というものなのですが、これをカントが「原則」としたということは、要するに、我々人間はある現象に出会うとすぐにも「その原因は何だろうか」と考える、あるいは「その結果はどうなるのか」と考える、そういう思考上の習慣を持っていますが、そういう習慣がなぜ正しいのか、それを根拠づけようとしたのだと思うのです。そして、そういう普遍性を持った考え方として4つの原則というものを挙げたのだと思うのです。こう捕らえると、一応分るのではないでしょうか。

 第4項・ヘーゲルのカント批判

 そして、それが分かると、今度は、我々がこの原則論を読んで何となく失望することの原因も分かるだろうと思います。つまり、先にも述べましたように、我々はここに「方法の適用の論理」というものを求めて読んだのですが、この希望は肩透かしを食らって、ここに与えられたものはあまりにも自明な「原則」とその証明だったのです。

 カントは、人々によって公理のように認められているものの根拠づけをやっただけで、これらの公理のような原則の内容を吟味して、その理解を一層深めるということはしなかったのです。ですから、カントの原則論によっては、原因と結果についての考え方が深まる、ということは少しもないのです。それに反して、へーゲルの論理学を読むと、原因と結果とは同一のものである、とかいったようなことも分かりますし、第4の原則で扱われている現実性とか可能性とか必然性については、一層深い理解が与えられるわけです。

 そこで思い出されるのがへーゲルのカント批判ですが、へーゲルは「カントは、カテゴリーの吟味といっても、カテゴリーを単に主観的か客観的かという観点から吟味しただけで、それを絶対的に考察しなかった」と言っています(『小論理学』第41節への付録2)。そして、この批判は以上に述べた点から見て、やはり当たっていると言えるわけです。

 しかし、今回この第一批判を読んで分かったことは、カント自身この点に気づいていたということです。その証拠にB版の249頁を読みますと、「私のこの批判の意図するところは、もっぱら先天的かつ綜合的な認識の源泉の究明であって、概念の解明のための分析ではない。概念の解明のためには『純粋理性の体系』を考えている」という趣旨のことを述べています。つまり、これはあくまでも概念の「源泉」の批判ないし吟味であって、概念そのものの解明ではない、というのです。

 第5項・ヘーゲルの偉大さ

 この点でカントを弁護することは出来るのですが、もう一歩突っ込んで考えてみますと、それではカントはなぜ「批判」と「体系」とを分けたのか、そもそもこの両者は分けることが出来るのか、という問題が出てくるのです。そして、ヘーゲルの言いたかったことはまさにこの点でして、ヘーゲルは、概念の吟味はその概念の生成の必然性を示すこと、つまり源泉の吟味と切り離せない、と考えたのです。ヘーゲルは概念を an und fuer sich (アン・ウント・フューア・ジッヒ)に検討すると言っていますが、その an sich(アン・ジッヒ)な検討とはその概念の生成の必然性の吟味であり、fuer sich (フュア・ジッヒ)な検討とは、その他の概念との関係の検討によってその概念の意味を確立することであり、かくして、その概念の限界に達して他の概念に席を譲ることの吟味でした。

 このように、ヘーゲルのカント批判は深い意味で捉えなければならないのでして、この批判が正しかったことは、カントが結局、『純粋理性の体系』を書けなかったことによく現れています。

 第6項・カントの功績

 このようにヘーゲルを見た眼でカントを読むと物足りなさを感じますが、カントの置かれた哲学史上の時点でカントを考えますと、やはりカントは偉大だったと思います。そもそも、それまでの形式論理学に対して、その内容も含めた論理学というものを主張し、それをともかく先験的論理学としてまとめたことだけでも、やはり大きな功績と言えるのではないでしょうか。

 第7項・構想力と判断力

 最後に、構想力と判断力の関係ですが、私にはこれはよく分かりません。判断力の問題は第三批判の主要テーマですが、ここでの判断力は、「規則〔普遍〕のもとに〔個別的事例を〕包摂する能力」と定義されています(B版117頁)。形像を生むのはもちろん、図式を作るのも構想力のようですが、その構想力によって作られた図式を使って、与えられた個別的事例をどの図式のもとに包摂するのかを考えるのが、判断力なのでしょう。ですから、○○さんも言いましたように、この判断力は「英雄やーい」(『生活の中の哲学』に所収)の中でまとめた「個別的判断能力」のことでしょう。

 もちろん判断能力の問題はとても大切な問題で、私も「人を見る眼」(『生活の中の哲学』に所収)の中にまとめてみましたが、あのように判断能力を体系化して理解してみることは大切ですが、一番大切なことは我々が自分の判断能力を高めることであり、そのための方法は何かないのか、ということです。B版の137頁には、実例が判断力を鋭利にするというような面白い話が出ていますが、カントによると、実例は理論的能力の発展にはむしろマイナスだということになるようです。

 人を見る眼というものについて考えてみても、ある程度人生経験を積んでいろいろな人と付き合ってみなければ、判断能力は高まりませんが、付き合う人の数が増えれば増えるだけ人を見る眼が肥えていくかというと、事はそう単純ではないと思います。

 又、後の方の「実例は理論的能力にはマイナスだ」という説も、実証主義的な考えを排するという点では正しい面を持っていますが、こう一面的にも言い切れないと思います。やはりここでも、我々が期待しているものは与えられないわけです。まあ、結局、判断能力を高める特効薬なんてものは、無いのではないでしょうか。

 (『鶏鳴』第20、21号から転載)

 (注) 文中で引用されたテキストはカントの『純粋理性批判』です。


臨時校長会を笑う

2012年04月13日 | カ行
         お知らせ

sky drive「絶版書誌抄録」の中に下記のものをアップしました。矢印の右側はそのアップした場所です。

関口存男編集「独文評論」創刊号(1933年10月号)→「独文評論」
同、第3号(1933年12月号)→「独文評論」
 こんな貴重なものを或る人が入手し、寄付して下さいました。

宮本武之助著「波多野精一」日本基督教団出版部、1965年→「その他」
 波多野氏の、多分、唯一の伝記でしょう。

小島恒久著「マルクス紀行」法律文化社、1965年→「その他」
 マルクスゆかりの地を訪ねた紀行文です。こういう事をしてこれだけの成果を挙げた人も少ないでしょう。

        臨時校長会を笑う


 01、読売新聞の記事

 教職員の不祥事が相次ぐ中、県教委は03月22日、静岡市内で臨時校長会を開き、安倍徹・県教育長が「県全体の問題として、校長全員がスクラムを組んで対処してほしい」と再発防止を訴えた。その後、報道陣の取材に応じた安倍教育長は「(現状は)非常事態。オール静岡で臨むことが校長の責務」と話した。

 不祥事を受けての臨時校長会は昨年10月に続いて2回目。県内の公立高校の校長ら約120人が参加した。

 会の冒頭、安倍教育長は「この年度末に臨時校長会を開かなければいけないのは非常に残念」とした上で、「たった1つの不祥事が自分の人生に、そして静岡県全体に、ひいては教育界全体に及ぼす影響がどれくらい大きいのか、(現場の教職員に)訴えてもらいたい」と呼びかけた。

 続けて、「『自分の学校では起きなかった』と安心する気持ちもあるかもしれない。しかし、これは県全体の問題。校長先生全員がスクラムを組んで問題に対処する固い決意を持ってもらいたい」と力を込めた。

 訓話の後、報道陣の取材に応じた安倍教育長は「教員一人ひとりの心に落ちるような訴えかけを、校長からしてもらいたい」などと語った。出席した浅羽浩・県高等学校長協会会長(静岡高校校長)は「緊張感のない、使命感に欠ける教員がいる。教職員一人ひとりの心にブレーキをかける力を育てていく以外にない」と神妙な顔つきで話した。

 県教委によると、20日に県立袋井高校の教諭が窃盗未遂で逮捕されるなど、県内で今年度逮捕された教職員は8人に上っている。
(2012年3月23日 読売新聞)

 02、感想

 不祥事が起こると「臨時校長会」を開いて、教育長が何かの話をして、「再発防止の徹底」を図ります、と発表する。これが「教育行政に精通した」教育長のいつものやり方です。不祥事は起こり続けています。誰も無くなるとも減るとも思っていません。

 もちろん当事者の教育長も校長も何も変わらない事は百も承知です。定年まで「無事に」過ごして(消化試合をして)1000万円を超える年俸をもらい、何千万円もの退職金をもらい、最高の年金をもらう事だけが目的なのです。

 知事は「教育行政には構造的な問題がある」とは発言しましたが、その「構造的な問題」が何なのかは、一言も言っていません。分からないからです。研究しないからです。そして、この4月に「安倍徹氏の教育行政は堅実である」と言って再任を認めました。

2011年の給与

2012年04月11日 | カ行
01、自治体職員の年収

 兵庫県芦屋市の職員給与が年収758万円(推計)で1位。日経が総務省の発表した数字で推計した。手当が月15万5000円、ボーナスが年間169万円と多いのが原因。

 上場企業は社員の平均年収の開示が義務付けられている。自治体では開示している所は少ない。大阪市のように、局長級、課長級、係長級と分けて発表している所は例外。

 いわゆるラスパイレス指数は手当とボーナスを含んでおらず、実体とかい離している。
 (日経、2012年04月11日。磯道真の記事の要旨)

02、NHK職員の年間報酬

 3月下旬の衆院総務委員会では、NHK職員の年間報酬がサラリーマンの平均年収の4倍、約1780万円に上ることが問題視された。(日刊ゲンダイ、2012年4月6日)

03、フリーター

 35~44歳の高年齢フリーターが50万人を突破した。(SPA)

04、感想

 給与はかつて鹿児島県阿久根市で市長の竹原さんが発表したような形で、即ち個人名だけは伏せて、決算に基づいて(第1条件)、全職員(全社員)について(第2条件)、年収(給与、諸手当、時間外手当、期末・勤勉手当毎の数字と共に)と共済費(保険などの会社負担分)の総額を(第3条件)、分かりやすい一覧表にして(第4条件)、発表するべきだと思います。

 阿久根市の発表でも非正規職員は除外されていたようですが、本当は非正規職員も含めるべきです。又、教員(正規、非正規)は県の担当だからか、発表されませんでしたが、教員の給与も同じように発表するべきです。教員の給与こそ問題です。

 退職金も年金もそのような形で発表するべきでしょう。「元校長の年金は事務次官のそれより多い」ということが問題視されたことがあったはずです。校長の年収は、みな、1000万円を超えている事を皆さんはご存知ですか。

              関連項目

「給与」の小目次

カエサル(シーザー)

2012年04月08日 | カ行
                          河合塾講師・青木裕司

 帝政ローマの基礎を築いたユリウス・カエサルは貧乏貴族の出身だ。20代前半で海賊に拉致され、身代金を要求された。要求額の少なさに腹を立て「もっと上げろ」と迫り、解放後、即座に海賊を退治した。

 美男子、不細工、痩せぎす、肥満など彼の容姿には諸説あるが、大変もてたのは間違いない。上流階級の多くの女性が彼に誘惑された。部下の兵士からは愛着をこめて「女たらし」と呼ばれ、カエサル自身もこの称号を気に入っていた。

 前1世紀のローマは危機の連続。元老院が中心の共和政は形骸化し、時代は英雄を求めた。カエサルはポンペイウス、クラッススと共に元老院に対抗する三頭政治を進めた。

 民衆の支持を得るための手段の一つが外征だった。現在のフランスに遠征、平定する。彼自身の筆による「ガリア戦記」は簡潔明瞭な文体でラテン語散文の白眉とされる。

 クラッススが西アジアで死に、ポンペイウスにも勝ち、ローマの実権を握った。下層民には気前よく「パンとサーカス(娯楽)」を提供、エジプトも事実上支配下に置き、地中海世界をほぼ統一した。新しくつくった暦の月には、自分の名前さえつけた。これがJuly(7月)だ。

