マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

加藤尚武訳『自然哲学』と関口文法

2012年10月23日 | カ行
 論文「哲学演習の構成要素」(ブログ「マキペディア」に2012年10月10日掲載)は、加藤尚武訳『自然哲学』(ヘーゲル著、岩波書店)の翻訳があまりにもお粗末だという事から筆を起こしましたが、その「お粗末」という判断の根拠ないし証拠は提示しませんでした。そこで今回はそれをテーマとします。

 誰にでも勘違いとか不注意による間違いというものはあるものですから、そういう類(たぐい)の問題は取り上げません。私自身、まず自分で訳してから加藤訳を見て、自分の勘違いに気づいた箇所がいくつかあったくらいです。

 取り上げなければならないのは、中級以上のドイツ語文法についての無知ないし不勉強が原因で誤解している所です。それを3つ取り上げます。

 以下で頁番号と行番号を挙げたのはみな、ズーアカンプ版「ヘーゲル全集」第9巻のものです。英訳というのはミラーのものです。

第1の問題点、es .. , der ..の構文の意味

 関口存男(つぎお)はその『新ドイツ語文法教程』(第3版、三省堂)の322項から324項にわたって「属詞としてのes」を説明しています(私は「述語」という文法用語が不適切だと考え、フランス語文法の「属詞」を採用します。説明は近いうちに公刊する予定の『関口ドイツ文法』未知谷の中に書いてあります)。
 氏はまず322項で「属詞としてのes」を説明した後、323項で「主語化するにいたった属詞のes」を説明します。それを踏まえて324項では「その文が後に関係文を伴う場合」を取り上げてこう書いています。

 1-1. Es war ein Deutscher, der die Buchdruckerei erfand
1-2. Ein Deutscher war es, der die Buchdruckerei erfand.(これも可)
  訳A・ドイツ人が印刷術を発明したのである(フランス人やイギリス人ではなかった)
  訳B・印刷術を発明したのは(それは)ドイツ人であった。

 この場合の注意。①関係代名詞の先行詞は〔主語化した属詞の〕esである。②その性と数は前の文の〔本来の〕主語を受ける。つまりesを受けるのではない。つまり「関係代名詞の性と数は先行詞に合わせる」という文法規則はここでは妥当しない。

 ここで大切な事は、この文型の目的は原文の属詞(となった本来の主語)を強調することだ、という事です。訳を見れば分かるでしょう。訳Bは日本語文の基本形である「題述文」です。

 題述文というのは、主題(主語ではない)を確認して、それについて何かを叙述するものです。属詞文(である文)でもそうでない叙述文(非である文)でもよいのですが、いずれにせよその叙述部がその文全体の眼目です。

 たとえば、「加藤は京都大学の教授だった」は属詞文ですが、「加藤は」を除いた部分に達意の眼目があります。又、「加藤はヘーゲル研究で山崎哲学奨励賞を受けた」は非属詞文ですが、これも主題部の「加藤は」を除いた叙述部分に眼目があります。「加藤は」と主題だけで終わったら、何も伝わりません。

 従って、その重点を前に持って来る場合にはそれを主題にして「何々は」と言ってはならないのです。「ハ」ではなく、訳Aのように「ドイツ人が」と、主格補語の「ガ」を使わなければならないのです。

第1例。原書の37頁37行目以下に次の文があります。

 Es ist aber der Begriff, welcher ebensowohl seine Momente auslegt und sich in seine Unterschiede gliedert, als er diese so selbständig erscheinenden Stufen zu ihrer Idealität und Einheit, zu sich zurückführt und in der Tat so erst sich zum konkreten Begriffe, zur Idee und Wahrheit macht.

 加藤はこれを次のように訳しています。
──しかし、概念こそは[1]自分の契機をさらけ出し、[2]自分を区別の中に分節するとともに、[3]同時にそうした自立的なものとして現象してくる段階を、その観念性と統一に、つまり自分に引き戻し、[4]実際には、こうして初めて自らを具体的概念に、理念と真理にする。(角括弧1, 2, 3, 4は加藤のもの。下線は牧野)

 私は次のように訳してみました。
──概念の分裂を諸規定として展開することで、諸規定には一時的なもとはいえ自立性が付与されますが、〔本当は〕そこでは概念自身が実現され、理念となっているのです。すなわち、自己の諸契機を分解展示してそれを自分の肢体とし、又かくして自立しているように見える諸段階を自分の観念性と統一へと引き戻し、よってもって初めて自己を具体的な概念とし、自己の真理は理念であると開示する主体はほかならぬ概念なのです。

