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マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

大村喜吉著「斎藤秀三郎伝」

2012年11月10日 | ア行
 読者のSさんの協力を得て、大村喜吉著「斎藤秀三郎伝」(吾妻書房、1960年)を「絶版書誌抄録」の「その他」欄にアップしました。

 斎藤秀三郎は英語の好く出来た人で、ドイツ語の関口存男(つぎお)と並び称せられることの多い人です。私は、関口さんの方が大分上だと思いますが。

 斎藤の方が好かった点は、斎藤は自分の英語についての知識を文法書と辞書という形で「まとめて」残した事でしょう。氏の辞書は今でも古書などに出ているのではないでしょうか。

 関口氏にはこの点で大きな欠点がありました。初級向けの教科書や参考書をいくつも書いたりしないで、「冠詞論」のような研究書をもっと書くとか、いや文法の全体をカバーする本と独和辞典を残してほしかったです。

 ヘーゲルの論理学を理解しなかった(読まなかった?)関口には、「体系なき知は学問ではありえない」というヘーゲルの考えは無縁だったようです。天は二物を与えず、と言いますが、とても残念です。

2012年11月10日、牧野 紀之


      関連項目

絶版書誌抄録

朝日のいじめ論

2012年09月25日 | ア行
 朝日新聞がいじめ問題で「いじめられている君へいじめている君へいじめを見ている君へ」というテーマで34人の著名人への取材記事を連載しました。その最終回に次の挨拶がありました。

──いじめをテーマに各界の著名人が子どもたちに語りかける連載は、本日(8月17日)付の最終回までに総勢34人を紹介してきました。

 連載は、大津市の中学2年生男子(13)が自殺した問題で、いじめに社会的関心が高まっていることを受け、7月14日付朝刊でスタート。スポーツ選手、作家、医師、タレント、学者……。さまざまな立場の人に、それぞれの体験談や意鬼を語ってもらいました。

 どうしてもこの間題に発言したいと、出張の日程をずらして取材に応じてくれた人、重病の家族を見舞いながら原稿を寄せてくれた人もいました。散々悩んだあげく、「もっと長い文章でないと、白分の考えを表現しきれない」と取材を受けるのを断念した人もいました。

 連載をまとめた本「完全版いじめられている君へいじめている君へいじめを見ている君へ」が9月20日に全国の書店で発売されます。新聞未掲載の文章や、2006年の同趣旨の連載も収録した集大成です。予価1千円(税込み)。(8月17日)(引用終わり)

 朝日紙はなぜこのテーマで取材したのでしょうか。私にはこれが疑問です。そもそも朝日は社説でこう述べていたはずです。「学校ばかりに責任を負わせることはせず、その地域で暮らす大人たちがいじめの問題に取り組むきっかけにする。子どもたちの異変に気づく機会を増やすことを考えたい」と。

 それならば、「学校へ」と「地域の皆さんへ」というテーマで取材するのが先ではないでしょうか。なぜ子どもたちへのメッセージを、いや、それだけを特集するのでしょうか。私にはこれが分かりません。

 私は「著名人」ではありませんんから朝日から取材を受けませんでしたが、もし受けたとしたらどうしたかと考えました。自分で書けるならば、「受けて、このテーマに関係なく自説を書く」が答えでした。載せてもらえるかは分かりませんが。

 ともかく、こういう企画を立てる事の中に朝日のこの問題への態度が出ていると思います。

 この34人の中で注目したのは斎藤孝氏でした。この事は回を改めて書きます。


いじめ問題の本

2012年09月23日 | ア行
           伊藤茂樹(駒澤大学教授)

 いじめがまたも問題化している。1980年代初めに社会問題となったいじめは、その後90年代中頃、2006年とそれぞれ自殺を機に問題化し、やがて沈静化することを繰り返してきた。しかレこの間、いじめの解明が進まなかったわけではない。30年の経緯を含めていじめ問題を概観するために、加野芳正『なぜ、人は平気で「いじめ」をするのか?』(日本と書センター)を薦めたい。

 人は昔からいじめたりいじめられたりしてきたが、いじめという言葉(名詞)はなかった。この言葉が使われ始めたのは80年頃で、昔からあっても特に関心を引かなかった現象を新たに問題と見なすようになったため、それを表す名詞が必要になったのだ。以後、いじめに関わる個々の子どものパーソナリティより、学校など、いじめが発生する「場」の問題と見る方向での探求が進んできた。

 学校の意味変化

 ここでは、森田洋司らによる「いじめの四層構造」が定説になった(『いじめとは何か』中公新書)。これは、被害者を中心に加害者、観衆(はやし立てる)、傍観者(見て見ぬふりをする)が同心円状に取り囲み、それぞれがいじめに関与していると見る。

 いじめの発生を社会学的にモデル化するアプローチを精緻に展開したのが内藤朝雄だ。『いじめの構造』(講談社現代新書)では、加害者の「全能感」を現実化する「群生秩序」(群れの勢いによる秩序)がいじめの発生と加速を促すことが説明される。

 昔からあったいじめがここ30年の間に社会問題となったのは、昔よりいじめが悪質化したからでも、自殺が起こり始めたからでもない。80年以前の壮絶ないじめの体験談はいくらでもあるし、それを苦にした自殺もあった。80年代以降の背景としては、いじめの主な発生場所である学校の意味の変化がある。情報化、消費社会化など社会の変化によって、かつて学校にあった輝かしさやありがたみは薄れた。なのに学校は変わらず、今も子どもに全人格的な帰属を強いるため、子どもが感じる閉塞感は増大し、学校内での問題行動が深刻化した。こうした文化的背景について、80年代前半に書かれた小浜逸郎『学校の現象学のために』(大和書房・品切れ)は今なお説得力がある。

 学校内外で子どもが生きる世界、特に人間関係のあり方も重要であり、土井隆義の論考が示唆に富む。互いに気を使い、察し合って「空気を読む」「優しい」関係と、自己への過剰なまでの関心が絡み合ったひとつの帰結としていじめがある。『友だち地獄』(ちくま新書)はこれを読み解いている。

 先行世代の責任

 こうした人間関係も含めて、子どもの間でのいじめの蔓延は、子どもに先行する世代と、彼らが作ってきた社会に由来する。先行世代が善意に基づいて子どもに送る多くのメッセージのうち、これを自覚していないものは自己満足に過ぎない。

 では、いじめにどう向き合えばよいのか。ひとつのヒントは国際比較にある。上述の森田らの国際比較によると、やはりいじめが深刻なイギリスやオランダでは、中学生になると傍観者は減って仲裁者(止めに入る)が増えるのに対して、日本では逆に傍観者が増えるという。空気を読み、大勢に順応するのが「大人」の振る舞いだという日本的な規範をしっかり身につけていく子どもがいじめを加速している。これを反転させることこそ先行世代の役目ではないか。

 いとう・しげき 63年生まれ。編著に『いじめ・不登校(リーディングス日本の教育と社会第8巻)』。

 (朝日、2012年09月09日。書評欄)

いじめ(02、朝日社説・生徒の死と向き合う)

2012年09月22日 | ア行
 なぜ、少年は自殺したのか。

 多くの人が胸を痛めているなか、教育現場や警察がなんとも情けない混乱に陥っている。

 昨年(2011年)10月、大津市で中学2年の男子生徒が自宅マンションから飛び降り自殺した。

 生徒の遺書はなく、直後から遺族の求めで学校は在校生にアンケートを実施した。

 「自殺の練習をさせられていた」「先生も見て見ぬふりをしていた」。友人らはそう回答したが、市教委はそれを公表せず、翌11月に「いじめはあったが、自殺との因果関係は不明」と発表し、調査を打ち切った。

