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マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

お知らせ

ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

ゴマ塩

2013年01月18日 | カ行
 作り方  

 1、材料──天日塩1に対して、ゴマ4の割合。ゴマは「洗いゴマ」を使う。
 2、鍋(ゴマ煎り器で好い)を熱して塩を入れる。中火で色が少し変わる(真っ白がくすんだ白になる)まで煎る。
 3、これをすり鉢に入れて、粉になるまですりこ木でする。すり鉢の溝にたまった塩は「固め」の歯ブラシでかき出して、する。
 4、同じゴマ煎り器にゴマを入れて、中火でしっかり膨らむまで煎る。
 5、3のすり鉢の塩に4のゴマを加えてすり混ぜる。ゴマから油が出ないようにやさしくすり混ぜる事。

 注意・塩小さじ1、ゴマ小さじ4で先ず試して、次から大さじで1対4の割合にすると好いと思う。5の「やさしくすり混ぜる」が重要だと思う。塩がゴマをくるむらしい。

 これは『桜沢里真のマクロビオティックの基本食』(主婦と生活社)に載っていたものです。私の試したものの中で一番美味しかったと思います。

 マクロビオティックでは白内障や緑内障への対策としてゴマ塩を勧めています。マクロビの食事ではそもそも玄米食にみそ汁とゴマ塩が基本のようです。

       関連項目

玄米食

健康法

玄米食

2013年01月16日 | カ行
 少し体力が落ちたかな、と思って玄米食に挑戦しています。いや、前から何度か試したのですが、どうも美味しく炊けなかったので、長続きしなかったのです。やはり、食べる物は美味しくなければならないと思います。

 1、びっくり炊き

 ネットで調べたら、「ビックリ炊き」という秋田県に古くからある炊き方が紹介されていました。
 最初の2回はうまく行きませんでした。米粒が十分には膨らまなかったのです。、3度目からは成功しました。ネットで紹介されている方の方法とは少し違うのかもしれません。ともかく私のやり方を紹介します。こういうものは、最後は自分で研究して「自分のやり方」を作るものなのだと思います。括弧内は2人前の場合です。

① 玄米110(220)cc、水250(400)ccを混ぜて、すぐに強火で炊き始める。
 注意・少し大きめの土鍋を使う。2人分の玄米に3~4人用の土鍋。噴きこぼれがないようにするためです。
② 数分で噴き出すので、弱火にして水気が無くなるまで続ける。
③ 水気が無くなる頃中火にすると、間もなく米粒がはぜる「ビシッ、ビシッ」という小さな音が聞こえ始める。それを十分に(焦げる匂いがし始める位まで)させた後、水200(360)cc、塩1-2g、酒10ccくらいを加えて、よくかき混ぜる。
④ 蓋をして強火にして、噴き出す少し前に(大体80秒くらいたってから)弱火にする。間もなく噴き出すがすぐ収まる。弱火にして水気が無くなるまで続ける。
⑤ 水気が無くなったら少し火を強めて焦げる匂いをさせてから消す。
⑥ 5分間のむらしの後、蓋を取り、好くかき混ぜて、水蒸気を飛ばす。そして、お櫃に入れる。


 2、煎り玄米

 マクロビオティック(マクロビ)の本を見ていたら、「リュウマチには煎り玄米が好い」と書いてありました。指先がリュウマチ寸前なので、試していますが、この煎り玄米は本当に気に入りました。何しろとても美味しいのです。毎日毎日、食べています。もっと早くこれを知っていればなあ、と思っています。

 ハイキングなどに昼食として持って行くのに、便利です(ゴマ塩と共に)。

 又、これは腹もちが好いです。私の場合は100gの煎り玄米とみそ汁、ゴマ塩、漬物、イリコ少々くらいを食べるだけなのですが、夕方まで空腹感なし。不思議なくらいです。歯さえ悪くなければ、誰でも食べることが出来ます。但し、食事に時間が掛かります。この「噛む」という事が好いのかもしれません。

 ① 熱したフライパンに玄米100gを入れて中火で煎る。
 ② 米粒がはぜて(ポップコーンのように)中の白い部分を表に出すようにさせる。
 ③ 少し焦げるくらいまで煎って、火を消す。


 3、玄米がゆ

 妻が歯が悪いので、夕食は玄米がゆです。これのレシピもネットで見つけました。要するに、玄米(55g)をフライパンで少し焦げるくらいに煎ってから土鍋に入れて、3カップくらいの水を加えて、終始弱火で炊きます。70分間くらいです。

 これも、コメの量、煎り加減、火加減等、自分で研究してみて下さい。


 4、生玄米

 朝食の代わりに、一握りの生玄米を2-3日食べる。腸、特に十二指腸にいる総ての寄生虫を駆除する。(桜沢如一著、村上譲顕訳『ゼン・マクロビオティック』日本CI協会、102-3頁)

 これは「不味い」という事はありませんが、「美味しい」という事もないと思います。毎月、月末に3日間実行しています。

            関連項目

健康法

ゴマ塩

加藤尚武氏にはなぜヘーゲルが分からないのか

2013年01月15日 | カ行
 加藤尚武編『ヘーゲル「精神現象学」入門』(有斐閣)という本があります。その第1章(「精神現象学」の基本概念)の第6節は「反省哲学とその克服──「序論」の意識論」となっています。題名から分かるように、ヘーゲルの『精神現象学』の「序論」(Einleitung) を論じたものです。そこでヘーゲルは自著の「方法」を説明しています。これを加藤は詳細に跡づけながらヘーゲルの方法の「現実的な意味」を探っています。以下、まずその節の全文(44-52頁)を引きます。

    六、反省哲学とその克服──〔『精神現象学』の〕「序論」の意識論

 『精神現象学』では、意識の経験が記述され、意識がさまざまな形態を遍歴して最後に「絶対知」に到達する道行きが描かれる。そのとき、意識は自発的に自分の過去を克服して、新しい形態へと成長しているのだが、どうして意識の経験が最後の絶対的、かつ全体的な真理に近づくことになるのかは、説明を必要とする。

 はじめから絶対的な真理を知っている哲学者がいて、その人が手引きしてくれるわけではない。独断と偏見で「これが真理だ」と信じるものに飛びつくのであれば、真理理へ到達したと思ったときに虚偽をつかんでいるかもしれない。

 意識の経験の内在的な発展によって絶対知に到達するということが説明されないと、ヘーゲルの哲学そのものが独断と偏見を脱却できないことになる。

 哲学にとって独断論から脱却することがどれほど困難かを、ヘーゲルはこう語っている。

 ★試金石の試金石の試金石……

 「この叙述は、学が現象する知にかかわることのように思われる。また認識の実在性を検査し吟味することのようにも思われる。なにか尺度として根底におかれている前提なしには、この叙述が成り立たないようにみえる。なぜなら、吟味とは採用された尺度をあてがうことであり、吟味されるものと尺度との等・不等が正しいか正しくないかの決着をつけることになるからである。尺度というものは、本質(Wesen)とか即自(Ansich)であると仮定されている。学が尺度であるとすれば、学にも同様の仮定が与えられていることになる。しかし、ここでは学がまだやっとはじめて登場してくるところで、学そのものもその他のものも、本質だとか即自だとかとして正当化されていない。しかし、そういうものなしには、吟味がまったく成り立たないようにみえる。」

 贋金かどうかを調べようと思ったら、本物と比較しなくてはならない。しかし、本物だといえるためには、試金石がいる。試金石が偽物であるかもしれないので、試金石をためすものが必要になるだろう。こうしてわれわれは無限の系列のなかに陥ってしまう。

 真理の場合には、吟味の結果によって真理がわかるのだとしよう。すると、あらかじめ真理がわかっていないと吟味ができない。だから吟味はそもそもできない。これは主観と客観を比較して真理を吟味するという構図をとる哲学にとっては、根本的な難問である。意識のなかに比較される二つのものがあって、それによって、ある段階での吟味(比較)が可能になるという構図は正しいのだろうか。

 ★反省するカメラの置き場所

 主観と客観の比較という構図には、もう一つ重大な欠点がある。主観(現象する意識)と客観を比較する主観(反省する意識)との関係がどうなっているかという点である。いま、現象する主観Aが客観B(建物)をみていて、反省する主観C(カメラ)が、AとBとに等距離の点から両者を観察しているとする。AはBの西の側面をみており、CはBのほぼ南の側面をみている。AのみるBの画像と、CのみるBの画像とは違っていて当然である。だからCがAのみているBの画像と自分でみているBの画像を比較して、真偽を論ずることは不可能なのである。すると吟味が可能であるためには、観察者であるCは観察対象であるAと同じ視点からBをみなくてはならない。するとAのみる画像とCのみる画像は原理的に同一であり、比較するという関係は成立しなくなる。だから、反省哲学の構図で比較が可能だという信念は錯覚なのである。

 こういう考え方の拠り所になったのは、ラインホルトの「意識律」である。これは、すべての真理を道き出す根本前提として、当時、話題の中心になっていた哲学の第一原理である。

 「意識はあるものから自分を区別するが、同時にそれに関係する。よくある言い方では、
あるものが意識にとって(fuer dasselbe)存在する。この関係、つまり(あるものが意識に対して存在する)という側面が知(Wissen)である。ところがわれわれは、この(他者に対して存在すること)から即自存在(Ansichsein) を区別する。知へと関係づけられたものは、それと同時に知から区別され、そしてこの知への関係の外でも存在するものとして立てられる。この即自の側面が真理と呼ばれる。」

 「意識はあるものから自分を区別するが、同時にそれに関係する」という文章が、ラインホルトの意識律の引用なのである。意識は主観であって、あるもの(etwas) は客観である。主観と客観の間には「区別」もあるが、「結合」(関係)もある。これは言い換えて「あるものが意識にとって(fuer dasswlbe) 存在する」ともいえる。いわば物の主観のほうを向いた側面といえるかもしれない。「この関係、つまり(あるものが意識に対して存在する)という側面が知(Wissen)である」。つまり「あるものの意識にとっての存在」が「知」とされる。「ところがわれわれは、この(他者に対して存在すること)から即自存在(Ansichsein) を区別する」とヘーゲルがいうとき、この「われわれ」がどこにいるのかが問題である。現にいま、物をみている意識が「われわれ」であって、その意識が「あるものの意識にとっての存在」から「同時に知から区別され、そしてこの知への関係の外でも存在するものとして立てられる即自の側面」が区別されたとしても、その側面は意識にはみえていない。だから、この当の意識にはみえない側面が「即自」であることになる。すると、この意識が知と即自を比較することは不可能である。

 もしも、この「われわれ」が物を意識している意識を観察している第三者(反省する哲学主体)であるとしよう。その場合には、「即自」は反省主体にはみえているが、当の意識である「現象する意識」にはみえない。そればかりか、反省する主体に現象する主体にとってある存在の側面すなわち知がみえるという保証はない。ここでは「反省主体はどうして現象主体の視点でみられたものの相貌を知っているか」という新しい難問が発生してしまう。

