マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

卒業式と国旗・国歌の問題

2012年03月19日 | カ行
 お断り・昨今の事情に鑑みて、過去の記事をまとめ、今の考えを付けて再度掲載します。
 
 なお、かつてメルマガ「教育の広場」に掲載した記事は「第2マキペディア」(ブログ「教育の広場」)に転載してあるのですが、目次(索引)に載っていないものも多いので、最近はそれを目次に載せ、ついでにブログ「マキペディア」全体の整理整頓を整理しています。

 01、卒業式と国旗・国歌の問題(2001年02月21日発行のメルマガ「教育の広場」)

 また卒業式のシーズンになりました。そして、君が代と日の丸でもめるシーズンになりました。かつて都立高校に勤務していた友人の話では、このシーズンになるといつも頭がいたく、気が重かったといいます。

 2年前[1999年]に広島県の某公立高校の校長がこの問題に悩んで自殺したという事件がありました。それをきっかけにして、眠っていた「国旗・国歌法案」が眠りから覚めて、簡単に国会を通過してしまいました。つまり、今では日本の国旗は日の丸であり、国歌は君が代だということなのです。

 しかし、その後もそれに反対する人々は多く、いろいろが事件が起きています。また、君が代と日の丸を推進する人々は、法律が出来たことで一層強力にそれを押し進めているようです。これは教育現場に強制しないということだったと思いますが、それは守られていないようです。

 (2001年)02月15日の朝日新聞によると、千葉県の高校生が教育委員会に対して「卒業式での国旗掲揚・国歌斉唱を強制しないように求める請願書」を出したそうです。私はこれは反対する方法として正しい態度だと思います。ということは、私は実力行使には原則として賛成できないということです。

 私は国旗や国歌の押しつけには反対ですが、ここではそれに反対する方法について考えてみたいと思います。国旗・国歌法案が審議されていた時も多くの人がそれに反対しました。しかし、高名な評論家から名もない人まで、その法制化に反対し、その押しつけに反対するだけで、反対運動のあり方については黙っていたと思います。こういう態度は無責任だと思います。

 先にも述べましたように、この法案が眠りから覚めて出てきたのは広島県の高校の校長の自殺がきっかけであり、その自殺には反対運動のあり方も関係していたと伝えられています。もちろんそれだけではないでしょうが、かなり理解のあったその校長に対して、理解があるからということで、県教委の方針に従わないように団交で強要するようなやり方をしたことも1つの原因ではあったと思います。

 人間は一般に「言いやすい人にだけ言う」という卑怯な性格を持っていると思います。この場合でも、君が代と日の丸を押しつけている元凶は文部省であり、教育委員会なのです。ですから、戦うならこの元凶と戦うべきです。この校長のような理解ある校長はむしろ味方にするべき相手だと思います。

 それはともかく、この某高校の反対派のやり方が間違っていたのは今日では明白だと思います。現に、卒業式での君が代と日の丸は阻止されるどころかますます一般化し、その高校でもその後実行されるようになってしまったと言われているからです。

 悪法も法かというのは古来の難問ですが、決まったことは原則として守るべきだと思います。そうでなければ世の中の秩序が成り立たないと思います。たしかにこれにも例外はありうるわけで、外交官の杉原氏がナチスに追われていたユダヤ人を逃れさせるために、規則に反してビザを発給した例もあります。しかし、それは極めて例外的な場合です。

 法律で決まっている事は守りつつ、それに反対なら、決められたやり方で反対運動をして法律の改正や妥当な適用を目指すというのが民主主義だと思います。日教組が文部省と妥協したのは、違法な手段を使っての反対運動では勝てないということを認めたことだと思います。

 先の高校生の請願書に対して教育委員会はどういう回答を出すのでしょうか。

 02、再び・卒業式と日の丸君が代について(2001年03月14日発行のメルマガ「教育の広場」)

 その後、卒業式が近くなって、あるいは卒業式が行われて、卒業式や入学式と日の丸・君が代に関係した新聞記事が多くなりました。私のスクラップには次のようなものがあります。

 1、これは必ずしも卒業式関係ではありませんが、東京の荒川区の教育委員会が、区立のすべての小中学校に対して(2001年)3月以降、日の丸を常時掲揚するようにという通達を出したそうです。そして、掲揚できるかできないかを報告するようにとの要請までついていたそうです。

 2、職員会議で校長が、国旗・国歌を入学式の進行に入れるように提案したら、誰も発言せず、異様な雰囲気だったという投書がありました。

 3、卒業式での日の丸掲揚、君が代斉唱を巡って教育委員会が「職務命令」を出した所の一覧表が載っていました。

 4、本メルマガの第26号[01の文]で取り上げた高校生の請願は、案の定、拒否されたようです。

 5、東京都下の国立市(くにたちし)では、卒業式の進行を決める職員会議に教育委員会の指導主事が出席したそうです。そして「ひたすら会議録をとり続けていた。意見を言える雰囲気ではなかった」ということです。