 市教委は「伝聞の回答が多く、十分な調査ができなかった」とした。だが越直美市長が
その対応ぶりを批判すると、市教委は一転、アンケートは2回あったことを明らかにした。

 それには「葬式ごっこ」などという言葉もあったが、遺族には伝えていなかった。後手後手にまわる対応には組織防衛と責任逃れの姿勢が目につく。

 越市長は自殺の背景を調べるため、専門家による調査委員会をつくり、いじめの実態を改めて調べることを決めた。

 その矢先、滋賀県警は学校と市教委を家宅捜索した。昨年9月の体育大会で、同級生3人が生徒の手足を縛り、口を粘着テープでふさいだ暴行の容疑だ。

 いじめが背景にある事件では証拠の任意提出を受けるのが一般的で、強制捜査は極めて異例だ。教諭のノートなどを押収したが、それは任意で提供を求めてもよかったのではないか。

 県警は生徒の遺族から3回にわたって相談を受けながら、被害届を受理しなかった。そのことへの批判をかわすため、強制捜査に乗り出したと思われても仕方がないだろう。夏休みに在校生らの事情聴取を進めるというが、保護者の立ち会いのもとで慎重な捜査を求めたい。

 1人の少年の死に真正面から向き合おうとしているのか。

 教育現場や警察の混乱ぶりに目を奪われがちだが、重要なのは、なぜ生徒の自殺を防げなかったのか、ということだ。どの時点でSOSに気づくことができたのかをきちんと顧みれば、自殺を防ぐ手立てにつながるだろう。

 それは大津市の立ち上げる調査委員会に期待したい。専門家だけでなく、委員には校区の住民もいれるべきだ。

 学校ばかりに責任を負わせることはせず、その地域で暮らす大人たちがいじめの問題に取り組むきっかけにする。子どもたちの異変に気づく機会を増やすことを考えたい。

(朝日、2012年07月13日)

感想

 新聞の社説と言うのは、問題を「かなり」総花的にまとめてくれると思います。もちろん自分の知っている事などでは、「落ちている点」「落としている点」などもある事が分かりますが、知らない問題については、一応の出発点にはなると思います。私はそういう観点から社説を読みます。

 今回も結論を見れば分かるように、観点がお粗末ですし、そもそも熱意があるとも思えません。しかし、出発点としてともかく引いておきます。これから、いじめ問題を何回か取り上げます。

移轍(いてつ)とは何か

2012年09月20日 | ア行
 関口存男(つぎお)さんが初めて定式化したと思われる文法現象に移轍という現象があります。しかし、氏はこれについては雑誌『基礎ドイツ語』(三修社)の1952年4月号に詳しい論文を発表しただけでした。その後この論文が何かの本に収録される事はありませんでした。

 真鍋良一さんの編集で出ました雑誌『ドイツ語研究』(三修社)の第1号(1979年12月刊)にはその論文がそのまま再録されましたが、その雑誌は売れませんでしたし、雑誌自身が2号かそこらで終わってしまったはずです。そのためほとんど知られていません。

 その現象自体は難しいものではありません。読んで字の如く、Aという轍(わだち)を走っていた列車がBという別の轍に移ってしまうことです。文にも同じようなことがあるというのです。しかも、たまにあるという程度ではなく、沢山あるというのです。関口さんはこれを詳細に検討し、許されるものと許されないものなどに分類して論じています。氏らしい徹底性です。

 詳しくは近刊予定の拙著『関口ドイツ文法』に譲るとしまして、概略の概略の概略でもご紹介しておこうかと考えた次第です。

 関口さんが説明のために取り上げた実例は次の通りです。

 問い・Hast du noch Geschwister, Kleine ? (お嬢ちゃん、兄弟はいるの?)
 答え・Nein, ich bin alle Kinder, die wir haben.(家の子は私だけです)

 この「答え」の言い方が「移轍」なのです。なぜ、どういう風に移轍なのかを説明します。「子どもは私1人です」という意味の事を表現するのに、ドイツ語では差し当たっては2つの言い方があります。

A: Ich bin das einzige Kind des Hauses.
B: Das sind alle Kinder, die wir haben.

 子ども自身の立場で言うならばAと言うべきですが、親が言うならばBになります。Bは直訳するならば「子どもはこの子1人です」です。

 これを確認すれば、この子の答えがAで始まったのに、途中からBに移ってしまったことがお分かりでしょう。つまり移轍なのです。

 一般化しますと、同じ事を言う言い方として2つ(以上)の言い方がある場合(大抵そうです)、或る言い方で言い始めたのに、途中からもう一つの言い方に移ってしまう事です。

 この現象には国語学者の三上章さんも気づいていました。氏はこれに「途中乗り換え」という名前を付けました。名前まで実に良く似ています。氏の説明は次の通りです。

 A: 彼女があの夜のことをどれだけ苦しんだか知らない。
B: 彼女があの夜のことを苦しんだかどうか知らない
C: 彼女があの夜のことをどれだけ苦しんだかどうか知らない。

 AからBへの「途中乗り換え」でCの文が生まれる。

 日本語での最も一般的な移轍の例は「何々しない前に」という言い方だと思います。「何々しない内に」から「何々する前に」へと移轍したのだと思います。

 芥川の『杜子春(とししゅん)』の最後に次の文があります。

 ──その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやり佇んでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶え間ない人や車の波、──すべてがまだ蛾眉山(がびさん)へ、行かない前と同じことです。──

 この「行かない前」とは「出発していなかったかつての時」という意味なのでしょうか。そうだとすると整合的とも言えると思いますが、普通は「行く前」の意味だと思います。つまり、「行かない内」から「行く前」に移轍したと取れると思います。

 さて私の気になっている例を1つ出してみます。赤川次郎さんが朝日紙にコラムを書いていたのですが、或る時、次の文に出会いました。「そして今年、3年ぶりの舞台がイプセンの『人形の家』とあっては、どうしても見逃せないものだった」。

 「どうしても見逃せない」と言う言い方があるのでしょうか。「どうしても」という副詞と「見逃せない」という否定のつながりが気になるのです。『明鏡』を引きますと、「どうしても思い出せない」と「どうしても見たい」とが載っています。後者も「どうしても見えない」と言えば、あるでしょう。

 つまり、「どうしても」が否定に続く場合は「出来ない」という場合だけらしいのです。しかもその場合は、「どうしても」とは「どんな事をしても」という意味でもその「しても」は時制としては現在完了的だと思います。

 それに対して、意思の場合は「どうしても何々しなければならない」「何々したい」と肯定形しかないのだと思います。又、同じ「どんな事をしても」でも時制としては未来か未来完了だと思います。

 つまり、先の赤川氏の文は「どうしても見なければならない」という言い方から、「絶対に見逃せない」に移轍したのだと思います、本来的には。

 しかし、これはあくまでも「本来的には」の話で、今ではこのように「絶対に」という強調の意味で「どうしても」を使う事も増えて来ているので、こういう表現もおかしいとは感ぜられなくなっているのだと思います。

 自信がある訳ではありませんが、問題提起とします。

付記

 目次を調べていたら、既に赤川さんの文については論じていましたが、今回の考えを書いたので、このままにします。

      関連項目

赤川次郎

イスラエルからの援助の申し出

2012年09月07日 | ア行
                           石合 力

 7月末、日本に一時帰国した際、イスラエルのベンシトリット駐日大使から、こんな話を聞いた。

 昨年(2011年)3月、東京電力福島第一原発の事故が起きた際、日本政府に対し、イスラエル製無人機の活用をいち早く進言していたというのだ。

 中東のシリコンバレーとも言われるハイテク国家イスラエルは「テロ、治安対策」から無人機の開発を進め、米国と最先端を競う。映像情報を送る昆虫大の超小型機。路上の不審物を破壊する小型戦車。イスラエルと敵対するイスラム勢力ハマスの幹部らを上空から識別し、その場で暗殺できる攻撃機もある。

