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マキペディア(発行人・牧野紀之)

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ながく、牧野紀之の仕事に関心を持っていただき、ありがとうございます。 牧野紀之の近況と仕事の引継ぎ、鶏鳴双書の注文受付方法の変更、ブログの整理についてお知らせします。 本ブログの記事トップにある「マキペディアの読者の皆様へ」をご覧ください。   2024年8月2日 中井浩一、東谷啓吾

岩元禎(いわもと・てい)

2011年08月11日 | ア行
 高橋英夫の『偉大なる暗闇』は、漱石の『三四郎』に出てくる広田先生のモデルと言われる旧制一高のドイツ語教師岩元禎の評伝ですが、岩元氏を中心として様々な人を描き、当時の雰囲気を伝えるものです。その中に岩元氏の授業の様子を描いた堀辰雄の文があります。

 ──岩元先生にはじめて教はつたのは3年のときで、アダルベルト・シュティフテルの「ホッホワルド」の講読をうけた。今でこそシュティフテルも一部の人々に人気のある独逸の作家の1人になつてゐるやうだが、その頃はまだ殆ど誰にも知られてゐないやうな不遇な作家だつた。さういふ半ば埋もれていた作家のものを岩元先生は好んで取り上げられ、1年間、文学にあまり関心をもたない理科の私達に熱心に訳読して下すつた。

 先生が深みのあるしはがれた声で徐(おもむ)ろに1人で訳読せられてゆくのを私達はただ茫然として聴いてゐた。ときどき先生の声がとだえると、私達は急に緊張して、一層小さくなつてゐた。さういふときはいつも先生が次の言葉の訳し方を考へあぐねながら、私達の上にその炯々(けいけい)たる眼光をそそがれてゐるのを知ってゐたからである。

 先生の訳語はいつも厳格をきはめてゐて「Fichte」は「フィヒテ」といふ木であつて「蝦夷松(えぞまつ)」とは異なる木の名であり、「Tanne 」は「タンネ」といふ木であつて「樅」などと訳すとまちがひとせられた。万事がその調子であつた。「ホッホワルド」は何処から何処まで深い森の中の物語であり、すべての人々や出来事が森の静寂の中に溶け込み、ひとり先生のしはがれた声のみがその静寂を破つて、流れ来たり流れ去る渓流の音と入り交じりながら、森の主めいて聞こえてきてならないこともあつた。

 そしてその物語の最後の夏がきて「1人の老人がそれからなほしばしば影のやうにその森の中を過ぎるのが見られた。しかし彼がいつごろまでゐたか、いつごろからもうゐなくなつたか、誰ひとりさだかには知らぬのである」と終る。その最後を訳し終へられると共に、岩元先生は最後に私達をぎろりと見渡されてから、さすがに深く疲れたやうな様子をなすつて教室を出てゆかれたが、そのときの先生のすこし猫背のうしろ姿はいつまでも私のうちに残つてゐた。──

 (高橋英夫『偉大なる暗闇』(講談社文芸文庫)から)

   感想

 これは全然語学の授業ではないし、そもそも授業としても最低だと思います。こういう授業が続いたために日本のドイツ語学は低下の一途を辿ってきたのだと思います。

 更に一般的に言いますと、語学の授業は初等の段階では文法と読解とをしますが、中級以上に成ると「中級文法」や「高等文法」というのは全然なく、もっぱら訳読して、テキストの内容の解釈に集中してしまうと思います。そのために文法的理解が初等のままで、文法も訳読も本当には進歩しないのだと思います。

 そこで会話の重要性ということになります。

 初等の次は初等会話を重視して(会話ができれば楽しくなりますから)、それからは中級以上のことを文法も、訳読も、会話も平行してやるというのが、本当の語学教育だと思います。

 せっかくの機会ですから、この本の本当の問題を言いますと、そもそも「偉大な暗闇」などというものはあるのか、ということです。ここでそう表現されているのは、「物凄い知識があったのに、本を書いて外に出さなかったので頭の中にどれほどの知識があるか分からない」という意味です。

 しかし、ヘーゲルは「本質は必ず現象する」「現象しただけが内にあったものである」と言っています。「実力を発揮できなくて負けた」というのは負け惜しみなのです。発揮されたものだけが「本当の実力」なのです。

 本を書かなかったのは書けなかったからです。溢れる程の学問があれば、必ず出てきます。人生に言い訳なし、です。

ヴェルディ

2011年05月14日 | ア行
                        河合塾講師・青木裕司

 サッカーの国際試合の後、サポーターがハミングする曲に『アイーダ行進曲』がある。イタリアのオペラ作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(1813~1901)の作品だ。

 北イタリアのパルマ近くに生まれた。教会の侍童を務めていた彼はオルガンに聞きほれ、ミサの進行をつい忘れた。怒った司祭がヴェルディを蹴ると、司祭に「雷に打たれて死んじまえ」と叫んだ。数年後、本当に司祭は雷で絶命したという伝説が残る(『ヴェルディ』小畑恒夫)。

 19世紀前半、イタリアは統一国家ではなく、北部のミラノやベネチアなどはオーストリアが支配していた。1848年にフランス二月革命が起きると、北イタリアでも武装蜂起が相次いだ。心を動かされたヴェルディは『レニャーノの戦い』を作曲。イタリアに侵攻したドイツ軍をイタリア人が撃退した史実に基づいた作品だ。「イタリア万歳」の合唱で始まる作品に聴衆は熱狂した。

 この後、北西部サルデーニャ地方の君主ヴィットリオ・エマヌエーレ2世を中心とするイタリア統一運動が、多くの支持を集めていく。

 1859年、代表作の一つである『仮面舞臍会』初演の際、聴衆は「ヴェルディ万歳」と叫んだという。愛国的な作品を作る彼をたたえると同時に「Verdi」には「Vittorio Emanuele Re D'Italia(イタリアの国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世)」という意味も込められていたという。彼がこれをどんな思いで聞いたか、日記にすら一切の記述がないのは残念だ。

 2年後の1861年、イタリアはエマヌエーレ2世のもとで統一された。今年はそれから150年にあたる。
   (朝日、2011年05月12日)

欧州大学院大学

2011年03月06日 | ア行

 第2次世界大戦後間もなく創設され、欧州統合を引っ張る人材を育ててきた欧州大学院大学(本部・ベルギー)が欧州の政財界での影響力を増している。全寮制の厳しい英才教育をくぐり抜けたエリートは過去56年間に約7500人。欧州連合(EU)や欧州各国に人脈の網を広げている。国家を超えた「欧州人」を育てる教育の現場を訪ねた。

 「議長。今の意見には賛成できません。不法移民に関する宣言案第24条の文言の修正提案を出したいと思います」。

 イタリア内相役を務める女子学生が発言すると、他の「閣僚」たちが発言を求めて次々と手を上げた。今月(2005年02月)03日、ベルギー・ブリュッセルにあるEU理事会ビル。欧州大学院大学による「模擬授業」だ。

 実際にEU内相理事会が開かれる会議室を使って、本物の会議と同じ議事進行や参加者の顔ぶれを採用して討議していく。議長役の後ろのテーブルから、討議の様子を指導教員が厳しい目で見守っている。

 政治行政学科に属する学生約60人に課せられた討議テーマは、EUで一番ホットな「EUの不法移民問題」。約4時間にわたって、意見を戦わせながら不法移民の取り締まり策、移民出身国への送還問題などについて合意を作っていく。EUの専門知識ばかりではなく、相手を説得し、立場の違いを埋めていく交渉術が求められる。討論で使う言葉は英語か仏語だ。

 学生たちに「君のアイデンティティーはどの国?」と聞いてみた。

 ルクセンブルク代表を務めたキャサリン・ブレアさん(21)は昨年、英オックスフォード大を3年で卒業した。

 「小さい時からドイツ人の母親とは独語、英国人の父親とは英語で話してきた。育ったのは、フランスのストラスブール。だから私のアイデンティティーはヨーロッパです」と屈託のない笑顔を浮かべた。

 英仏独語ができるブレアさんは特別な存在ではない。理解できる外国語数を調べた約4年前の調査で「2ヵ国語がわかる」と答えた学生が44%、「3ヵ国語」が35%。「4ヵ国語以上」が11%にもなった。両親が国際結婚だったり、留学経験があったりすることが背景にありそうだ。

 ブリュッセルから電車で1時間の所にあるベルギーの古都ブルージェ。中世の運河に囲まれたこの街で学生たちは7つの学生寮で暮らしている。食堂をのぞくと、学生たちが出身国ではなく、寮ごとに集まって談笑していた。