 6、大阪府の高槻市の教育委員会は、君が代を「児童・生徒が全員起立して歌えるよう指導を徹底されたい」との「指導」を校長を集めて読み上げたそうです。

 7、広島県立皆実高校の卒業式では君が代斉唱の時に1人の男性教諭が起立しなかったそうです。そうしたら、その教諭に対して校長が「辞表を書いてもらいたい」と発言し、呼び出して辞表か異動願を出すようにと促したそうです。これはしかし、その後行き過ぎであったということになったそうです。

 背筋の寒くなるような事態です。何と評したら好いのでしょうか。私に浮かんできた言葉は「戒厳令」という言葉です。

 しかし、新聞に報道されない点についても少し考えてみました。

 第1は、政治家はなぜ黙っているのかということです。2年前[1999年]の国旗・国歌法案の審議の時には「国として強制するようなことはしない」という政府の答弁があったと新聞に書かれています。それなのに事態がこのようになっている今、国会でこの問題を取り上げた様子がありません。

 第2に、同じように、当事者以外の国民もなぜ黙っているのでしょうか。みな、「異様な雰囲気」の中で、黙って事態の推移を見守っているように見えます。

 第3に、日の丸と君が代に反対した生徒たちは、その後どうなったのでしょうか。というのは、選挙の時に、卒入学式で日の丸・君が代を強制することに賛成か反対かを第1の基準として自分の投票行動を決めていないのではないか、ということです。

第26号[01の文]で扱ったのは千葉県の高校生のことでしたが、折しも千葉県では知事選挙の真っ最中のはずです。しかし、そこではかつての高校生と現在の高校生はこれを第1に重要な事として、候補者に質問しているのでしょうか。

第4に、日の丸・君が代が当たり前になっている学校では、それが教育内容に何か影響しているのでしょうか。私の県でもそれは当たり前になっていますが、その事が教育内容に影響しているとは思えません。それは1つの風景でしかないようです。

 このような事を考えましたが、私が特に疑問とするのは第3点です。日の丸・君が代にかくも抵抗する生徒たちは、その後大人になって選挙権を持った時、どういう行動をとっているのかということです。

 そして、それと関連して第4点も考えたいと思います。つまり、権力側がかくも強圧的に出てきている時、直接的に抵抗するのではなく、それを風景にしてしまって、実際の教育を充実させて将来の選挙で勝つことを目指すという方針はないのかということです。

 国旗・国歌法はもちろん国会で決められました。学習指導要領も法律にもとづいた審議会とかによって決められます。教育委員会の人選は首長が行い、議会が承認するのです。つまり、こういう事を争う本当の場は政治であり、選挙ではないのかということです。それなのに、学校の現場での争いに偏りすぎているのではないかということです。もしかつて高校生であった現在の大人たちがみな、高校時代の問題意識を今も持ちつづけていたら、日本も教育も大分変わっていたのではないのかということです。

 付記

 これを書いた後、(2001年)03月12日付け朝日新聞夕刊に「日の丸・君が代の押しつけに反対する7色のリボン」の運動のことが報ぜられました。市民団体がそれを推進しているとのことでした。上の第2点は少し違っていたようです。しかし、この文章全体の趣旨は変える必要がないと思います。

 03、投書 「再び・卒業式と日の丸・君が代について」を読んで(2001年04月18日発行のメルマガ「教育の広場」)

 この投稿は私の大学での生徒のAさんの物でしたが、なぜか私が間違えて消してしまったようです。本当に申し訳ありません。(牧野 紀之)

 04、Aさんへのお返事(2001年04月18日発行のメルマガ「教育の広場」)

 Aさんの意見は次の3点にまとめることができると思います。

 1、自分の高校は共産党系の人々が優勢な学校で、そこでは日の丸・君が代に反対する意見が支配的だった。

 2、そこでは日の丸・君が代反対に反対する意見が言いにくい雰囲気があったし、熱心な指導層はともかく、その反対運動に付いていっている生徒たちは自主的に考えて反対しているとは見えなかった。つまり、政府の戒厳令的なやり方と同じだと思った。

 3、学校や生徒会は反対集会をするのではなくて、賛成と反対の議論をする場を作るべきではなかろうか。

 さて、私はこの意見に賛成です。私は学生運動をしようと思って大学に入りましたが、すぐにおかしいと思いました。しかし、ではどうしたら良いのか分からなくて、悩みました。その結果「本質論主義の大衆運動」という考えに達しました。これについては私の本『ヘーゲルからレーニンへ』(鶏鳴出版)に書いてあります。

 団体として或る事を決定して行動することを一般的に否定することはできないと思います。ですから、日の丸・君が代に反対の運動をするならしてもいいとは思います。しかし、その時、決定の過程では十分な論議がなされるべきですし、決定に従わない人もいていいと思います。