 こうした行いは元老院共和派の反発を招き、暗殺された。享年55。暗殺の中心人物プルートゥスの母はカエサルの愛人。プルートゥスも彼の息子だったという説がある。

 カエサル後に実権を握った養子オクタヴィアヌスがローマ帝国初代皇帝と称されるが、カエサルの仕事を仕上げたにすぎない。広く知られる通り、ドイツ語のカイザーなど、カエサルの名は「皇帝」の語源となった。   (朝日、2012年03月29日)

 感想・「ジュリアス・シーザー」(Jurius Caesar)という言い方は英語のようです。ドイツ語では「ユーリウス・ツェーザル」(Jurius Caesar)。フランス語では「ジュール・セザール」(Jules César)。

地球のための1時間(アース・アワー)

2012年04月03日 | カ行
 こういう運動があるようです。ドイチェ・ヴェレにこんな記事がありました。

 01、3月31日(土)の記事

 この土曜日(3月31日)にドイツでは120以上の都市が地球温暖化阻止の旗印の下で6回目の「地球のための1時間」に参加すると表明しています。環境保護団体WWFによると昨年比で参加者は2倍以上だそうです。

 ヨーロッパ夏季時間で20時30分から21時30分まで、有名な建築物や観光名所が電気を消すのです。個人でも参加してほしいと呼び掛けています。昨年は全世界で130カ国、約18億人がこの行動に参加しました。

 02、4月1日(日)の記事

 世界中の何百もの有名な建造物で昨日、1時間の消灯が行われました。いわゆる「地球のための1時間」運動で、ベルリンのブランデンブルク門、シドニーのオペラハウス、中国の万里の長城などが明りを消したのです。世界の沢山の都市が環境保護団体WWFのこの年中行事に参加しました。この行動の目的は気候変動と戦う意欲を高めたいということです。

 03、感想

 私はこの行動を知りませんでした。日本でもどこかで報道されていたのでしょうか。参加した都市や個人はいるのでしょうか。

言葉の手品(木村敏「人と人との間」弘文堂を読んで)

2012年03月27日 | カ行
お断り・「第2マキペディア」(ブログ「教育の広場」)に見つからないので、再度掲載します。

言葉の手品(木村敏「人と人との間」弘文堂を読んで)

  精神病理学者の木村敏(びん)さんは『人と人との間』(弘文堂)の94~101頁に「了解」について次のように書いています。

──ディルタイによれば、いっさいの文化的、歴史的世界は生の表現、生の客観化されたものであり、これは自然科学的な因果連関を求める説明によってではなく、そこに自らを表現している生そのものの内的連関を追体験することによってのみ把握されうる。この追体験の過程を、ディルタイは了解となづけるのである。

この了解の概念を精神病理学の中へ導入したヤスパースは、これをさらに静的了解と発生的了解に区別する。或る人が怒っているのを見て、その怒りそのものを追体験して了解するのが静的了解であり、その人が例えば誰かに侮辱されて怒っているのだ、というように、或る心的現象が他の心的現象から発生して来る意味連関を追体験するのが、発生的了解である。(略)

 一般に用いられている「追体験」の意味は、或る他人の心中を思いやり、自分でその人の身になって感じとる、ということである。(略)

 これと同様に、或る風土を追体験するということは、自らをその風土の中に住まわせてみる、それも単なる観光客としてではなく、構想力においてその風土を構成する生きた住民となり、その風土において自己を風土化した人間となって、その風土を思いやるということである。(略)

 現実に与えられている事実的データを「結果」として前提し、それに対する何らかの「原因」を仮定して、この原因からの因果連関的・説明的な推論を行って、それが現在与えられている結果と一致した場合に、事態が解明されたものとみなす方法は、例えば自然科学的医学における病因論的診断に際して常用される方法である。

 例えば、左半身に運動麻痺が生じている場合、大脳右半球の病変という原因を仮定すれば、これが運動神経の伝導路の交叉によって裏付けられた因果連関的推論によって、左側半身麻痺という結果を完全に説明できるが故に、ここで病変の局所診断が可能となる。さらにその場合、血圧とか、眼底所見とか、脳脊髄液の所見とかのいくつかのデータが結果として前提され、それに応じて、大脳の一定箇所における出血による組織破壊というような原因の推定を許すならば、病因論的診断はますます確実になる。

 或る風土の成立の事情を、自然科学的に説明しようとする態度は、この医学的診断法の態度と同一である。(略)

 これに対して、風土の発生的了解に際してとられる態度は全く異なったものである。風土は全体として一挙に与えられ、しかもこの与えられ方それ自体の中に、それの成立の事情もまた、直観的に与えられている。この場合にも、その風土に関する経験が豊かになれば、それだけこの直観も確かなものとなるけれども、それは、データの豊富さに伴って精密度を増す自然科学的推理の場合とは、違った意味においてである。つまりそれは、構想力の可能性を増大せしめることによってである。

 したがって、このような直観は、出発点となる構想力の優秀さの度合いによって、つまり、それを見る人物の眼力の程度によって、大きく左右されることになる。(略)

 風土とは、説明されるべきものではなくて了解されるべきものである。それは何らかの原因に基づく結果ではなくて、現在の風土のあり方それ自体の中に見出すことのできる何らかの契機の意味的連関における表現である。──

 これについての私の考えは以下のとおりです。

 ここで木村さんは「自然科学的因果連関の説明」に対比して「文化科学的歴史科学的了解による把握」を説明しているのです。氏による対比を整理すると次のようになると思います。

 自然科学的・因果連関の説明的推理・局所診断
 文化科学的(追体験=了解)・内的連関の感取=把握・全体の直観・構想力


 このように整理すると分かる事は、まず対比が完全でないということです。構想力に対応する自然科学的知力が述べられていません。それと同時に「全体の直観」に対して「局所診断」と言われていますが、この「診断」の認識方法が述べられていません。これを私の推測で補って完成させると、両者の違いは結局は「部分の分析的認識(悟性)」と「全体の直観(構想力)」の違いということになるのだと思います。

 これくらいの事なら大して新しくもありません。要するに、理性主義に対するロマン主義です。従って、この問題は既にヘーゲルが答えています。ヘーゲルを理解できない人達が形を変えていろいろな説を立てているだけだと思います。

 もう少し丁寧に検討してみましょう。

 「了解」は「因果連関を求める説明」と対比されて「自らを表現している生そのものの内的連関の追体験による把握」とされています。しかし、両者はどこがどう違うのでしょうか。

 まず、結果としての(所与の事実の)「説明」と「把握」とはどう違うのでしょうか。同じだと思います。だからやはり自然科学だろうと文化科学だろうと「科学の目的は事実の説明」なのです。

 では、その説明の仕方はどう違うのでしょうか。一方は「自然科学的因果連関」とされています。因果連関に自然科学的とそうでないのとがあるのでしょうか。ないと思います。つまり因果連関で説明するのが自然科学だと言うのです。まず、ここに既に問題があります。自然科学は因果連関だけではありません。相互作用もあります。生物学では目的関係も使われます。

 それに対して歴史科学では「追体験」という方法を使うのだそうです。対象が人間的な事実である以上、追体験を方法にするのは当たり前です。問題はその追体験の中身です。この追体験は自然科学における実験や観察とどう違うのでしょうか。社会生活(政治や会社の活動)でのすべての政策や事業は実験という意味を持っていますが、それは自然科学の実験とどう違うのでしょうか。

 追体験では追体験する人はこれまでのすべての経験を踏まえています。その追体験とやらは漠然と「感じる」だけのもののようです。それなら、それは芸術ではありえても科学ではないと思います。科学は概念で定式化しなければなりません。「或る心的現象が他の心的現象から発生して来る意味連関」と言いますが、それは「因果連関」とどう違うのでしょうか。

 それは「局所診断(分析)」か「全体の直観」かの違いのようです。この両者は確かに違いますが、それは自然科学と文化科学の違いでしょうか。自然科学の場合でも、新しい理論などに気づく場合、「全体の直観」が大きな役割を果たしています。むしろたいていの場合、答えは直観的にひらめくものです。それを証明するために観察し実験しデータを集めるのです。

 木村氏のおかしさは、「完全な説明」を与えた「局所診断」の後に更にデータが加わって「ますます確実な診断」がなされるなどと言っている所によく出ていると思います。

 たしかに分析的自然科学もありますが全体的自然科学もあります。全体的文化科学もありますが分析的文化科学もあります。学者の方法の違いにすぎないと思います。

 新しい用語で何か新しい事を言ったつもりになるのは科学ではありません。これまでの用語との関係をきちんと説明するべきです。そもそも「了解」と訳されているドイツ語は Verstehen(理解)です。これをこれまで通り「理解」と訳したらどこが拙いのでしょうか。

 ヘーゲル学の中でもヘーゲルの Wissenschaft (ヴィッセンシャフト)という単語を「学」とか「学問」と訳すことで何かを説明したつもりの人が多いです。私は「科学」でいいと思っています。これまで「科学」と呼ばれてきたもの、あるいは普通に「科学」と呼ばれているものの、これまで理解されていなかった本性を明らかにしたのですから、対象を指示する単語としてはこれまでと同じ単語を使わなければ分からないのではないでしょうか。それについての理解の違いは述語の中に示されるのであり、文章全体の中で表現されるのです。

 実際、ヘーゲルの Wissenschaft を「学」とか「学問」と訳して満足している人の中にはヘーゲル哲学の分かっている人は一人もいないと思います。

 「実存」という単語についてもいつもそう思います。これは人間のことなのですが、その人間を「実存」として捉える考え方に立って見た時の人間のことなのです。ですから、人間をどう捉えるかが問題になっている所では、対象を指示する語としては「人間」を使い、その人間とは何かを文章全体で説明して、そのまとめとして実存という語を使えば好いと思います。

 イエス・キリストにしても同じです。この言葉は、「イエス(ナザレのイエス、つまり歴史上の個人)がキリスト(旧約聖書で予言された救い主)である」ということを前提して、それを認めた表現です。だから、ユダヤ教徒はこの言葉を使いません。彼らはイエスをキリストと認めていないからです。

 だから、イエスがキリストであるか否かを論じている時に、イエス・キリストという言葉を使うのは学問的に間違いなのです。そこで問題になっている対象はイエスなのだから、ただイエスと言うべきです。

 単語の意味は大きく分けて2つあります。1つはその信号対象のことであり、もう1つはその対象についての理解のことです。この事を正確に理解したいものです。詳しくは「辞書の辞書」(拙著『生活のなかの哲学』に所収)に書きました。
 (メルマガ「教育の広場」、2004年08月20日発行)

卒業式と国旗・国歌の問題

2012年03月19日 | カ行
 お断り・昨今の事情に鑑みて、過去の記事をまとめ、今の考えを付けて再度掲載します。
 
 なお、かつてメルマガ「教育の広場」に掲載した記事は「第2マキペディア」(ブログ「教育の広場」)に転載してあるのですが、目次(索引)に載っていないものも多いので、最近はそれを目次に載せ、ついでにブログ「マキペディア」全体の整理整頓を整理しています。

 01、卒業式と国旗・国歌の問題(2001年02月21日発行のメルマガ「教育の広場」)