 ヘーゲル哲学は、「主観と客観の統一」という意味での真理を追求する営みの一つだが、主観と客観は本当は一致しないという懐疑的な見方もある。カントのように自然認識という場面では、われわれは現象を知ることはできても、物自体(Ding an sich)は認識できないという考え方が有力だった。ヘーゲルはカントのこの見方が、山とそれをみる眼のように、みられるものとみるものという二つのものをまるで外側から観察しているような態度(つまり反省)が生み出した錯覚だとして、その枠組みそのものを否定する。主観と客観の対立という枠組みは、意識のなかの主観的な画像と意識の外部の客観的な実在を比較して観察することのできる第三の主体が存在するかのような錯覚に基づいている。

 意識の経験の実情は、山をみる主観の外部に物自体が存在しているというのではなくて、意識が対象に出会うということは、対象の自分にとってのあり方と、自分に抵抗してくるあり方を区別するということなのである。このようにして、ヘーゲルは主観と客観ではなくて、意識内在的な区別と吟味の可能性を確立するという形で、意識の内在領域の自立的な自己否定という形で、意識が自ら吟味し、自らを克服している可能性を構造的に見極めようとした。

 しかし、この議論にも重大な難点がある。「意識のなかにあってしかも、意識の外部にもあるもの」というあり方が、一面で主観的、他面で客観的という「一人二役」を演じているので、つまり対象の一側面(即自)に主観と客観の一人二役を演じさせることで、主観と客観の統一を達成しても、そもそも、その即自が本当の意味で客観的存在である保証はないという批判を招くことにもなる。

 つまり、ヘーゲルはカント主義のような反省哲学の構図が成り立たないことを見抜いていた。しかし、それに対して代案として出されたヘーゲル自身の意識論の構図が、反省哲学の難点を逃れていたかといえばそうではない。

 ヘーゲルの出した代案は次のように述べられる。

 ★心のなかの主観性と客観性

 「意識が自分の内部で即自であるとか、真なるものであるとか言明するものに即して、われわれは意識が自分の知を測定するために自分で立てる尺度をもっている。知を概念と呼び、本質もしくは真なるものを存在者もしくは対象と呼ぶとすれば、吟味とは概念が対象に一致するかどうかを眺めることになる。本質ないし対象の即自をもって概念と呼び、(対象)という言葉で(対象としての対象)すなわち(他者に対してある対象)を理解するとすれば、吟味とは対象がその概念に一致するかどうかを眺めることとなる。……概念と対象、対他存在と自ら即自的に存在することという両契機がわれわれの探究する知そのもののうちに属しており、したがっていろんな尺度をわれわれが持ち込んだり、探究に際してわれわれのいろんな思いつきや思想を適用する必要はない。」

 ヘーゲルは、反省する主体が現象する意識の外部にいるという想定をすれば、吟味の可能性がなくなってしまうことを明確に意識している。そこで現象する意識そのものの内部に二つの契機が存在して、この内在的な比較によって吟味が可能になるという代案を提示した。また、吟味が可能であるためには、絶対的な真理が試金石としてあらかじめわかっていなくても、相対的な意味で真理であればよいという代案を示した。

 この言葉を読めば、意識内での即自存在が本当に客観的な存在という意味をもつかどうかが、ますます疑わしくなってくるだろう。ともあれ、ヘーゲルは、外部から、哲学者が独断的に尺度を持ち込む必要はないような構造を設定した。

 「概念と対象、尺度と吟味されるべきものとが意識自身のうちに現にあるという側面からいって、(われわれ)のほうから手出しをする必要がないだけではなく、(われわれ)は尺度と吟味されるべきものとの両者を比較して本来の吟味を行うという労力をもまぬがれている。したがって意識が自分自身を吟味するのだから、吟味するというこの側面からいっても、(われわれ)に残っているのは、ただ純粋に眺めることだけである。」

 ★意識中心主義への断念

 これに続く論述で、この構造がはっきりと浮かび上がってくるかといえば、必ずしもそうではない。残念なことに、ヘーゲルが『精神現象学』本文の意識の自己形成の過程を叙述するときに、意識が何と何を対比して吟味したのかを語ったのは、最初の感覚的確信の場合だけで、後になると、この「緒論」で示した構造を明示することは、すっかり忘れてしまったようだ。

 つまり反省哲学の構図を批判して、内在的な比較という構図に移してみても、その本質的な難点は除去できない。ヘーゲルが、晩年になって『精神現象学』の体系的位置を格下げして、意識の現象を「ただ純粋に眺めること」で絶対知への到達ができるというような見方を撤回してしまうのは、この「緒論」の欠点をヘーゲル自身がよく振り返ってみたからだという推測が成り立つだろう。(引用終わり)

 私はかつて自分の通信講座「鶏鳴哲学学校」でこれを取り上げました(1999,05,20)。その時の問題は次の通りでした。

 ──日本におけるヘーゲル研究の第一人者とされている加藤尚武氏の『ヘーゲル「精神現象学」入門』(有斐閣)から、原書の「序論」を論じた節(第一章・「精神現象学」の基本概念、の第六節・反省哲学とその克服──「序論」の意識論)を取り上げます。

 この「序論」は既に私も詳しく論じている(牧野紀之訳『精神現象学』の付録の末尾に収録した「ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理」)のですが、加藤はこの論文のことは黙殺しています(日本哲学界で発表したものであり、その機関誌にレジュメが載ったのですから、知らないということはないと思います)。
 そこで、加藤の「序論」論は、なぜ成果なしに終わってしまったのか、私の論文と比較してその原因について考えて下さい。これが問題です。(「問題は終わり)

 これに対して、後日発表した「講師の考え」は次の通りです(受講生には加藤の原文はコピで配ってありますので、原文の頁番号が使ってあります)。

──加藤氏の分析は、49ページまでの部分は、牧野の分析と一致していると思います。やれ試金石だ、カメラだと、いろいろな例を出していますが、またラインホルトだカントだと、当時の哲学界の背景に言及していますが、そういった事はともかく、要するに、吟味には吟味されるものの外に尺度が必要であること、その両方が意識の中になければならないこと、従ってこれまで提案されている案では拙いこと、が述べられているのだと思います。

 その拙い案に対してヘーゲルの出した「代案」が50ページ以下で紹介されています。

 訳文は一応正確です。つまりドイツ語は正確に読んだと言えると思います。問題は、そのドイツ語の現実的な意味を考えなかったこと、その結果として、当然の事ながら、答えが出なかったことです。

 「試金石」は絶対的な真理でなくても、相対的な真理でもよい(意識は一遍に絶対知に達するわけではない、また寺沢恒信氏の「スターリン個人崇拝に対する自己批判」のように、自己吟味が間違っていて、しかも本人がその間違いに気づいていない、いや他人をうまく誤魔化せたと錯覚している場合もあります)と、ヘーゲルの考えを解釈した所まではよかったのですが、その先に進めなかったようです。そして、自分の無理解を棚に上げて、まさに「自分の間違いに気づかないで」、ヘーゲルの考えを「ますます疑わしくなってくる」と決めつけてしまったので、万事休しました。その事の好く現れた青葉が51ページの1行目の「ともあれ」です。ここが「ともあれ」では困ります。ここに賛成できなければ、加藤氏自身が代案を出すか、ヘーゲルから離れるか、どっちかです。それが哲学する者の態度でしょう。

 では、なぜ、49ページまでは解釈を書いてきた加藤氏が、肝心の50ページの冒頭の「意識が自分の内部で即自であるとか、真なるものであるとか言明するものに即して、われわれは意識が自分の知を測定するために自分で立てる尺度をもっている」については、例を出さず、解釈を出さず、素通りしてしまったのでしょうか。多分、ここで問題になっている事柄が「間違いの自覚の論理」だということに気づかなかったからでしょう。ではなぜそれに気づかなかったのでしょうか。加藤氏自身がこの間題を考えていないからだと
思います。つまり、分かりやすく言えば、加藤氏が哲学していないから、ヘーゲルを手掛かりにして哲学することができなかったのだと思います。

 私は密かに思っているのですが、ヘーゲルこそは自分で哲学していない限り(現実の哲学的問題を自分で考えていない限り)「単なる解釈」すら不可能なのではないか、と。論理学のカテゴリーの「現実的な意味」について、これまでほとんど誰も何一つ解釈を出せなかった本当の理由もそこにあるのではないかと思っています。
(雑誌『鶏鳴』第158号〔200年03月15日発行〕に所収の文章を少し改めました)

  お断り

① Einleitungを加藤は「緒論」と訳しています。私は一貫して「序論」と訳しています。本論文では加藤からの引用も「序論」に替えました。

② 私はこういう論文を雑誌『鶏鳴』誌上に発表している事を忘れていました。少し前、寺沢恒信氏の訳した『大論理学』第1巻を読み、そこにある「ヘーゲルの『大論理学』の初版と再版における始原論の異同」を論じた文章(「A・B両版における『端初論』のちがい」)を再読しました。そして、寺沢の意義と限界を再確認しました(これについてもまとまり次第、一文を草するつもりです)。

 その関連で自分の過去に発表したものを見ていてこの加藤批判の論文を見つけました。そして、加藤によるヘーゲルの読み方についても、寺沢について思った事と本質的に同じ事を感じました。更に、それはかつて拙稿「金子武蔵氏と哲学」で指摘した事も同じでした。

③ 拙稿「金子武蔵氏と哲学」は『鶏鳴』』第149号(1998年9月15日発行)に発表しました。今では拙訳『精神現象学』未知谷に収録してあります。拙稿「ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理」も同訳書に収録してあります。

④ 加藤によるヘーゲル『自然哲学』(岩波書店)についての批評はブログ記事「哲学演習の構成要素」及び同「加藤尚武訳『自然哲学』(序論)と関口文法」に書きました。これは主として加藤のドイツ語読解を批評したものです。

           関連項目

哲学演習の構成要素

加藤尚武訳『自然哲学』(序論)と関口文法

政治主導を考える。片山善博元鳥取県知事の場合

2012年12月27日 | カ行
 朝日新聞は第46回総選挙の前日(12月15日)、オピニオン欄で「たそがれの『脱官僚』」という特集を組みました。3人の人へのインタビューを記者がまとめたようです。

 その中に自治省出身で鳥取県知事を2期務め、民主党政権で管内閣時代には総務相までし、今は慶応大学法学部政治学科で教授をしている片山善博さんの聞き書きが気になりました。まずそれを全文引用します。

               記(政治家がからめ捕られた)

 民主党政権が掲げた政治主導は、失敗しました。鳩山政権は「官僚は敵だ」として事務次官会議を廃止。排除の論理でした。菅直人首相は官僚と闘おうとした。しかし、官僚は部下として使うもので、排除したり闘ったりする相手ではない。

 野田佳彦首相は排除しない、闘わない、その代わりに官僚、特に財務官僚に従うという姿勢で、財務省にからめ捕られてしまいました。政治家が官僚をリードしなければいけないのに、逆に官僚がリードしていた。