 大使によると、3・11から数日後、以下の無人機の活用を申し出たという。

 ①原発上空から撮影と放射能測定ができる小型航空機
 ②原発内部に入り、映像を撮影できる小型車両
 ③原発に冷却水を注入する配管を上空から敷設するためのヘリコプター

 「国家の非常時にあらゆる手だてを尽くすのは当然のこと。日本政府関係者は皆、考えに賛同してくれた。でも、だれも使うことを決断しなかった」と大使は振り返る。

 経緯を知る外務省高官によると、首相官邸の対策チームに大使からの非公式の打診として伝えたが「必要性はない」との結論だったという。

 確かに事故直後から、米空軍の無人偵察機グローバルホークが上空から原発を撮影していた。ただ、同機に比べ、小型無人機ならばるか近くに接近できる。そのころ、原子炉を冷却するため、東京消防庁の職員らは地上から、自衛隊の有人ヘリは上空から、文字通り命がけで水をまいていた。無人ヘリを使って、外部と原子炉をつなぐ注入管を敷設できたならば、事態は違っていたのではないか…。

 輸送時間や技術的な問題を含め、仮定の話である。無人ヘリによる配管作業の可能性について、この高官は「聞いた覚えがない」と話す。そもそも、日本にも無人機技術はある。日本製の無人機や小型車両による原発の上空、内部の撮影は、その後実現した。大使はいう。「こちらが伝えたアイデアが2週間くらいたってから、実行された」。

 1970年代の石油ショックと、産油国のボイコット戦略を恐れて、控えめだった日本の対イスラエル外交は1993年のオスロ合意で中東和平が動き始めてから変わった。「アラブか、イスラエルか」ではなく、「アラブともイスラエルとも関係を強化する」方向に舵を切った。米国の同盟国イスラエルと積極的な情報共有をすすめ、情報機関モサドと日本の内調(内閣情報調査室)は、トップ同士が会う関係にある。今年は、両国の国交樹立60周年。その関係は非常時に、どこまで生かされたのだろうか。

 イスラエルが真っ先に手をさしのべた理由は外交戦路上の利害だけではないはずだ。第2次大戦中、リトアニアの領事館でユダヤ人約6000人に日本の通過ビザを発給した外交官杉原千畝(ちうね)。「日本のシンドラー」スギハラの名前は、エルサレムのホロコースト博物館に残る。

 「スギハラの恩返し」は無人機提供としては実現しなかった。ただ、無人機とは別に、大使が日本側に申し出た医療支援は、宮城県南三陸町で例外措置として認められ、イスラエル軍医療団約50人の活動として実現した。
  (朝日、2012年08月20日。中東アフリカ総局長)

 感想・原爆を持っている事は周知の事実とされるイスラエルの軍事力のレベルに驚きました。もちろん実際はこれ以上でしょう。

「家庭医」を育てよう

2012年07月16日 | ア行
             井伊 雅子(一橋大、国際・公共政策大学院教授)

 東日本犬震災の後、被災地では、多くの高齢者が避難生活を強いられ、徒歩圏内
に医療機関のない場所で暮らしでいる。必要なのは、高度な専門治療よりも、日常的な健康相談を受けてくれる「プライマリケア(一次医療)」だ。

 具体的には、風邪や生活習慣病の管理、在宅医療、栄養指導などで支えになる医師とそのチームだ。全国から多くの医師が被災地に入ったが、日常的なケアを継続して提供できる医師は少なかった。こうした地域医療の課題は、被災地に限った問題ではない。日本全体の医療制度の問題が凝縮されている。

  身近に相談できる医師を

 これまで医療制度改革は、病院に焦点をあでた時代が続いた。各地に大学病院と大規模病院が整備され、がんや心臓病など重い病気の治療に注力した。膨張する医療費には、入院日数を減らすことや診療報酬の調整で対応してきた。臓器別・疾病別の医学は進歩し、何らかの細分化された専門を持つ医師が高く評価された。その結果、専門医療を提供できる環境と人材は充実した。

 だが、日常的、慢性的な病気では、身近に相談できる医師を探したくても、どうすべきかよくわからず、結果的に、都合のいい時にコンビニのように病院を利用する人も多い。軽い頭痛から重症の患者まで総合病院を訪ね、医師は当直中に一睡もできず、疲弊していく。医療費にも負担としで跳ね返る。医師と患者のコミュニケーションも乾いたものとなった。

 単に医師の数を増やすだけでは、医師が疲弊している現状の根本的な解決にはならない。大切なのは、病気の重さで医療機関の役割を分担する制度と、患者や住民の日常生活にも目を配り、初期的な体の変調に対応できる専門家、つまり家庭医の育成だろう。

 家庭医とは、幅広い診療科目にわたってプライマリケアを担える医師で、「家庭医療」の後期研修マースを修了した専門医だ。日本で家庭医というと、専門分野でキャリアを積んだ医師が晩年に手がける二流分野のように誤解されているが、欧州や豪州、カナダでは、もともと家庭医を専門とする医師が全体の約半分を占める。患者とのコミュニケーション、あらゆる疾病の可能性を診る横断的な知識・技術、家族や生活の状況まで考慮する複眼的アプローチなどの能力を専門的に磨いた集団として確立されている。

 大きな病気で退院した後にも、自宅療養や介護の相談に乗る。患者をみとり、家族を癒やす。家庭医が増えれば、高度医療を受け持つ大学病院などの専門医たちは、自分たちの分野に集中できる。

  世界の潮流から遅れ

 日本でも昔は地域に密着した「町医者」が多かった。しかし、1960~70年代から死因に占めるがんや脳卒中の割合が増え、医師の専門分化が進んだ。一方、英国などでは60年ほどかけて家庭医を定着させてきた。台湾では1999年に起きた大地震後、プライマリケアが受けられない被災者が多く生まれ、家庭医の育成を制度化した。カナダ、オーストラリア、韓国、シンガポールなどでもプライマリケアが確立されている。

 日本は、プライマリケアの機能を教育や制度に位置づけていないユニークな国となってしまった。団塊の世代が引退期に入り、10年後には、大量の慢性病患者や在宅医療ニーズが出てくる。その前に、まずは専門の家庭医としで一定の質を持った人材を育てることが必要だ。今の開業医がプライマリケアの技能を身につけるような仕組みも必要だ。

 これに伴い、医師の報酬制度も議論が必要だ。英国では、家庭医が、薬の処方や検査の量で報酬を受けるのではなく、いかに地域全体の疾病管理の質を高めたかで報酬が決められる。

 経済協力開発機構(OECD)の調査によれば、年間にCT検査を受ける人は100万人当たり日本が97人なのに対し、米国34人、韓国37人、英国7人。日本にはCTなどの高額医療機器が世界平均の5~10倍あると言われる。抗生物質の使用量も突出。検査や薬の処方で病院経営を成り立たせている面がある。

 こうした状況を改善するには、検査や薬の量ではなく、日常的な医師のサポートによって患者が安心するシステムへの変革が必要だ。手始めに、家庭医療を修めた医師が集まって自治体の持っている診療所や病院で家庭医療を始めたら、地域住民の利益となるはずだ。

 家庭医療の先進国では、1人の家庭医が2000人程度の地域の患者を担当している。地域住民全体の健康問題を対応することで報酬を得ており、検査や投薬をむやみに増やして病院経営を安定させるという発想は皆無だ。世界の潮流に乗り遅れている日本が手をこまぬいている余裕はもうない。