 見て分かりますように、加藤は「こそ」を入れて強調しましたが、「概念こそは」と「ハ」を使いました。私は訳Bで訳しましたが、訳Aで訳すならば、「ほかならぬ概念こそが」としたでしょう。

 加藤訳でも「こそ」を入れているから同じではないか、と弁護する人もいるでしょうが、これ以上何も言うつもりはありません。そういう語感(日本語についての語感)の人とは話しているヒマがありません。

第2例。原書の24頁の13行目から16行目にかけて次の文があります。

 Die Naturphilosophie gehört selbst zu diesem Wege der Rückkehr; denn sie ist es, welche die Trennung der Natur und Geist aufhebt und dem Geiste die Erkenntnis seines Wesens in der Natur gewährt.

 この第2例では「属詞のes」の主語が普通名詞ではなく人称代名詞sieになっています。この場合は「属詞のes」はそのままです。但し、このesがdasに代わるとdas ist sieとなります(前掲書323項)。

 加藤はここを次のように訳しています。
──自然哲学そのものは、この戻りの道に属する。というのは、自然哲学は、自然と精神の分裂を克服(止揚)し、精神に自然の中でのその[精神の]本質の認識を保証するものだからである。

 私は次のように訳してみました。
──自然哲学自身はこの「元に戻る運動」の一助を為すものです。即ち、自然哲学こそが、自然と精神の分離を止揚し、精神が自然の本質である事を精神が認識するのを手伝うものなのです。

第3例。原書の36頁の34行目から37頁の2行目。

 Aber er erhält sich in ihnen als ihre Einheit und Idealität; und dies Ausgehen des Zentrums an die Peripherie ist daher ebensosehr, von der umgekehrten Seite angesehen, ein Resumieren dieses Heraus in die Innerlichkeit, ein Erinnern, dass er sie sei, der in der Äußerung existiert.

 第3例でも、第2例と同じく、主語が人称代名詞です。定形が接続法第1式になっているのはErinnernの内容という事で「間接話法」にしたからで、istとして理解して構いません。er sie seiと「定形後置」になったのは、もちろん、従属接続詞dassの中だからです。

 加藤はここを次のように訳しています。
──しかし、概念はそれら契機のなかで、それらの統一と観念性として自分を維持する。このように周辺に接する形で中心が外へ発出することば、おなじように反対側から見ると、この外へ向かうことが内面性に帰着することであり、外化[あらわれ]の中で現存する概念が存在することの想起(内面化)である。

 私は次のように訳してみました。
──しかし、概念はその場合でも諸規定の単位(Einheit)として観念性としてあり続けているのです。従って中心〔たる概念〕が周辺に出て行くと言っても、それも逆の面から見るならば、この出来(しゅつらい)は内なる者〔中心たる概念〕に集約されているのであり、外化しているものは〔実際には〕概念だという事を常に思い出させるものなのです。

 付論1・比較文法の重要性

 第2例と第3例を、比較文法的に見てみると面白いと思います。第2例の英訳(英訳1)と第3例の英訳(英訳2)を調べてみますと、次のようでした。

 英訳1・for it is that, which obercomes the division between Natur and Spirit ...
 英訳2・remembering that it is it, the Notion, that exists in this externality

 ドイツ語原文と比較して分かる事は、英語ではこのit is something, that (which) の構文でsomethingに代名詞を持って来る場合でも語順に変化はない、という事です。

 英訳2でit is itの後にコンマで挟んでthe Notionを併置して説明したのは、the Notionがかなり前の方にあるから、分かるようにしたのだと思います。主語のitが関係代名詞の先行詞である事は分かりきった事ですから、it is itと、同語反復みたいでどちらのitが何を受けるか(指すか)が分かりにくいからではないと思います。

 英語では、関係文が続かない場合はThat's itという語順になるのではないでしょうか。It is thatもあるのでしょうか。こういう問題意識の出てくるのも比較文法的に考えるメリットです。

 詳しくは拙著『関口ドイツ文法』の理解文法の第1章(文)の第6節(属詞文)の第12項(Ich bin's)の②及び第3章(代名詞)の第3節(人称代名詞のes)の第7項(関係文で修飾される「属詞のes」)を参照。

第2の問題点、dennはどこまで掛かるか

 33頁の17行目以下に次の3つの文があります(句点で機械的に1つの文と数えます)。

 Beide Gänge sind einseitig und oberflächlich und setzen ein unbestimmtes Ziel. Der Fortgang vom Vollkommeneren zum Unvollkommeneren ist vorteilhafter, denn man hat dann den Typus des vollendeten Organismus vor sich; und dies Bild ist es, weches vor der Vorstellung dasein muss, um die verkümmerten Organisationen zu verstehen. Was bei ihnen als untergeordnet erscheint, z.B. Organe, die keine Funktionen haben, das wird erst deutlich durch die höheren Organisationen, in welchen man erkennt, welche Stelle es einnimmt.