 同校のクリスチャン・ルケンヌ教授は21年前、この街で寮生活を送った。「私たちにも『欧州人』という意識はあったが、当時は冷戦の真っ最中。EU加盟国はわずか10ヵ国で、『欧州人』の範囲は限られていた。加盟国が25ヵ国に増えて、欧州統合が深化し、学生たちの『欧州人意識』はより鮮明になっている」。

 EUとの「特別な関係」を反映して、同校の卒業生のうち約800人が欧州委員会、欧州議会などEU機関で働いている。職員数約2万人の組織の中では決して大集団ではないが、欧州委の事務方トップである事務局長のほか、官房スタッフ200人のうち30人を同校OBが占めており、「EUの中では一番出世に有利な学閥」とやっかむ声がEU内外で聞かれる。

 欧州委員会法務部に勤めるピーター・ヨルゲンさんは2年前、民間企業から欧州委に転職した。「同級生を通じて、学校の先輩や後輩を紹介され、自然なつながりができ、すごく仕事がやりやすい。わずか1年の寮生活だったが、5年間学んだ大学よりも人間関係は濃密だ」と語る。

 同校のティエリ・モンフォルテイ教務部長も「私のトルコ人の同級生は帰国してEUとトルコの関税同盟の担当者になった。その交渉相手になった欧州委担当者も私の同級生だった。そういうことが起きるのは、能力の高い優秀な学生が集まり、EUの勉強を集中的に行った結果にすぎない」と語る。今年はすでにEU法の専門家を求める約30社の法律事務所から求人希望が来ているという。

 こうした実績を元に同校は欧州の外へも目を向けている。英語だけ話せる学生を対象にした国際関係学科の設立を2008年ごろ予定しているほか、今年、マレーシア・ペナンのマレーシア科学大学に欧州学部を開設するための人材交流を始めた。

 これまでに同校で学んだ日本人は10人前後。同校OBである久留米大学の児玉昌己教授は「全寮制の生活でできた人間関係は何ものにも代え難い。ナショナルなものをまだ意識せざるをえない日本人学生に『欧州人』と触れ合い、学んでほしい」と話していた。

メモ・欧州大学院大学

 1948年、欧州統合を唱えたスペインの政治家マダリアガ氏が提唱し、1949年に創設された。1994年に開設したポーランド・ワルシャワ近郊のナタリン校とブルージェ校と合わせた学生数は410人、出身国数は欧州を中心に45ヵ国。法学科、経済学科など4コースの選抜試験は、各国の選考委員会などで大学卒業者を対象に行われる。9月に入学後、翌年6月末まで集中教育を受ける。予算の4分の1がEU、残りはEU加盟国が主に負担する。毎年秋には、欧州各国やEUの首脳が記念演説を行う。

   (朝日、2005年02月15日。ブリュッセル、脇阪紀行)

  感想

 ウィーンの近くの小さな村には、民間人(と言っても、政府高官だった人ですが)の運営している「欧州平和大学」があると、かつてNHkテレビで見たことがあります。ヨーロッパの懐の深さを感じますね。

アフガンで用水路を掘る

2011年03月05日 | ア行
             中村 哲

 気温が50度に迫る炎天下、200人の村民、PMS(ペシャワール会医療サービス)の職員、若い日本人ワーカーたちが真っ黒になって汗を流す。シャベル、ツルハシを振るって溝を掘り、ブルドーザーがうなりを上げる。遠くでは轟音と共に岩石塊が爆破される。熱風と砂塵がしばしば作業を中断させる。

 5月中旬、やっと灌漑用水路計画が本格化した。行く手に広がる漠々たる荒野が、かつて豊かな田園だったことを信ずる訪問者は少ないだろう。

 国民の9割を占める農民たちにとって、最も深刻なのが干ばつである。4年目に入っても、依然として各地で砂漠化が進行している。

 私たちは3年前からアフガニスタン東部のニングラハル州全域で、飲料水源確保に全力を注いできた。今月15日現在、井戸やカレーズ(伝統的な地下水路)の総作業地は1000ヵ所を突破、うち932ヵ所で水を得て、多くの村民たちの離村・難民化を防いできた。だが、水や診療所だけでは生きてゆけない。

 そこで、大きな潅漑計画となった。ヒンズークッシュ山脈の万年雪は、夏に解け出して沃野を提供する巨大な貯水槽である。幾千万年もの間、それは無数の生命を支え続けてきた。それが、標高4000㍍以下では、冬の積雪が初夏までに解け去ってしまう。そこで私たちが立てた戦略は、比較的低い山の雪に依存してきた地域には無数の井堰・溜池で貯水し、万年雪が残る5000㍍級以上の山から流れ出す河からは、傍流を引き込むことである。これ以外に生き残る策なしと見て、「潅漑・15ヵ年計画」が開始された。

 その第一弾として始まったのが、現在の用水路建設である。約2億円を投じて、全長16㌔メートルを1年で通水、約2000haを潤す。実現すれば、成人十数万人を養うことができる。

 水面幅4、5㍍、トンネル21ヵ所、水道橋1ヵ所、取水口には二重の水門をつけて備える。作業工程は、大半を伝統的な技術に頼った。すなわち、盛り土、植林、石組み、舵籠(じゃかご)の組み合わせである。近代的なコンクリート固めの水路は、完成後の見栄えは良いが、地元民が修復できない。その上、数年ごとに壊れ、あちこちに残骸がさらされている。現地に馴染まないのだ。

 ところで、医療団体である私たちが何故、水路を手がけるのか。現地の病気の大半が清潔な飲料水の欠乏と、栄養失調を背景にしている。膨大な人々が死に、荒廃した故郷から逃れた人々が難民化した。この事実は「国際社会」に遂に伝わらなかった。しかも、治安の悪化で誰も地方に行きたがらないからだ。

 奥地のクナール州でも、米軍の活動と対峙して、3ヵ所で診療が継続されている。

 本当は空爆=民主化どころの騒ぎではなかったのだ。昨年パキスタンから帰還した難民は、200万人中170万人と発表されたが、150万人が暮らしが立たずUターンしたと言われる。この数字が「復興」の実体を雄弁に語っている。

 先ず生きることだ。その証拠に、私たちの事業には、タリバン支持者も、北部同盟軍の元兵士も、恩讐を超えて皆が協力する。新政権の役人が安全保障を申し出、「長老会」が背後から私たちを守る。アフガニスタンが再び忘れ去られ、結局は自分たち自身が後始末をせねばならないことを皆知っている。

 折から、現地では外国軍への襲撃が活発化し、日本ではイラク派兵=復興支援の決議が国会で行われようとしていた。戦争も復興も、黙々と額に汗する人々には、余りに遠い世界である。

 (朝日、2003年06月28日)

    感想

 2011年の冬にこの中村さん達の仕事がNHKTVで放映されました。それによると、既にかなり出来ていて、定住者も多く生まれているようです。素晴らしい事だと思います。中村さんにはノーベル平和賞を与えるべきだと思います。

 そのテレビで「舵籠(じゃかご)」というものを知ったのですが、これは福岡県の柳川の護岸に昔から使われているものだそうです。世界遺産の1つである中国のどこかでもそれが使われているのをテレビで見ました。竹で編んだ籠のなかに大きめの石を詰めたものです。これを堤防にするのです。

 我が浜松の馬込川も、多くの部分でコンクリートの堤防が作られていますが、舵籠(じゃかご)にしたらどうでしょうか。観光資源にもなるのではないでしょうか。

NPOリーダーの養成

2011年02月21日 | ア行
                市民バンク代表・片岡 勝

 不況のために日本中が暗い。けれども、私の周りには笑顔で仕事を楽しんでいる人たちがいる。地域の問題に目を向け、地域で必要とされている様々なサービスを事業化し、仕事にしていくコミュニティービジネスの担い手たちだ。彼らは、現状を逆にチャンスと考えて張り切っている。

 私たちが2000年から各地で開催している「女性のためのビジネススクール」の卒業生は約5000人。そこから誕生したコミュニティービジネスの担い手は1000人を超えた。親を介護した経験から作ったグループホーム、アトピーの子育てをきっかけに始めた天然酵母のパン屋など、いずれも自分の問題意識から始めた事業だ。

 目標は地域の問題を解決すること。トントン経営でいいので無理な投資はしない。自分の夢を実現し、地域の人に感謝される。だから、元気だし、強い。事業形態はNPO(非営利組織)や株式会社など様々だが、不況も閲係ない。1989年に始めた「市民バンク」は
109件5億6000万円余を融資してきたが、貸し倒れは1件もない。

 地域に目を向け起業する動きは女性だけでなく、若者の間にも広がっている。私が教えてきた福岡大、山口大、法政大の学生からも、この3年で17人の起業家とNPOリ」ダーが生まれた。彼らは自治体が抱える赤字施設の運営や、第三セクターが運営する再開発地の活性化など、行き詰まりを見せている公共部門の経営を行政に代わって担おうと意気込んでいる。