 また卒業式のシーズンになりました。そして、君が代と日の丸でもめるシーズンになりました。かつて都立高校に勤務していた友人の話では、このシーズンになるといつも頭がいたく、気が重かったといいます。

 2年前[1999年]に広島県の某公立高校の校長がこの問題に悩んで自殺したという事件がありました。それをきっかけにして、眠っていた「国旗・国歌法案」が眠りから覚めて、簡単に国会を通過してしまいました。つまり、今では日本の国旗は日の丸であり、国歌は君が代だということなのです。

 しかし、その後もそれに反対する人々は多く、いろいろが事件が起きています。また、君が代と日の丸を推進する人々は、法律が出来たことで一層強力にそれを押し進めているようです。これは教育現場に強制しないということだったと思いますが、それは守られていないようです。

 (2001年)02月15日の朝日新聞によると、千葉県の高校生が教育委員会に対して「卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱を強制しないように求める請願書」を出したそうです。私はこれは反対する方法として正しい態度だと思います。ということは、私は実力行使には原則として賛成できないということです。

 私は国旗や国歌の押しつけには反対ですが、ここではそれに反対する方法について考えてみたいと思います。国旗・国歌法案が審議されていた時も多くの人がそれに反対しました。しかし、高名な評論家から名もない人まで、その法制化に反対し、その押しつけに反対するだけで、反対運動のあり方については黙っていたと思います。こういう態度は無責任だと思います。

 先にも述べましたように、この法案が眠りから覚めて出てきたのは広島県の高校の校長の自殺がきっかけであり、その自殺には反対運動のあり方も関係していたと伝えられています。もちろんそれだけではないでしょうが、かなり理解のあったその校長に対して、理解があるからということで、県教委の方針に従わないように団交で強要するようなやり方をしたことも1つの原因ではあったと思います。

 人間は一般に「言いやすい人にだけ言う」という卑怯な性格を持っていると思います。この場合でも、君が代と日の丸を押しつけている元凶は文部省であり、教育委員会なのです。ですから、戦うならこの元凶と戦うべきです。この校長のような理解ある校長はむしろ味方にするべき相手だと思います。

 それはともかく、この某高校の反対派のやり方が間違っていたのは今日では明白だと思います。現に、卒業式での君が代と日の丸は阻止されるどころかますます一般化し、その高校でもその後実行されるようになってしまったと言われているからです。

 悪法も法かというのは古来の難問ですが、決まったことは原則として守るべきだと思います。そうでなければ世の中の秩序が成り立たないと思います。たしかにこれにも例外はありうるわけで、外交官の杉原氏がナチスに追われていたユダヤ人を逃れさせるために、規則に反してビザを発給した例もあります。しかし、それは極めて例外的な場合です。

 法律で決まっている事は守りつつ、それに反対なら、決められたやり方で反対運動をして法律の改正や妥当な適用を目指すというのが民主主義だと思います。日教組が文部省と妥協したのは、違法な手段を使っての反対運動では勝てないということを認めたことだと思います。

 先の高校生の請願書に対して教育委員会はどういう回答を出すのでしょうか。

 02、再び・卒業式と日の丸君が代について(2001年03月14日発行のメルマガ「教育の広場」)

 その後、卒業式が近くなって、あるいは卒業式が行われて、卒業式や入学式と日の丸・君が代に関係した新聞記事が多くなりました。私のスクラップには次のようなものがあります。

 1、これは必ずしも卒業式関係ではありませんが、東京の荒川区の教育委員会が、区立のすべての小中学校に対して(2001年)3月以降、日の丸を常時掲揚するようにという通達を出したそうです。そして、掲揚できるかできないかを報告するようにとの要請までついていたそうです。

 2、職員会議で校長が、国旗・国歌を入学式の進行に入れるように提案したら、誰も発言せず、異様な雰囲気だったという投書がありました。

 3、卒業式での日の丸掲揚、君が代斉唱を巡って教育委員会が「職務命令」を出した所の一覧表が載っていました。

 4、本メルマガの第26号[01の文]で取り上げた高校生の請願は、案の定、拒否されたようです。

 5、東京都下の国立市(くにたちし)では、卒業式の進行を決める職員会議に教育委員会の指導主事が出席したそうです。そして「ひたすら会議録をとり続けていた。意見を言える雰囲気ではなかった」ということです。

 6、大阪府の高槻市の教育委員会は、君が代を「児童・生徒が全員起立して歌えるよう指導を徹底されたい」との「指導」を校長を集めて読み上げたそうです。

 7、広島県立皆実高校の卒業式では君が代斉唱の時に1人の男性教諭が起立しなかったそうです。そうしたら、その教諭に対して校長が「辞表を書いてもらいたい」と発言し、呼び出して辞表か異動願を出すようにと促したそうです。これはしかし、その後行き過ぎであったということになったそうです。

 背筋の寒くなるような事態です。何と評したら好いのでしょうか。私に浮かんできた言葉は「戒厳令」という言葉です。

 しかし、新聞に報道されない点についても少し考えてみました。

 第1は、政治家はなぜ黙っているのかということです。2年前[1999年]の国旗・国歌法案の審議の時には「国として強制するようなことはしない」という政府の答弁があったと新聞に書かれています。それなのに事態がこのようになっている今、国会でこの問題を取り上げた様子がありません。

 第2に、同じように、当事者以外の国民もなぜ黙っているのでしょうか。みな、「異様な雰囲気」の中で、黙って事態の推移を見守っているように見えます。

 第3に、日の丸と君が代に反対した生徒たちは、その後どうなったのでしょうか。というのは、選挙の時に、卒入学式で日の丸・君が代を強制することに賛成か反対かを第1の基準として自分の投票行動を決めていないのではないか、ということです。

第26号[01の文]で扱ったのは千葉県の高校生のことでしたが、折しも千葉県では知事選挙の真っ最中のはずです。しかし、そこではかつての高校生と現在の高校生はこれを第1に重要な事として、候補者に質問しているのでしょうか。

第4に、日の丸・君が代が当たり前になっている学校では、それが教育内容に何か影響しているのでしょうか。私の県でもそれは当たり前になっていますが、その事が教育内容に影響しているとは思えません。それは1つの風景でしかないようです。

 このような事を考えましたが、私が特に疑問とするのは第3点です。日の丸・君が代にかくも抵抗する生徒たちは、その後大人になって選挙権を持った時、どういう行動をとっているのかということです。

 そして、それと関連して第4点も考えたいと思います。つまり、権力側がかくも強圧的に出てきている時、直接的に抵抗するのではなく、それを風景にしてしまって、実際の教育を充実させて将来の選挙で勝つことを目指すという方針はないのかということです。

 国旗・国歌法はもちろん国会で決められました。学習指導要領も法律にもとづいた審議会とかによって決められます。教育委員会の人選は首長が行い、議会が承認するのです。つまり、こういう事を争う本当の場は政治であり、選挙ではないのかということです。それなのに、学校の現場での争いに偏りすぎているのではないかということです。もしかつて高校生であった現在の大人たちがみな、高校時代の問題意識を今も持ちつづけていたら、日本も教育も大分変わっていたのではないのかということです。

 付記

 これを書いた後、(2001年)03月12日付け朝日新聞夕刊に「日の丸・君が代の押しつけに反対する7色のリボン」の運動のことが報ぜられました。市民団体がそれを推進しているとのことでした。上の第2点は少し違っていたようです。しかし、この文章全体の趣旨は変える必要がないと思います。

 03、投書 「再び・卒業式と日の丸・君が代について」を読んで(2001年04月18日発行のメルマガ「教育の広場」)

 この投稿は私の大学での生徒のAさんの物でしたが、なぜか私が間違えて消してしまったようです。本当に申し訳ありません。(牧野 紀之)

 04、Aさんへのお返事(2001年04月18日発行のメルマガ「教育の広場」)

 Aさんの意見は次の3点にまとめることができると思います。

 1、自分の高校は共産党系の人々が優勢な学校で、そこでは日の丸・君が代に反対する意見が支配的だった。

 2、そこでは日の丸・君が代反対に反対する意見が言いにくい雰囲気があったし、熱心な指導層はともかく、その反対運動に付いていっている生徒たちは自主的に考えて反対しているとは見えなかった。つまり、政府の戒厳令的なやり方と同じだと思った。

 3、学校や生徒会は反対集会をするのではなくて、賛成と反対の議論をする場を作るべきではなかろうか。

 さて、私はこの意見に賛成です。私は学生運動をしようと思って大学に入りましたが、すぐにおかしいと思いました。しかし、ではどうしたら良いのか分からなくて、悩みました。その結果「本質論主義の大衆運動」という考えに達しました。これについては私の本『ヘーゲルからレーニンへ』(鶏鳴出版)に書いてあります。

 団体として或る事を決定して行動することを一般的に否定することはできないと思います。ですから、日の丸・君が代に反対の運動をするならしてもいいとは思います。しかし、その時、決定の過程では十分な論議がなされるべきですし、決定に従わない人もいていいと思います。

 左翼運動では、執行部の意見と違う意見を言うと強く批判されて議論にならないので、皆黙ってしまうのだと思います。これによって運動自身が弱まっているということに当人が気づかない限り、是正されないでしょう。

 逆に考えると、私の哲学の授業やこのメルマガのように、「自分の考えを自分にはっきりさせる」ことを目的とした授業やメルマガはとても少ないと思います。このメルマガに投書される方の発言態度を見ていても、必ずしも「自分の考えを自分にはっきりさせる」ことを目的としてはいないで、牧野を批判しよう、反論しようという態度の人も多いようです。

 私たちはこのメルマガを通して、本当の民主的な話し合いとは何か、そのための技術は何かということを考え、広めていかなければならないと思います。

 その技術としては、第1に、話し合いの目的とルールを意識的にテーマとして話し合い、時々見直す機会を作ること、第2に、書き言葉をうまく使うこと、を提案します。

 05、Aさんの文章について(牧野の友人のEさんの投稿)

 投書のAさんの文章について、後半の主張の意図は分かるのですが、前半の高校での状況は何度読んでもよく分かりません。

 その「共産党系の学校」が、反対集会を学校行事や生徒会行事として全生徒を対象に行っていたのでしょうか。そのようにも一部では読めるのですが、よく読むとそうではないようです。

 Aさんの文章は、自分の「思い」の部分が強すぎて、その事が「事実」がどうであったのかに影響を与えていて、分かりにくいのです。

 「Aさんの意見」のまとめについては、牧野さんがまとめた1~3のようなことなのだと、私も思います。

 06、牧野先生のご友人の方へ(Aさんからのお返事)(2001年04月25日発行のメルマガ「教育の広場」)

 先日、大江健三郎氏の「あいまいな日本の私」を読みましたところ、意見というものはエモーショナルではいけない、自分の気持ち、つまり憤りや悲しみといったものは自分の気持ちとして置いておいて、意見を言うときは客観的にまず事実を明確に表さなければならない、というようなことが書かれていました。その通りだと思い、ここで事実を明確にする努力をしたいと思います。

 私の高校は共産党系で、と書きましたが、明確に、学校案内等にそう書かれているわけではなく、私立の学校で、共産党員であることを隠さない先生がとても多かったのです。更にその先生たちは生徒会誌に今の政治を批判する文章を載せていました。地元の人達の間では、あの学校は共産党系であるとは言われていました。そういった先生の中には体育祭で中国共産党の旗を振るような人もいました。