 〔民主党政権で〕総務相を務めた時に、政府税制調査会で財務省の三役はいつも官僚が用意したペーパーを読んでいました。「政治家が集まっているんですから、役人の書いた文章を読むのはやめましょうよ」と言いましたが、それでも読み続けていました。そういう人たちが官僚機構を牛耳ろうとしても無理です。

 官僚たちが仕事をするには予算がいる、協力してくれる外郭団体がいる。それがいつのまにか主客逆転し、予算を取ることや外郭団体を守ることが目的になってしまう。えせミッションです。

 この官僚組織の悪いところは変えないといけない。それには政治家が変えるという強い意識を持たなければ出来ない。それがないと官僚に抱かれ、ケアをされて実に快適。あたかも立派な仕事をしているかのような環境を官僚たちが作ってくれる。

 これは財務省が一番うまい。消費増税法案を通す時、財務官僚が与野党やマスコミヘの根回しをして世論形成をしていました。その時その時の場つなぎは非常に上手です。

 しかし、財務省の最も重要な仕事は予算の査定と編成。事業仕分けであれだけボロが出たうえに、復興予算の流用も明らかになりました。財務省の査定能力が無いということ。本来の仕事をせずに根回し、政治ばかりやっている。

 財務省の本分は根回しではなく、無駄の無い予算づくりだと言える人が大臣ら政務三役につかないといけませんが、その力量を持つ政治家は自民党政権時代も含めて、ほとんどいませんでした。

 官僚組織を動かす肝は、彼らをその気にさせること。本当の役割は何か。だれのために、何の仕事をしているのか理解されていない。それを機会を見つけて少しずつ変えていく。

 民主党は最初、自分たちだけで政治主導で一挙にやろうとしたが、いかにも稚拙。私は鳥取県知事時代、人事、予算をやって、日々職員たちと接触していく中で、県庁組織を自分が仕事をしやすい仕組みにしました。これに2年ほどかかりました。

 政治主導を目指した歴代政権のほとんどが、官僚機構をきちんとコントロール出来ていませんね。  
(朝日、2012年12月15日。聞き手・角津栄一)

 感想

 1、片山さんは「民主党は最初、自分たちだけで政治主導で一挙にやろうとしたが、いかにも稚拙。私は鳥取県知事時代、人事、予算をやって、日々職員たちと接触していく中で、県庁組織を自分が仕事をしやすい仕組みにしました。これに2年ほどかかりました」と言っています。

 この経験から推論出来る事は、トップに立たなければ分からないことが沢山隠されている、ということです。従って、此処から引き出される結論は、第1に、本当の情報公開、学問的に正しいホームページを作ることが全ての大前提である、という事です。

 第2に、トップに立った人が、自分の部署の全体像を掴むには2年(予算を2回作る)くらいのことが必要である、という事です。

 片山さんは第1の結論は引き出さず実行しませんでしたが、第2の結論は、多分、経験的に感じ取って、実行しました。民主党政権下での鳩山首相と管直人首相はこれを実行せず、性急に動いて挫折しました。片山さんの言うとおりでしょう。

 特に、日本が防衛関係では完全と言って好い程にアメリカの影響を受けているという事くらい政治を注視していれば簡単に推測できる事なのに、「普天間基地は最低でも県外」などと叫ぶのはコドモとしか言いようがありません。選挙の前に「消費増税」を口にする管直人さんも政治オンチです。自分がかつて厚生大臣だった時、部下に指示してエイズ関連の資料を出させて一躍有名に成ったので、トップに立てば何でも出来ると早合点したのでしょう。

 2、次に取り上げたい片山語録は、「総務相を務めた時に、政府税制調査会で財務省の三役はいつも官僚が用意したペーパーを読んでいました。『政治家が集まっているんですから、役人の書いた文章を読むのはやめましょうよ』と言いましたが、それでも読み続けていました。そういう人たちが官僚機構を牛耳ろうとしても無理です」です。

 この結論はその通りでしょうが、片山さんの注意の仕方にも問題があると思います。総務大臣と財務三役とは立場的にほとんど同等です。役人の世界は軍隊組織と同じですから、上から言われなければ反省しません。財務三役を指導するのは財務大臣か、さらに上の総理大臣でしょう。片山さんは総理に事情を話してリーダーシップを発揮してくれるように言うべきでした。それをしなかったのは片山さんの組織観に欠陥があると言わざるを得ません。

 3、片山さんの欠点に話が行きましたので、それを続けます。氏は鳥取県知事として、改革派知事として、幾つかの功績を挙げて有名に成ったので、それだけで慢心しているようです。

 先に確認した「本当のホームページを作っていない」という点を更に詳しく見て行きましょう。現在、氏は慶応大学法学部政治学科の教授をしています(専門は地方自治)。そこで慶応大学のホームページを見て見ますと、確かに片山さんの項目はあります。そこを開くと、簡単な紹介があります。極めて不十分です。ホームページのURLがありますので、クリックしますと、片山ゼミのホームページが出てきます。片山さんは自分個人のホームページを作っていないようです。説明責任を果たしていません。

 そのゼミのホームページを見て見ましょう。ゼミの活動が大体分かります。フィールドワークとかいう名目であちこちに出かけて話を聞いたりしているようです。という事は、出かけていかなくても出来るし、まずしなければならない「相手のホームページを分析して、相手を研究し、評価する」という事をしていないという事です。指導教官たる片山さんにそういう問題意識がないからでしょう。

 また、政治主導といってもその人の置かれている立場や部署でどう振舞うべきか変わってくると思います。政治家(選挙で選ばれた人)、部下の職員、一般市民、などで分けて考える必要があります。

 片山さんにはこういう問題意識もないようです。政治主導はトップだけの問題とでも思っているのでしょうか。そうでないなら、学生が「議員に通信簿を付ける会」の活動の視察にどうして出かけて行かないのでしょうか。

 4、又、片山さんの時代はまあまあだったとしても、片山さんが知事を辞めた後の鳥取県庁はどうなっているのでしょうか。その教育員会のホームページを開いて見ます。「教育委員リレーコラム」というのがあります。見て見ると、2012年3月まではほぼ月に1回のペースでエッセーが書かれていますが、その後中断していました。先日私が電話で注意したところ、あわてて4本か5本のエッセーが一挙に載りました。「誰が教育長なのか分からない」と注意しましたが、この点は未だに正されていません。

 以上が片山さんの「政治主導」の本当の姿です。大学教授になったのなら、大学とはどういうところか、大学のどこをどう改革すべきか、学問とは何か、ここまで考えて改革するのが本当の改革派だと思います。

小倉勇三著「漢文の授業」(三省堂1991年)、努力とは何か

2012年12月23日 | カ行
 拙著『哲学の授業』(未知谷)の第1章・模索の歳月の中で参考になった本として大村はま著「教室をいきいきと」(筑摩書房)及び中嶋洋一著「英語のディベート授業・30の技」(明治と書)と並んで小倉勇三著「漢文の授業」(三省堂、1991年)を挙げておきました。この本は本当に好い本だと思います。と言うより、ここで紹介されている小倉氏の授業が本当に素晴らしいと思います。拙著の書名を「哲学の授業」としたのはもちろんこの本の書名にならったのです。

 この授業のどこが素晴らしいかと言いますと、まず結果が素晴らしいのです。今の高校生に漢文で文章を書くところまで指導するなどということが想像できるでしょうか。しかもその漢文たるや、とても信じられない位立派な文章なのです。

 この小倉氏は静岡県の公立高校で教えていましたので、県の図書館にどのくらいあるかなと思って調べてみたら、県立中央図書館に1冊あるだけでした。多分、本人が寄贈したものでしょう。賞も受けている程有名な国語教師だったのに、どうした事でしょうか。残念です。

 「はじめに」を読むと、どのようにしてこういう授業にたどり着いたかが分かりますので、それを引きます。

    は じ め に

 漢文で何を教えるか、迷っている先生。漢文をどう教えるか、困っている先生。そんな先生にお話をするつもりで、この記録をまとめました。
 高校で漢文を教えて二十数年になります。迷ったり、困ったりしながら、私もあれこれ工夫してみました。
 もう少しやさしく教えたい。もう少しわかりやすく説明したい。もう少し大きな声で、漢文を読ませたい。もう少し自信を持たせたい……。
 いろんな「もう少し」を試みて、一つの手がかりを見つけました。

 そうだ、生徒はそれぞれ、「これならわかる」「こうすりゃできる」という可能性を持っている。それを見つけて、「できるところ」から導けばよい、と気がつきました。
 「漢文にもわかるところがある」「自分にもできるんだ」という成就感を、指導の手掛かりにしよう、と考えたのです。

 この記録は、ですから、「成就感」に行きつくまでの、試行錯誤の足どりでもあります。授業の構成や展開、予習や復習の方法、ノートの作り方や辞書の指導など、その時々の工夫を集めています。
 漢文で困ったり、授業で迷ったりしている先生に、参考になるところがあればと期待しています。(引用終わり)

 ローマは一日にして成らず、です。このような素晴らしい授業も一日で出来上がった訳ではないのです。「もう少し何とかしたい」、と一歩一歩努力した結果が何十年も積み重なってこういう成果となったのです。

 誰でも教師ならばこういう努力をしなければならないのではないでしょうか。それなのに、実際こういう努力をしている先生は非常に少ないのではないでしょうか。言い訳はあるでしょうが、結果としてしていないのです。ですから、大多数の授業はつまらない消化試合授業になっているのです。その努力をまとめた本は極めて少ないのです。

 本という物は10年間研究(努力)を続けていれば書けるはずなのです。本が書けないという事は努力をしていないということであり、研究をしていないということなのです。

 小倉氏はこの本の奥付きを見ますと、その後静岡県の教育委員会に勤務したそうです。つまり現場の1兵卒を辞めて、教育行政に転じたようです。教育委員になり、教育長になったのかなと思い、教委に聞いて見ましたら、そうではなく、高校課の課長になり、どこかの高校の校長になったそうです。

 すこしがっかりしました。教育行政マンとしては著書を残していないようですので、「もう少し」の努力をしなかったのでしょう。

 今でも続いている教員不祥事やイジメ事件でも分かりますように、静岡県の教育行政は乱れ切っています。解決策もいっこうに見いだせていません。

 まあ、それはともかく、1教師としては、1漢文教師としては、小倉氏は立派な範を示してくれたと思います。そして、その核心は「もう少し何とかしたい」という自己反省と努力だったと思います。それを何十年にもわたって続けた事だったと思います。

        関連項目

『哲学の授業』

『哲学の授業』へのレビュー


供託金

2012年12月08日 | カ行

 選挙にはお金がいる。その一例が供託金だ。

 衆院選小選挙区や知事選は立候補に300万円が必要。得票が一定数に届かないと没収されるため、「裕福な人しか立候補できない」との批判もある。

  主な選挙の供託金

衆院小選挙区 300万円
衆院比例   600万円
参院選挙区  300万円
参院比例   600万円
知事     300万円
政令指定市長 240万円
その他の市長 100万円
町村長     50万円
都道府県議   60万円
政令指定市議  50万円
その他の市議  30万円
町村議     なし
(衆参の比例は1人あたり)