 (朝日新聞Globe、2012年07月01日。構成・宮地ゆう)

     感想(その1)

 私が定期的に通っている診療所(市立)の医師はこの「家庭医」にかなり近いように思います。しかし、私がここに通うようになったのは偶然で、それまでは「診療所に行く」という認識は全然と言って好いほどなかったと思います。

 また、この診療所に通う住民の数も減っているようです。その内、閉鎖ないしどこかとの合併もあるかもしれない、と言われています。

 現在の体制の中で出来るだけこういう家庭医的な人と診療所を増やし、かつ住民に「病院に行く前に先ず診療所に行ってください」と呼びかけることも必要でしょう。

 又、年に1回の「特定健康診断」はここでは受けられないようです。そうだとすると、こういう診療所の権限を高める必要もあるのかもしれません。

関連項目

健康法

     感想(その2)

 「家庭医」的な考え方は学校教師についても言えるのではないでしょうか。先生は小学校では担任が原則として全ての教科を教えますが、中学以降は「教科担当制」で、クラス担任はいますが、いわゆる勉強はその教科の専門教師が教えます。最近は小学校でも高学年になると、「教科担当制」が導入される所もあるようです。

 しかし、私見では、教科の中に入らない事でも学ぶべき重要な事があると思います。「教科担当制」ではそれが落ちてしまいます。これに対する解決策として、私は、小学校の5年生から大学2年生までは「教養」という時間を週に1時間(1コマ)必ず受けるようにしたらどうかと思っています。

 誰が担当するかと言いますと、全教員が交代で担当するのです。大体1人で1学年の「教養」を全て持つとして、それを担当している間は教科の担当からはずれるのです。なぜなら、これは私の『哲学の授業』にあるような授業形式でやると好いと思いますから、そうすると、準備も教科通信の作成も大変だからです。

 もちろんこれを導入するには、教員養成課程にその準備となるような事を入れる必要があるでしょう。ですから、導入は大変ですが、現在の教育を根本的に変革する1つの方策だと思っています。

       関連項目

『哲学の授業』

教科通信「天タマ」


私にとってのオウム事件

2012年06月17日 | ア行
 一昨日の6月15日は60年安保闘争における「6・15事件」の記念日でした。樺美知子さんがデモ隊と機動隊の衝突の中で殺されたあの事件です。今ではあれは「歴史」になったようで、若い人たちは歴史の時間に習ったり習わなかったりのようです。

 かつては6月15日には国会の南通用門の脇に花束を捧げる人たちがいて、16日の朝刊にはそれが写真と共に紹介されたものでしたが、最近は見かけなくなりました。今年も、私は目にしませんでした。多分、そういう事をする人たちが高齢化して止めたのでしょう。

 しかし、60年安保闘争前後の経験を理論的に説明する事を中心的問題意識としてきた、と言うより、そうなってしまった私にとっては、いつまでも6月15日と、特に11月27日は必ず感慨に浸る日となっています。詳しくは「60年安保──歴史のために」に書きました。

 今年はその6月15日に、オウム事件の特別手配人物で最後に残った高橋克也容疑者が逮捕されるという事件がありました。私はオウム事件には特別の関わりはありませんが、1つだけ報告しておきたい事があります。それは1995年の3月20日にオウムによる地下鉄サリン事件が起きた時、そしてその後、そのサリンを作った人たちが「大学の特に理工系の学部を優秀な成績で卒業した」という事が分かった時、世間は「大学が勉強だけで成績を付けるからこうなるのだ」といった論調が見られた事です。

 例によって例の如く、その論調は深められる事もなく、その後忘れ去られましたが、私は忘れることはありませんでした。先ず第1に思った事は、「勉強で成績を付けなかったら、何で成績を付けるのかな」ということです。

 世の中の問題はたいていnot ... butの構文になっています。notだけ言ってbutを言わない、あるいは言えない人が多すぎます。世の中が好くならない大きな理由の1つがこれです。民主党はbutを言いましたが、実行できませんでした。政権が自民党に戻っても同じでしょう。だから多くの国民は政治に期待が持てないのです。社会主義はbutを実行して見せましたが、そして中には良い点もありましたが、全体としてはnotより悪いものでした。

 私は幾つかの学校で非常勤として授業を持ちました。教師生活の前半は「皆に分かってもらおう」という考えでした。これが間違いでした。経緯は省きますが、1度辞めた後に1990年代に再度教壇に戻ってからは、「トップレベルの人を失望させない」という方針に替えました。そして、成績の基準として「学ぶ姿勢が出来ている事は前提とする」という方針を打ち出しました。これがあちこちの学校で問題を引き起こしました。なぜなら、勉強は1番出来る生徒でも、「学ぶ姿勢が出来ていない」という理由で「不可」を付けることが何度か起きたからです。

 T私立大学では一部の職員と教師が一緒になって「これはおかしい」と噛み付いてきました。幸いその大学のドイツ語科ではまともな教員が多かったので、「担当教員の裁量権」ということで終わりました。しかし、或る教員(主任だったかな)が拙宅に電話をかけて来ました。私は「オウム事件の時、勉強だけで成績を付けることが問題になったのではありませんか」と言いましたら、相手は、「オウムなんか関係ない」と怒鳴りました。

 国立のS大学では、「成績に納得できない時は1度だけは質問を受け付ける」としてありますので、本人から問い合わせがありました。そこで、その人の書いたアンケートをコピーして送り、「これを見せて親と相談してほしい」と書きました。彼は実行したようで、「親からは『意地を張らないで、単位を落とさないように』と忠告された」と書いてきました。

 しかし、彼はその後、大学当局に投書をして訴えたようです。副学長から「話をしたい」との連絡があり、会いました。そしたら、「当人の成績を他の学科についても調べたが、非常に優秀である。『学ぶ姿勢が出来ている事は前提とする』という条件を止めてくれないか」とのことでした。

 私は、「外国の事はいざ知らず、日本の大学は東大を含めて皆、実態は専門学校だ」と考えていますが、「S大学もやはり専門学校だったのだな」と納得したものです。何しろ「学ぶ姿勢」が出来ていなくても、勉強さえできればよい、というのですから。

 看護学校でも私のこの条件は物議を醸しました。そもそも看護学校では非常勤の講師が不可を付けるなどということはないようなのです。それなのに、そういう理由で不可を付けるのですから、「哲学の先生は怖い先生だ」という噂が立つわけです。哲学ではドイツ語と違って真面目に自分の意見を書いていれば、不可にはしないのですが、なぜか私を嫌ってくれて、それを態度に出す生徒が出るのです。真の原因は担任にあるのは分かっているのですが、それを言ってはお終いです。

 まあ、オウムというと私はいつもこの問題を思い出します。今回、オウム事件に一区切りが付いたとか言われていますが、かつて問題になった「大学が勉強だけで成績を付けるから悪いのだ」という点はどうなったのでしょうか。熱しやすく忘れっぽい日本人の皆さんは、自分のこの発言を思い出さなかったようです。

          関連項目

60年安保

親の仕事

友の死(レオポルト・ヴィンクラー)

2012年05月06日 | ア行
        これは『関口存男の生涯と業績』(三修社1959年)に収められたヴィンクラーさんの追悼文(原文はドイツ語で、Der Hingang eines Freundes)の翻訳です。