 加藤はここを次のように訳しています。
──どちらの歩みも一面的で表面的であり、目標がはっきりしない。完全なものから不完全なものへの進展の方が役に立つ。というのも、その時完成された有機体の類型が目の前に置かれているからである。こうした[流出論的な]像は、さまざまの萎縮した有機組織を理解しようとするとどうしても想念の前に置かれざるをえないものである。そうした有機組織の中で低い位置にあると思われるもの、たとえば何の機能ももたない器官は、もっと高次の有機組織を通じて初めて明らかになる。つまり、もっと高次の有機組織の中では、その器官がどういう位置をもつかが分かる。

 私は次のように訳しました。
──〔進化と発散の〕両過程とも一面的かつ表面的で、はっきりした目標を立てていません。〔しかし敢えて優劣を論ずるならば〕完全なものから不完全なものへの歩み〔発散〕の方が役立ちます。この考えでは完成された有機体が前提されているからです。未発達の有機体を理解するためには〔基準となる〕姿を眼の前に持っていなければならないからです。未発達の有機体の未発達な部分、つまり〔まだ〕何の働きもしていない器官をそれとして認識するためには、発達した有機体の中でその器官がどの位置を占めているかを認識する事で初めて可能となるからです

 引用した原文には2か所に下線を引いておきましたが、第2の下線は第1の問題点で論じたことです。1-2の例です。

 さて、ここでの問題は「接続詞dennがどこまで掛かっているか」です。加藤訳はdennを含む第1の文だけに掛けて理解し、訳しています。私は、次の文にも、更に次の文までも掛かっていると取りました。内容上そうなっていると思います。

 この「句点を超えて更に後まで掛かる語句を句点までしか掛けて理解しない」という誤読はかなり広く見られます。私はこれまでにもこの種の間違いを指摘しました。1つは、ヘーゲル著長谷川宏訳『歴史哲学講義』(岩波文庫)の中に見られるもので、拙著『哲学の演習』(未知谷)の264頁③に書いてあります。もう1つはエンゲルスの『空想から科学へ』の翻訳(これは沢山出ていますが、どれについても言えます)の中に見られるもので、拙著『マルクスの空想的社会主義』(論創社)の58頁で「第4の問題」とした所及び同59頁で「第5の問題」とした所で論じています。

 この種の誤読の原因を考えてみますと、多分それは、このような問題(或る語がどこまで掛かっているか)を考える指針を書いた文法書がないからだと思います。私は知りません。

 関口存男はその『趣味のドイツ語』(三修社)231頁以下でKannitverstanという題名の文章を取り上げて読解の指導をしていますが、この文章では232頁の冒頭にDennという語が出てきます。しかし、そこでは「というのは」という注を付け、「それはどうした訳かと申しますに」と意訳をしているだけです。文法的な説明はしていません。同じくこれを取り上げたラジオドイツ語講座の1956年10月2日の放送では「このDennはこの話の最後まで掛かっている」と述べていますが、この著書ではそれを述べていません。こういう事もあって、皆さん、無意識に「dennはその語の入っている文だけに掛かっている」と思い込んでいるようです。

 しかし、これは大きな間違いです。dennでもnämlichでも、あるいはその他の語句でも、どこにあっても文の句点(プンクト)を超えて掛かる事の出来るものは沢山あります。どこまで掛かるかはひとえに内容から判断するしかありません。それを決める形式的標識は一切ありません。この際、こういう文法をしっかり理解して置いてほしいと思います。

付論2・「ミネルヴァのフクロウは日が暮れてから飛び立つ」

 ここで引用した文の内容はドイツ語読解上の問題で終わらせる事の出来ない重要な事に触れています。それは「未発達の有機体を理解するためには〔基準となる〕姿を眼の前に持っていなければならない」という事を論じているからです。

 皆さんはこれを読んで何か連想するものはありませんか。加藤は何も思い出さなかったようです。学生時代には左翼運動に身を投じ、「自然弁証法」研究会をやっていたのに、「ヘーゲル論理学の唯物論的改作」というレーニンの問題提起は受け止めなかったようです。