 ある若者は山口県豊浦町で町のペンションの建て直しに挑んだ。補助金を出しても赤字が続き、町が困っていた施設だ。東京から移り住み、外注していたクリーニングや掃除はすべて自分でやる。客室が埋まれば自分の泊まる部屋を空けて食堂で寝る。彼はこうして町の補助金はもらわずに前年比4倍以上の売り上げを達成した。コミュニティービジネスに必要なのは新たな発想と手法なのだ。

 私の仕事は、地域にこうした経営者を育て、行政との協力と競争を演出することだ。最近では、行政からひとつのビルの再生、数十万平方㍍の土地の活用、第三セクターを立て直す人材の育成などの相談が舞い込んでいる。ベンチャー講座でこのような地域貢献型の経営者を育ててほしいという大学は六つになった。アメリカの経済学者ドラッカーが十数年前に指摘していたことが今、日本で現実になろうとしている。

 不況から抜け出せない、先が見えないと嘆いているだけでは何も変わらない。
バブル後の空白から抜け出せないのは、コスト意識の薄い行政セクター、自発性を生かせない企業セクターに任せきりにしているからだ。今、求められているのは、国や自治体や他人に依存するのではなく、地域に目を向け、自分の身近な問題を自分のリスクで解決していく一人一人の力だ。

 地域の問題を解決するコミュニティービジネスが各地に広く根をはり巡らせ、新たな発想と手法で仕事を楽しむ人たちが増えたとき、新しい社会のかたちがつくられることだろう。産業構造の転換も、内需の拡大も、分権型の社会も、新しいライフスタイルも、地域の豊かさも、すべては、そこから生まれる。

 (朝日、2003年01月22日)

  感想

 片岡さんの活動は本当に立派だと思います。私は、彼の出発点である第3世界ショップの客として、長年、彼の活動を見てきました。それの動機となったタイでの経験も有名です。

 しかし、これで全てが解決するとか、ましてこういう活動が世直しの中心だと思うとすると、違うと思います。世の中は、大きく分けると、官と民に大別されます。両者は住み分けているのではありません。官が世の中の大きな枠組みを作り、民はその枠組みの中で創意を発揮して生きて行くのです。その枠組みの在り方によって、生きやすくもなれば生きにくくもなります。

 この枠組みがどうなっているか、それをどう変えて行くか、この根本問題から逃げては本当の世直しは出来ないと思います。

 行政トップへの批判に必要性、またNPOなどの活動家の中から政治家を志す人が出てくる必要性のある所以です。

日本を危うくする「一極集中」

2011年01月26日 | ア行
     ゲオルグ・ロエル Georg Löer NRWジャパン社長

 日本で「地域主権」という言葉をよく耳にするが、中央集権体質からの脱却は遅々として進まない。目に映るのは、地方の中央への高い依存であり、地方の権限が依然として低い現実である。全国一律の施策ではなく、地方にきちんと権限を与え、地域間で競わせる環境を整えていけば、疲弊した地方経済が再生する余地はまだある。

 私の故郷で、ドイツ国内にある16州の一つ、ノルトライン・ヴェストファーレン(NRW)州の例を引こう。ルール工業地帯を抱えるNRW州はかつて、石炭や鉄鋼といった産業を基盤に栄えてきた。だが1960年代に入ると、産業は衰退し、重厚長大産業から先端産業へと構造転換を迫られた。積極的な産業政策を展開するうえで州政府が重視したのが教育だ。州内には68の大学があるが、多くは60年代以降の設立と、歴史が浅い。そこに向けて「人材が付加価値を生む」というビジョンを明確に示し、投資を続けた。

 敗戦後、中央から管理される体制をドイツ人は嫌った。これが、各州の権利を設定することにつながり、NRW州独自の施策を可能にした。首都だったベルリンが戦後、東西に分断されたこともあり、今でも連邦最高裁はカールスルーエ、連邦行政庁はケルンという具合に、司法や行政の機能が分散している。政治においても、連邦議会と並んで「上院」機能を果たす連邦参議院には、国内16州の政府代表が所属し、連邦政府の決定に影響を与えている。

 日本はどうだろうか。銀行員時代に不思議に思ったものだが、銀行融資額の5割強が関東圏に集中している。いつ大地震に見舞われるかもしれないのに、である。ビジネスが必要とする政治や行政機能が首都圏にすべて集まっているから仕方がない、という声も聞こえてきそうだが、問題の本質は、日本人自身がその脆(もろ)さに気づいているにもかかわらず、議論がなかなか深まらないことにある。これは非常に危険なことだ。

 縁あって、3年前からNRW州経済振興公社日本法人の社長を務めている。企業誘致のために全国各地でセミナーを開いているが、観光資源という面でも人材という面でも、地方はまだ発掘の余地が大きい。隠れた優良企業も少なくない。

 中小企業の経営者は、世界の壁の高さを過度に意識し、海外展開に踏み切るのをためらっている。それも無理はない。戦後の日本では、護送船団方式で守られた銀行が運転資金を支えてきた。商社もしくは大手企業の「ケイレツ」に入って命じられた部品だけつくっていれば、商売は回ってきた。しかし、国内市場だけだと成長が見込めず、モノやヒト、情報がグローバルに行き交う時代に、こうしたモデルは通用しない。

 2年前、弊社のセミナーに参加した中堅企業の経営者夫妻が、NRWの州都デュッセルドルフに出かけた。売ろうとしたのは錫(すず)を使った高級タイル。当初、夫妻は海外展開できるのか半信半疑だったが、現地に出かけたのがきっかけで後日、ドイツに代理店を持つことができた。大事なのは一歩を踏み出す勇気だ。外に出てみなければ、競争相手も、競合する商品も分からない。

 私の役目はそこにある。良質な情報をこうした優良企業に提供することだ。NRW州には現在、約1万1700社の外国企業が拠点を構える。日本企業の進出数も欧州で最大の500社を超え、1万人近い日本人が生活している。ドイツ最大の投資拠点に成長できたのも、半世紀も前に州政府が教育投資という明確な「ビジョン」を打ち出し、有能な人材を安定して輩出できる素地を整えてきたからだ。法人税減免や補助金といった持続可能性の低い優遇策だけでは、企業誘致の決め手にならないのだ。

 NRW州を支えるのは、外国企業だけではない。08年までの4年間で州人口が減少したにもかかわらず就労人口が逆に伸び続けてきたのは、地方に根を張るドイツ企業の存在が大きい。地方に拠点を構えながら、その分野で世界トップシェアを占める中堅企業も、ドイツには多い。

 一極集中の弊害は、経済的な議論にとどまらない。日本では地方から首都圏へと人が流れ、そこで居を構える。その一方で、地方出身者は生まれ故郷との関係が希薄になってきている。

 私は、日本と関係の深い家庭で育った。父親が外交官として日本に赴任していた時に、私は東京・下落合で生まれた。当時は金魚売りが町中を歩いていたせいか、最初に発した言葉がドイツ語ではなく日本語の「キンギョ」だったと、両親に聞かされた。5歳まで日本に住み、その後ドイツに帰国したが、1974年に父親が大阪にドイツ総領事として赴任したことから、高校卒業後に日本と再会する巡り合わせとなった。

 この時は、京都や奈良に出かけて寺社仏閣を見たり、四国の八十八ヵ所を巡る「お遍路」を体験してみたりと、日本文化を満喫した。こうした経験からかも知れないが、日本の地方が持つ素晴らしい潜在力に日本人自身が気づいていないのでは、と思うことがある。私が若い頃に目にした地方の祭りや伝統芸能は今、後継者難から青息吐息になっているところも多い。

 日本での生活は通算22年に及ぶ。どんなに日本が好きで、日本語が堪能になっても、異国で暮らしていると、母国の文化や伝統、母国の家族や友人への思いは強まっていく。また、それがドイツ人としての自分の「存在」を肯定する唯一の手段であることにも気づかされる。地方で脈々と受け継がれてきた日本の文化にも、そうした側面があるに違いない。

 理解できないのは、日本人は自然と密接な暮らしを営んできたはずなのに、身近な自然破壊にあまり関心を払わない点だ。日本には啓蟄(けいちつ)や立秋といった二十四節気が息づいており、季節ごとに祭りもある。1年間の行事がまるで時計を眺めているかのように報道される国も珍しい。日本人は自然とふれあいながら生きているし、地球温暖化の問題も積極的に議論している。しかし、足元では住環境が破壊されている。特に、一極集中のひどい東京都内の住宅事情は目を覆うばかりだ。