 「ワンコイン・デモクラシー」。東京都港区の映像クリエーター谷山雄二朗さん(39)は11月8日、インターネットの動画サイトにこの言葉を掲げた。政策に賛同する人に500円から寄付を募り、300万円に達すれば29日告示の都知事選に立候補する予定だった。

 「尖閣諸島問題で中国の覇権主義に屈してはいけない」「空港や地下鉄の24時間化を進め、カジノを開設する」。数年前からネット動画で英語も交えて訴える谷山さん。前回都知事選に立候補したが落選した。今回、集まった寄付は約70万円。立候補を断念した。

 「浄財は政治活動でいかしたい」。今後も政治の道を探る。供託金制度については「金持ちと政治家ファミリーが優先的に選挙に参加できる仕組み。新規参入を阻んでいる」と話す。

 総務省によると、供託金は売名や選挙妨害目的の候補者乱立を防ぐため設けられた。立候補の際に法務局に供託し、没収点(知事選は有効投票総数の10分の1)に達しないと没収される。没収額は2009年衆院選比例区で約9億3000万円に上る。

 筑波大の辻中豊副学長(政治学)は「供託金は政治への参加を限定していた戦前の制限選挙の名残」と指摘。「他の主要国の水準にすべきでは」と話す。

 衆院選や知事選の供託金は1950年ごろまで10万円だったが、1975年に100万円、92年に300万円に上がった。国会図書館によると、国政選挙で英国は約7万円、カナダ約9万円で、米国やドイツには供託金制度がないという。供託金ではなく、一定数の有権者の署名を立候補の条件にして乱立を防ぐ国もある。

 神戸学院大法科大学院上脇博之教授(憲法学)は「数百万円は異常。貧し人でも立候補できないと普通選挙の意味がない。売名目的でも有権者がしっかり判断すればいい」と話す。
      (朝日、2012年12月01日。泗水康信)

加藤尚武訳『自然哲学』のヘーゲル読解

2012年10月31日 | カ行
お断り・先に10月23日に「加藤尚武訳『自然哲学』と関口文法」という文章を発表しました。これは加藤訳の文法上の問題点を3つ挙げて検討し、論評したものです。同時に、哲学上の問題も2つほど検討しておきました。
 今回は、加藤訳がどういう風にヘーゲルを読んでいるか、又は読んでいないか、を調べます。と言いましても、検討は読者に任せます。第246節を材料として取り上げて私の訳を対置しましたので、自由に判断して下さい。
2012年10月31日、牧野 紀之

01、第246節本文(加藤訳)

 物理学と呼ばれているものは、以前は自然哲学と呼ばれていた。物理学もまた、同様に、自然の理論的な考察、しかも思索による考察である。一面から言うと、このような考察は、先に述べたような目的のように、自然にとって外面的である諸規定から出発するのではない。他面から言うと、この考察は自然のもつ普遍を認識することを、この普遍が同時に自己のうちで規定されていることの認識を目指している。普遍とはさまざまの力、法則、類のことであり、さらにまたこれらの内容は、単なる寄せ集めではなく、目(Ordnung)とか、綱(Klasse)とかの階層秩序のなかにあって、1つの有機体の姿をあらわさなくてはいけない。自然哲学は概念的に捉える考察である。だから、同じ普遍を対象としても、しかしそれだけを単独に(Für sich)対象とする。そして、普遍を、概念の自己規定にしたがって、固有の、内在的な必然性のなかで考察する。

02、同、牧野訳(訳注付き)

 第246節〔自然学から自然哲学への諸段階〕
自然学(Physik)(1) と最近呼ばれているものは、かつては自然哲学と呼ばれていた(2) ものである。〔「哲学」という言葉から分かるように〕それは〔自然への実践的な振舞いではなく〕自然を理論的に考察することである。しかも〔理論的にと言っても表象的にではなく〕思考によって〔思考規定で〕自然を考察する事である。

 しかし、〔ここで注しておきたい事は)第1に、その思考規定は〔第245節への付録で述べたような〕目的論のそれのような対象たる自然物に内在的に関係しない外的規定ではない〔という事である〕。第2に、それは自然対象の「自己内で規定された普遍」、つまり力、法則、類などの認識を目指すものであるが、それらの(3) 内容は「単なる寄せ集め」としての力とか法則とか類ではなく、〔例えばリンネ以来の〕綱(こう、Klasse)とか目(もく、Ordnung)に分類され(4)、整理されて、体系的に秩序づけられている(5) ということである。

 〔しかし、私ヘーゲルの目指す〕自然哲学は〔同じ「自然哲学」ではあるから、上の点は同じなのだが、単なる思考的考察で満足するものではなく〕概念的考察である。従ってそれは〔かつての自然哲学と〕同じ普遍を求めるのであるが、それを独立に考察する。つまり、それらの普遍的規定が自己自身の内在的必然性に基づいて、即ち概念の自己規定(6) によって生成し、〔発展し〕次の規定に取って代わられる過程を考察するのである(7)。

(1) 15頁2行目。Physikをどう訳すかは、本書の根本に関わる問題だと思います。簡単に「物理学」とは訳せません。
 語源的にはPhysikはギリシャ語で自然を意味するPhysisの学ということですし、日本語の「物理学」も分解してみれば「物(自然物)の理(ことわり)の学」ですから、一致している訳です。かつては「自然学」と訳されていましたが、これでよかったのです。その時、自然学とは言わば自然科学全般を意味していたのです。その時は今で言う生物学も地質学も入っていたのです。
 日本語の物理学という言葉はどのような経緯で出て来たのか知りませんが、少なくとも今では「自然科学の1分野」を意味する事になっています。「名は体を表す」と言いますが、「体を表す名前」に替えるとしたら何と言うべきでしょうか。物理学会ではそういう議論はないのでしょうか。私は素人ではありますが考えた事があります。思い浮かぶ下位分科には動力学、静力学、熱力学、量子力学、流体力学、などとたいてい「力学」という語が付きますから、全体としては「力学」と言い換えて好いのではないかと思いましたが、どうしても「力学」とは言えないらしいものに「物性論」があって、結論を保留したままになっています。
 ヘーゲルの本書では「自然哲学」との対比で考えられている場合は「自然学」と訳しました。本論は第1部がMechanik、第2部がPhysik、第3部はOrganische Physikとなっていますが、内容を考慮して、それぞれ、自然哲学総論(あるいは予備概念)、非有機物の自然哲学、有機物の自然哲学と訳すと好いと思います。

(2) 15頁2行目。genanntとhießは同じ意味ですが、近い所ではなるべく同語の使用を避けるのが欧米語の特徴です。日本語にはそういう習慣がありませんから、同じ言葉で訳しました。
(3) 8行目。welcher Inhaltのwelcherは昔の定関係代名詞welcherの複数2格形で、その前のKräfte, Gesetze, Gattungenを受けています。

(4) 9行目。リンネから始まる動植物の分類の各階級の呼び名は、『岩波生物学辞典』によると、大から小の順に以下のようです。界(Reich、動物界・植物界)──門(動物界の門はStamm、植物界の門はAbteilung)──綱(こう、Klasse)──目(もく、Ordnung od. Reihe)──科(Familie)──属(Gattung)──種(Art)。
(5) 10行目。ausnehmen mussのmussは訳さなくて好いと思います。「~ということになっている」くらいの意味でしょう。「文法」(『関口ドイツ文法』)の第2部第8章第10節(müssen)の第1項②を参照。
(6) 13-4行目。この辺の「内在的必然性」とか「概念の自己規定」については拙稿「弁証法の弁証法的理解」を参照。

(7) 以上の文を読んで哲学するのはここから先です。先ず理論的考察には表象的、思考的(目的論的、寄せ集め的、分類的)、概念的と、大きくは3段階ありますが、思考的考察の内部の3段階を入れると全部で5段階あることになります。これを確認したら、今度は自分が直面している所与の考察(他人の考察でも自分自身の考察でも好い)はこの5段階のどれに属するかと考えるのです。こういう事をいつでもするのです。こういう実際の例での思考訓練を繰り返す事で徐々にヘーゲル的な考え方が身に着いてくるのです。
 私の文で考えます。「文法」(『関口ドイツ文法』)で考えますと、第2部の「理解文法」は思考的の第3段階の「分類的」だと思います。「概念的」とは言えないでしょう。
 第1章から順に、文、名詞、代名詞、形容詞、数詞、冠詞、動詞、話法の助動詞、接続法、副詞、前置詞、接続詞としましたが、文論を第1章に持ってきたのは「まず全体を見る」ためです。それに続く品詞論を名詞論から始めたのは「言語の核心が名詞にある」と考えたからです。そして名詞と関係の深いものを検討した後に、動詞論に移ったのです。
 これに対して第3部の「表現文法」は「寄せ集め的」だと思っています。否定、問い、間投、譲歩、認容、受動、比較、伝達、強調、断り、配語法、提題、としましたが、順序に全然必然性がありません。「全てを尽くしている」ことの証明もありません。表現文法を先ず「分類的な段階」に引き上げる人が出て来てくれる事を希望します。
 私の文章で概念的なものは「『パンテオンの人人』の論理」でしょう。そこで論じた「パンテオンの人人」という作品自身が概念的でしたが、それの概念的である所以を説明したものです。

03、第246節への注釈(加藤訳)

 哲学と経験的なものとの関係については一般的な緒論(Einleitung)で述べておいた。哲学は自然経験と一致しなければならないだけではなく、哲学的な学の発生と形成は経験的な物理学を前提とし、条件としている。しかし、1つの学問の発生の歩みとか準備作業とかは、学問自体とは違う。学問のうちでは、そうした歩みや準備作業が基礎として現れることはありえない。ここで基礎となるものは、むしろ概念の必然性でなければならない。すでに述べたが、哲学的な歩みの中では、対象はその概念規定に従って述べられなければならない。しかし、これだけではない。この概念規定に対応する経験的現象をつぶさに挙げて、これが実際に概念に対応することを明示しなくてはならない。とはいえ、内容の必然性との関係では経験に訴える必要はない。まして、直観と呼ばれてきたものや、たいていは類比による表象や想像(いやそれどころか空想)の働きにすぎないものに訴えることは許されない。類比は、偶然的な場合もあれば、有意義な場合もある。類比は、対象に規定や図式をただ外面的に印象づける(第231節注解)。


04、同、牧野訳(訳注付き)

 注釈〔自然哲学と経験的自然学〕

 哲学の経験知への関係については既に〔本百科辞典〕全体への序論(8) の中で述べた。〔これを自然哲学に適用して言うと〕自然哲学は自然についての経験知と別のどこかにあるわけではない。それどころか、自然哲学は経験的自然学を前提条件として初めて生まれ、発展するのである。しかし、だからと言って、哲学(10) の誕生と形成の歩みがそのまま哲学そのものに成るのではない(9)。哲学では〔哲学をそれとして展開する時には〕もはや哲学の発生の歴史を根底に置くこと(11) は出来ない。哲学の根底は概念の必然性(12) でしかありえないからである。