 ここまで言えば分かるでしょう。マルクスはそのいわゆる「経済学批判序説」の第3節「経済学の方法」の中で「人間の解剖はサルの解剖に鍵を与える」という有名な言葉を残していますが、これはヘーゲルのこの考えを受けています。一般化して言いますと、ヘーゲルのこれまた有名な「ミネルヴァのフクロウは日が暮れてから飛び立つ」という言葉になります。認識論の言葉で言い換えますと、これは「追考(Nachdenken)」の問題になります。これを中心的に研究したのが許萬元の功績です。

 これはこの通りなのですが、このままで終わってしまうと、サルの解剖の方が人間の解剖より重要であるかのような印象を与えてしまいます。では、人間の解剖はいかにして可能になるのか、それの鍵はどこにあるのか。ここまで行かないと本当の認識論になりません。許萬元の研究の限界もここにありました。私見は「『パンテオンの人人』の論理」(『生活のなかの哲学』(鶏鳴出版)及び『マルクスの空想的社会主義』(論創社)に所収)を参照。

第3の問題、不定冠詞の「含み」の1つに「内的形容」がある

 最後に高級文法の問題です。29頁6行目以下に次の文があります。

 Die Natur bleibe, gibt man ferner als ihren Vorzug an, bei aller Zufälligkeit ihrer Existenzen ewigen Gesetzen getreu; aber doch wohl auch das Reich des Selbstbewußtseins ! was schon in dem Glauben anerkannt wird, dass eine Vorsehung die menschlichen Begebenheiten leite;

 加藤はここを次のように訳しています。
──自然は、その現存の中で、どれほど偶然であっても、永遠の法則にあくまで忠実であるということが、自然の長所だと言われる。しかし、同じことは自己意識の領域でも言える。一つの摂理が人間のさまざまな営みを導いているということは、信仰のなかですでに承認されている。

 私は次のように訳してみました。
──自然界ではその現象世界は極めて偶然的ではあるがそこには永遠の法則が支配していると言って、この点を自然界の精神界に対する優越性の根拠とする人がいる。しかし、この点に関しても自己意識の世界〔精神界〕も又同じである。それは、予見〔Vor-sehung、予定=摂理〕とでも言うべきものが人間の行動を導いているという〔キリスト教の〕信仰の中にとっくの昔に承認されている通りである。

 さて、問題はもちろん下線を引きましたeine Vorsehungをどう理解し訳すか、です。加藤は「1つの摂理」と訳しています。多くの、いや、ほとんどの訳者が「この不定冠詞には何か意味がありそうだな」と思った時、そして「しかし、どういう意味か分からないな」と思った時、このように「1つの」と訳します。と言うより、誤魔化します(寺沢恒信教授のゼミでもそうでした)。これではいつまでたってもドイツ語学力もヘーゲル読解能力も高まらないでしょう。関口の大著『冠詞』のあることは専門家なら誰でも知っているはずです。なぜそれを読まないのでしょうか。

 関口はその全3巻から成る大著の第2巻で不定冠詞を論じています。この巻は第1巻(定冠詞論)と第3巻(無冠詞論)に比して格段に理解しにくいものです。それは「外見的に」分かりやすく整理されていないからです。絶対の自信など到底持てるものではありませんが、現時点での私の理解で書きます。

 Vorsehung(神の摂理)という語はほとんどの場合定冠詞付きでdie Vorsehungと使われます。この定冠詞は関口のいう「遍在通念の定冠詞」です。それはder Raum(空間)やdie Zeit(時間)と同じように1つしかない(遍在している)ものであり、die Vorsehungと言えば、誰でも説明などなくても「あああれの事か」と分かるもの(通念)だからです。従って、これに不定冠詞を付けてeine Vorsehung(1つの摂理)などと言う事はないのです。いや、そう言われても「外にどこに他の摂理があるのか」判りません。

 この不定冠詞の働きを関口は「質の含みを利かせる」としています。それは「形容の不定冠詞」とも言っています。それには2種あります。外的形容と内的形容とです。不定冠詞と名詞の2語が一体となって1句を作る場合、両語の規定関係は2つしかありえません。不定冠詞が名詞を規定するか、名詞が不定冠詞を規定するか、です。

 ein Mannという句についてみますと、Das ist ein Mannと言いますと、「この男は変わってる」という意味です。この場合はeinがMannを規定しています。「或る種の男である」という関係です。これが「外的形容」です。しかし、Sei ein Mann ! と言いますと、「男らしくあれ」という意味です。この場合はMannがeinを規定しています。「男という或る種の者であれ」という関係です。これが「内的形容」です。