ヴィンクラーさんに対する追悼文集「悼慕(とうぼ)」(横浜国立大学独乙研究会1962年)に木山学氏の訳が載っていますが、自分でも訳してみたいと思いましたので、訳出しました。そして、その文集から2つの文章を付録としました。それによると、ヴィンクラーさんは1889年11月10日に生まれ、1962年4月3日に亡くなったのでした。今年で逝去50周年というわけです。

 「悼慕」そのものはpdf化して「絶版書誌抄録」の「その他」に収録してあります。これは或る読者がインターネットで探し当ててくれました。ネット時代のありがたさです。

 そう言えば、ヴィンクラーさんの『真意と諧謔』(Ernst und Scherz、1950年)は幻の書でしたが、これもネットのお蔭で見つかり、ついにコピーを入手する事に成功したのでした。こちらもpdf化して「絶版書誌抄録」の「関口系、中級篇1」の中に入っています。

 その「悼慕」の該当箇所を見ますと、この訳文は「ウィンクラー先生作品」という名目の所に載っています。他の作品は載っていません。ということは、『真意と諧謔』は当時既に幻の書になっていたのでしょうか。とにかく学生たちにも知られていなかったと推測せざるを得ません。これを探し当て入手したことはとても好かったと思います。

 先日その中の1篇「晩年のゲーテの1日」を訳出しましたが、皆さんが他の作品を訳して下さることを希望します。

 2012年5月6日、牧野 紀之


          友の死(レオポルト・ヴィンクラー)

 「関口さんが亡くなりました」という悲しい知らせが軽井沢にいる私の所に届いたのは昨年[1958年]の夏のことでした。いつも通り平穏な生活をしていた私にとってそれはまさに青天の霹靂でした。

 身近な人の急死は誰にとっても「どうして?」としか思えない受け入れがたい出来事です。信州の山の中に独居していた私も悲報を伝える簡潔な葉書を手にしたまま立ちすくみました。長い間親しくしていたかけがえの無い友がこんなにも突然他界するとはと、どうしても気持の整理が付かず、ただただ茫然自失するばかりでした。

 最後にお会いしたのは[1958年1月に亡くなった]奥様の棺の前でした。この時は関口さんも茫然自失の体(てい)でした。思えば、それ以前から既に我々は会うことが少なくなっていました。慶応大学での講義の日が別でしたし、互いに遠く離れて住んでいましたし、それに歳を取ると誰でも多かれ少なかれ孤独に成って行くものですから。

 そうはいっても、奥様の死を知らされた時はもちろんお通夜に駆けつけました。そして、心からの哀悼の意を表し、お別れの言葉を伝えました。長い闘病生活の間にも何回かお見舞いに行きましたが、そのたびに聖母マリアのような忍耐強さと運命を甘受する潔さを以て苦しみに耐えているお姿を見て、心を動かされました。と同時に、敬愛する人の衰えて行くのを止められない無力感をどうしようもありませんでした。実際、関口夫人は日本女性の全ての美徳を一身に体現したような方でした。人としての優しさにおいても、夫へ寄り添う姿においても、日本女性の鑑(かがみ)でした。その奥様が亡くなったのです、長患いの後に。棺の傍らで私を迎えた親友の言葉はただ一言、「一巻の終わりだ」でした。

 この言葉には愛する人との永遠の別れをどうしても受け入れる事の出来ない苦しみが出ていましたが、同時に、取り乱さないように何とか堪(こら)えているのも分かりました。私には仏教での死の解釈を語り、子ども達には「お母さんの魂は今でも傍(そば)にいるのだから、余り泣かないように」と諭していました。しかし、この言葉から聞こえて来たのは、そのような言葉では慰めにもならない事を知る者の絶望でした。そこに立っていたのは、全精力を奮い起して気を落ち着かせようとしているにも拘わらず、妻の死という現実には抗し難く心の支えを失った男の姿でした。

 そして、その後まもなく、死は彼自身の心臓を襲ったのでした。まるでかの中世の神秘劇「各人」(Jedermann) が現実世界で起きたかのようでした。逝去を知らせる葉書を手に私は自問しました。彼は自分自身のこの世からの別れという残酷な事実をどう受け入れたのだろうか、どんなことでも理屈できちんと説明しなければ気の済まなかった関口さんは、死に行く自分をどう慰めたのだろうか。あるいは死の魔手に余りにも急に捕まったので自分の死について思いを巡らせる時間的余裕がなく、自分に対しては「一巻の終わりだ」と言うことは出来なかったのだろうか。

 関口さんが死んだ。この知らせは、旧友の死に接するといつもそうであるように、私自身の死ももはやそう遠い事ではないという事実を警告してくれましたが、それだけではありませんでした。これは何よりもまず、この日本で関口さんと共に過ごした若き日々の哀愁を帯びた思い出につながるものでした。

 彼が初めて私を訪ねてきてくれたのは1917年のことだったと思います。当時、二人は共に上智大学に通っていました、彼は学生として、私は教師として。その上、二人共大久保に住んでいて、すぐ近くだったのです。目の前に座っている姿が今でもまぶたに浮かびます。細身で健康がすぐれているとは思えない青年でした。ようやく結核が癒えたばかりでした。そのために陸軍将校への道を諦めたのでした。

 関口さんのドイツ語の並はずれた物であることはすぐに分かりました。実際、陸軍幼年学校で2,3年勉強しただけでこんなにも完璧なドイツ語を物にする事が出来るとは、俄かには信じられませんでした。関口さんには又、鋭い知性と生き生きした心と優れた能力がある事も直ちに分かりました。青春を目いっぱい楽しみ、活力豊かで、未来に希望を持って生きている青年であると同時に、人生から少し離れて批判的に、あるいはまた皮肉な目で見る態度をも併せ持っていました。これが実に魅力的だったのです。

 関口さんは当時まだ新婚ホヤホヤで、生まれたばかりの長女を合わせて一家3人で、すぐ近くに住んでいました。自然に交際が始まりましたが、ほとんど私の方が彼を訪ねるという形でした。小さく質素な家に伺ったのですが、そこで奥様を知り、尊敬するようになりました。

 外(ほか)の友達も何人か定期的に集まっていました。作家とか画家とか映画俳優とか新劇関係の人とかでした。やがてそこから若いボヘミアン・グループが生まれました。皆、物質的には貧しくとも、将来に大きな夢を持ち、自分達の生活を作り上げようと意気軒高だったのです。

 外国人であり、本来はアウトサイダーである私にとっては、こういう仲間が偏見もなく受け入れてくれ、同志として認めてくれた事は、日本での最初の生活での最大の喜びでした。興味を持ったからこそ来た日本で、この国の人たちとこのような心の結びつきを得る事以上の願いはなかったからです。関口さんとその仲間たちは私にまさにこの絆を与えてくれたのです。外国の街・東京に来て初めは人間的なつながりもなく見捨てられたような気持になる事もありましたが、この仲間たちと一緒になってからは、そういう事もなくなりました。それどころか、何の繋がりもない外国にいるのだという事を忘れてしまう事もしばしばでした。

 狭い部屋で、畳の上に、小さな机を囲んで座り、語り合いました。芸術や文学の事、言葉の問題、芝居の話などの外に、個人的な事柄も話題になりました。奥様はちょっとしたものを出して下さり、いつも後ろに控えていて、その様子は柔和な影が周りに浮んでいるような感じでした。この集まりは快いものであっただけでなく、人間として成長できるような有意義なものでした。

 もちろん一座の精神的支柱は関口さんでした。その卓越した見識で皆を引っ張り、批判精神旺盛なジョークを飛ばしていつも座をなごませ、楽しい集いにしてくれました。特に私にとってはこの夕べは特別の幸福でした。なぜと言って、外国で疎外されている苦しみを忘れさせてくれたからです。