 私の記憶にある70年代の日本で、自宅に庭があり、緑があるのは当たり前だった。しかし、最近はどうだろう。昔あった商店の跡地には高層マンションが建つようになった。1軒分の住宅用地が4分割され、緑がなく葉っぱに落ちる雨音すら聞こえない住宅がそこに4軒も、所狭しと立ち並ぶ。きちんとした家にすら住めないのに、少子化の議論ばかりが盛んになっている。

 私は社会人生活の大半を民間企業で過ごした。以前勤めた銀行では少なくとも「企業は生き物であり、常に組織を変えていかねば生き残れない」という意識が浸透していた。変革は常に求められている。人についてだけでなく、国だってきっとそうだ。日本の地方再生をどう考えるのか。質の高い住環境をどう守るのか。日本に合った形を見つけなければならないことは言うまでもないが、その土台となるしっかりとしたビジョンこそが為政者には求められる。

(朝日新聞グローブ、2011年01月09日。構成 GLOBE記者 都留悦史)


オランダ(働き方)

2011年01月21日 | ア行
    その1

 働き過ぎニッポン。労働時間を短くすると「キリギリス」になるとの主張まである。かたや、労働時間は世界最短国のひとつなのに、会社も働く人も家庭も丸く収まっているという国がある。それがオランダ。実際に見た「キリギリスの国」の人々は、よりよい働き方を求めて工夫や挑戦を続けていた。

 「隔週の火曜日は、この子の日なんだ」

 首都・アムステルダムのウオーターフロント。大きな窓から真っ青な湾を一望するマンションで、2歳になる長女ルイーザちゃんをいとおしそうに抱き上げ、ほおずりしたのは、父親のローランド・ファン・デル・ウィーレさんだ。

 ウィーレさんはオランダの新聞社で経済面のレイアウトを担当する記者。ルイーザちゃんのため会社と交渉し、労働時闇を「90%」にして働いている。フルタイムの週40時間よりも10%少ない働き方で、隔週で1日ずつ休める計算だ。そのかわり、給料もきっかり1割落ちる。

 フリー記者の妻(43)と分担し、保育所のない週2日、どちらかが家で娘と過ごす。同僚も16人のうち6人が「時短」組。シフトを組んで交代で働くので仕事に支障はない。

 労働時間を「50%」にしているのは、警備会社に勤め、オランダの玄関口、スキポール空港のテロ対策を担当するベルト・ファン・ダ・リンゲンさん(46)。妻は「75%」で働き、リンゲンさんのほうが家事を多く分担している。

 オランダでは、彼らのように「%」で働くのがごく一般的。給与明細を見せてもらうと、その人ごとの「%」の記入欄がある。

 オランダは、九州ほどの面積の小さな国。なぜこんな働き方が発達したのか。発端はわずか30年前だ。1980年代の不況期に、政労使で「労働者は賃金抑制に応じ、企業は時短を進め、政府は減税する」ことで合意した。よく知られた「ワッセナ一合意」だ。

 これにより雇用を分け合うワークシェアリングが進み、パート雇用が急拡大、経済も回復した。働く女性の割合が倍増し、失業率は欧州で最低レベルに改善。経済協力開発機構(OECD)のまとめでは、2005年のパート比率は35.7%と、ダントツ世界一だ。

 だが、短時間労働が一般化した本当の理由は、フルタイマーとの格差がないこと。日本のパートは立場が不安定で低賃金の代名詞だが、オランダ型は、賃金や休暇、年金などの権利が働く時間に比例するだけだ。

 1990年代には法律でパート差別を禁止。さらに、2000年には労働時間の変更を会社に求める権利を労働者に認め、会社は原則として断れない。最新の実態調査では、2割以上の労働者が時間変更を申し出たことがある。フルタイムかパートかではなく、「ライフサイクルにあわせてパートとフルとを行ったり来たりするモデル」(社会雇用者の担当者)だ。

 2005年のOECDのまとめでは、オランダの労働者1人あたりの年間総労働時間は1367時間で、日本に比べて400時間も短い。2004年の政府統計によると、残業は1人平均で1週間に40分ほどだ。

 労働者はそれでハッピーだろうが、会社経営に支障はないのだろうか。日本では、残業時間を半減するという政府目標案を、属身財務相がアリとキリギリスの寓話になぞらえて「日本をキリギリスの国にしてしまう」と批判した。

 そんな疑問を、金融大手INGの役員を務めていたアレクサンダー・R・カン氏にぶつけてみた。「大事なのは生産性で、労働時間の長さは問題ではありません。オランダ人の1時間あたりの生産性は欧州連合(EU)のトップクラス。企業からみても短く働きたい人の能力を活用できる利点が大きい」。カン氏は現在、オランダでの働き方の大枠を決める政労使の協議機関、社会経済評議会(SER)の議長。長く働くことに価値を置く発想自体が理解できない様子だ。

 生産性が高いのは、交易の要衝でサービス産業中心という産業構造や、国民の8割近くが英語を話す高い語学力があるが、働き方の違いも大きい。「働き過ぎはバーンアウト(燃え尽き症候群)につながる」と誰もが口をそろえる。

 IT技術者の男性(31)は「集中して仕事をするのは1日8、9時間が限度」と話す。それぞれの仕事にかかる時間や進行状況を上司とチェックし、勤務中に新聞を読んだり、昼食や会議に長持聞かけたりはしないと胸を張る。

 ただ、いくら生産性が高いといっても、仕事量の少なさは消費者へのサービスの少なさにつながっているようにも思える。

 「私はこれから休憩ですから」。スキポール空港で帰国便を変更しようと窓口に行くと、女性係員はそういって目の前で窓口を閉め、さっさと行ってしまった。スーパーは夜間や日曜に閉まり、新聞も週1回は休む。

 「人員不足で火災現場への到着が遅れる?」。3月末の新聞には、こんな見出しが載った。アムステルダムの消防署で労働時間を減らす労使協定が結ばれた結果、火災現場への到着が遅れたり、消防署を閉鎖したりする地域が出るというのだ。住民にはかわりに火災報知機を配るという。

 水島治郎・千葉大法経学部准教授は「労働者の権利を顧客サービスより優先する考え方が徹底している。当然それに伴う不便は甘受する社会」と指摘する。

 オランダ在住15年になるファン・リット・のり子さん(43)は最近、逆に日本のサービスの「過剰さ」が目につくようになったという。

 「24時間営業や宅配便の細かな時間指定など本当に必要なのか。だんだんオランダ人化しているのかもしれませんが、1時間長く働いて便利になるより、1時間分自分の生活に使えることの方が『豊かだ』と感じるようになってきました」

   その2

 働く人が労働時間を自在に調整するオランダ社会。出生率も高く、働き方への支援が何よりの子育て支援になることを証明していると言えそうだ。そんなオランダでも、男女の役割分担をめぐり、悩みはある。

 「おめでとう! 赤ちゃんを産むんだったらぜひ戻ってきて。復帰後は勤務を50%にして働く育児休暇制度があるんだよ」。

 オランダ人と結婚し、日系金融機関で働いていた由紀さん(43)=仮名=は12年前、長男の妊娠をオランダ人上司に報告したときの感動が忘れられない。日本の感覚で迷惑がられると思ったし、フルタイムで働きながらの子育てには迷いもあった。こちちから聞きもしないのにニコニコ顔で話す上司の言葉で、「週3日なら」と復帰を決めた。

 働く女性の割合が65%を超えるオランダ。だが意外なことに、政府の育児支援策は乏しい。特に、保育所の整備は遅れた。伝統的に子どもは家庭で育てるべきだとの意識が強く、保育料も高かった。今年から政府と企業による補助制度が始まったが、利用は週3日が平均。長い「入所待ち」も珍しくないという。

 なのに、子どもは生まれている。合計特殊出生率(女性が一生に産む子どもの数)は2003年に1.75人と、日本の1.26人に比べはるかに高い。短く働いても不利にならないので、働く時間を減らして子育てをする選択肢があることが、大きな育児支援につながったといえる。

 由紀さんは書う。「学校の送り迎えなど親の負担は大きいのに、なぜか子育てしやすい。職場も含めた社会全体が、子どもや子育てをする親を大事にする感覚を強く感じる」.