 さて、現下のeine Vorsehungはどちらでしょうか。「或る種の摂理」でしょうか、それとも「摂理という或る種の事」でしょうか。もちろん後者です。つまり、内的形容です。そして、内的形容の不定冠詞とは、「次の名詞をその文字どおりの意味で100%意識せよ」という指示なのです。ですから、ここではVorsehungを「摂理」と訳してから日本語で考えるのではなく、Vorsehungというドイツ語をそのままで考えなければならないのです。それは果たして「摂理」と訳して好いものなのか、そこまで遡って考えなければならないのです。

 「予見〔Vor-sehung、予定=摂理〕とでも言うべきもの」という訳はこのように考えた上での結論です。ここではVorsehungというドイツ語をそのまま出さざるを得ませんでした。なぜなら、日本語の「摂理」ではドイツ語の特にVor- が訳出されていないからです。

 「摂」とは漢和辞典で見ますと、「統(す)べる」という意味だと分かります。つまり「神が統率する」ことなのです。「理」はもちろん「ことわり」ですから、まあSehungの中に入っていると強弁してもいいでしょう。ですから「摂理」という訳語では「摂」も「理」も共にSehungの部分を訳しているだけです。Vor- を訳していないのです。ですから、ドイツ語を出して説明的に訳すしか方法はないと考えました。言葉遊びは翻訳不可能なのと同じだと思います。

 もちろんこれは少し煩瑣な訳で、以上の事が分かった上でならば、「摂理というもの」くらいでいいと思います。

付論3・「資本論」のein sinnlichh übersinnliches Dingについて

 加藤尚武が広松渉から大きな思想的影響を受けていた事は多くの人の知る所でしょう。加藤のドイツ語を検討したついでに広松のドイツ語を見て置きましょう。日本の左翼のレベルを知る一助にもなるでしょう。ここでは『資本論』の有名な「商品の呪物的性格」の章の1句を取り上げます。

 なお、ここで「呪物的」としましたFetischを日本の資本論学者の皆さんは「物神的」と訳します。なぜでしょうか。分かりません。辞書には両方とも同じ意味で載っていますが、かつては前者しかなかったのに、マルクス学者が「物神」という語を使うのでこれも市民権を得たのではないでしょうか。既成の語で適当なのに新語を作る事に私は反対です。

 取り上げる原文は次の通りです。

 Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, dass sie ein sehr vertracktes Ding ist, ..Als bloßer Gebrauchswert ist sie ein sinnliches Ding, woran nichts Mysteriöses, .. Aber sobald er (der Tisch) als Ware auftritt, verwandelt sich in ein sinnlich übersinnliches Ding. (商品は一見した所では自明で別段どうという事もない物に見える。しかし、商品の分析の結果分かった事は、それは一筋縄では行かない物だということである。単なる使用価値としてはそれは感性的な物であって、そこには神秘的な点は何もない。しかし、それが1度(ひとたび)商品として立ち現れるや否や、それは感性的に超感性的な物に一変する)

 この下線を引いたein sinnlich übersinnliches Dingは、私以外の訳者は「感覚的にして超感覚的な物」とか「感性的で超感性的な物」とか訳してきました。これは sinnlich を形容詞と取った訳です。

 私はなぜ「感性的に超感性的な物」と訳したかと言いますと、このsinnlichは文法的には副詞でしかありえないと思ったからです。しかし、それ以上に強い理由は、意味です。その意味は文脈から考えると、「感性的な物に担われた(感性的な物の姿を取って現れた)超感性的な物(つまり商品という社会的な物、人間関係を具現した物)」ということだからです。ここは2つの形容詞が並んで「物」に掛かっていると取れないのです。

 しかし、他の翻訳はみな、2つの形容詞と取って訳しています。鶏鳴学園に通っていた或る学生が広松さんの講演を聞きに行って質問したら、やはり「2つの形容詞だ」と答えたそうです。

 かつて東洋大学で教授をしていたドイツ人に聞いた時も、「形容詞ならein sinnlich- übersinnliches Dingと、ハイフンがなければならない」と答えてくれました。

 そして、関口存男です。氏の『冠詞』第3巻(無冠詞篇)の353-4頁に「対立的形容詞において前の語が形容詞か副詞かの判断では、ハイフンの有無が決定的である」と書いています。

 先にも書きましたように、そもそも内容から見て副詞としか解釈できないはずなのです。それなのに、文法に違反してまで形容詞と取る学者の皆さんは一体どういうつもりなのでしょうか。こういう訳では、マルクスの商品論(商品は物ではなくて、社会関係である)が分かっていない事を自ら暴露しているという事に、気づかないのでしょうか。

 俗に「ナントカは死ななきゃ治らない」と言いますが、広松さんはあの世で関口さんに会って、反省しているでしょうか。

      関連項目

哲学演習の構成要素

長谷川宏の訳業への評価