 このグループからはその後、新劇の世界との結び付きも生まれました。踏路社(とうろしゃ)という新劇集団の稽古に関わるようになり、神楽坂にみんなしてよく出かけたものです。ヘッベルの「マリア・マグダレーナ」とか、ヴェデキントの「春の目ざめ」といった西洋の演劇を上演しようと必死に努力している若い人たちに助言をし、指導をしてさし上げました。当時既に有名になっていた女優の松井須磨子とか劇作家の坪内逍遥などと知り合ったのもこの時でした。

 この劇団と他の劇団が一緒になってその後、築地小劇場が生まれました。ここでも文学と劇について関口さんは求められるままに助言を惜しみませんでした。彼は演劇が本当に好きで、後には共同演出家の1人となったこともありました。しかし、結局は語学の仕事に集中する事になったので、そういう余技のための時間が取れなくなり、終わってしまったのです。

 私には関口さんの語学について評価する意志もなければその資格もないと思っています。しかしドイツ語は私にとっては母語ですし、日本の大学でドイツ文学のほかにドイツ語の授業をも担当してきた者として、彼のドイツ語学について一言も述べないわけには行きません。それは、率直に言って、実に感嘆するしかない程完璧なものでした。私の短くない日本滞在中ドイツ語学で彼に比肩しうる人にはついに1人も出会いませんでした。個人的に話をしていた時にもそう思いましたし、又手紙を受け取る度にドイツ語の文章構成法と言い廻しに精通している事に舌を巻きました。無数の語句をマスターしており、それをまた巧みに操るのです。その上更に、自分で新しい表現を作り出したりもするのです。しかも外国語では母語でよりもはるかに難しいジョークや皮肉まで使って手紙を書くのです。

 その後中年にさしかかった頃から、関口さんは語学関係のちょっとした仕事や文法や教科書や辞書など、根気と集中力を必要とする仕事を始めました。この方面での成果は関口存男という名前を日本におけるドイツ語学の歴史に永遠に残すことでしょう。その頃の彼はいつも書斎に座って仕事に没頭していて、会うのは少なくなりました。

 それでも、夏には軽井沢の私の家を訪れてくれることもありました。会うと決まって、大久保のあの狭い家での若かったころの話になりました。二人の友情を大切にしてくれて、「会えて嬉しい」と言うその様子は、いつまでも青春真っただ中のあの頃のままでした。死の少し前には、まだ生きている旧友を集めてもう1度楽しい夕べを過ごしたいものだとも語っていました。

 その願望も彼の急死によって果たせぬ夢となった今、私はただただ関口さんがあの世でも、大久保の小さな家でと同じように理解ある親しい仲間との心楽しい集まりを楽しんでいてくれる事を願うばかりです。

 関口さんの死で私の心の中には何かポッカリと大きな穴が開(あ)いたような気がします。関口さんのいない日本などというものは私にとってはどこかが欠けた器のような物です。たしかに最近は会う機会も少なくなってはいましたが、彼の事はいつも意識していましたし、彼の事を思い、彼の生活がもう少し楽で幸福なものであってほしいといつも願っていました。と言いますのも、親友の私には私生活上の事も打ち明けてくれていて、生活が必ずしも楽ではない事を知っていたからです。その事で私は暗い気持になりました。彼は寄る年波もあって性格が少し陰鬱になり、敢えて言うならば、時には愚痴をこぼす事さえありました。

 それでも関口さんはその困難に雄々しく立ち向かい、あの強靭な闘争心で俗世を超越しようとしたのです。それを知っていたからこそ、奥様の棺の横で口にした「一巻の終わりだ」という言葉には強い衝撃を受けたのです。この先どう生きていけば好いのか分からなくなったのではないか、という悲しい印象を持ったからです。そして、彼の逝去を知った今思う事は、あの時の心に受けた衝撃が彼自身のあまりにも早すぎる死と関係しているのではないか、という事です。と言いますのも、ゲーテの言葉に「死を欲しない人は死なない」という意味深長な句があるからです。

 関口さんが何の前触れもなく突然他界してしまった今となっては、私に出来る事と言えば、日本での最良の友人であった関口さんをいつまでも忘れることなく、あの不屈の自立した魂が安寧と安らぎの得られる所だと言う彼岸に無事帰郷することを祈るばかりです。彼のこの世での故郷である日本の仏教の教えに依るならば、彼岸では人は皆、慰められ、故郷(ふるさと)に還ったようなほっとした気持ちになれると言いますから。(1959年1月)

付録1・ウィンクラー氏の生涯

         ドクター・クラウス(オーストリア大使館)

 レオポルド・ウィンクラー氏は1889年11月10日に生まれ、1912年には日本の土を踏んで、その風土と人々を大変好んで、しばらくはこの地に住まうことを決心した。実際、幾度か、休暇には故国オーストリアに帰ったが、その間を含めて50年間というもの日本で生活を送ったのである。

 青年時代からウィンクラー氏は教育に関心を持ち、1915年はじめて上智大学と東京高校で教鞭をとり、後には、横浜国大、東京外語大、慶応義塾でも講義を行った。

 その教職──独会話と文学史──と並んで、彼は日本のスキーの先駆者であった。1913年設立の日本アルペンスキークラブの創立者の1人となって、今日、日本国民の幅広い階層に親しまれているスポーツとなった因をこの地にもたらした。スキー場の発見と開発に努力し、多くの日本の山々をスキーによって登ることをやってのけたのもこの人であり、それからはスキーの為に新聞や雑誌を通じて運動したのである(1)。

 ウィンクラー氏は15年間にわたって、オーストリアの主要日刊紙『ノイエ・フライエ・プレッセ』の日本通信員をつとめたり、又オーストリアの世界的名声ある詩人として双璧をなすフーゴ・フォン・ホフマンシュタール、シュテファン・ツヴァイクとも親しい交わりを持っていたのである。自身も文学活動に忙しく、1929年にその著作 "Drei Stufen neuer deutscher Dichtung", 1942年には詩集 "Libelleneiland"、それから教科書として "Anfaenderdeutsch", "Deutsch fuer Fortgeschrittene", "Deutche Gedichte", "Elementar Deutsch" 等々を出版した。

 故国オーストリアへの慕情をウィンクラー氏は気高い深い愛の気持で、生まれ故郷でもない日本に結びつけ、そこで50年もの長い年月を過ごしたのである。その間日本の文化に深く浸透しようと努めた。わけても、日本の音楽を愛好し、三味線や、尺八の音に親しんだのである。

 1957年、日本政府は教育事業の功績から、勲四等瑞宝章を授与した。55年には東京都より文化メダルを受けている。この光栄につづいて、慶応大学では、59年、名誉教授に推挙した。

 ウィンクラー氏はまた、オーストリア国民の為にも非常に骨を折り、日本のオーストリア人協会で1957年創立以来、会長の座にあった。

 オーストリアの元首は1960年、彼の故郷とオーストリア・日本の親交における功労に感謝してGROSSE GOLDENE EHRENZEICHEN[最高栄誉金メダル]というオーストリア最高の栄誉を与えた。

 日本スキー連盟でも、1961年、敬意を表して功労メダルを贈っている。

 ウィンクラー氏は1962年4月3日、突然、悲しい姿となって我々の許を去った。彼が生涯に為した仕事は、その教え子達が、今日、日本の社会、文化の面で、多くの指導的人物となっており、オーストリアと日本の人々の友好を続けてほんとうに実を結んでいる。この事実によって、我々はこの大きな喪失を慰めることができるであろう。(足立悠介訳)