 しかし同時に確認しておいた事は、哲学の対象をその概念規定の順序で展開するだけでは不十分だということである。更に進んで、それぞれの概念規定に対応する経験世界の現象を指摘して、両者が実際に一致する事を示さなければならないということである。しかし、〔個々の概念規定と経験との一致ならばそれも出来るが〕内容の必然性の証明となると〔それは或る概念から次の概念への移行の内在的必然性を示す事だから〕経験を根拠にすることは出来ない。もちろん直観に頼るなどということは問題にさえならない。それは表象や想像や空想の中で類似を手がかりにして対象に外面的な規定を押しつけるものであり、その類似は〔たいてい〕偶然的なものだが、〔時には〕有意義な類似である場合もあるが、いずれにせよ、対象を外面的な図式で整理するだけで〔哲学とは縁もゆかりもないもので〕ある(13)(第231節への注釈を参照)。

(8) 15頁16行目。in der allgemeinen Einleitungとはどこか。この「自然哲学」の第245節の前のことか。「エンチュクロペディー」全体の序論、正確にはその「予備概念」の第37~39節のことか。後者と取りました。特に第38節でしょう。
(9) 15頁20行目。Ein anderes aber以下の文は、「歴史と論理の一致」とやらを振りまわして歴史的に前のものから叙述を始めるのが学問だと思っている自称マルクス主義の学者のためにあるようなものです。(9)と(10)はドイツ語原文に振った番号の順と注の順序が逆転しています。

(10) 21-22行目。einer Wissenschaftはeiner Philosophieの繰り返しを避けたのです。一般的にも、ヘーゲルでは「勝義のWissenschaft」は(ヘーゲルの定義での)Philosophieの事です。詳しくは拙稿「弁証法の弁証法的理解」を参照。なお、この不定冠詞は「Wissenschaftの名に値するものの」ということで、「1つの」という意味ではありません。日本の学者は「この不定冠詞には何か意味がありそうだな」と「感ずる」と、すぐに「1つの」と訳して誤魔化して通り過ぎていきますが、これではいつまでたっても不定冠詞の「ニュアンス」は分からないでしょう。もちろん「1つの」と訳して好い場合も沢山あります。いずれにせよ、どう訳すかの根拠を自覚して訳してほしいということです。

(11) 23行目。als etwas erscheinenはseinの言い換えですから、必ずしも律義に「~として現れる」と訳す必要はありません。「である文」は全ての文の中で9割を占めている(関口)ので、言い換えのヴァリエーションが沢山あります。日本語では「である文」の繰り返しを嫌いません。
(12) 24行目。「概念の必然性」についても拙稿「弁証法の弁証法的理解」を参照。
(13) 16頁2行目。唯物論では認識は現実の反映だから、「最後には」現実(経験)を根拠にして考えるに決まっているのですが、両者は「直接的に」一致するものではない、ということです。しかし、ではどう一致するのか。これが問題です。

       関連項目

加藤尚武訳『自然哲学』と関口文法

哲学演習の構成要素


自己認識と他者認識、外国語を学ぶ意義

2012年10月29日 | カ行
 国語学者の金田一春彦がその『日本語の特質』(NHKブックス)の182頁以下に次のように書いています。

 ──英語から見て日本語の表現が不完全のように思われますのは、名詞の数についても言えます。英語では、たとえばたまごが1つあるか、2つ以上あるかによって言い方が違いますね。an eggというのは1つの卵であり、2つ以上あるときはeggsとsをつけて言わなければいけない。

 これはどのヨーロッパの言語でも同じです。日本語では、たとえば「学生」という言葉ならば、1人のときは「学生」、2人以上のときは「学生たち」という区別がないことはないが、「たち」という接尾語はつけなくてもいいのです。「きょうは学生が大勢やってきた」と言って別に間違いとは言えません。つまり、日本語では単数か複数かをやかましく言わない言語だということができます。

 アメリカのブロックという言語学者が日本語のこの性質をみまして、日本人は数(すう)の観念がないのじゃないか、と言ったそうですが、日本語の場合、数の観念をいちいち言葉に表現しないだけです。

 英語などはこの点大変やっかいです。新聞などで泥棒の記事を扱うときに、ある家に泥棒が何人侵入したか不明の場合、「泥棒は……」というときにthe thief or the thieves と書かなければならないそうです。

 その点、おもしろいのはハンガリー語です。ハンガリーというのはアジアから行った民族ですが、ヨーロッパの言語と同様に、単数・複数の区別はあります。ただ「3人の泥棒」のように「3人の」という修飾語がつきますと「泥棒」という言い方は単数のかたちを使うのだそうです。これは「3人の」といった以上は複数だということが明らかだから、もうそれ以上複数のかたちを使わないでもいいという理屈です。つまり日本の「大勢の学生」と同じ理屈ですね。

 英語などでは単数・複数の区別があるために、ときに大変難しい問題が起こるようです。これはイエスペルセンという人の『文法の原理』という本の中に紹介されておりますが、有名な作家にこういった間違いがあるそうです。ten is one and nine「10は1+9である」、これは。Ten are‥…と複数にすべきものだそうですね。Fools are my theme「おろか者たちは私のテーマである」、これは、テーマとすればおろか者を1つに扱っているわけですから単数にすべきなのでしょうね。

 ドイツ語なんかでも難しいのがありますね。たとえば 『千夜一夜』をドイツ語でtausend und eine Nachtと言うそうです。Nachtというのは単数です。元来「千一の夜」ですから複数にすべきですが、tausendの次に「1つの」というeineがあるので、それに引かれて単数のかたちを使う。このへんはどうも論理的ではないように思います。(引用終わり)

 私が面白いと思った事は、日本語に対するアメリカ人の批判(数の観念がないのではないか)に対しては、「日本語の場合、数の観念をいちいち言葉に表現しないだけです」と反論しているのに、ドイツ語の表現(千一夜)で自分に理解できない点については「どうも論理的ではないように思います」と軽々しい批判をしている点です。

 金田一ならかなりの数の外国語を勉強していると思いますが、それでも言葉についての常識(自分に理解できない外国語の表現を簡単に否定してはならない。それにはそれなりの理屈があると考えるべきである)という事を知らないらしいということです。

 実際、ドイツ語のこの「千一夜」の表現ではなぜ「夜」に当たる単語が複数形にならないで単数形なのかの問題に正しく答えられる人はいないようです。ドイツ人でも、です。かつてNHKのラジオドイツ語講座(中級篇)でもリスナーから質問がありましたが、ドイツ人ゲストの方はお手上げでした。

 しかし、この問題に明解に答えた人がいます。関口存男(つぎお)です。

 氏はその大著『冠詞』の第3巻(無冠詞篇)の中でこう書いています。

──英語では my und your father などという独と同じ言い方のほかに、独には見られない my und your fathersと複数扱いが盛んに行われる。これは別々に分解しないで一括して考える証拠であり、ここでも「分割」と「一括」との2原理が対立して外形を左右している現象が観察される。

 例えば、air-, car- and seasickness are the same thing(飛行機酔いと車酔いと船酔いとは同じものである)などと言うかと思うと、the American and Japanese goverments〔米日両政府〕とか the foreign, defence and finace ministers〔外務、防衛、財務大臣〕などは複数形で見かけることが多い。

 ドイツ語の考え方がすべて分解的であり、英が主として一括的であるということは、例えば「2時間半」を英は two and a half hours と言うに反し、独は zwei und eine halbe Stunde と言うのでも分かる。但し zweieinhalb, drittehalb Stundenにおいては、数詞が1語をなすから、もちろん一括的取り扱いをする(無冠詞 341頁)。

 つまり独の言い方は zwei [Stunden] und eine halbe Stunde という「考え方」だということでしょう。

 その後分かった事は、ロシア語でもドイツ語と同じ言い方をするということです。つまり「千一夜」は「ティーシャチャ・イ・アドゥナー・ノーチ」です。この「ノーチ」はカタカナで書くと単数か複数か分かりませんが、言語の綴りを見れば単数だという事が分かります。

 何となく、スラヴ系の言語はみな、分解的に考えるのではないかと推測しています。その方面に詳しい方は教えてください。


加藤尚武訳『自然哲学』と関口文法

2012年10月23日 | カ行
 論文「哲学演習の構成要素」(ブログ「マキペディア」に2012年10月10日掲載)は、加藤尚武訳『自然哲学』(ヘーゲル著、岩波書店)の翻訳があまりにもお粗末だという事から筆を起こしましたが、その「お粗末」という判断の根拠ないし証拠は提示しませんでした。そこで今回はそれをテーマとします。

 誰にでも勘違いとか不注意による間違いというものはあるものですから、そういう類(たぐい)の問題は取り上げません。私自身、まず自分で訳してから加藤訳を見て、自分の勘違いに気づいた箇所がいくつかあったくらいです。

 取り上げなければならないのは、中級以上のドイツ語文法についての無知ないし不勉強が原因で誤解している所です。それを3つ取り上げます。

 以下で頁番号と行番号を挙げたのはみな、ズーアカンプ版「ヘーゲル全集」第9巻のものです。英訳というのはミラーのものです。

第1の問題点、es .. , der ..の構文の意味

 関口存男(つぎお)はその『新ドイツ語文法教程』(第3版、三省堂)の322項から324項にわたって「属詞としてのes」を説明しています(私は「述語」という文法用語が不適切だと考え、フランス語文法の「属詞」を採用します。説明は近いうちに公刊する予定の『関口ドイツ文法』未知谷の中に書いてあります)。
 氏はまず322項で「属詞としてのes」を説明した後、323項で「主語化するにいたった属詞のes」を説明します。それを踏まえて324項では「その文が後に関係文を伴う場合」を取り上げてこう書いています。

 1-1. Es war ein Deutscher, der die Buchdruckerei erfand
1-2. Ein Deutscher war es, der die Buchdruckerei erfand.(これも可)
  訳A・ドイツ人が印刷術を発明したのである(フランス人やイギリス人ではなかった)
  訳B・印刷術を発明したのは(それは)ドイツ人であった。

 この場合の注意。①関係代名詞の先行詞は〔主語化した属詞の〕esである。②その性と数は前の文の〔本来の〕主語を受ける。つまりesを受けるのではない。つまり「関係代名詞の性と数は先行詞に合わせる」という文法規則はここでは妥当しない。

 ここで大切な事は、この文型の目的は原文の属詞(となった本来の主語)を強調することだ、という事です。訳を見れば分かるでしょう。訳Bは日本語文の基本形である「題述文」です。

 題述文というのは、主題(主語ではない)を確認して、それについて何かを叙述するものです。属詞文(である文)でもそうでない叙述文(非である文)でもよいのですが、いずれにせよその叙述部がその文全体の眼目です。

 たとえば、「加藤は京都大学の教授だった」は属詞文ですが、「加藤は」を除いた部分に達意の眼目があります。又、「加藤はヘーゲル研究で山崎哲学奨励賞を受けた」は非属詞文ですが、これも主題部の「加藤は」を除いた叙述部分に眼目があります。「加藤は」と主題だけで終わったら、何も伝わりません。

 従って、その重点を前に持って来る場合にはそれを主題にして「何々は」と言ってはならないのです。「ハ」ではなく、訳Aのように「ドイツ人が」と、主格補語の「ガ」を使わなければならないのです。

第1例。原書の37頁37行目以下に次の文があります。

 Es ist aber der Begriff, welcher ebensowohl seine Momente auslegt und sich in seine Unterschiede gliedert, als er diese so selbständig erscheinenden Stufen zu ihrer Idealität und Einheit, zu sich zurückführt und in der Tat so erst sich zum konkreten Begriffe, zur Idee und Wahrheit macht.