 憲法を考える集会は生徒会の活動として行われて、そのやり方が、一応はディスカッションということになっていましたが、改正反対を唱える側が生徒会執行部の有名な人物で、ディスカッションの相手が意見を言っている時に、舞台裏から紙が渡されていました。改正賛成側から、共産党員で有名な先生から紙が回っているのではないかという指摘が出ていましたが、真偽の程は明確にされませんでした。あと、学校行事として憲法記念行事というのがありましたが、これは、そんなに政治色の強かったものではないように思います。

 現代社会と世界史の授業も変わっていて、資本主義の欠点、資本主義が生み出す戦争、などがテーマに上がっており、長い時間をかけて授業が行われましたが、社会主義や共産主義の欠点を扱った授業はありませんでした。

 以上、私が今思い出せる範囲の学校の様子です。

 こういう貴重な機会を与えて下さった牧野先生のご友人に感謝して、今後の反省にしたいと思います。

 07、2012年の現在、考えたこと

 Aさんの通った学校のあり方はあまりにも偏向していると思います。一般的に言うならば、公立学校はもちろん、特定の宗教教派の設立した私立学校でも、どこまでどういう風に自分達の教義を教えて好いかという問題です。

 さて、この問題でこのようにあまりにも偏向した学校があった場合、それを是正したいと思う人はどうしたら好いでしょうか。考えられる手段は、①言論で世論に訴える、②役所の監督する部署に訴える、③裁判に訴える、くらいです。

 私はこの3つはどれも有効だと思います。問題は誰がするのかという事です。というより、実際には誰も公には問題にしない所に問題があると思います。いろいろ感じていても在学中は言いにくいでしょうし、卒業すると今度は「終わった事」だからという事で無関心になってしまうからでしょう。あるいは、面倒くさいという心理です。これでは世の中は好く成りません。

 私見では、卒業生の大学生が行動を起こすと好いと思います。直近の事情を知っていますし、学生なら分別も行動力もあるからです。一番やりやすいのはやはり「その学校のカウンター・ホームページを作る」ということでしょう。こうして、多くの卒業生がまとまって公にすればかなりの効果はあると思います。

 もちろん裁判所に訴える方法も法律の先生とか弁護士に相談してみると好いと思います。

 不正と思う事柄には言論で戦うのが筋でしょう。そして、インターネット時代にはその手段が沢山あるのですから、それを利用するべきだと思います。陰で何かを言っているだけでは主権者として物足りないと思います。(2012年03月19日)

火力発電(石炭ガス化複合発電)

2012年03月05日 | カ行
 原子力発電所の停止に伴う電力不足を当面補うのは、天然ガス火力発電に加え、石炭火力発電になりそうだ。石炭による発電は環境への負荷が大きいが、二酸化炭素(CO2)の排出を抑えられ、発電効率も高い石炭ガス化複合発電(IGCC)の実証試験が進んでいる。

 石炭火力発電のCO2排出の大幅削減に有効なのは、海底下の地層などにCO2を封じ込める回収・貯留(CCS)技術。だが岩盤のすき間から漏れ出す可能性などがあり、実用化は早くても2020年以降になりそうだ。一方、石炭を細かく砕いて約1800度に熱し、ガス化したあと燃やすIGCCは実用化が有望視されている。

 電力各社が出資するクリーンコールパワー研究所(福島県いわき市)の実証試験は25万㌔ワット(約8万世帯分)を東北電力に供給している。

 基本的に、天然ガスのコンパインドサイクルと同じで、ガス化した石炭を燃やしてタービンを回し、さらに燃焼熱で水を蒸気にして蒸気タービンも回す2段階発電。発電効率は43%だが、将来的に50%が可能だという。燃料の生産から輸送、そして廃棄物処分に至るまでのCO2排出量は従来の石炭火力より2割減り、石油火力並みになる。

 タービンに送る前のガスからの不純物除去で、窒素・硫黄酸化物、煤塵(ばいじん)も天然ガス火力並みに抑えられるという。

 課題は、コストだ。IGCCはガス化の設備があるため、コストは従来の石炭より2割高い。渡辺勉社長は「効率が上がっても全体のコストは若干高め」と話す。

 資源エネルギー庁によると、2009年度の発電全体に占める石炭火力の割合は約16%。資源量が多く、世界各地で産出されるので供給が安定している。

 世界では2度の石油危機以降、国際エネルギー機関(IEA)の閣僚理事会の合意で、新規石油火力の建設が凍結され、石炭火力が増えた。電気事業連合会によると、日本の石炭火力は、1984年度の923万㌔ワットから、2009年度は3795万㌔ワットに増えている。

 電力中央研究所の原三郎・上席研究員は比較的古い石炭火力が徐々にIGCCに置き換わるとみる。「効率の低い石炭発電を使う国や電力需要の増加が著しい国への技術移転で、CO2排出抑制に貢献できる」と話す。
 (朝日、2011年11月09日。杉本宗)

      関連項目

再生可能エネルギー一覧

教育行政を考える

2012年03月03日 | カ行
 大阪市長の橋下徹さんの提案が論争を呼び起こしています。朝日新聞紙上でも多くの意見が紹介されました。最近の意見から2つを引いて私見を述べます。

 01、瀬見井久(前愛知県犬山市教育長)さんの考え

 ──犬山市の教育委員会は、少人数授業や、教師による副教本づくりなど、先進的な教育改革に取り組んだ自治体として知られていました。

 教育委員会制度は意外なほど地方分権の精神で貫かれているので、主体性さえあれば相当のことができるんです。そもそも戦前の軍国主義教育の反省から、国家権力の介入を防ぐために、市町村に責任と権限を持たせているわけだから。

 ──でも現実は、多くの教育委員会が形骸化しています。

 それは、首長が「教育とはいかにあるべきか」という見識を持った人を教育委員に選んでいないから。2007年度と08年度、犬山市は全国の自治体で唯一、全国学力調査に参加しませんでした。私たちは子ども同士が教え合う「学び合い」を大切にし、すべての子の学びを保障することが義務教育の目的だと考えていた。序列化で子どもを競わせるというやり方とは相いれないと判断しました。学校現場に競争主義を持ち込もうとする大阪の教育基本条例案の考え方とは対極ですね。

 ──教育委員会には民意が反映されにくい。独善に陥る心配はありませんか。

 民意とは結局、その時代時代の流行です。正しいかどうかは別でしょう。公教育、なかでも義務教育は国家の基盤をつくる重要な営みですから、100年単位で考えなければいけない。いくら時代が変わろうとも、子どもの人格を育むことが不易の目標であって、教育は民意で左右されるべきではありません。

 大阪の条例案は教員に厳しい評価を課していますが、なぜ教員の質を上げなければいけないかといえば、授業改善のためでしょう。それには教師のやる気を引き出さなければならない。現場を信頼し、責任と権限を与えることだと私たちは考えた。

 私は、「あなたの考える理想的な授業を作り上げなさい」と教師に言い続けました。独自の副教本作りに取り組んでもらったのは、授業改善改善のきっかけにしてほしかったから。現場からすれば余分な仕事ですよ。でも大勢の教師が率先して参加してくれました。「子どもはどこでつまずくのか」と議論を重ね、丁寧に教えるにはどんな教材が必要か考える。それが教師の力量を高めることにつながるのです。こうした積み重ねこそ、教育改革のあるべき姿ではありませんか。
       (朝日、2012年02月03日。聞き手・西見誠一)

 02、藤原和博さん(前杉並区和田中学校長)の考え

 私は、現在の日本の学校教育、とりわけ義務教育は、誰も責任を取らない無責任体制の世界だと思います。

 戦後の教育改革で連合国軍総司令部(GHQ)は、どこかに権限を集中させると戦前の軍国主義教育が復活するかもしれないと恐れて、教育関係者の権限を徹底的に分散しました。

 例えば、教員人事は都道府県、校舎の建設や教科書の購入などは市区町村、教育課程の編成権は校長、授業は教師に委ねられました。しかも、都道府県や市区町村には教育委員会が設置され、その長である教育委員長のほかに、教委事務局のトップである教育長もいて、その教育長は教委の一員でもあるのです。教育に関する責任を一体だれが負うのか、分からなくなっているのです。

 その結果、教育委員の多くは、学校現場を知らない大学の先生などの名誉職ポストになってしまい、そこから直面する問題への解決策は出てきません。

 校長は教員の上がりポストになり、任期中何事も起こらないようにするという「守り」の姿勢の人が多くなりました。

 実は、校長はカリキュラムの編成権を持っていますから、責任を取る気さえあれば、かなりのことができる職です。

 私は杉並区立和田中に校長として赴任し、1コマ50分だった授業を45分に変え、週4コマ分授業数を増やしました。中学3年間で約400コマ増えた分を主に英数国の授業に充てました。

 また、授業がよくわかったかどうかを生徒が4段階で評価する授業評価を年2回実施して、その結果を学校のホームページに公表。平均を下回る教員に努力を促すなどしました。

 その結果、着任当時学力テストの成績が区内23校中21位近辺で迷走していた和田中は一昨年(2010年)には区内トップクラスになりました。生徒数も区内最少の169人だったのが、昨年は区内最多の約450人に増えました。

 民間ではよその会社が何かいい取り組みをして業績を上げたら、とりあえずまねをしようとするものですが、和田中のやり方をまねしようとする学校はそう多くはありませんでした。

 原因は、多くの校長が「配給制時代の米屋の主人」的発想から抜けられないからです。数量が限られた商品を平等、公平に配ることが自分の仕事だという考え方です。こうした発想を変えるためには、小中学校の1割を公募校長にすべきだと私は考えています。

 そのためには、首長が意欲的な教育政策と目標設定を提示して教育長以下の教委事務局を指揮できるようにする。それを住民投票によって選択できる制度を導入するべきです。その場合、教委は首長の諮問機関という位置づけにすべきです。
     (朝日、2012年02月03日。聞き手・山口栄二)

 03、感想

 第1に、「義務教育は、誰も責任を取らない無責任体制の世界だ」という藤原さんの指摘には教えられました。静岡県のセクハラ教師問題で、川勝知事は「責任は教育委員長[非常勤]にある。教育長[常勤]は事務方のトップでしかない」などと寝言を言って自分の選んだ教育長をかばっていますが、こういう事の言えるのも原因はここにあるようです。

 実際は、教育行政の権限は教育長が握っています。そして、瀬見井さんの言うように、「首長が『教育とはいかにあるべきか』という見識を持った人を教育委員[特に教育長]に選んでいない」から丸投げ消化試合行政が行われる事になるのです。

 というのは、「学校教育は個々の先生が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うもの」なのですが、その中心を為す校長が「教員の上がりポストになり、任期中何事も起こらないようにするという『守り』の姿勢の人が多い」(藤原)からです。

 そして、教育長はその「上がり」の中の最高の「上がり」で、そこまで上り詰めた人は仲間に恨まれないように校長達を守る事を考えているからです。これを最も露骨に示したのが静岡県の元教育長の鈴木善彦さんで、仲間の元校長に年収200万円のアルバイト口を与えるために「コーチングスタッフ」とやらを作りました。朝日新聞はこれが善政であるかのように大きく報じました。やれやれ。

 第2に、ですから、逆に首長に見識があり適当な人を教育長にし、校長にするならば、今の制度でも相当の成果を挙げる事ができます。

 瀬見井さんは、「教育委員会制度は意外なほど地方分権の精神で貫かれているので、主体性さえあれば相当のことができる」と言っていますし、それを実行しました。

 又、藤原さんも「校長はカリキュラムの編成権を持っていますから、責任を取る気さえあれば、かなりのことができる職です」と言ってそれを実行しました。

 しかし、藤原さんも言っているように、他の校長はそれを見習いませんでした。なぜか。向上心がなく、消化試合をしていても給料は変わらず、楽だからです。

 瀬見井さんは「副教本作成」で教師の力量を上げる事に成功したようですが、校長全体のレベルアップという問題意識はなかったようです。犬山市の調査をした人から聞いた話では、犬山市でも校長によって学校間の格差はあったようです。