(1) 1957年の勲四等瑞宝章の授与の際、朝日新聞は『人寸描』でこう書いています(「悼慕」の53頁に転載されている)。「祖国では山岳スキーの創始者ズダルスキーから直接スキー技を教えられ、45年前に富士の麓で一本杖シュテムボーゲンを公開、また五色温泉や各地スキー場の開設、インターナショナル・スキークラブの創設などに骨折ってきたのだから、有名なレルヒ大佐と共に我が国スキーの草分けでもある」。

付録2・編集後記

 麗かな春日和に爛漫と咲き乱れた桜の花。そこに物思いに沈んだ会葬者の群れ。何かそぐわない感じの外人墓地に佇んで、亡くなられた先生に対する感謝の気持ちをどのように表したらよいものかと。当初は独研部員のみによる追悼文集を作る予定でしたが、この一事が日墺親善の為に少しでもお役にたてば、先生ももっと喜んで下さるだろうと、朝日新聞の読者のひろば欄で広く追悼文を募りましたところ、遠くはバンコックから、各時代層の様々な方々から丁重な追悼文が寄せられ、孤独の中にもにじみ出た先生のお人柄が偲ばれ、編集者一同深く感動に胸を打たれました。

 日本には、御身寄の方が全然いらっしゃらなかった為、原稿の募集の際も、非常に苦労を極め、又日と共に欲が出て、故先生の唯一の肉親である妹さんにまで御寄稿を依頼しましたので、編集の終ったのが亡くなられてからなんと半年も経った十月の事。早くから原稿を寄せられた方々には非常な御心配をおかけした事と思います。心からお詫び申し上げます。
 又、お葬式の時以来、いろいろと御援助いただいたオーストリア大使館の方々を始め、一家総出で御協力をいただいた関口家の方々、佐藤先生を始め横浜国大の先生方、そして原稿を寄せられた方々、あるいは部外ながら独文印刷のお手伝いをして下さった吉田由紀子さん等、多くの方に深謝申し上げます。

 尚、原稿の中には既に発表されたものもありますが、その転載を快く許して下さった郁文堂、三修社、並びに数々の御協力を賜りました朝日新聞社、毎日新聞社に御礼申し上げます。
 出来上がったものは資金、発行部数の関係から非常に貧弱な体裁になりましたが、内容は凡ゆる人々の誠意と故先生への暖かいお気持の結晶と申せましょう。御玉稿を粗末にした事になりましたらお許し下さいますよう。

 尚、編集委員は下記の五名でした。

  足立啓介、山口厳、木山学、保坂安雄、野尻旦

 ・発行日は「1962年12月25日」となっています。

      関連サイト

「絶版書誌抄録」の「その他」


安倍晴明

2012年04月09日 | ア行
                        歴史研究家・野呂肖生
 
 安倍晴明(あべのせいめい)は摂関政治が華やかに展開していた平安中期の陰陽師(おんみょうじ)である。当時の貴族たちは運命や吉凶を気にかけて怨霊(おんりょう)におびえ、除災招福の祈祷(きとう)に頼る者が多かった。これにこたえて吉凶を判断し、呪術をおこなう人々が陰陽師で、晴明は自他ともに許すその第一人者だった。

 晴明の逸話は「宇治拾遺物語」「今昔物語集」「古今(ここん)著聞集(じゅう)」などに残されている。式神(しきがみ)と呼ばれる鬼神を操って身の回りの世話をさせていたとか、嵯峨の寺で若い僧たちの求めに応じて、草の葉を投げただけで池のほとりの5、6匹の蛙をおし殺したとかの話である。

 時の最高権力者、関白藤原道長にからむ話もある。ある時、奈良から道長のもとへ瓜(うり)が送られてきた。晴明がこの一つに毒気があると占ったので実際に割ってみると、中から小さい蛇が出てきたという。

 後につくられた話もある。道長は自ら建てた法成寺(ほうじょうじ)を毎日のように訪れたが、ある日、連れていった白い犬が前で吠えたり、衣の裾をくわえたりして道長の邪魔をした。急いで呼ばれた晴明は沈思すると、呪詛者の存在を予言して地面を掘らせた。出てきた土器には朱色の砂で呪いの文字が記されていた。晴明は紙で白鷺(しらさぎ)をつくると空に投げ上げ、鷺は南方へ飛んで晴明と張り合っていた陰陽師芦屋道満(どうまん)の足元に落ちた。道満は道長の政敵の依頼で呪詛したことを白状し、故郷の播磨国(兵庫県)へ流されたという。

 それより千年、京都市上京区に晴明神社があるが、驚かされるのは参拝者が多いこと、それも若い女性が目立つことである。科学の進んだ現代だが、今も不安の時代なのだろうか。
   (朝日、2012年03月08日)

医道審議会

2012年04月05日 | ア行
 医療ミスを繰り返す「リピーター医師」として、被害者から医師免許の取り消しを申し立てられていた三重県の男性医師(71)が、03月19日に厚生労働省から戒告処分を受けた。行政処分の中で最も軽いものだ。申し立てから処分まで9年かかり、処分理由もほとんど明らかにされない。

 「なぜ戒告なのか。軽すぎる」。妻や子どもを亡くした被害者は不信感を募らせている。

 麻酔薬の投与ミスで妻を亡くした伊藤永真さん(46)ら3人は2003年4月、産婦人科医院を営んでいた塩井澄夫医師が3件の医療過誤を起こしたとして、厚労省に処分を求めた。2007年6月には、同じ医院で子どもが死産となった若林一道さん(53)も申し立てた。「免許を取り消さないと被害者が増えかねない」と訴えた。

 刑事罰が確定したケース以外では厚労省が調べて事実認定をする。昨年9月、4件の中で刑事事件にもなった伊藤さんの妻のケースだけで戒告処分にした。

 4件の民事訴訟はすべて和解で決着。厚労省は、記録をそのまま事実として認められないと判断した。男性医師は聞き取りに過失を否定した。若林さんらの2件について、診療上の怠慢があったと認定した。

 しかし、厚労相の諮問機関の医道審議会が戒告処分とした理由や、議論の中身は公表されない。厚労筈は「手順を尽くして調べ、議論を尽くした結果」としか答えない。

 情報公開に詳しい清水勉弁護士は「医道審での議論は、医療の受け手の利害に直結する。会議の中身は相当程度、公表されるべきだ」と話す。「処分まで長期間、放置するのはおかしい。すみやかに研修を行い、医師の水準を高める制度が必要」と指摘した。

 一方、塩井医師は昨年夏に医院を閉じ、いまは診療はしていないという。朝日新聞の取材に対し、「厚労省もミスと認めたわけでないからこの処分になったのだろう。結果が思わしくなかったことは申し訳なく思っている」と述べた。
  (朝日、2012年03月19日。小林舞子、月舘彩子)

アウグステイヌス

2012年02月21日 | ア行
                         歴史研究家・渡辺修司

 アウグステイヌス(354~430)はカトリック最大の教父で、古代最高のキリスト教思想家だ。

 キリスト教は4世紀末にローマ帝国の国教と認められた後も民衆に定着したとは言い難く、異教に加え同じキリスト教の異端の信者も多かった。最大の著作「神国論」は、410年に西ゴート族にローマが強掠(ごうりゃく)され、異教徒から「略奪はローマの神々に背いた結果だ」と非難された事への反論だ。

 現実世界を「神の国」と「地の国」が対立する場と位置づけ、神の導きによって歴史は進むとするキリスト教的歴史観を打ち立てた。

 後世、プロテスタント誕生のきっかけも生んだ。「無償の行いや功績を考慮しない神の恩寵のみが救済を与える」という彼の思想をルターが採り入れ、「行いによって救済される。その例が贖宥(しょくゆう)状(免罪符)だ」とするカトリック教会と断絶する根拠を与えた。