後日談がある。由紀さんが職場に復帰したら、日本人の上司に「50%で続ける気なら、毎日出勤してくれ」と言われた。日本との時差のせいで午前中に仕事が集中するからだが、毎日通勤するのでは時短の利点が半減する。何より、自分が歓迎されていないと感じて悲しかった。まもなく週3日の仕事に転職した。

 「日本だったら子どもは産んでないかもしれない」。オランダで子育てをする日本人女性からよく聞く言葉だ。

 一見、理想の国に見えるオランダにも課題はある。その一つが根強く残る男女の役割意識だ。もともと、欧州でも保守的な「男は仕事、女は家庭」の土地柄だった。

 プラム・ジョエルさん(44)は、男女の壁を痛切に感じる一人。2年半前に完全に妻と入れ替わり、4人の子を育てる「専業主夫」となった。

 国際的なIT企業に勤め、十分な収入も地位もあったが、仕事におもしろみはなかった。妻のアネ口ース・シュヒルテさん(41)は、もっと仕事に力を傾け、自分の力を試したいと考えていた。シュヒルテさんは、現在は大手保険会社のシニアマネジャーだ。

 2人にとって役割の交換は「パズルが奇跡的に合った」選択だったが、世間の風当たりは思いのほか強かった。「彼女は君と同じだけ稼げるのか」「子どもが母親を恋しがるだろう」「君のやりがいは」。同僚や家族、友人など、会う人ごとに質問攻めにされた。

 ジョエルさんは2人の決断の経緯や日々の生活をブログなどで公開。「男だから、女だからでなく、『自分が本当にしたいこと』に正直に」と訴えている。

 「仕事も料理も掃除も、やることがいっぱいで自分の時間がない。本も読めないし、友達とも会えない」。

 アネミエ・シュハウトマーカーさん(45)のオフィスには、切羽詰まって訴える女性からの電話やメールが引きも切らない。

 仕事と育児の両立に悩んだ自身の経験から、2003年に「キャリア&キッズ」を起業。子育てや就職について助言するビジネスを始めた。ほとんどの利用者は女性。料金は週1回、1時間半の面談10回で2000ユーロ(約32万円)と安くないが、利用客は1000人に達した。当初3人で始めたスタッフを25人に増やす急成長ぶりだ。

 「仕事をしながら母親の役割を完璧にやろうと考えすぎる。優先順位をつけること、夫と話し合い、人の手を借りることなど、肩に載った荷物を一つずつ降ろすよう助言します」。

 そういってシュハウトマーカーさんは、相談にきた女性に、自身もアイロンがけを25ユーロ(約4000円)で人に頼んでいること、夫はスパゲティしか作れないが「おいしい」と言って食べることなどを話し始めた。

 ある政府調査によると、1975年からの30年間で、男性が家事や育児をする時間は、週2時間半増えただけだが、女性の仕事時間は10時間近く増えている。

 専業主夫のジョエルさんは言う。

 「オランダのこの30年の変革で、変わったのは女性だったと思う。今度は男性が変わる番だ」。

 (朝日、2007年05月09-10日。足立朋子)

一燈園(いっとうえん)小中高校

2011年01月17日 | ア行
 5月の大型連休明け。朝の光が差し込む竹やぶで、高校生数人が地面の小さな裂け目を探していた。
            
 京都・山科にある「一燈園」の10万坪にも及ぶ敷地の一画。一燈園小・中・高校もその中にある。

 裂け目を少し掘るとタケノコの先が見えてきた。軍手をはめて土をよけ、鍬で掘っていく。タケノコの季節は終盤というが、30分ほどで6個が集まった。

 こうして得られた食材は、園内で暮らす人々のおかずとなる。

 「昼食に出てくると、自分たちの掘ったタケノコだってうれしくなる」と高1の河本進さんは言う。

 学校は来年、創立75年を迎える。当初は園内に住む家族の子どもたちが中心だったが、今では大半が外部から。共学で、1学年1学級のほとんどが10人以下。高校生は寮生活が基本だ。岩手県や鹿児島県からの生徒がいたこともある。

 社会や他人のために汗をかくことは「祈り」や「学習」と並ぶ教育の3本柱の一つだ。高校生になると、午前中のほとんどが農作業のほか、庭の手入れなどの営繕、食事作りなど「作務(さむ)」と呼ばれる仕事にあてられる。園内の大人たちに教わりながら、グループに分かれて体を動かす。

 食堂では、この日、昼食のハヤシライスの準備が進んでいた。全部で約160人分になる。

 ジャガイモを切っていた高2の折田恭平さんは高校から入った。「勉強だけでは物足りない。ふつうの学校ではあまりできないことをやらせてもらい、自信が生まれた」。台ふきんの用意をしていた高3の大戸彩さんも「最初はびっくりすることが多かったけれど、習慣になった。やらされているわけではなく、快くできる」と話す。

 屋外では草を刈る生徒もいた。高2の楠見真孝さんは「ムカデやハチが出てきても、立ち向かっていかなければならない。自然に触れることで、心が鍛えられる」と話す。本音では作務はあまり好きではないが、「最近は後輩ができ、しっかりお手本を見せなければと思うようになった」。

相(あい)大二郎校長(70)は、知識や技術と違い、人間性や価値観は教えられないと考えている。言葉をいくら費やしても、「そよ風のように頭の上を通り過ぎていくだけ」だ。

 「真の教育は日常生生活ら始まる。何かの役に立っていると感じることがまさに教育。汗をかくことにより、人の努力や苦しみも分かるようになる」。

 高校の修学旅行も独特だ。2年生の1月に、一燈園を開いた西田天香の生地、滋賀県長浜市で、見知らぬ家のトイレ掃除をする。これも働く喜びと奉仕を実践する作務の一環で、「行願(ぎようがん)」と呼ばれる。一軒一軒訪ねて歩くが、断られることも多い。今年参加した高3の下川道明さんは最初、不審者のように見られて恥ずかしかったという。「でも、何軒も訪ねた末に掃除をさせてもらえたとき、うれしさや達成感とともに、相手の笑顔があった。『ありがとう』の一言が力になった」。

 毎朝、小1から高3まで全員が、礼堂で15分ほど祈る。特定の宗教の祈りではなく自己と向き合う。4月には仏教の「花祭り」、12月にはクリスマスを祝う。

 マレーシア系の子が入学したことで、ムハンマド(マホメット)の誕生日も祝おうかとも考えている。「大自然の歴史から見たら、宗派にこだわるのは小さい。みんな人生の大先輩。いいことを言っているんだから、それを教えた方がいい」と相校長。

 授業時間は多い。高校の場合、夕食を挟んで夜7時ごろまで続く。基礎の徹底が中心だ。受験勉強は個別対応で、今春は京都外語大や三重大などに合格者が出た。卒業生で大阪電気通信大講師の境隆一さん(聖は「競争よりも助け合っていこうという感じが強く、ほかの学校の人たちとは価値観が違っていたのかなと思う」と振り返る。

 他校の先生も一目置く。進学校として知られる開成中・高(東京都荒川区)の橋本弘正教諭(67)は「今の時代は『人はどう生きるか』について考えることが希薄になりがちだが」一燈園では常に考えていて、生活そのものが奉仕になっている」と話す。

 生活共同体としての一燈園は、半世紀前の約500人をピークに年々減少し、現在は20世帯100人程度。一方、今春の小1は14人と、ほとんど前例のない数が入学した。来年は校舎を増築する予定だ。さらに多くの子を受け入れ、学校を中心とする「教育共同体」を目指すという。

 一燈園

 思想家・西田天香(にしだ・てんこう。1872~1968)が始めた生活共同体。「自然にかなった生活をすれば、何も持たなくても許されて生かされる」との信条」のもと、1904年に無所有と奉仕の生活を始める。この生き方に共鳴する人々と一燈園を開いた。園内には住居や学校、お堂、研修施設に加え、印刷や設計、農業技術指導の会社もある。

 劇作家・倉田百三もー時入園し、「出家とその弟子」で描いた浄土真宗の開祖・親鸞(しんらん)は天香がモデルともいわれる。

 (朝日、2007年05月27日。西村令奈、根本理香)

NHKへのメール

2011年01月14日 | ア行
1月2日、NHKのラジオ深夜便の雑誌(2011年1月号)を読んで、次の感想をメールで送りました。残念ながら、返事がないのでここに発表します。栗田敦子はアンカーの1人です。

        

栗田 敦子 様

 「非カゼ3原則」を読みました。この機会に日頃思っていることを箇条書きにします。

 1、NHKでは(他局でもそうかもしれませんが、それは知りません)アナウンサーが風邪をひいても代わりの人を立てるということをしないようです。これが不思議です。聴いている方は、同情はしますが、やはり辛いですし、楽しくありません。代わりを立て合うという制度をなぜ考えないのでしょうか。

 2、風邪は全然引かないのも必ずしも好くないようで、野口晴哉(はるちか)には「風邪の効用」という本もあります。それはともかく、減らした方がいいとは思います。風邪を引く頻度を半減させる方法は温冷浴(最近は「交代浴」と言う人も多いようです。サッカーの選手が「疲れが取れる」と言って、しているようです)が最も確実と思います。これなら風邪をひいている時でも入浴できます。