 加藤はこれを次のように訳しています。
──しかし、概念こそは[1]自分の契機をさらけ出し、[2]自分を区別の中に分節するとともに、[3]同時にそうした自立的なものとして現象してくる段階を、その観念性と統一に、つまり自分に引き戻し、[4]実際には、こうして初めて自らを具体的概念に、理念と真理にする。(角括弧1, 2, 3, 4は加藤のもの。下線は牧野)

 私は次のように訳してみました。
──概念の分裂を諸規定として展開することで、諸規定には一時的なもとはいえ自立性が付与されますが、〔本当は〕そこでは概念自身が実現され、理念となっているのです。すなわち、自己の諸契機を分解展示してそれを自分の肢体とし、又かくして自立しているように見える諸段階を自分の観念性と統一へと引き戻し、よってもって初めて自己を具体的な概念とし、自己の真理は理念であると開示する主体はほかならぬ概念なのです。

 見て分かりますように、加藤は「こそ」を入れて強調しましたが、「概念こそは」と「ハ」を使いました。私は訳Bで訳しましたが、訳Aで訳すならば、「ほかならぬ概念こそが」としたでしょう。

 加藤訳でも「こそ」を入れているから同じではないか、と弁護する人もいるでしょうが、これ以上何も言うつもりはありません。そういう語感(日本語についての語感)の人とは話しているヒマがありません。

第2例。原書の24頁の13行目から16行目にかけて次の文があります。

 Die Naturphilosophie gehört selbst zu diesem Wege der Rückkehr; denn sie ist es, welche die Trennung der Natur und Geist aufhebt und dem Geiste die Erkenntnis seines Wesens in der Natur gewährt.

 この第2例では「属詞のes」の主語が普通名詞ではなく人称代名詞sieになっています。この場合は「属詞のes」はそのままです。但し、このesがdasに代わるとdas ist sieとなります(前掲書323項)。

 加藤はここを次のように訳しています。
──自然哲学そのものは、この戻りの道に属する。というのは、自然哲学は、自然と精神の分裂を克服(止揚)し、精神に自然の中でのその[精神の]本質の認識を保証するものだからである。

 私は次のように訳してみました。
──自然哲学自身はこの「元に戻る運動」の一助を為すものです。即ち、自然哲学こそが、自然と精神の分離を止揚し、精神が自然の本質である事を精神が認識するのを手伝うものなのです。

第3例。原書の36頁の34行目から37頁の2行目。

 Aber er erhält sich in ihnen als ihre Einheit und Idealität; und dies Ausgehen des Zentrums an die Peripherie ist daher ebensosehr, von der umgekehrten Seite angesehen, ein Resumieren dieses Heraus in die Innerlichkeit, ein Erinnern, dass er sie sei, der in der Äußerung existiert.

 第3例でも、第2例と同じく、主語が人称代名詞です。定形が接続法第1式になっているのはErinnernの内容という事で「間接話法」にしたからで、istとして理解して構いません。er sie seiと「定形後置」になったのは、もちろん、従属接続詞dassの中だからです。

 加藤はここを次のように訳しています。
──しかし、概念はそれら契機のなかで、それらの統一と観念性として自分を維持する。このように周辺に接する形で中心が外へ発出することば、おなじように反対側から見ると、この外へ向かうことが内面性に帰着することであり、外化[あらわれ]の中で現存する概念が存在することの想起(内面化)である。

 私は次のように訳してみました。
──しかし、概念はその場合でも諸規定の単位(Einheit)として観念性としてあり続けているのです。従って中心〔たる概念〕が周辺に出て行くと言っても、それも逆の面から見るならば、この出来(しゅつらい)は内なる者〔中心たる概念〕に集約されているのであり、外化しているものは〔実際には〕概念だという事を常に思い出させるものなのです。

 付論1・比較文法の重要性

 第2例と第3例を、比較文法的に見てみると面白いと思います。第2例の英訳(英訳1)と第3例の英訳(英訳2)を調べてみますと、次のようでした。

 英訳1・for it is that, which obercomes the division between Natur and Spirit ...
 英訳2・remembering that it is it, the Notion, that exists in this externality

 ドイツ語原文と比較して分かる事は、英語ではこのit is something, that (which) の構文でsomethingに代名詞を持って来る場合でも語順に変化はない、という事です。

 英訳2でit is itの後にコンマで挟んでthe Notionを併置して説明したのは、the Notionがかなり前の方にあるから、分かるようにしたのだと思います。主語のitが関係代名詞の先行詞である事は分かりきった事ですから、it is itと、同語反復みたいでどちらのitが何を受けるか(指すか)が分かりにくいからではないと思います。

 英語では、関係文が続かない場合はThat's itという語順になるのではないでしょうか。It is thatもあるのでしょうか。こういう問題意識の出てくるのも比較文法的に考えるメリットです。

 詳しくは拙著『関口ドイツ文法』の理解文法の第1章(文)の第6節(属詞文)の第12項(Ich bin's)の②及び第3章(代名詞)の第3節(人称代名詞のes)の第7項(関係文で修飾される「属詞のes」)を参照。

第2の問題点、dennはどこまで掛かるか

 33頁の17行目以下に次の3つの文があります(句点で機械的に1つの文と数えます)。

 Beide Gänge sind einseitig und oberflächlich und setzen ein unbestimmtes Ziel. Der Fortgang vom Vollkommeneren zum Unvollkommeneren ist vorteilhafter, denn man hat dann den Typus des vollendeten Organismus vor sich; und dies Bild ist es, weches vor der Vorstellung dasein muss, um die verkümmerten Organisationen zu verstehen. Was bei ihnen als untergeordnet erscheint, z.B. Organe, die keine Funktionen haben, das wird erst deutlich durch die höheren Organisationen, in welchen man erkennt, welche Stelle es einnimmt.

 加藤はここを次のように訳しています。
──どちらの歩みも一面的で表面的であり、目標がはっきりしない。完全なものから不完全なものへの進展の方が役に立つ。というのも、その時完成された有機体の類型が目の前に置かれているからである。こうした[流出論的な]像は、さまざまの萎縮した有機組織を理解しようとするとどうしても想念の前に置かれざるをえないものである。そうした有機組織の中で低い位置にあると思われるもの、たとえば何の機能ももたない器官は、もっと高次の有機組織を通じて初めて明らかになる。つまり、もっと高次の有機組織の中では、その器官がどういう位置をもつかが分かる。

 私は次のように訳しました。
──〔進化と発散の〕両過程とも一面的かつ表面的で、はっきりした目標を立てていません。〔しかし敢えて優劣を論ずるならば〕完全なものから不完全なものへの歩み〔発散〕の方が役立ちます。この考えでは完成された有機体が前提されているからです。未発達の有機体を理解するためには〔基準となる〕姿を眼の前に持っていなければならないからです。未発達の有機体の未発達な部分、つまり〔まだ〕何の働きもしていない器官をそれとして認識するためには、発達した有機体の中でその器官がどの位置を占めているかを認識する事で初めて可能となるからです

 引用した原文には2か所に下線を引いておきましたが、第2の下線は第1の問題点で論じたことです。1-2の例です。

 さて、ここでの問題は「接続詞dennがどこまで掛かっているか」です。加藤訳はdennを含む第1の文だけに掛けて理解し、訳しています。私は、次の文にも、更に次の文までも掛かっていると取りました。内容上そうなっていると思います。

 この「句点を超えて更に後まで掛かる語句を句点までしか掛けて理解しない」という誤読はかなり広く見られます。私はこれまでにもこの種の間違いを指摘しました。1つは、ヘーゲル著長谷川宏訳『歴史哲学講義』(岩波文庫)の中に見られるもので、拙著『哲学の演習』(未知谷)の264頁③に書いてあります。もう1つはエンゲルスの『空想から科学へ』の翻訳(これは沢山出ていますが、どれについても言えます)の中に見られるもので、拙著『マルクスの空想的社会主義』(論創社)の58頁で「第4の問題」とした所及び同59頁で「第5の問題」とした所で論じています。

 この種の誤読の原因を考えてみますと、多分それは、このような問題(或る語がどこまで掛かっているか)を考える指針を書いた文法書がないからだと思います。私は知りません。

 関口存男はその『趣味のドイツ語』(三修社)231頁以下でKannitverstanという題名の文章を取り上げて読解の指導をしていますが、この文章では232頁の冒頭にDennという語が出てきます。しかし、そこでは「というのは」という注を付け、「それはどうした訳かと申しますに」と意訳をしているだけです。文法的な説明はしていません。同じくこれを取り上げたラジオドイツ語講座の1956年10月2日の放送では「このDennはこの話の最後まで掛かっている」と述べていますが、この著書ではそれを述べていません。こういう事もあって、皆さん、無意識に「dennはその語の入っている文だけに掛かっている」と思い込んでいるようです。

 しかし、これは大きな間違いです。dennでもnämlichでも、あるいはその他の語句でも、どこにあっても文の句点(プンクト)を超えて掛かる事の出来るものは沢山あります。どこまで掛かるかはひとえに内容から判断するしかありません。それを決める形式的標識は一切ありません。この際、こういう文法をしっかり理解して置いてほしいと思います。

付論2・「ミネルヴァのフクロウは日が暮れてから飛び立つ」

 ここで引用した文の内容はドイツ語読解上の問題で終わらせる事の出来ない重要な事に触れています。それは「未発達の有機体を理解するためには〔基準となる〕姿を眼の前に持っていなければならない」という事を論じているからです。

 皆さんはこれを読んで何か連想するものはありませんか。加藤は何も思い出さなかったようです。学生時代には左翼運動に身を投じ、「自然弁証法」研究会をやっていたのに、「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの問題提起は受け止めなかったようです。

 ここまで言えば分かるでしょう。マルクスはそのいわゆる「経済学批判序説」の第3節「経済学の方法」の中で「人間の解剖はサルの解剖に鍵を与える」という有名な言葉を残していますが、これはヘーゲルのこの考えを受けています。一般化して言いますと、ヘーゲルのこれまた有名な「ミネルヴァのフクロウは日が暮れてから飛び立つ」という言葉になります。認識論の言葉で言い換えますと、これは「追考(Nachdenken)」の問題になります。これを中心的に研究したのが許萬元の功績です。