 最期は悲惨だった。彼が司教を務める北アフリカ・ヒッポを蛮族が包囲した。「いかなる時も住民を見捨てたり、教会を放置すべきではない」と街にとどまって住民を励まし続け、熱病で76歳の生涯を閉じた。

 そんな彼も若い頃は異教にかぶれ、出世を望んだ。カルタゴ遊学中は放蕩し、10代後半から16年間、一人の女性と内縁関係を続け男児をもうけた。

 ミラノで修辞学の教授になり立身出世の道が開かれてからは、熱心なカトリックだった母モニカの強い勧めもあり、身分の低いこの女性を離縁し、財産家の娘と婚約することになった。

 だが彼女が当時の結婚年齢13歳に達しておらず、第3の女性を追い求めた。32歳で回心するまでアウグステイヌスといえど、俗物であった。
 (朝日、2012年01月19日)

        関連項目

キリスト教

イエス・キリスト

ルッター

小野小町

2012年02月20日 | ア行
                        歴史研究家・野呂肖生

 小野小町といえば平安前期の絶世の美女で、和歌にすぐれた六歌仙の一人とされているが、その経歴はまるで分からない。

生誕地とされる所も全国各地にあるが、有力視されるのは出羽国雄勝(おがち)(現秋田県湯沢市)で、父は郡司の小野良実(よしざね)、13歳で上京し36歳で帰国したという説である。江戸後期の紀行家・菅江真澄(すがえ・ますみ)もこの地を訪れ、小町伝説をかなり詳しく紹介している。

 小町伝説は大きく二つに分けられる。一つは才色兼備の女性歌人の姿。紀貫之は「古今和歌集」の序文で「あはれなるやうにて強からず。いはばよき女の悩めるところあるに似たり」と評しており、小町は哀調を帯びた失恋の歌を多く詠み、悩み多い女だったとしている。

 小町に思いをかけた深草少将(ふかくさのしょうしょう)が「100夜続けて通えば」という求めに応じて99夜通い続け、心身ともに疲れて100夜目に世を去ったという話も生まれた。小町はいささか冷酷で高慢な女性だったようにみえる。

 いま一つは、まるで対極的な老後の落魄(らくはく)伝説だ。晩年は乞食をし、発狂したとか、放浪の末に草むらの中に倒れ、髑髏(どくろ)を残したとかの話が生まれた。京都市北部の補陀洛寺(ふだらくじ)は小町が最期を迎えた所と伝えられ、小町老衰の像が残されている。

 慈照寺(じしようじ)などに残る九相図(くそうず)はもっと悲惨だ。九相国とは人の死体が腐乱し、白骨化して土にかえるまでの9段階の様相を描いたものだが、そのモデルは小町だといわれる。

 人々は小町の一生に、無常の世のはかなさをひしひしと感じたのだろう。小町伝説は中世以降、謡曲・浄瑠璃・歌舞伎などの題材にもしばしばとり上げられていった。(朝日、2011年11月10日)
     

岩崎弥之助

2012年02月18日 | ア行
                      歴史研究家・河合敦

 三菱の創業者といえば岩崎弥太郎だが、彼は明治政府の肝いりで設立された海運会社「共同運輸」との激しい競争の最中に病没した。弥太郎亡き後、社長に就いたのは弟の弥之助(1851~1908)だった。

 弥之助は兄と異なり、温和で紳士的な人柄だった。破産を避けるため政府の勧告を受け入れ、共同運輸とのたたかいをやめて1885(明治18)年、同社との合併を承諾した。

 新会社の日本郵船会社には三菱社員の大半と多くの重役が移ったが、取得株式の比率は小さく、弥之助は新会社の主導権を握れなかった。

 以後、弥之助は海運業から手を引き、翌年3月、新たに三菱社を設立した。弥太郎が手を染めた海運以外の諸事業を拡充することで発展を目指したのだ。

 まず、第百十九国立銀行の経営権を取得して三菱銀行の母体をつくった。さらに造船業や倉庫業に進出、多くの鉱山を経営した。

 特筆すべきは日本には存在しなかったビジネスセンターの建設だ。三菱社は1890(明治23)年、東京・丸の内周辺の10万坪余り(35ha)を取得し、洋風の市街をつくっていった。4年後に三菱第一号館が完成したのを皮切りに、馬場先門通りには赤れんがの洋館がずらりと並んだ。人々はこのビジネス街を「一丁倫敦(ロンドン)」と呼んだ。

 社長になってから8年足らずで弥之助は、弥太郎の長男・久弥に社長職を譲って引退している。42歳、見事な引き際だった。

 海運という中心分野を失った三菱を他事業に転換させ、多角経営を成功させた弥之助もまた、弥太郎と並んで三菱の創業者と言える。
      
(朝日、2011年12月22日)

ウィーン

2011年08月14日 | ア行
 ウィーンの中心にそびえるシュテファン大寺院から、市民や観光客でごったがえすケルントナー通りをぶらぶら歩き、オペラ座の前を過ぎる。並木に縁どられたリング(環状通り)を左に折れて、しばらく行くと、ウィーンで一、二を争う高級ホテル「インペリアル」が右手に見える。近くの「ブリストル」とともに、私の最も好きな「旅人の宮殿」である。

 といって、どちらもけっしてこけおどしの威容を誇っているわけではない。正面の入り口などはむしろ地味なくらいで、不注意な散歩者ならべつに気にもとめずに通り過ぎてしまうだろう。

 その入り口の左手に白い柵と草花で囲ったささやかなテラスがある。路上のカフェだ。むろん、そこから内部のカフェハウスに入ることもできる。ここが有名な、というより、由緒あるカフェ「インペリアル」である。(略)

 私はテラスの一隅に席を占める。日本からやってきた旅行者が、こうして気軽にメランジェ(泡立てたミルク入りコーヒー)のカップを手にすることができる──時代も変わったものだと、つくづく思う。アール・ヌーボーふうのコーヒーカップを手に、回想に沈んでいると、きょうはホテルの入口付近がどことなく緊張している(ヨルダンのフセイン国王が来たのだ。だが、ここでは「厳重警戒」はなく、皆、ふだんと同じようにしている。要旨)。私はその夜、フセイン国王とおなじホテルで、だれにも邪魔されずに眠った。

 翌日。カフェ・インペリアルで朝食をとるとテラスに出て、8月のさわやかな空気を愉(たの)しみながら、長いこと、無為の時間を過ごした。並木の向こうを車体にさまざまな広告意匠をまとったトラム(市電)が騒音も立てずに往き来している。その合間に、カツカツと蹄(ひずめ)を鳴らして観光馬車が何台か通る。私は新聞「ディ・プレッセ」(1991年8月28日付け)をひろげる。

 (一面を見渡すと、ソ連、東欧、バルカン問題が多い。しかし、大きな活字はない。又、どのページにも広告がない。要旨)私はあらためて題字に目をやった。題字の下に「オーストリアの独立紙」とあり、その右に「1848年創刊」と銘打たれている。小さな活字だが、この数字には深い歴史が刻まれているのである。(略)

 1時間以上も私は新聞に目を落としながら座っていたろうか。そして、もう一杯、メランジェを注文する。給仕係が銀盆に、水を入れたコップとメランジェをたたえたコーヒー茶碗をのせて、慇懃に運んでくる。長いスプーンがコップに橋のようにわたしてある。これがウィーンのカフェハウスのしきたりなのだ。その様子を見て、私は思わず回想に沈む。

(森本哲郎『ウィーン』文春文庫から)

 感想

 「老雄」ウィーンの一面をよく伝えた文章だと思います。