 温浴(41度くらい)と冷浴(19度くらい)を1分間ずつ交互に入る入浴法です。冷・温・冷・温・冷・温・冷と、冷から始めて冷で終わるのが基本ですが、冬は最初の冷を省いてもいいと思います。必ず冷で終わることです。(詳しくは私のブログ百科事典「マキペディア」の「健康法」をお読みください)

 3、さて、「ラジオ深夜便」については、いつも面白く聞いていますが、疑問は、チームリーダーが公表されておらず、個々のアンカーに対してではなく番組全体に対して意見を言う方法が分からないことです。以前は斉藤季夫さんがそれみたいでしたが、それもはっきりしません。番組全体への意見はどこへ言ったらよいのですか。

 4、雑誌「ラジオ深夜便」でも、他の雑誌と同じく読者を一段低く見ているようです。他の文章は2段組みなのに、「読者の広場」だけは3段組みで、しかも字の大きさも小さいです。1月号では小池さんの「絵手紙ミニ講座」まで3段組みです。

 外国はいざ知らず、日本のジャーナリズムはほとんどこうですが、雑誌「ラジオ深夜便」こそ率先してこの悪弊を打破すべきではありませんか。(引用終わり)

     関連項目

NHKと公共放送

大槻玄沢

2010年12月26日 | ア行
(おおつき・げんたく。1757~1827)

事業はみだりに興すことあるべからず。思いさだめて
興すことあらば遂げずばやまじの精神なかるべからず。


 語学を学んだ者なら誰しも感じることだが言語は広大な海。異国の言葉をものにするのは大変だ。ましてや十分な辞書や語学書もなく一から未知の言語に挑むのは、ひとりぼっちで海図のない大海にこぎ出すようなものだ。

 大槻玄沢。この男が出るまで日本人が西洋学を学ぶのはまさにそんな途方もない道であった。しかし彼が『蘭学階梯』(らんがくかいてい)という簡潔かつ適切な蘭学入門書を刊行。1788年のことだ。

 以後、寒村・山奥・津々浦々からも蘭学者が湧いた。西洋列強に襲われるはるか前に、近代の科学技術を取り入れる素地を完成したこの国は植民地化をまぬがれた。

 先日、神田神保町の古本街で「洋学始末(底本)」をみつけた。これは珍本。「たしか広辞苑を編んだ新村(しんむら)出博士が大事にしていた本だが、写本があったか」。そう思ってめくると、大槻玄沢の生涯などが詳述されていた。

 玄沢は一関(宮城県)の医家の生まれ。他の子と遊ばず、日夜、伯父から故事(昔のこと)を学ぶ変わった子。江戸のオランダ医学のうわさをきき、杉田玄白に入門。驚くほどねばり強い男で、わかるまであきらめない。しつこく質問する。最初、前野良沢(りょうたく)は仮病をつかって追い返したが根負けして全部教えた。

 仕事は引き受けない。しかし一度引き受けたら絶対にやり遂げた。それで著した著作は300冊とも。

 事業はみだりに手掛けるな、手がけたら完成するまでやめない精神が必要といった。

 辞書『言海』の著者で孫の大槻文彦がこの言葉を記録している。玄沢は江戸に居ること50年、ずっと同じ郷里の安たばこを吸い続けたという。

  (朝日、2010年12月25日。磯田道史。歴史学者・茨城大准教授)

ロバート・オーウェン

2010年12月14日 | ア行
 産業革命進行中の英国は、児童、女性も含め12時間以上の労働など当たり前。そんな中で、人道主義の立場から、労働者の環境改善を実践したのがロバート・オーウェン(1771~1858)だ。

 紡績工場主として財をなした彼は、スコットランドのニューラナークで、利潤追求ではなく、労働環境の改善による人間性の増進を図った。10時間労働を提案し、工場と住宅を隔てるグリーンベルト、生活安定のため原価提供する売店、幼児高齢者への社会保障的な保護を進めた。フレーベルより早く、世界初の幼稚園も運営した。協同組合の発想もあったことから「協同組合運動の父」とも呼ばれる。

 米国に渡り私財を投じて、共産主義的な生活と労働の共同体「ニューハーモニー」を始め、英国に戻って再度、実験村を設けた。

 だが、3つの理想村の実験はいずれも挫折、彼が努力して実現した1819年工場法は骨抜きに。全国労働組合大連合(グランドユニオン)は短期間で崩壊し、彼の挑戦のほとんどは失敗に終わった。

 一方で、神懸かり的なものに寄りかかる特徴があった。頭蓋骨の隆起を測定して性格や能力を判定する骨相学に親しみ、心霊術を信じた。『自叙伝』には、かつて交友を結んだケント公の心霊と会話する様子を記している。また、終末の日を迎えて神が直接地上を支配するという千年王国論的発想を持っていた。

 ニューラナークなど3ヵ所の理想村の建設も、現実世界にユートピアを実現しようとする千年王国的発想がその基礎にあったのかもしれない。
 (朝日、2010年12月11日。歴史研究家・渡辺修司)

 感想

 マルクス主義者の間では低く評価されていますが、マルクスの社会主義も空想的なものであることが判明した今、自分の会社経営で自分の考えを実践してみせたオーウェンの意義は見直されてよいと思います。

池内紀著「ことばの哲学──関口存男のこと」を評す

2010年12月10日 | ア行
 池内紀(おさむ)さんが、かつて雑誌「現代思想」(青土社)に2004年の1年間連載した「ことばの哲学者」を本にまとめて出版しました。関口ドイツ文法を研究する者として一言もしないのは無責任でしょう。

 これは「伝記」ではなく「評伝」とされています。どこが違うのかと新明解国語辞典を見てみましたら、後者は「人物評を交えて書かれた伝記」とありました。人物評のない伝記があるのか、私は知りませんが、本書は「人物評」ではなく「業績評」を交えた伝記だと思います。

 この観点で本書を評価しますと、「伝記」としては60点、「業績評」としては0点です。

 伝記としてはなぜ60点なのか。ともかくも伝記を書いたからです。関口さんほどの人について、本来ならば、池内さんの言う「関口信者」、特に直弟子が伝記を書いておくべきでした。それなのに誰一人として書いていないのです。不思議な事です。池内さんはこの空白を埋めたのです。この事はとにもかくにも立派な仕事だと思います。ですから及第点の60点には達します。

 ではなぜそれ以上ではないのか。調査が不十分です。直弟子の中で今でも生きている江沢建之助さんと大岩信太郎さんの2人から取材しなかった(らしい)のは余りにもひどすぎます。そのほかでは、ヴィンクラーさん関係の取材もしなかった(よう)ですが、これも不可解です。

 関口さんの生前の挿話は主として追悼文集「関口存男の生涯と業績」から取ったようですが、その中にあるヴィンクラーさんのドイツ語で書かれた「友の死」からの引用のないのも不思議です。

 第8章は「文化村の日々」となっていますが、その頃の関口家に集まった演劇人たちの様子を描いた文章ではヴィンクラーさんのこれが最高のはずですが。又、妻の為子さんの死に際しての関口さんの悲痛な気持ちを伝えたものとしても、ヴィンクラーさんのこの文章が最良だと思いますのに、引用されていません。

 業績評としてはなぜ0点なのか。内容が何もないからです。関口さんの業績のような超一流のものを評価するには、評者の方にも超一流のものがなければ無理でしょう。「評価は評者自身をも表す」のです。

 池内さんのしたことは、ヴィトゲンシュタインとの比較、意味形態論の解説、冠詞論の説明くらいのものですが、いずれにも内容がありません。頭の好い人ですから小器用にまとめてはいますが、研究していないことは歴然としています。

 それを自覚しているので、ドイツ文学者とドイツ語学者とは「まったくの畑違いだ」という奇論を展開しています。たしかに両者は完全には一致しないでしょう。しかし、ドイツ語学をやらないドイツ文学者なんてありえません。ドイツ文学をやらない語学者ならいると思います。かく言う私自身、文学を知らない語学者だと思っています。関口さんはどうだったか。語学者であるのみならず文学者としても超一流でした。
「ファオスト」の主題を関口さんほど真正面から論じたひとがほかにいるでしょうか。池内さんの訳でも成立の歴史が少し解説されているだけです。

 池内さんは「関口信者」という語を繰り返してその種の人々を揶揄していますが、自分自身はなぜその「信者」にならなかったのか、少なくとも「真っ向から取り組まなかった」のか、説明していません。氏の関口への態度は、①東大に入った頃、関口についての「伝説めいたエピソードを耳にしていた」こと、②ドイツ語講師となってから、関口さんの書いた教科書をずっと使い続けたらしいこと、③翻訳を始めた頃、関口氏の素晴らしい訳業を知ったこと、④それと同時に冠詞論全3巻を知ったこと、⑤その後の10年くらい、「目にとまるたびに関口存男を読んでいたこと」、以上5点です。