 これはこの通りなのですが、このままで終わってしまうと、サルの解剖の方が人間の解剖より重要であるかのような印象を与えてしまいます。では、人間の解剖はいかにして可能になるのか、それの鍵はどこにあるのか。ここまで行かないと本当の認識論になりません。許萬元の研究の限界もここにありました。私見は「『パンテオンの人人』の論理」(『生活のなかの哲学』(鶏鳴出版)及び『マルクスの空想的社会主義』(論創社)に所収)を参照。

第3の問題、不定冠詞の「含み」の1つに「内的形容」がある

 最後に高級文法の問題です。29頁6行目以下に次の文があります。

 Die Natur bleibe, gibt man ferner als ihren Vorzug an, bei aller Zufälligkeit ihrer Existenzen ewigen Gesetzen getreu; aber doch wohl auch das Reich des Selbstbewußtseins ! was schon in dem Glauben anerkannt wird, dass eine Vorsehung die menschlichen Begebenheiten leite;

 加藤はここを次のように訳しています。
──自然は、その現存の中で、どれほど偶然であっても、永遠の法則にあくまで忠実であるということが、自然の長所だと言われる。しかし、同じことは自己意識の領域でも言える。一つの摂理が人間のさまざまな営みを導いているということは、信仰のなかですでに承認されている。

 私は次のように訳してみました。
──自然界ではその現象世界は極めて偶然的ではあるがそこには永遠の法則が支配していると言って、この点を自然界の精神界に対する優越性の根拠とする人がいる。しかし、この点に関しても自己意識の世界〔精神界〕も又同じである。それは、予見〔Vor-sehung、予定=摂理〕とでも言うべきものが人間の行動を導いているという〔キリスト教の〕信仰の中にとっくの昔に承認されている通りである。

 さて、問題はもちろん下線を引きましたeine Vorsehungをどう理解し訳すか、です。加藤は「1つの摂理」と訳しています。多くの、いや、ほとんどの訳者が「この不定冠詞には何か意味がありそうだな」と思った時、そして「しかし、どういう意味か分からないな」と思った時、このように「1つの」と訳します。と言うより、誤魔化します(寺沢恒信教授のゼミでもそうでした)。これではいつまでたってもドイツ語学力もヘーゲル読解能力も高まらないでしょう。関口の大著『冠詞』のあることは専門家なら誰でも知っているはずです。なぜそれを読まないのでしょうか。

 関口はその全3巻から成る大著の第2巻で不定冠詞を論じています。この巻は第1巻(定冠詞論)と第3巻(無冠詞論)に比して格段に理解しにくいものです。それは「外見的に」分かりやすく整理されていないからです。絶対の自信など到底持てるものではありませんが、現時点での私の理解で書きます。

 Vorsehung(神の摂理)という語はほとんどの場合定冠詞付きでdie Vorsehungと使われます。この定冠詞は関口のいう「遍在通念の定冠詞」です。それはder Raum(空間)やdie Zeit(時間)と同じように1つしかない(遍在している)ものであり、die Vorsehungと言えば、誰でも説明などなくても「あああれの事か」と分かるもの(通念)だからです。従って、これに不定冠詞を付けてeine Vorsehung(1つの摂理)などと言う事はないのです。いや、そう言われても「外にどこに他の摂理があるのか」判りません。

 この不定冠詞の働きを関口は「質の含みを利かせる」としています。それは「形容の不定冠詞」とも言っています。それには2種あります。外的形容と内的形容とです。不定冠詞と名詞の2語が一体となって1句を作る場合、両語の規定関係は2つしかありえません。不定冠詞が名詞を規定するか、名詞が不定冠詞を規定するか、です。

 ein Mannという句についてみますと、Das ist ein Mannと言いますと、「この男は変わってる」という意味です。この場合はeinがMannを規定しています。「或る種の男である」という関係です。これが「外的形容」です。しかし、Sei ein Mann ! と言いますと、「男らしくあれ」という意味です。この場合はMannがeinを規定しています。「男という或る種の者であれ」という関係です。これが「内的形容」です。

 さて、現下のeine Vorsehungはどちらでしょうか。「或る種の摂理」でしょうか、それとも「摂理という或る種の事」でしょうか。もちろん後者です。つまり、内的形容です。そして、内的形容の不定冠詞とは、「次の名詞をその文字どおりの意味で100%意識せよ」という指示なのです。ですから、ここではVorsehungを「摂理」と訳してから日本語で考えるのではなく、Vorsehungというドイツ語をそのままで考えなければならないのです。それは果たして「摂理」と訳して好いものなのか、そこまで遡って考えなければならないのです。

 「予見〔Vor-sehung、予定=摂理〕とでも言うべきもの」という訳はこのように考えた上での結論です。ここではVorsehungというドイツ語をそのまま出さざるを得ませんでした。なぜなら、日本語の「摂理」ではドイツ語の特にVor- が訳出されていないからです。

 「摂」とは漢和辞典で見ますと、「統(す)べる」という意味だと分かります。つまり「神が統率する」ことなのです。「理」はもちろん「ことわり」ですから、まあSehungの中に入っていると強弁してもいいでしょう。ですから「摂理」という訳語では「摂」も「理」も共にSehungの部分を訳しているだけです。Vor- を訳していないのです。ですから、ドイツ語を出して説明的に訳すしか方法はないと考えました。言葉遊びは翻訳不可能なのと同じだと思います。

 もちろんこれは少し煩瑣な訳で、以上の事が分かった上でならば、「摂理というもの」くらいでいいと思います。

付論3・「資本論」のein sinnlichh übersinnliches Dingについて

 加藤尚武が広松渉から大きな思想的影響を受けていた事は多くの人の知る所でしょう。加藤のドイツ語を検討したついでに広松のドイツ語を見て置きましょう。日本の左翼のレベルを知る一助にもなるでしょう。ここでは『資本論』の有名な「商品の呪物的性格」の章の1句を取り上げます。

 なお、ここで「呪物的」としましたFetischを日本の資本論学者の皆さんは「物神的」と訳します。なぜでしょうか。分かりません。辞書には両方とも同じ意味で載っていますが、かつては前者しかなかったのに、マルクス学者が「物神」という語を使うのでこれも市民権を得たのではないでしょうか。既成の語で適当なのに新語を作る事に私は反対です。

 取り上げる原文は次の通りです。

 Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, dass sie ein sehr vertracktes Ding ist, ..Als bloßer Gebrauchswert ist sie ein sinnliches Ding, woran nichts Mysteriöses, .. Aber sobald er (der Tisch) als Ware auftritt, verwandelt sich in ein sinnlich übersinnliches Ding. (商品は一見した所では自明で別段どうという事もない物に見える。しかし、商品の分析の結果分かった事は、それは一筋縄では行かない物だということである。単なる使用価値としてはそれは感性的な物であって、そこには神秘的な点は何もない。しかし、それが1度(ひとたび)商品として立ち現れるや否や、それは感性的に超感性的な物に一変する)

 この下線を引いたein sinnlich übersinnliches Dingは、私以外の訳者は「感覚的にして超感覚的な物」とか「感性的で超感性的な物」とか訳してきました。これは sinnlich を形容詞と取った訳です。

 私はなぜ「感性的に超感性的な物」と訳したかと言いますと、このsinnlichは文法的には副詞でしかありえないと思ったからです。しかし、それ以上に強い理由は、意味です。その意味は文脈から考えると、「感性的な物に担われた(感性的な物の姿を取って現れた)超感性的な物(つまり商品という社会的な物、人間関係を具現した物)」ということだからです。ここは2つの形容詞が並んで「物」に掛かっていると取れないのです。

 しかし、他の翻訳はみな、2つの形容詞と取って訳しています。鶏鳴学園に通っていた或る学生が広松さんの講演を聞きに行って質問したら、やはり「2つの形容詞だ」と答えたそうです。

 かつて東洋大学で教授をしていたドイツ人に聞いた時も、「形容詞ならein sinnlich- übersinnliches Dingと、ハイフンがなければならない」と答えてくれました。

 そして、関口存男です。氏の『冠詞』第3巻(無冠詞篇)の353-4頁に「対立的形容詞において前の語が形容詞か副詞かの判断では、ハイフンの有無が決定的である」と書いています。

 先にも書きましたように、そもそも内容から見て副詞としか解釈できないはずなのです。それなのに、文法に違反してまで形容詞と取る学者の皆さんは一体どういうつもりなのでしょうか。こういう訳では、マルクスの商品論(商品は物ではなくて、社会関係である)が分かっていない事を自ら暴露しているという事に、気づかないのでしょうか。

 俗に「ナントカは死ななきゃ治らない」と言いますが、広松さんはあの世で関口さんに会って、反省しているでしょうか。

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哲学演習の構成要素

長谷川宏の訳業への評価

脱原発は高くつくか

2012年09月30日 | カ行
 原発をなくすと、電気代が2倍に──。そんな試算をもとに、原発の必要性を訴える声が広がっている。根拠は、2030年を想定して政府が出した数字の1つ。実は、同じ試算では「原発を使い続けても電気代は1,7倍」ともある。危機感をあおる数字だけが、ひとり歩きしている。

 「原子力発電ゼロとなると、電気料金は最大約2倍に上昇する」。政府が30年代の原発ゼロをめざすと発表した09月14日、九州電力が異例のコメントを出した。

 「原子力という選択肢は失うべきではない」「国民負担が増える」など、政府の決定に真っ向から反対する内容だ。九電は、発電量の約4割を頼ってきた原発が使えず、火力発電の燃料費がかさんで大きな赤字を抱える。瓜生道明(うりう・みちあき)社長は記者会見で「料金は2倍になるかもしれない。企業が国外に出て若い方の職場もなくなる」と強調する。

 日本鉄鋼連盟も18日に「電気料金は最大で2倍以上になる」と指摘したほか、経団連などはこの数字をもとに「経済への影響が大きい」として、政府の原発ゼロの方針はお金がかかると批判を続ける。

 原発を動かさないと、なぜ電気代は2倍になるのか。いずれの根拠も、政府が6月に公開した数字にたどりつく。30年の原発比率を「ゼロ」「15%」「20%」「25%」とした場合の家庭の電気代への影響を、国立研究所や大学教授などが試算したものだ。

 原発をゼロにする場合、30年の2人以上世帯の平均的な電気代は、4つの試算で10年と比べて1,4~2,1倍。石油や天然ガスなどの値上がり分が含まれるほか、再生可能エネルギーを広げていくには、原発を使い続けるよりお金がかかるとされているためだ。

 ただ、原発を維持する場合もこれらの費用はある程度必要だ。試算によれば、原発依存度を東日本大震災前とほぼ同じ25%とする場合も、電気代は1,2~1,7倍に上がる。つまり、原発を動かし続けても値げは避けられない。にもかわらず、10年との比較の「最大2,1倍」の数字だけが、抜き出されている印象が強い。

「半分」の試算も

 もともと原発がない沖縄電力の今年11月の電気代を、本土の6電力会社と比べてみると、月300㌔ワット時使う同じ家庭のモデルでおよそ1,12倍高い。原発を動かさないだけで、単純に料金が2倍になると考えるのは難しそうだ。