 犬山市では、教委が校長の仕事の半分をやってしまったのです。ですから、校長による差異は比較的小さかったのでしょう。

 第3に、そこで、校長のレベルアップをどうするかが問題になります。藤原さんは「小中学校の1割を公募校長にすべきだ」としていますが、賛成できません。公募校長が皆優れているとはかぎりませんし、たった1割では、9割は見習いませんから、意味がありません。公募がそんなに好いならば、なぜ全ての校長を公募にしないのでしょうか。

 私も校長問題の解決策には困っていますが、その大前提は、何度も言いますように、「学校教育は個々の先生が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うもの」という事を皆が認識し、教育というとすぐに教師をどうするかを問題にする間違った態度を改める事です。

 その上で、本当の情報公開。校長通信。住民、特に近隣住民(同学区ではなく、隣の学区の住民)が学校評価サイトを作って日頃から監視し、叱り、励ますのが好いと思います。あるいは、卒業生がこういう評価サイトを立ち上げるのも面白いと思います。学校の質を維持するにこれ以上の保障はないと思います。

 第4に、個々の教員の質の担保はどうしたら好いでしょうか。犬山市の「副教本作り」と「子ども同士が教え合う『学び合い』の学習」は素晴らしい模範のようです。いじめ対策にもなっているようです。メディアはなぜかこれを取り上げませんが、不思議です。藤原さんの「よのなか科」などは取り上げるのに。

 又、生徒にアンケートを書いてもらう事も有意義ですが、それは先生を落胆させるためではなく、「平均以下の先生には努力を促す」ためです。教師に「分限処分」を適用するのには必ずしも反対しませんが、それはこれらの事をした後のことです。

 いや、そもそも現在の学校教育では非正規教員が欠かせなくなっていますが、これを是正すべきです。正教員の給料は多すぎますから、これを減らしてでも、同一価値労働同一賃金の原則を実行するべきです。

 瀬見井さんも藤原さんも立派な業績を残しましたが、こういう大きな枠組みの改革までは行かなかったようです。犬山市でも非正規教員を入れて「小人数教育」を実現したようです。

 第3点で述べた「住民による学校評価サイト」はこのためにも有効だと思います。

          関連項目

教育長はどのように決まるか

藤原和博の「よのなか科」の限界(その1)
同上、(その2)

星徹のルポ「犬山の教育」

副教本

皆で楽しむクリスマス

2011年12月30日 | カ行
 [ドイツの]ボンの或る小学校(正確には6歳から10歳までの基礎学校)ではキリスト教とイスラム教の子ども達が一緒にクリスマスを祝っています。子どもたちは相手の宗教と文化をを学び合っているのです。

 キリスト教とイスラム教の子ども達が一緒にクリスマスソングを歌い、待降節のローソクに火を着けます。こういう事は決して当たり前ではありません。このボンにあるドームホーフ小学校には29ヵ国からの340人の生徒がいますが、ここでは算数や国語(ドイツ語)のほかに他文化や他宗教を尊重する事も教えています。

 そのためこの学校にはドイツ語でイスラム文化を教える授業もあるのです。その授業ではイスラム教とキリスト教及び他の宗教に共通の事柄を教えます。例えば、イエスの誕生はイスラム教の人にとっても重要である、なぜならイエスはイスラム教では預言者とされ「イズ」と呼ばれているからです、と教えます。

 これはこの小学校とケルン大学が合同で行っている(外国人の)同化教育と外国人に読み書きを教える教育をよりよくする活動の一環です。そこには(外国人の)子どもたちにそれぞれの母語で授業をするのもあります。もうひとつの試みは「母親のためのドイツ語学級」です。移住してきた子ども達の両親にも学校生活に入ってもらおうという狙いです。

 この試みは成果を上げています。ギムナジウムに進む子供も出てきています。逆に、この試みに反対の親もいます。子どもをこの学校から連れ戻す人もいます。しかし、それは少数です。学校に残っている子ども達は同化に対して積極的に取り組んでいます。そこでクリスマスを祝うイスラム教徒の家族も増えているのです。(ドイツの海外放送のサイト[2011年12月20日]から)

 感想・浜松市でもこういう所が出て来てもいいと思います。日本の公立学校では宗教色のある行事は出来ませんが、他文化を理解し合う授業はあっても好い、いや、あるべきでしょう。その一環で他国の宗教を理解することは必要でしょう。

「まなびや」と城南静岡高校

2011年12月25日 | カ行
 先日の朝日新聞静岡版に次の記事が載っていました。

       

 全国で初めて高校生が立ち上げたインターネット商店街「まなびや」が、開設から10年の節目を迎えた。運営する私立城南静岡高校(静岡市駿河区)は活動を通じて大きく変わり、輪は全国に広がりつつある。

 年末恒例の活動報告会が12月14日に静岡市内で開かれ、参加企業の代表者らが集まった。出店企業数は180社を超え、年間の合計売上額は1000万円を上回る。

 活動は2001年、3年生の体験授業の一環として始まった。前身の静岡女子商業高校時代のこと。当初から指導する久保田和夫教務部長(54)は「家庭のインターネット普及率がまだ20%の時代。年間約1200万円という回線経費の問題もあり、校内でも反対が多かった」と振り返る。

 参加企業に月1万円ずつ経費を負担してもらう形で54社と契約し、同年12月に開設にこぎつけた。販売仲介料はなし。各企業の担当を決め、生徒自ら商品の写真を撮って紹介記事も書く。「社長」ら幹部の生徒は県内外の企業に足を運び、出店交渉を行う。

 当初からの参加企業で、技術指導もしてきたシステムプラニング(静岡市)の永嶋勝社長(52)は「生徒たちの言葉遣い、身だしなみなど、技術以上に社会的マナーが10年前とは大きく変わりました」と話す。

 久保田部長によれば、10年前は250人中9人だった大学進学者が年々増え、今では半数以上。「企業の社長、部長といった方々と話す中で社会への参画意識が高まり、『もっと勉強したい』と就職希望から転じる生徒が多い」そうだ。

 この1年、「社長」を務めた伊藤祐介君(17)も「活動を通じてビジネスの魅力を知った。将来は『まなびや』を支援できるような会社をつくるのが夢です」。卒業後は立命館大学経営学部への進学が決まっている。

 ・広がる提携9姉妹店

 「電子商取引」は2013年度から商業科の学習指導要領に入る。成果を上げた同校へは、提携の相談が相次ぐという。来年1月に開店する埼玉県の3校を含めると姉妹店はすでに9店(校)。2009年に仲間入りした佐賀県立唐津商業高校の岩本公章校長(58)は「地域とつながる契機になり、地元産品を生かした商品を開発するなど年々活動を深めていける。メリットは大きいですよ」と実感を込めた。

 県内では、静岡市立商業高校が12年続けた「市商デパート」に代わる活動を模索するなど、独自の授業を企画する動きも進む。

 「本家」城南静岡の生徒らも「来年は出店200社以上が目標。新商品の開発も頑張る」とさらに意気込んでいる。(杉山圭子) (引用終わり)

 感想

 これは何を物語っているのでしょうか。もちろん「まなびや」という実社会と直接接触する活動が生徒に大きな教育的効果をもたらした、という事でしょう。という事は、逆に言うと、普段の学校教育に大欠陥があるという事ではないでしょうか。この後者の面を見落としては困ります。

 城南静岡高校のホームページを見てみましょう。非常にお粗末です。校長は「挨拶」しか載せていません。しかも、その画面の作り方が悪く、読みにくいです。字間と行間の取り方が下手なのです。

 こういう事を誰も注意しないのでしょうか。まなびやを指導している久保田教諭も、まなびやでホームページの作り方を学んだ生徒も、自分の学校のホームページを1つの企業のホームページとして客観的に検討しないのでしょうか。こういう応用の利かない勉強では世の中は好くならないでしょう。

 この状態ですから、校長がブログを出して「週間活動報告」をし、教職員及び生徒及び保護者及び地域住民と話し合うなど、望むべくもありません。

 教員の頁には2人の教諭(1人は久保田さん)が2つずつ、何かを書いていますが、内容が貧弱です。話に成りません。つまり、まなびやの活動は、それ自体としては有意義ではありましたが、学校を変える力にはなっていないという事です。

 ここに、この学校だけでなくほとんど全ての学校の教育の欠点が出ていると思います。小学生はともかく、中学校以上になったら、そこで学ぶべき第1の事柄は、自分の学校と校長の在り方を批判的に検討する能力を養い、そういう習慣を身につける、という事ですが、この事が自覚されておらず、実行されていない、という事です。

 果たせるかな、2011年、この高校では、「野球部の練習で、ミスをした生徒に対し至近距離からバットで打球を顔面に直撃させ、右眼窩底骨折、脳挫傷などの重傷を負わせた」と報道される(ウィキペディア)という事件も起きたのです。

 静岡県の教育界は最近、不祥事が表面化しています(不祥事自体は以前からの事です)。問題教諭を出した学校の1つである浜松南高校では校長が1人1人の教師の授業を紹介するという事を始めたようです。→浜松南高校のホームページ

 まあ、これも悪いとは言いませんが、その前に、先にも述べました「ブログでの週間活動報告と皆での話し合い」の方が本質的であり、重要です。どうして校長や学長はこういう事に気づかないのでしょうか。

 「経済に強く、政治に弱い」静岡県らしい光景です。

    関連項目

「まなびや」

学校ホームページの必要条件

城南静岡高校のホームページ

生徒会の役員選挙と女性差別

2011年12月24日 | カ行
 鈴木恵前浜松市議のブログ(11月30日)にこういう記事がありました。

──友人の娘さんが、中学校の生徒会長に立候補した。先生からは、「おまえのようなものは出るな」と言われたそうだ。しかし、女性は「私は優等生じゃないからね」とさらっと言って、「私は出る!」と決意固く、立候補。

 立候補の推薦人を集め、演説の文章を考え、話し方を訓練し、真剣に取り組んだいた(私、話し方のアドバイスをちょっとしたの)。そうしたら、先生から、「女性ひとりしか、立候補していないから、おまえの副会長は決まりだ」と選挙も投票も実施していないのに、言われたそうだ。

 投票後、予言どおり、先生から別室に呼ばれ、副会長になったと言われたそうだ。しかし、どの子に何票入ったのか、自分は何票だったのか、教えてもらえなかったそうだ。

 どういうルールで会長や副会長が選ばれたのか、選ばれた行程が明らかではないというのは民主主義ではない。中学校は、市民の基本を身に付けるところ。選挙は、民主主義の根幹のはずなのに、これでは間違ったことを学んでしまう。

 すべての学校がこうした選挙をしているとは思わないが、しかし1つでもそうした学校が浜松にあるということは恐ろしいことだ。

 子どもたちは、この経験から、選挙に誰もが出れるものではない、選挙は暗闇で行われている、選挙なんかしなくても決まってるじゃん、なんて学んでしまったのではないかと思うと、本当に悲しい。(引用終わり)