 つまり、「目にとまるたびに」ではなく、主体的に格闘したことは1度もないようです。なぜそうしなかったのでしょうか。その説明はありません。語学者ではなく、文学者だからでしょうか。それなら文学者としての関口から学べば好かったでしょうに。

 哲学に触れるならば、何よりもまず関口さん自身が高く評価していたハイデッガーに言及するべきだったでしょう。しかし、その言及はありません。そもそも関口さんの訳注書「ハイデッゲルと新時代の局面」を読んだ形跡すらありません。

 要するに、池内さんは関口さんに入れ込んだことが1度もないのです。それなのに評伝を書いたのです。そのため「一応の伝記」は書けましたが、「評」伝は書けなかったのです。 国文法の三上章の評伝(金谷武洋著「主語を抹殺した男」講談社2006年)と比較すると、入れ込んだ後継者の書いたものとの違いが好く解ります。

 ──「語学の天才」「ドイツ語の鬼才」が通り名だった。伝説になるほどの語学力を言われていた。みずから一代で築いたドイツ文法を人は「関口文法」と称した。死後にはさまざまな人から「関口文法の発展と継承」が口にされた。/ いつしかそれが聞かれなくなり、いまやその独創的ドイツ文法学は関口存男その人とともに、俗にいう「おくら入り」 にされた感がしないでもない。(201頁)──

 こういう現状を嘆いて「外野手」の自分が「先発投手」を買って出て、勝敗はともかくとして、9回まで投げ抜いた、ということだそうです。「畑違い」の池内さんでも「自分なりの花輪を捧げたかった」のだそうです。

 かくして、ともかくも関口さんの唯一の伝記は生まれました。ありがとうございます。不満な人は足りない所を自分で足して行くべきでしょう。

あしなが育英会(アフリカにリーダー養成)

2010年11月15日 | ア行
          あしなが育英会会長代行、金木(かねき)正夫

 2012年は米国の作家ジーン・ウェブスターが小説「あしながおじさん」を刊行して100年にあたります。私たち、あしなが育英会はこの機会に、貧困と戦争の克服に取り組むクリーンなリーダーを育てる「アフリカ百年構想」を提案します。アフリカの貧しい遺児が世界中の大学で学べるように、あしながさんの募集を世界に呼びかけます。

 遺児への奨学金制度は日本独自のもので、庶民による自助運動が打ち立てた金字塔といえます。親を亡くした子どもたちに奨学金を匿名で贈ってくださる「あしながさん」のおかげで、40年間に8万人の遺児が高校、大学へ進学できました。

 いま、私たちは国内だけでなく、2億人以上と推定される世界の遺児の中でも最も貧しい子どもたちに、あしながさんの無償の愛を届ける運動に乗り出しています。

 これまでも、あしながさんの支援で、ウガンダ、イラク、アフガニスタンなど6ヵ国から計13人の遺児が日本の4大学に進学できました。また、10年前から小学校へ行けないエイズ遺児が勉強する寺子屋をウガンダで続けてきました。

 今回の「アフリカ百年構想」では、まずウェブスターの母校である米バッサー大学にアフリカの遺児が進学できるよう支援することを象徴的な第一号として目指します。また、サハラ砂漠以南48ヵ国の極貧家庭の遺児が世界の大学を目指せるように、幼稚園から高校までの学校と寄宿舎をウガンダの首都郊外につくる計画を進めます。

 先進国、新興国を問わず、市民、企業、財団などから広く募った寄付を財源として、貧困削減に貢献する新しい国際人の養成を目指します。

 なぜ、アフリカでクリーンなリーダーを養成することが大切なのでしょうか。

 多くの途上国では、多額の国際援助資金が長年にわたる腐敗のために有効に使われていません。世界銀行は、年に約100兆円がわいろに使われ、世界の貧困層10億人の重荷になっている、と警告しています。この現実を直視し、従来型の援助を転換していかねばなりません。世界の新しい担い手たちを無償の愛で育て、困っている誰かの役に立つことの大切さを伝える。そのことこそが、紛争の予防や、援助の有効性の向上に役立つと考えます。

 アフリカでも経済発展の中で格差が拡大し、遺児は教育の機会から取り残されています。その中でも、貧乏に負けまいと努力する子どもがたくさんいます。二つ仕事をかけ持ちしても教科書が買えず、友達に借りて夜中に勉強する高校生。バス代が払えないため、高校まで往復7時間歩いて通っている遺児もいます。

 私自身、あしなが奨学金を借りて大学を卒業し、米国で基礎医学の研究・教育に携わっています。日本が「発明」し、40年かけて定着させたあしながさんの寄付制度を世界に輸出し、「貧者の一灯」の精神の大切さを訴えたいと思います。
 (朝日、2010年10月14日)

天下り(02、天下り根絶の難しさ)

2010年10月20日 | ア行
 天下りを無くせ。野党時代の民主党は、国家公務員の天下りを厳しく批判して国民の支持を集め、自公政権を追い詰めた。政権交代から1年。マニフェストの柱にも据えられた「天下り根絶」が、空手形となりそうな気配になっている。

 党を真っ二つにした民主党代表選。小沢一郎・元党代表は「口だけの政治主導では役人になめられてしまう」と菅直人首相を批判した。菅首相は「政治主導かどうかば予算編成が終わった時点で評価されるべきだ」と反論。政権交代後に薄れていた「脱官僚」が改めて問われる展開になった。

 だが、「官僚から国民の税金を取り戻す」として1年前に打ち出した「天下り根絶」については、両陣営とも特段の言及をしなかった。代表選前に出された政権構想でも、小沢氏は終盤に「天下りは全面的に禁止する」との1文を入れただけ。菅氏は「行政の無駄削減を断行」としたが、天下りには直接触れなかった。

 総務省の9月の発表によると、昨年度省庁から天下りをした国家公務員(課長、企画官級以上)は1185人で、前回調査(1423人)から減ってはいる。しかし、民主党の「天下り根絶」は、この1年でずいぶんと後退してしまっている。

 その経過を説明する前に、天下りのシステムについておさらいしたい。

 国家公務員の天下りは、次のような流れだ。
①人事は省ごとに行われ、役職と給与は上がり続ける(=年功序列)
②ベテラン職員のポストは少なく、ポストにつけない職員は退職を勧められる(=肩たたき)
③退職する職員は、省庁と関連の深い独立行政法人などのポストをあてがわれる(=天下り)
 こうした人事が慣習化してきた。

 従来は各省庁などが天下りポストをあっせんしてきたが、昨年9月、鳩山内閣が省庁によるあっせんを禁じたため表面上はなくなっている。

 ただ、天下り先にいる「先輩」が退職予定の「後輩」に天下りポストを内々で紹介するケースがある。役所の表だったあっせんがないこうした「裏ルート」は規制の対象外で、今なお残っている。

 総務省によると、独立行政法人や公益法人などの幹部ポストのうち、同じ省庁出身者が5代以上続けて占有しているポストは338法人に422(昨年5月時点)。この多くが、裏ルートによる天下りとみられる。

 兵庫県立大大学院の中野雅至教授はこう指摘する。
 「あっせんのない『裏ルート』は数字には表れず、確認しにくい。民主党は野党時代、それを問題視してきたのに手をつけていない。役所のあっせんがなくなって天下りはある程度減ったが、根絶できたとはとても言えない」。

 天下りが問題視されるのは、省庁が職員を押しつける代わりに、天下り先に対し、補助金や事業の発注、許認可、情報提供などで有利な取り計らいをするからだ。

 会計検査院が昨年まとめた調査によると、天下りがいる公益法人への省庁からの支出額は、いない法人の約7倍になっていた。現役時代に公益法人の設立にかかわった官僚OBは「天下り先のポストを用意するのも仕事だ、と先輩に言われた」と振り返る。

 官庁が天下り先に流す金は、天下り役員の高給や、採算を度外視した「箱モノ」の建設など、無駄遣いになりかねない。「官製談合」や「民業圧迫」にもつながる。

 野党時代の民主党が天下りを追及していたときの、自公政権のお決まりの逃げ口上は、「役所があっせんした天下りではない。受け入れ先が(天下りした人物を)自発的に選んだだけだ」。民主党は「あっせんがあろうとなかろうと天下りは問題だ」と批判。「4500団体に国から2万5000人が天下り、年間12兆円の税金が流れている」と、根絶を訴えていた。

 民主党はその勢いを駆って、昨年の総選挙で「天下りの根絶」をマニフェストのトップに据えた。だが、この時すでに内容は後退していた。「天下りのあっせんを全面的に禁止します」とし、「あっせんのない天下り」を禁止の対象から外していたのだ。

