マキペディア(発行人・牧野紀之)

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キリスト教(02、キリスト教)

2009年12月11日 | カ行
 キリスト教とは、「ナザレのイエス」という歴史上の1人物を「キリスト」つまり「旧約聖書で神が(地上に)送る(贈る)と約束した救い主」である、と信ずる考え(思想)のことです。

 ユダヤ教は、イエスをキリストとは認めていません。つまり、キリストはまだ地上に送られてきていない、と考えています。ですから、ユダヤ教の人々は「キリストの到来(初めて来る事)」を今か今かと待っているのです。

 それに対してキリスト教徒は、イエスがキリストだと認めていますから、キリストはすでに1度来て、今は天に召されていると考えていますので、「キリストの再来」を一日千秋の思いで待ち望んでいます。

 何をしに「再来」するかと言いますと、「最後の審判」をしにくるのです。キリストが再来すると、トランペットがパンパカパーンと鳴り響き、墓の蓋が開いて死者がゾロゾロと出てきます。そこでキリスト・イエスが「お前は天国だ。お前は地獄だ」と「最後の審判」をくだすのです。

 最初は何をしに来たのかと言いますと、「福音を述べ伝える」ためです。イエスをキリストと信じれば、神の国に入れるぞ、と教えるためでした。

    参考

 01、神を霊 (Geist) において、従って神を真理において[神の真の姿を]認識せよというキリスト教の戒め(「ヘーゲル「小論理学」136節への付録2)

 02、絶対者〔神〕をただ客体とだけ捉えるにとどまる立場は、最近では特にフィヒテが正当にも示したことですが、迷信の立場であり盲目的畏怖の立場です。確かに神は客観ですし、しかもそれに比すれば人間の特殊な〔主観的な]考えや意志は何の意味も持たないような正真正銘の客観です。しかし、神はまさにそのような絶対的客観であるが故に、主体〔人間〕に敵対した暗黒な威力ではなく、むしろ主体性をその本質的契機として自己自身の中に含み持っているものなのです。

 これをはっきりと言い表わしたのがキリスト教でして、そこでは、すべての人が救われて幸福になることが神の意志だと言われています。そして、それは、すべての人間が救われて幸福になるには、人間が神と一つであることを自覚し、神を単なる客体と捉えることを止め、よってもって、ローマ人の宗教的意識にとってはそうであったような、神を畏怖と恐れの対象と見ることを止めなければならないというのです。

 更にまた、キリスト教では神を愛と考えますが、そして、それは、神が自分と一体である息子の中で一人の人間として人々に自己を啓示し、人間を救済したからなのですが、そこで同時に言い表わされていることは、客観と主観との対立は「潜在的には」克服されているということであり、従って人間の仕事は、自分の直接的な主観性を捨て去り(古い自分から更生し)、神を人間の真の本質的な自己として意識することによって、この救済に与(あずか)〔り、その救済を顕在的なものにす〕ることだ、ということです。(「ヘーゲル「小論理学」194節への付録1)

 03、キリスト教は、全ての人間に1つの平等、すなわち「皆が平等に原罪を負っている」という平等しか認めなかったが、これは、奴隷と被抑圧者の宗教であるというキリスト教の性格に相応していたのである。(「マルエン全集」第20巻96頁)

 04、新しい世界宗教であるキリスト教が、一般化された東方の神学(とりわけユダヤ教)と、通俗化されたギリシャ哲学(とりわけストア哲学)との混合から既に秘かに発生していたのである。(エンゲルス「フォイエルバッハろん」第4章)

   関連項目

イエス・キリスト
宗教とは何か