 感想

 昨年(2010年)の6月だったと思います。当時、浜松市議だった鈴木恵さんは、或る母親から「中学校でブラス部に入った子どもが、指導している教官に30万円もする外国製の楽器の購入を強制された」という相談を受けた、と報告していました。コメント欄に何人かの意見が載りましたが、鈴木市議は市議会で教育委員会に楽器を借りられるようなシステムを作ったらどうかといった質問をしたようです(細かい事は忘れましたし、大して重要でもない)。

 今回の生徒会の選挙でも同じですが、なぜ学校に出向いて校長と話し合わないのでしょうか。私にはそれが不思議です。親は「自分に代わって学校に言ってほしい」と思って相談したのではないでしょうか。

 鈴木さんは、「学校教育は個々の教師が行うものではなくて、校長を中心とする教師集団が行うものである」と言う事を知らないのでしょうか。それとも、校長に話すのが怖いのでしょうか。

 更に、裁判所に訴えるという手をなぜ考えないのでしょうか。日本は法治国家であり、最終的には裁判所で決まる、と言う事を行動で示さないのも、「恐ろしい事」の「1つ」ではないでしょうか。

 この4月の統一地方選挙で私にとって最も意外で残念だった事は、山梨県議選で知人の笹本貴之さんが落ちた事ですが、それに次いで第2に残念だった事は、3期12年も市議を務め、最も頑張ってきた鈴木恵さんが落選した事です。

 両方ともしばらく信じられなくて、茫然としてしまいました。笹本さんの事はいずれ何かの機会に書くとして、鈴木さんはなぜ落ちたのでしょうか。1つは議員定数が1つ減ったのでハードルが高くなったことでしょうが、鈴木さんは次点ではなくて、次点の次だったと思います。

 東日本大震災で日本全体が保守的な雰囲気になったことが大きいと思います。それと、やはり女性が政治でがんばると嫌われたりするのかなという事です。

 そして最後に、鈴木さんの活動の仕方も適当でない所があったという事です。鈴木さんは落選直後のブログ(2011年04月15日)でこう書いています。

──政治は議員だけのものではありません。政治家にお任せするものではありません。政治に関心を持ち、声を出し、アクションし、変えていくのは、市民です。

 私はずっと「政治は議員だけのものではありません。一緒にアクション!」と伝えてきました。今回、議員ではなくなりましたが、政治には関心を持ち、アクションしていきたいと思っています。

 「政治deカフェ」は継続します。月に1度のペースぐらいで、気軽なおしゃべりは続けていきます。今度は逆に議員になった方々を呼んで「議会報告会」とか、「予算を読む会」を開くなんてどうかなって思っています。一緒に誰かやりませんか?(引用終わり)

 野(や)に下ろうと市議であろうと、市民の義務は何でしょうか。第1の義務は、市長に「ブログを出して、市民と直接対話をするように」と要求する事だと思います。現在の鈴木康友市長は市民から逃げ回る市長で、最悪の市長です。こういう人にはとにかく物を言わせることです。

 第2に要求するべき事は、ホームページの「市長の部屋」から「市長への意見」を書き込むことが出来るのですが、その途中に「市からの返事がほしいですか」という質問がある事です。ここを「いいえ」とすれば返事は来ませんが、「はい」としても、部下に書かせた説明を引いて「浜松市としてはこう考えています」という返事が来るだけです。

 市長の考えが聞きたいから「市長の部屋」にメールを送るのです。市の考えなら、広報課にメールを送ります。こんなおかしな事をしている自治体は、多分、浜松市以外にはないでしょう。静岡県知事へのメールにはそういう変な項目はありません。

 しかるに、誰もこれに文句を言わないのです。多分、知らないのでしょう。市長に意見を送った経験すらないのでしょう。これが浜松市民の現状です。そして議員ですら同じレベルなのです。

 第3の義務は「議員に通信簿を付ける会」を立ち上げる事だと思います。鈴木恵さんはなぜこういう事に思い至らないのでしょうか。鈴木さんがいなくなってから、本当に浜松市政の事は見えなくなっています。

 最後にもう1つ。ブラス部の楽器の場合でも、今回の選挙の場合でも、当の生徒の父親は何をしたのでしょうか。父親の姿の見えないのも不思議です。

  関連項目

笹本貴之さんのブログ

牧野の「市長選への仮立候補」関係の記事

「議員に通信簿を付ける会」


官僚主導を考える

2011年12月21日 | カ行
(その1)

 「官僚主導を政治主導に転換する」という民主党のマニフェストとやらは反故になりました。どうしてでしょうか。どうしたらいいのでしょうか。これを考えるためにも官僚の実態を知る必要があります。以下に転載するものは雑誌「文芸春秋」2005年10月号に載った元通産省職員の堺屋太一さんと元大蔵省職員の野口悠紀雄との対談です。参考になる点が多いと思います。最後に「感想」として、重要な点を箇条書きにしました。(牧野)

  小泉政権は官僚支配を強めた

 堺屋 今回の総選挙(2005年夏の総選挙)の争点である郵政民営化に象徴されるように、小泉政権はこの4年、「官から民へ」「官僚支配の打破」をキャッチフレーズとして改革路線を進んできたとされています。しかしその掛け声の通り、日本は「官」主導からの脱却を果たしつつあるのでしょうか。野口さんも私も、かつては霞が関に勤めていた経験があります。私は昭和35年に通産省に入省しましたが、野口さんはいつ大蔵省に入りましたか。

 野口 昭和39年、東京オリンピックの年です。

 堺屋 それから40年以上も経った今、小泉内閣の4年間で日本の官僚支配は全体として弱まったのかどうか。私は逆に強まった、という確信を持っています。例えば、最近の金融庁の金融機関に対する行政指導は相当ひどく、かつての護送船団時代の指導をさらに細分化したような、恣意的で強引なものになっています。「ゆとり教育」などをめぐる文部科学省の教育方針への介入も、総務省の市町村合併に対する高圧的態度も目に余ります。また、北朝鮮をめぐる六ヵ国協議や国連安保理常任理事国入りの騒動などを見ていても、外務大臣は不在で外務官僚の失態ばかりが目立ちます。これはちょうど、戦前の近衛内閣が「新体制運動」といいながらも、実質的には全て官僚任せの政治だったのと似ているように思います。

野口 確かにここ数年、以前なら考えられなかった細かいところまで、官僚が口出しするようになりました。ただ、長期的な視野に立つと、役人の力は低下してきたのではないでしょうか。特に高度成長期と比べると、その力の低下は著しいと思います。

 私は、戦後日本の発展を支えた経済体制を「1940年体制」と名付けています。生産者優先、競争否定の理念の下、終身雇用、間接金融、直接税中心の中央集権的財政などを柱とした国家体制が1940年前後の戦時期に確立されたことからそう名付けました。この体制は戦後に生き残り、官僚たちは強い統制力をフルに活用し、日本の高度経済成長を先導する役割を果たしてきました。

 堺屋 私もそのことは、ずっと前から「昭和16年体制」として繰り返し指摘してきました。戦後の日本は官僚主導、業界協調体制で、規格大量生産型の工業社会を確立しようと頑張っていました。

 たとえば私が勤めた通産省、今の経産省は、本来は業界のコンサルタント的な役割を果すにすぎなかったのですが、戦後の統制経済で急速に力をつけ、田中角栄の頃から総理秘書官を出すようになりました。行政指導と称して、何ごとにも口出しできるようになったからです。

 業界との合意のもとで、業界主流の意見を代弁する一方、業界団体を作らせてそこに天下りを入れ、官民一体の利益構造の中で確実な利益を生む仕掛けです。役人は自分たちの意見よりも、業界主流の主張を聞き、新規参入の排除と過当競争防止に努める。いわば消費者の犠牲のもとに供給側の成長を促し、外に自らの行政指導力を誇示していったのです。製鉄用の溶鉱炉数や、石油コンビナート施設を割当てることで過当競争を防ぐ。官僚主導と業界協調が人事的にも意思的にも一体となって経済成長に邁進していく。これが、高度成長期における官と民の形だったのでしょう。

 野口 個別的な行政指導という点では、大蔵省の銀行局や証券局もそうです。私が証券局にいたときも、形式的には大蔵省が行政指導の内容を決めたことになっていますが、業界の意向、正確には野村証券の意向を無視しては、証券取引法という根拠法令があっても、実質的には何もできません。「私は何をやっているのだろう」と考えていたことを思い出します。

 それから40年近く時が流れ、日本をとりまく経済状況も変わりました。ですから、現在官僚のカが大局的にいえば低下したのは、小泉内閣のおかげではなく、日本の長期的な変化と共に起きた大きな潮流として捉えるべきでしょう。

 自分の家の軒先だけを掃く

 堺屋 世界的に、1980年頃から、社会システムにおける官僚の影響力を減らし、自由化、市場化、グローバル化を進めようという流れが強くなりました。レーガン、サッチャーといった自由主義市場経済の信奉者が現れ、ドルの国際流動性を高めた結果、冷戦構造が経済分野から崩壊し、平等主義的官僚親制は急速に減少していきました。

 ところが、その頃の日本はバブル景気を謳歌していて、世界の流れには無関心でした。さらにバブルが崩壊すると、不況対策ということで官僚の出番がむしろ多くなった。国が自由化、民営化といったものを積極的に意識し始めるのは1998年の橋本不況のころからでしょう。持株会社の解禁やNPO法案などに慌てて手をつけ始めます。その過程で起きたの
が長銀や日債銀の破綻、マイカルやそごうの倒産といった「リスクの市場化」です。確かにこの頃の日本は、遅ればせながらも市場化、非官僚化の方向へと進んでいました。

 野口 それなのに、堺屋さんも御指摘のように、最近になって役人の圧力を以前よりも強く、それも瑣末な場面で数多く感じます。たとえば国立大学は独立行政法人になりましたから、本来なら各大学がかなり自由に経営できるはずなのに、実際は文科省が細かなことを言ってくるようで「以前よりもやりにくい」と知人の国立大学教授がこぼしています。

 他にも、証券市場における株式のカラ売り規制が強化されたことがありますが、カラ売りは正常な取引で、規制すべきではありません。株価下落を防ぐためだけの規制で、これは間違いなく市場を歪曲化します。市場に「NO」を突きつけられた産業、企業は本来消滅してゆくのが資本主義社会の原則なのに、産業再生機構を作って、それを延命させようとする。産業再生という仕事自体は、たとえば新生銀行のケースでもわかるように、民間のファンドでできます。とにかく、不要な規制や施策が実に多い。

 堺屋 これは、進んでいたはずの「リスクの市場化」が、小泉政権になって「リスクの国有化」へと変質していったからです。りそな銀行に国の金を入れる、産業再生機構で国が引き受ける、というプロセスの中では、自然と役人が細かいところに口出しをしていくようになる。制度としては「体制としての官僚指導」から、「各場面での個別指導」になったため、突出して恣意的な指導が目に着くつくようになった。

 野口 今の官僚のやっていることは、自分の家の軒先だけをホウキで掃き、ゴミを隣の玄関先に捨てているようなものです。

 ただ、私は規制が全ていけない、と言っているわけではありません。アスベストの問題などは、以前からその有害性が指摘されていたのに、中途半端な規制しか行ってこなかった。あるいは公正取引委員会は、自由競争を促進させるために必要な組織なのに、ほとんど機能していない。不必要な規制ばかりがなされ、本当に必要な規制がなされていない。

 そもそも「官僚支配」という言葉は、国民と対立するものとしての官僚が、国民の意に沿わないことをやっている、というニュアンスで言われるものでしょう。高度成長期にはもっと大きなカをふるっていたのに、官僚のリーダーシップを国民は是認していた。経済全体が成長したので、問題は感じられなかった。成長が止まって利害対立が先鋭化したので、「官僚支配」という言葉が生まれたのでしょう。