 7月に「原発をゼロにしても、電気代は現在の半分近くに減る」という試算も発表された。科学技術振興機構の低炭素社会戦略センターがまとめたもので、電気の単価は上がっても、家電製品や住宅の省エネが進めば、消費量は大きく下がるとも混んでいる。政府の試算には、こういった省エネの影響分は十分に織り込まれていない。

(朝日、2012年09月28日。渡辺淳基)

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再生可能エネルギー一覧

全国学力調査

2012年09月10日 | カ行
 2年ぶり5回目となる全国学力調査の結果が出た。今回も、知識を活用したり、文章で説明したりすることが苦手な子どもたちの姿が浮かんだ。応用問題や記述式に弱い傾向は初回から続く。調査を繰り返しても、指導法や政策の検証・改善につながっていない。

 全国学力調査は「何のために」「どのように」実施するのか、当初から揺れ続け、今に至っている。

 2004年に実施方針を示した中山成彬文部科学相(当時)は、目的について「教育現場で競争意識を高めてもらうため」と説明した。しかし、全員参加方式をめぐり、学校現場からは「1960年代の学力テストと同じで、市町村ごとの序列化につながる」との批判が出た。文科省は「競争が目的ではない」と軌道修正し、都道府県別の結果を発表する一方で、市町村別の公表は禁じた。橋下徹・大阪府知事(当時)らから市町村ごとの公表を求める動きが出て物議を醸した。

 2009年に民主党が政権をとると、「抽出方式で十分」として全員参加を廃止。抽出した約3割を対象に実施することで、予算を約58億円から約35億円に減らした。ところが、専門家から「数年に1度は『きめ細かい調査』が必要」と指摘されると、文科省は全員参加の復活を決め、教科も増やすことにした。理科は今年は導入したが、来年は実施しない。

 年によって「全員」と「3割抽出」を使い分ける意味はあるのか。来年は、家計状況を聞く保護者アンケートと、学力の経年変化をたどるための非公開問題による調査も合わせて行うというが、こちらの抽出率は2~3%程度だ。規模や目的にまったく一貫性がない。

 文科省は、都道府県ごとの比較には約3割の抽出率は必要だという。ただ、上位と下位のグループはほぽ固定している。結果を見る限り、都道府県の教育政策の検証、改善のサイクルがうまく回っているとは言い難い。抽出されなかったために自主参加する市町村や学校も多いが、「隣も参加するから」という横並び意識がのぞく。「子どものため」かどうかは疑問だ。

 メリットが見えず、手法も定まらない。いったん廃止し、ゼロから制度設計し直してみてはどうか。
      (朝日の解説、2012年08月09日。花野雄太)

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犬山市の教育


川勝知事への再度のメール

2012年09月08日 | カ行
注釈・川勝知事に再度、メールを送りました。8日午前9時43分現在、まだ返事がありません。

川勝知事殿
 前略
 私は8月3日に下記の質問をメールで送り、今回は「お返事をいただきたい」と付記したにもかかわらず、未だに返信がありません。

 第1点。改めてお返事を下さるようお願いします。

 第2点。静岡県庁では他の部署でもメールでの質問や意見に対する対応が不親切です。次の「職務規律」を確立してくれませんか。

 ──県民からメールで質問や意見を受けた場合には、直ちに「メールを受け取りました。1週間以内にお返事します。1週間以内に返事を送れない場合には改めてご連絡します」との「受け取り確認メール」を送り、その言葉を実行する。──

 第2点についてのお返事も下さい。

         記(8月3日のメール)

 前略。一条工務店が浜松地区の沿岸に防波堤を作るために300億円の拠出を申し出たことは、県民として、又浜松市民として、とてもありがたく嬉しいことです。
 しかし、心配な事もあります。それはどういう防波堤を築くのかという事です。
 7月14日付けの朝日紙によりますと、同工務店は「高さ15メートルの土塁」を考えたそうですが、その後、「静岡県及び浜松市と建設計画を練った」そうです。
 どういう防波堤になったのですか。暫定的な案を発表して下さいませんか。
 敢えてお願いをお伝えします。
 今、東北被災3県の沿岸に「宮脇方式」によって「いのちの森」を作る運動が急速に広がっています。「一条堤」もこの「いのちの森の防波堤」にして下さいませんか。
 インターネットで「いのちの森プロジェクト」と入れて検索すると、詳細が分かります。
 くれぐれも間違った選択で悔いを残す事のないように祈っています。

 なお、同じお願いは同工務店社長と浜松市長にも送っています。
 今回はお返事をいただきたいです。よろしく。8月3日、牧野 紀之(引用終わり)

9月7日、牧野 紀之

浜松市北区引佐町東久留女木307-2
電話・FAX・053-545-0512



命を救う場をもっと

2012年09月05日 | カ行
親に見放されて失われる赤ちゃんの命を何とか救いたい。そのためには、切羽詰まった親たちの相談に乗り、赤ちゃんを託すこともできるような場がもっともっと必要だ。

 厚生労働省の先月末の発表によれば、子どもに対する虐待は増える一方だ。死に至る例も、2010年度には前年より10人多い98人にのばった。

 無理心中も半分近いが、それを除く51人中、0歳児が23人と最も多く、生まれたその日に亡くなった子も9人いた。0歳児の場合、望まない妊娠や10代での妊娠が多いという。

 こうした赤ちゃんの命を救おうと、熊本市の慈恵病院がドイツの例にならい2007年春に始めたのが「こうのとりのゆりかご」だ。子どもを物扱いするような「赤ちゃんポスト」の通称は、病院では使わない。親が匿名で赤ちゃんを託すことのできる、まさにゆりかごとしての役目を果たしてきた。

 今年3月末まで約5年間に預けられたのは83人、大半が新生児だった。69人はその後、身元が判明した。子どもたちは児童施設や、特別養子縁組をした親や里親のもとで暮らしている。

.熊本県をふくむ九州からは3分の1ほどで、近畿や関東など九州以外から預けにくる人の方がむしろ多かった。自宅や車中での出産や長距離の移動で、幼い命への危険もあった。

 病院では、困ったらまず相談をと、電話の相談窓口も設けている。こちらには北海道を含む全国から、毎年500件を超す相談が寄せられている。

 蓮田太二(はすだ・たいじ)院長はこうした現状から、相談窓口の充実に加え、赤ちやんを受け入れる場所が全国に何カ所か必要、と話す。

 児童相談所を通じて子どもたちへの対応に責任を持ち、ゆりかごの検証作業も担う熊本市は6月、検証に国も加わるなど積極的に関与するよう求める要望書を、厚生労働省に出した。

 問題の深刻さを考えれば、もはや一つの病院や自治体に任せてすむ話ではない。子どもの安全に加え、親の匿名性と子どもの出自をめぐる課題もある。子どもの福祉のため、国としての責任ある対応が求められる。

 この構想には当初、捨て子を助長するという批判もあった。しかし、生活に困ったり、未婚で育てられなかったり、どうにもならなくて駆け込んでくる例がほとんどという。

 望まない妊娠をした女性たちが相談できる窓口を全国で充実させ、養子縁組などにつなぐ。一時的に母子を受け入れる場所ももっと必要だ。

 (朝日、2012年08月05日。社説)

    感想

 熊本県のこの病院に続く所が出てこないのは残念です。

徳島県神山(かみやま)町の引力

2012年09月03日 | カ行
 四国の山間にある小さな町が都会の企業を引き寄せている。
              
 清流と緑が美しい徳島県神山町。

 人口6000人余のごく平凡に見えるこの町に、東京のITベンチャーほか計7社が相次いで空き家を借りてサテライトオフィスなどを構え、わずかながら人口も増え始めた。

 10年ほど前から、民間主導で無名の芸術家や芸大生に創作の場を提供する活動を続けている。縁のできた芸術家から移住の希望もあり、空き家のあっせんもしてきた。

 その活動を担うNPO法人グリーンバレーが、働き方研究家の西村佳哲(よしあき)さん(48)らの助けも借り、ソフト開発など創造的な仕事をする人材を呼ぶ「イン神山」をネット上に設けた。そして反響が広がっている。

     
 理事長の大南信也おおみなみしんやさん(59)は、移住や進出の希望者にも下手に出な
い。熱意や能力、目的意識、田舎暮らしへの相応の覚悟をみる。補助金などのアメでつらない。空き家には限りがあるし、何より利害が先立つと信頼関係が崩れやすい。

 この姿勢が創造的な人たちの共鳴を呼び、「田舎で新しいことを」という意欲を触発しているようだ。

 町役場はNPOに任せきりだ。進出企業の社長はだれも、町長と面識がない。それで支障はない。知恵と情熱を誘致する新しい現実が始まっている。

      (朝日、2012年08月23日。窓、川戸和史)

感想・過疎地の活性化には「適任のマネジャー」が必要なのだと思います。しかし、そういう人が自然に出て来てくれることを待っているのでは解決しないでしょう。私の考えは、「屯田公務員」です。

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過疎対策

生ける屍の生態(その1、教育長)

2012年08月24日 | カ行
 大津市で昨年10月、いじめを受けた中学2年の男子生徒(当時13歳)が自殺した問題などを受け、静岡県教委と県内全35市町の教育長らが、対策について話し合う県市町教育長研修会が8月21日、静岡市内で開かれた。出席者からは「子供たち自身もいじめについて話し合うことが大事」「いじめは誰でも起こり得るということを子供たちの共通認識にすれば、相談しやすくなる」などの意見が出された。

 研修会は、県内の教育関係者全体で教育課題について話し合うことを目的に毎年開かれているが、今回は大津市の問題や、浜松市で転落死した中学2年の男子生徒(当時13歳)がいじめを受けていたとされる問題を受け、いじめに関する話し合いも行われた。

 会の冒頭、安倍徹・県教育長は「まずは市町の学校で、いじめについて全てを把握したうえで、丁寧、迅速な対応を図ってほしい」とあいさつ。その後、出席者は3グループに分かれ、いじめ対策に関する報告や意見交換が行われた。

 この中で、「『相談件数が多いと良くない』のではなく、少しでも多くを把握して組織対応し、早期解決することに力を入れている」「先生が忙しすぎると、いじめを見逃してしまうので、仕事のバランスに注意するべきだ」などの報告や意見が出された。
 県教委事務局からは2010年度のいじめの認知件数が報告され、小中学校ともに件数は減っているものの、解消率が下がっている現状や、中学1年生の認知件数が飛び抜けて多いことなどが報告された。

 意見交換終了後、安倍教育長は取材に、「児童生徒が自らいじめ問題の対策について考えるような機会をつくることなどを検討していきたい」と話した。
(2012年8月22日 読売新聞)

 感想

 これを読んで「教育長たちは頑張っているな」と思う人はよほどおめでたい人でしょう。こういう会合とやらは、市民から「教育長は何をしているのだ」と言われた時に、「会合を開いて相談していますよ」と誤魔化すためなのです。

        関連項目

教育長人事とその活動