 左翼運動では、執行部の意見と違う意見を言うと強く批判されて議論にならないので、皆黙ってしまうのだと思います。これによって運動自身が弱まっているということに当人が気づかない限り、是正されないでしょう。

 逆に考えると、私の哲学の授業やこのメルマガのように、「自分の考えを自分にはっきりさせる」ことを目的とした授業やメルマガはとても少ないと思います。このメルマガに投書される方の発言態度を見ていても、必ずしも「自分の考えを自分にはっきりさせる」ことを目的としてはいないで、牧野を批判しよう、反論しようという態度の人も多いようです。

 私たちはこのメルマガを通して、本当の民主的な話し合いとは何か、そのための技術は何かということを考え、広めていかなければならないと思います。

 その技術としては、第1に、話し合いの目的とルールを意識的にテーマとして話し合い、時々見直す機会を作ること、第2に、書き言葉をうまく使うこと、を提案します。

 05、Aさんの文章について(牧野の友人のEさんの投稿)

 投書のAさんの文章について、後半の主張の意図は分かるのですが、前半の高校での状況は何度読んでもよく分かりません。

 その「共産党系の学校」が、反対集会を学校行事や生徒会行事として全生徒を対象に行っていたのでしょうか。そのようにも一部では読めるのですが、よく読むとそうではないようです。

 Aさんの文章は、自分の「思い」の部分が強すぎて、その事が「事実」がどうであったのかに影響を与えていて、分かりにくいのです。

 「Aさんの意見」のまとめについては、牧野さんがまとめた1~3のようなことなのだと、私も思います。

 06、牧野先生のご友人の方へ(Aさんからのお返事)(2001年04月25日発行のメルマガ「教育の広場」)

 先日、大江健三郎氏の「あいまいな日本の私」を読みましたところ、意見というものはエモーショナルではいけない、自分の気持ち、つまり憤りや悲しみといったものは自分の気持ちとして置いておいて、意見を言うときは客観的にまず事実を明確に表さなければならない、というようなことが書かれていました。その通りだと思い、ここで事実を明確にする努力をしたいと思います。

 私の高校は共産党系で、と書きましたが、明確に、学校案内等にそう書かれているわけではなく、私立の学校で、共産党員であることを隠さない先生がとても多かったのです。更にその先生たちは生徒会誌に今の政治を批判する文章を載せていました。地元の人達の間では、あの学校は共産党系であるとは言われていました。そういった先生の中には体育祭で中国共産党の旗を振るような人もいました。

 憲法を考える集会は生徒会の活動として行われて、そのやり方が、一応はディスカッションということになっていましたが、改正反対を唱える側が生徒会執行部の有名な人物で、ディスカッションの相手が意見を言っている時に、舞台裏から紙が渡されていました。改正賛成側から、共産党員で有名な先生から紙が回っているのではないかという指摘が出ていましたが、真偽の程は明確にされませんでした。あと、学校行事として憲法記念行事というのがありましたが、これは、そんなに政治色の強かったものではないように思います。

 現代社会と世界史の授業も変わっていて、資本主義の欠点、資本主義が生み出す戦争、などがテーマに上がっており、長い時間をかけて授業が行われましたが、社会主義や共産主義の欠点を扱った授業はありませんでした。

 以上、私が今思い出せる範囲の学校の様子です。

 こういう貴重な機会を与えて下さった牧野先生のご友人に感謝して、今後の反省にしたいと思います。

 07、2012年の現在、考えたこと

 Aさんの通った学校のあり方はあまりにも偏向していると思います。一般的に言うならば、公立学校はもちろん、特定の宗教教派の設立した私立学校でも、どこまでどういう風に自分達の教義を教えて好いかという問題です。

 さて、この問題でこのようにあまりにも偏向した学校があった場合、それを是正したいと思う人はどうしたら好いでしょうか。考えられる手段は、①言論で世論に訴える、②役所の監督する部署に訴える、③裁判に訴える、くらいです。

 私はこの3つはどれも有効だと思います。問題は誰がするのかという事です。というより、実際には誰も公には問題にしない所に問題があると思います。いろいろ感じていても在学中は言いにくいでしょうし、卒業すると今度は「終わった事」だからという事で無関心になってしまうからでしょう。あるいは、面倒くさいという心理です。これでは世の中は好く成りません。

 私見では、卒業生の大学生が行動を起こすと好いと思います。直近の事情を知っていますし、学生なら分別も行動力もあるからです。一番やりやすいのはやはり「その学校のカウンター・ホームページを作る」ということでしょう。こうして、多くの卒業生がまとまって公にすればかなりの効果はあると思います。

 もちろん裁判所に訴える方法も法律の先生とか弁護士に相談してみると好いと思います。

 不正と思う事柄には言論で戦うのが筋でしょう。そして、インターネット時代にはその手段が沢山あるのですから、それを利用するべきだと思います。陰で何かを言っているだけでは主権者として物足りないと思います。(2012年03月19日)
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