 官僚集団もひとつの利益集団です。いくら批判を浴びたところで、経済成長がもはや期待できず、天下り組織が自然に増えていく時代が過ぎた今、どうにかして自分たちの権限、利益を守っていくことを考えざるをえない。だから余計な規制を広げてゆこうとするのです。

  官僚社会を喜ばせた小泉の「改革」

 堺屋 はっきりしておきたいのは、不正不当の取締りと、行政指導的な規制とは別ものだということです。官僚主義は、ごく少数の事件や事故を契機として規制を強化し、一般的な選択と利便を失わせます。組織論的にいえば、官僚は非常に閉鎖的で、強烈な仲間意識を持っています。一般に組織は「大きくなりたい」「強くなりたい」「結束したい」という3つの意識を持ちますが、軍人や官僚の組織はその最たるものです。官僚組織ではそれ自体が目的化しています。

 実は戦後日本の社会構造において、この官僚集団を牽制する力を持っていたのは、民間大企業と自民党政治でした。ところがここ数年のうちに、この三者の拮抗状態の中から政治の力が急速に低下している。

 野口 小泉内閣がこの4年、取り組もうと宣言したことですね。

 堺屋 そうですね。小泉内閣は自民党と官僚とが時にタッグを組み、時に対抗しながら国を動かしてきた日本の伝統的なシステムを崩しました。

 野口 高度成長期に比べて官僚のカが低下した1つの理由は、税制における山中貞則氏のように、専門的知識を持つ政治家が登場したからです。

 堺屋 1990年代には政治主導の改革が進みましたが、小泉内閣はそういった政治家たちを〝族議員″という名のもとに駆逐してしまったのです。その結果、残った官僚の独走となり、官僚の力だけがどんどん強化されています。残念ながら小泉さんはそのことに気付いていない。族議員をつぶしたからいいじゃないか、と思っているはずです。

 たとえば戦後の内閣は「大臣は辞任するときに官僚の人事を行なってよい」という慣例を守ってきました。大臣は辞めるときに事務次官や局長、官房長を代えることができる。つまり大臣を辞めさせれば官僚は返り血を浴びるという「刺し違え」の仕組みが互いの抑止力として働いていました。ところが田中真紀子外務大臣(当時)を更迭するに当って、大臣の意向とは関わりなく、小泉さんが外相と外務省の野上義二事務教官を代えました。つまり大臣には人事権がなくなったのです。これ以来、官僚の世界に「大臣は〝資質がない″という噂を流せばいつでも代えられる」といった考えがまかり通るようになったのです。

 さらに、文部官僚だった遠山敦子氏を、選挙も長期の社会評価も経ずに文科省の大臣にしていたこと。実はこの人事は官僚社会をたいへん喜ばせました。「役人を選挙や長期間の世評の洗礼を受けることなく大臣に就けてはならない」という戦前の反省に基づく慣例を、いとも簡単に破ってしまったんです。

 さらには、その時の事務次官を、間を置かずに中央教育審議会の委員に入れた。これによって、事務次官時代に提案したものを、審議委員として審議するという手前味噌を許すことにもなった。

 それからもう一つ、橋本内閣時代の行政改革で、官邸機能を強化するため各担当大臣の人事権を官房に集約してしまった。だから、たとえば金融担当大臣には金融庁の人事権がないんです。

 かくして大臣の地位は限りなく軽くなる。今では大臣の方が官僚に遠慮している。官僚たちも所轄の大臣を無視して、直接官房長官や首相官邸に意見を具申するようになっている。金融庁でも、金融担当大臣よりも、金融庁長官の方が経験も人脈もある。だから、大臣が長官に遠慮していますよね。

  力の源泉は情報の独占にあり

 堺屋 小泉さんは、経世会の支持団体である農協組織や医師会、建設業界や郵便局ネットワークなどを潰そうとしています。その結果、職業の縁でつながった戦後の「職縁社会」を解体し、再び官僚主導に依存することになります。「職縁社会」を潰すのなら、それに代わる民の代弁機関、地域コミュニティや「好みの縁」でつながった政治力を育てなければならない。

 小泉さんは意欲と正義敵は強いんですが、知識が不足しているので、自分の行動が周囲に及ぼす影響を予測できない。やはり政治家としては、大蔵大臣も官房長官も、党幹事長も経験していないと、人脈が限られてくる。結局官邸に入ってくる秘書官なり官僚の話、特定の評論家たちで構成される「何でも官邸団」の話にしか耳を傾けないようになってしまった(笑)。

 野口 それにしても、なぜ官僚が力を持っていたのでしょうか。理由はいくつかありますが、官僚の力の基本的な源泉は、情報を独占していることです。

 この場合の情報には2種類あって、ひとつは制度に関する情報。たとえば年金制度や税制は非常に複雑で、仕組みを正確に知らなければ政策論ができません。これを知るだけで大変なエネルギーが必要です。もう1つは、今現在進行中の事態についての情報。徴税であれば、事業所得の実態がどうなっているのか、といった類の情報です。官僚は、この2つの情報を独占することで、その力を推持し続けてきました。

 堺屋 官僚は情報の収集のみならず、その発信も独占しています。これにはさまざまな弊害がある。例えばBSE問題にしても、農水省が「全頭検査でないと危険だ」と先にアナウンスしてしまった。このため、今では日本の学者でも全頭検査を求めることについて再考を促す意見が出てきているのに、政府としては取り消せなくなった。外交も同じです。国連安全保障理事会の常任理事国入りの問題も、国民の半分は安保理ではなく「国連の常任理事国入り」だと勘違いしているはずです。なぜなら、外務省がそういった誤解を招くようなアナウンスをしてしまっているからです。

 閣僚の発音をすぐに官僚が訂正する、という場面も数多くあります。「注釈」[解釈」などといって、あとで何らかのバイアスをかけようとする。塩川正十郎財務相(当時)が、2002年9月の日米財務相会談において不良債権処理加速のために公的資金を活用する方針を表明し、その直後に財務省が発言を取り消したケースがその典型です。記者クラブ制度をうまく利用して、情報の出し入れを行なっている。

 野口 インターネットでどんな情報も手に入るようになったいま、官庁の情報発信は驚くべき状態です。例えば、在職老齢年金制度について調べようと社会保険庁のホームページを開いたところ、一般的な制度の解説であるにもかかわらず、「詳しくはお近くの社会保険事務所で」とありました。社会保険事務所に行けば、何時聞も待たされます。もっとも、国税庁のホームページのように、きわめて充実したものもありますが。

 堺屋 そして業界との癒着が官僚の力を下支えしています。情報にしても、実態情報の大半は業界に申しつけて作らせています。橋梁談合事件でも明らかなように、官需相手の談合の多くは官製談合です。天下った官僚がパイプ役を果たし、業界の声を束ね、どこからともなく「天の声」が聞こえてくる。欧米のように現場説明をなくして電子入札制度を整備すべきです。ところが日本の官僚の通信情報(マシン・リーズナブル)化の能力が低い、という問題があります。

 官僚主導での規格大量生産、癒着を前提とする利益分配が効果的に機能する時代はとうに過ぎています。通産省の場合は、石油危機の前後にこの変化に気付き、自由経済を前提とした行政を模索し出すのですが、権限を失うだけの結果となった。このため規制維持派と自由化推進派とに省内が二つに割れて荒れました。そのあたりで私は、コンサルタント官庁としての通産省の使命は終わったんだな、と感じたものです。

 現在では、多くの業界が官僚離れを望んでいるのに、官僚側が取締りと情報独占を武器に追いかけている状況です。官僚の方は業界離れができていない。世間からの批判の強い天下りについても、本当にその人の能力が買われての再就職よりも、役所とのパイプとして買われる場合が多い。このため、官僚としてはあえて情報を複雑にしている気配があります。

(その2)

2011年12月21日 | カ行
  「局あって省なし」は変わらない

 堺屋 それからもう1つ、当たり前のことですが、官僚組織は強大な権力である、という点も改めて認識すべきでしょう。中央官庁は、権力官庁、事業官庁、そしてコンサルタト官庁と大きく3つに分類できます。

 権力官庁は税制などを司る財務省や、軍事を管轄する防衛庁、警察庁や総務省といった国家の治安を守る省庁など、唯一無二の権力を持っている官庁を指します。総理大臣秘書官はずっとこれらの(財務・外務・警察)官庁から選ばれています。

 事業官庁は、文科省であれば教育、国土交通省であれば道路や港湾といった事業を自分で行い、予算を配分するという権能を持っています。

 そして経産省などのコンサルタント官庁は、行政指導などによって民間を効果的に動かしていく。それぞれがそれぞれの分野で民間には持ち得ないカを持っていて、それが恣意的に使われるか否かは彼らの倫理観に委ねられている。

 野口 中でも大きな権力を持っているのが国税庁です。悪いことをしなければ警察の世話にはなりませんが、所得を得ているかぎり、国税庁からは逃げられない。

 堺屋 昭和初期の治安維持法は、警察に誰でも引っぱれる権力を与えたが、今でも国税庁はそれに近い。しかも政治家やタレントの些細な申告漏れなどがすぐ新聞に流れる。あれは明らかに守秘義務違反ですが、まったく取締まられてはいない。やはり国税は怖いから誰も楯をつけない。

 野口 申告前に事前照会しても、教えてくれない。申告して国税庁の見解と異なれば、修正申告になる。そしてその内容がマスコミに漏洩する。マスコミはそれをまるで脱税事件のように扱う。事前照会に応じてくれるか、守秘義務を徹底するか、どちらかが絶対に必要です。

 橋本行革で大蔵省から国税庁を切り離す、という案が出たことがあります。「これは本気か」と思ったことがありますが、結局立ち消えになった。結局大蔵省を財務省と金融庁に分離したわけですが、国税を切り離すことに比べれば非常に瑣末な行革だったと思います。

 堺屋 世間の多くの人は、官僚の意思決定は数多くのエリートが議論を重ねた上で一つの合意に至っていると思っているようですが、全く違うのです。かなり大きな政治的課題であっても、それこそ局長や担当課長、同補佐など、ごく少数の人間の意思がかなり重要なんです。

 たとえば古い話ですが、自然保護の観点から、タイマイという亀の鼈甲(べっこう)の貿易を禁止する決議が国連に上程された、その時日本はどういう投票行動をとるか、と国連代表部から外務省に請訓(問い合わせ)が来た。外務省では、鼈甲は通産省日用品課の担当だ、ということで通産省官房経由でその課に問い合わせが来た。そこで課の担当官が長崎県の鼈甲加工協会に連絡すると、まあ当然反対という答が返ってくる。それが先刻と逆のルートで国連大使に届けられ、「日本は反対」という意思表示をした。

 するとその翌日、今度は「象牙の貿易禁止」が上程された。また同じように国連代表部から請訓が来て、さきほどと全く同じ課の同じ担当官に入る。今度は山梨県の象牙加工組合に問い合わせて、やはり「反対だ」となった。このように一つ一つの案件を、係長クラスの官僚が一人で、しかも近視眼的に処理するものだから、全体として「日本は自然保護に反対です」という姿勢を内外に示していることになってしまう。これは明らかに国益に反しますよね。

 野口 「局あって省なし」という状況はどこの省でも変わりません。外務省には研修語学別のスクールがあるわけで、それが個々人のキャリアに大きな影響を及ぼすから、外務省一丸となっての外交は期待できません。大蔵省、財務省にしてもそうで、私が主計局時代に、主計局ではない大蔵官僚のAさんにある件を相談したと同僚に話したら、「こんな重要なことを外部の人間に言うな」といわれました。同じ大蔵省内なのに、主計局以外は「外部」なのですね。

 堺屋 戦時中の日本を支えていた両輪である軍国主義と官僚主導のうち、戦後になって軍国主義は排除されました。それと共に、勇気や覚悟、辛抱といった武人的美徳まで排除され、一方の官僚主導体制の方は残った。しかも、内向きの気配りや優しさが官僚の行動規範になりました。たとえば出世レースでも、国のために働いた人や業績を上げた人ではなく、仲間うちで評判の高い人、自己犠牲のできる人が上がっていくようになりました。私も通産省時代に「会議の議題を調べて一夜漬けで関係数値や関連法規の条文などを憶えてひとくさり論じるが、絶対に反対するな。とりあえず賛成した上で、但し書きをつけるのがよい」と教えられた。それで、実際に3年ほどそうやってみたら身内の評判がいっペんによくなった(笑)。他の官庁や政治家に対してはできるだけ抵抗姿勢を見せつつ、最後に必ず妥協する、なんてテクニックもありますね。

 野口 昔と比べて官僚気質も変わったようです。昔の官庁には、上司に対する強い信頼をベースとした人間関係がありましたが、今は一切ないようです。かつてよく言われたノーブレス・オブリージュの精神も、今そういうことを言ったら嘲笑の種になるだけでしょう。若者にとって官僚が魅力的な仕事ではなくなってきている。そうでなければ、来年度の農水省入省予定者に東大法学部卒が1人も入らなかったり、総選挙にあれほど多くの現役官僚が自民、民主問わず出馬するはずはありません。

 堺屋 我々の時代にも、選挙に出てくれという声は数多くありましたが、ここまでたくさんの人間が出ることはありえなかった。私が通産省を辞めた直接の理由は、大平内閣の時に参議院の選挙に出ろと言われて、いやだから辞めます、と。でも、私の後は、ゾロゾロと政界に打って出ています。今、通産出身は国会で20人以上、知事で6人もいるんです。

 野口 私のときも、入って2、3年目の若造なのに「民社党だったらいつでも出られる」と口鋭かれました。でも、出馬する仲間は誰もいませんでした。当時の新米官僚は、夜勤
で局長の秘書代わりをやらされました。夜陳情に訪れる政治家先生に向かって、「局長は今忙しい」と言って追い払う役目をしていた。それだけ政治家より官僚の方が偉かったので
すから、出馬するわけありません。今の官僚は、軒先を掃き続けるか、運がよければ選挙に出るか、のどちらかの選択肢しかない。隔世の感がありますね。

  政治を官僚の手から取り戻すために

 堺屋 では、このゆがんだ形での官僚支配を打破していくためには、一体どうすればよいのでしょうか。

 野口 単に官僚のカを弱めればよい、というものでもありません。アスベスト問題や公正取引委員会など、きちんと官僚が本来の権限をもって強く取り締まってくれないと困るところもあります。国税にしても、公平な徴税をきちんとやってもらわなければなりません。そのためには今の税務署5万人体制を増やす必要もあるかもしれない。年金保険料の未納分もしっかり徴収してくれないと、サラリーマンの厚生年金にしわ寄せが来るわけで、それも困ります。一方で、余計なお節介をしている部分については、是非止めてほしい。

 堺屋 確かに官僚が取り締まるべき分野をきちんと取り締まり、徴税、徴収を行なうことはもちろん重要です。しかし、官僚が国の重要政策を決めたり、民間業界に恣意的に干渉していくようなことはやはり問題です。

 これを止めさせる方法は、宮僚が国家指導の主体としていかに信用できないかを、日本人1人1人がきちんと理解するしかありません。政治家、官僚、評論家、学者といる中で、誰の言葉が一番信じられるかといえば、いまだに官僚、と思つている人が多いでしょう。なぜかといえば、まずは役人には一番正確な数字情報が入ること。次にマスコミを通じた情報発信力が強いこと、そしてやはり、難しい試験に合格し、高度成長を支えた人々の後継者である、ということ。この3つが、いまだに日本人の官僚幻想を支えているのだと思います。

 野口 1990年代に大蔵官僚をはじめとして、官僚のスキャンダルが次々と暴かれました。適切な報道だったと思いますが、あれ以来官僚の権威は大きく失墜しました。他方で政治家に対する信頼感もない。だから日本人は自国の官僚も政治家も信頼できない。なんとも不幸な国になってしまった感じがします。

堺屋 政治に官僚と拮抗する力を持たせなければならない。政治家が官僚への陳情機関になっているようではどうしようもない。官僚に握られている情報についても、業界や官庁とは別の所に民間のシンクタンクを置き、そこで独自に知的蓄積を図る必要があります。それには、寄付という文化を根付かせねばなりません。ところが日本では官僚が一番お金の使い方が上手なんだから、世のため国のためを思う者はまず税金を払え、寄付は官僚様に税金を差し出した余りでやればよい、というわけです。これでは官僚機構に対抗するような情報の蓄積を持つ機関は育ちません。

 野口 政治家の政策立案能力を高めるために採用された政策秘書の制度にしても、結局はカラ給与問題でミソがつきました。器だけ作ってもタメで、政策立案ができる高度の専門性を持った人材を育てるところから始めなければなりません。

 堺屋 本当に日本の官僚支配を変えよう、というのであれば、人事の流動性を確保すべきでしょうね。私は経済企画庁長官のときに、官僚以外の人々を6名、管理職として採用しました。いちどきに民間から6人の管理職を採用したケースは極めて珍しいでしょう。それほど民間との人事交流は少なかったんです。ところがそれも今や1人か2人に減ってしまっています。だから、たとえば官僚の任期を一律10年にして、再任は職種と位階の各段階で3分の2までは認めるが、あとの3分の1は民間に出す、といった官民のローテーション制度を採ってみては、と思います。そうすれば、毎年大量に官僚経験者が民間に出てきて、その分民間から官庁に入って来る。官民の交流が実現し、人材も活性化するはずです。天下りも、この制度の中で自然とその形が変わっていくはずです。

 野口 官僚機構は本来、法令で決められたルールに従い、政治が決めた基本方針を忠実に実行する組織です。しかし実際には、天下り先の確保が本来の職務遂行の妨げになっる、という側面は否めません。天下りの必要をなくすことで、職務に集中する環境を作ることは大切なのではないでしょうか。そこがしっかりしていないから、天下り先を確保するために余計なことをしてしまう。

 アメリカのスポイルズ・システム(猟官制度)では政府高官は民間人がなりますが、政府の高官を終えたあとで民間企業に戻るため、決定にバイアスが生じる、と見る向きがあります。大事なのはビジネス分野から官僚機構を引き離し、独立した存在とすること、たとえば定年までの勤務を保証することではないでしょうか。

 堺屋 人間の欲望には、人気、首、権限の3つがあります。官僚を経験すると、何よりも権限の魅力に取りつかれる。課長補佐から課長になるくらいが権限欲のピークで、その頃は億単位の年収でも「たかが中小企業の成り金奴」といった感じです。それよりも大きな仕事、権限が欲しいものです。定年までの勤務を保証したところで、その官僚が持ち続けてきた権限指向をどうやって別のところに向けるのか。

 たとえば、なぜアスベストを完全禁止できなかったかといえば、そこにも官僚の権限欲が介在しているからです。業界からの要請を受け、「権限を持っている俺が頑張ったから、業者はまだ助かっているんだぞ」と言いたい権限欲と省益、掌管供給者を第1に考えるからこうなってしまう。日本の官僚はまだ清潔な方だと思います。腐敗はしていない。しかし、その倫理観は頽廃しきっている。つまり、何が正しいか誤りなのかがわからなくなっているんです。だから官僚主導は危険なんです。

 総選挙の結果がどう転がったとしても、新しい内閣には本当の官僚支配の打破を実現してもらいたい。それにはやっぱり知識とビジョンのある政治家が、日本の未来体制を考えるべきです。そうでなければ官僚の造った土壌で官僚のルールで相撲をとっているだけ。どちらが勝っても日本国の長期凋落は避けられないでしょう。

     主要点の箇条書きと感想

 1、戦後日本の経済体制は、生産者優先、競争否定の理念の下、終身雇用、間接金融、直接税中心の中央集権的財政などを柱とした国家体制で、これは1940年ころに成立したものである。いわば消費者の犠牲のもとに供給側の成長を促し、外に自らの行政指導力を誇示していった。官僚主導と業界協調が人事的にも意思的にも一体となって経済成長に邁進していく。

 2、世界的に、1980年頃から、社会システムにおける官僚の影響力を減らし、自由化、市場化、グローバル化を進めようという流れが強くなった。ところが、その頃の日本はバブル景気を謳歌していて、世界の流れには無関心だった。

 3、かくして大臣の地位は限りなく軽くなる。今では大臣の方が官僚に遠慮している。官僚たちも所轄の大臣を無視して、直接官房長官や首相官邸に意見を具申するようになっている。金融庁でも、金融担当大臣よりも、金融庁長官の方が経験も人脈もある。だから、大臣が長官に遠慮している。

 4、小泉さんは、経世会の支持団体である農協組織や医師会、建設業界や郵便局ネットワークなどを潰そうとしています。その結果、職業の縁でつながった戦後の「職縁社会」を解体し、再び官僚主導に依存することになります。「職縁社会」を潰すのなら、それに代わる民の代弁機関、地域コミュニティや「好みの縁」でつながった政治力を育てなければならない。

 5、なぜ官僚が力を持っていたのでしょうか。理由はいくつかありますが、官僚の力の基本的な源泉は、情報を独占していることです。
 この場合の情報には2種類あって、ひとつは制度に関する情報。たとえば年金制度や税制は非常に複雑で、仕組みを正確に知らなければ政策論ができません。これを知るだけで大変なエネルギーが必要です。
 もう1つは、今現在進行中の事態についての情報。徴税であれば、事業所得の実態がどうなっているのか、といった類の情報です。官僚は、この2つの情報を独占することで、その力を推持し続けてきました。
 官僚は情報の収集のみならず、その発信も独占しています。そして業界との癒着が官僚の力を下支えしています。

 6、世間の多くの人は、官僚の意思決定は数多くのエリートが議論を重ねた上で1つの合意に至っていると思っているようですが、全く違うのです。かなり大きな政治的課題であっても、それこそ局長や担当課長、同補佐など、ごく少数の人間の意思がかなり重要なんです。

 7、確かに官僚が取り締まるべき分野をきちんと取り締まり、徴税、徴収を行なうことはもちろん重要です。しかし、官僚が国の重要政策を決めたり、民間業界に恣意的に干渉していくようなことはやはり問題です。これを止めさせる方法は、宮僚が国家指導の主体としていかに信用できないかを、日本人1人1人がきちんと理解するしかありません

 8、官僚に握られている情報についても、業界や官庁とは別の所に民間のシンクタンクを置き、そこで独自に知的蓄積を図る必要があります。

 感想

 お二人の結論は8にあるように国民のためのシンクタンクを作る必要があるという事だと思います。賛成です。しかし、お二人共、自分が旗を振ってこれを作ろうとしていません。これが中途半端なインテリの姿です。

 この座談会から6年経ち、政権交代も成し遂げられましたが、政治主導の挫折を経て官僚主導政治は前より強固になったのではないでしょうか。民主党ではだめだと言っても、自民党に返しても好い事も期待できない。どうして好いか分からない、というのが多くの国民の気持ちでしょう。