 政権交代後、民主党の姿勢はさらに弱くなる。昨年10月、日本郵政社長に元大蔵事務次官の斎藤次郎氏を任命。天下りではないかと批判を受けると、鳩山内閣は「府省庁のあっせんを受けていないから天下りではない」と逃げた。それは自ら批判してきた、自公政権の逃げ口上とまったく同じものだった。

 一方、天下りあっせんの禁止だけを先行させたため、ベテラン職員が各省に滞留し始めた。すると政府は今年6月、「退職管理基本方針」を閣議決定。独立行政法人、民間企業などへの出向枠を広げた。このルールでは、公務員は出向先で2年ほど役職員を務めた後、元の省庁に復帰する。しかし、50代半ばの職員が2年ほどの出向期間を経て、形式的に役所に戻って退職するだけなら、実態は天下りと変わらない。「新たな天下り」と指摘された。

 民主政権は8月、みんなの党からの質問主意書で、新たな出向は天下りとどう違うのか、問われた。政府答弁は「職員は国へ復帰するのだから、天下りではない」。木で鼻をくくった内容だった。

 民主党は、天下りをなくすことと併せ、「公務員が定年まで勤務できる態勢を築く」としていた。65歳までの定年延長、総人件費の2割削減など関連政策を掲げはするものの、人事制度を抜本的に見直す公務員制度改革はほとんど進んでいない。

 背景には、有力な支持母体である労働組合の強い反発や、官僚自身の抵抗がある。子ども手当、高速道路無料化といった「政治主導」の政策が思うように進まず、官僚の協力を仰がざるをえない状況も影響している。

 民主党の参院選マニフェストには、末尾に小さくこう記されている。「あっせんによらない隠れた天下りはいまだに続いており、政権交代前の天下りを一掃することはできていません」。

 前出の中野教授は言う。

 「民主党がこれ以上、天下り根絶を進められるとは思えない。滞留するベテラン官僚をどうするのかを議論する覚悟も、人事組織を組み替える覚悟もなかったのだろう」。

 「天下り根絶」と「脱官僚」は、コインの表裏。管改造内閣はこの問題に向き合えるのだろうか。

  (朝日、2010年10月02日。野口陽)

   関連項目

天下り(01、天下りを根絶せよ)

歌劇「ウィリアム・テル」の原作について(関口存男)

2010年08月21日 | ア行
                               関口存男

 ウィリアム・テルというのは英語化された名称で、原名はヴィルヘルム・テル、ドイツの劇作家シラーの作です。凡そ人口に膾炙しているという点ではドイツ文学中屈指の脚本と申しても差支えありますまい。以下、極く座談的にこの作の中心をなしている筋と思想とを紹介致します。

 筋は、一口に言えば、つまり所謂『義民伝』という奴で、アルプス山脈の真只中に現在のスイスという国が出来上る時の話、即ちスイスの建国美談でもあるわけです。テルという人物が主人公になっていますが、ではこの人物が義民の頭目か何かかと言うと、別にそういうわけでもない、彼は極く温良な、謂はば個人主義的な、どっちかと言うと寧ろ引っ込み思案ばかりしている一介の猟師に過ぎない。弓矢を手に取ればあたり界隈に彼に及ぶ名手はいないが、暴徒と行動を共にしたり、独立運動の陣頭に立つといったような事は、彼の性に合わない。現に蜂起の申し合せをする席などには、はっきりとその旨を断って、顔を出しておりません。そうしたテルが、どうして国民的英雄に舁(かつ)ぎ上けられてしまったか? そうしたテルがどうしてこの建国美談、この義民伝の主人公となっているか。ここにこの作の中心思想があるように思われます。

 ロッシーニの歌劇の序曲も大体そういう風になっていますが、幕が上ると、遠景に永遠の積雪を頂くアルプスの連山を望み、いわゆるフィールヴァルトシュテッテル湖という湖水を中景に控え、牛飼が牛の群を番しながら、のどかに牧笛を吹いているという、大体まあスイスとい言葉で誰もが連想するような平和な景色が第一景です。国情から言えば、この国には今や[13世紀終わりから14世紀初め]オーストリアの毒手が延びて来て、ゲスラーという無情な代官が支配し、それまでは太平の逸民であったこの地の土民も、今は異国の侍の前に小さくなって暮しているという、あまりのどかな事情ではないのですが、大自然は人間界の出来事なぞは顧みない、山紫水明のアルプス地方はさながら平和その者の如くに澄み、例の、ちょっと風鈴屋が表を通る時のような可愛らしい音を立てて、沢山の家畜の頸の鈴が緑の牧場の遠近に鳴っています。

 すると忽ち、あたりが少しひいやりとしたかと思うと、一天にわかに掻き曇り、見渡す限りの山野に暴風雨が襲来します。こうした高山地方の天候の激変という奴は実際あっという間もないそうです。今まで真青に澄んでいた空が一瞬にして墨を流したようになる、どこからどうしてこんな風が起きるのだろうと思われるような物凄い突風が突如として湖水の上を吹きまくる、──これがこうした高山地方の夕立ちです。歌劇の序曲にもこの嵐の描写が出て来ます。この端倪すべからざるアルプスおろしが、次いで勃発する挙国一致の建国運動を預め象徴しているに違いありません。

 そう言えば、この平和な山水と、そこに棲息している土民との間にも何かこう関係がありそうです。風俗が風土にあやかるとでも申しましょうか、天の心が人の心に通うとでも申しましょうか、このアルプスの自然は直ちに以て地元の民の性格でもあるのです。山が悠々として迫らざる如く、これらの民も亦悠々たる太平の逸民です。その代わり、あばれ出した日にはどうにも手の付けようがない。また、いつあばれ出すかという事は表面の静けさを見ただけでは判断できない。

 ──山は、人間共が己が神聖を侵しても黙っています。山の民も、異国の虐政者がどんな事をしようと、黙ってされるようにされています。しかし、あんまり猪口才(ちょこざい)な真似をしに来る奴がいると、或いは何等の予告もなく雪崩を下してこれを谷底に葬り、或いは路に迷ってじたばたするのを見ながら黙って見殺しにしてしまいます。山の民の異国人に対する態度もその通りで、いつどこでどうされたか分からないが、時々あちこちのお役人が、ポッポッと姿を消してしまう。捜索しても取り調べても探偵しても拷問しても、消息は絶体に分からない。国民全部が山その者のように黙ってて馬鹿のような顔をして見物している真ん中を、当局だけが血眼になって狂奔しているとでもいったような恰好になる。

 凡そ鈍重な愚民に対して加えられる強力政治というものはすべてこうしたものであるらしい。これで為政者の方が根気負けして方針を改めるという事にでもなれば、這般の問題は時と共に平和な解決を見る事が無いとも限りませんが、このスイスの場合は不幸にしてそうではなかったのです。皇帝の代官ゲスラーは、この平和の民に対する施政方針が当初から間違っていた事を反省しないで、思い通りに行かないのに業を煮やし、口惜しまぎれに色々と所謂る『えげつない』事を考え出すようになりました。つまり、これまでの強力方針を更に強化し、事毎に反動的な辣腕を揮うようになって来たのです。

 そういう風にして、増長に増長を重ねた最後の『脱線』とも言うべき『えげつない』仕打ちが、これが即ち例の有名な『リンゴの場面』となって、いわゆる全篇のクライマックスをなしています。ウィリアム・テルと言えば誰でも直ぐに『あゝ、あのリンゴの話か』というほど有名な話ではありますが、筋の上ではこれが最も重要な部分をなしていますので、これを中心にして紹介しなければなりますまい。

 テルという男は、前にも言った通り、みんなの者が寄り寄り協議して自由独立の旗上げを企んでいる最中にも、ちっとも顔出しをしないで、多少変人扱いをされていますが、いざとなると、黙って思い切った事をやります。既に(第1幕)パオムガルテンという男が捕吏に追われて湖畔まで落ち延びて来た際、本職の船頭まで二の足踏むほどの大嵐の中を、舟を出して向う岸に渡してやった事もあります。この事件を薄々嗅ぎつけた代官は、段々とこのテルという男に対して眼を光らし始めますが、自ら持する事高き孤独のテルには何一つ落ち度らしい落ち度が見出せないので、下手に手出しをすると逆に自分の方が負けたような恰好になるものだから、代官ゲスラーは、内々口惜しくて堪らぬが、どうにも手の出しようがない。その代り、機会ある毎に、妙に意地の悪い態度を取って所謂るいやがらせという奴をやる。テルは何をされても黙っている。代官の方では、テルが黙っていればいるほど癪に障る……と、まあ二人の間はこれほど緊張していたのです。

 すると或る日の事、テルが弓矢を提げて狩から帰って来ると、右は岩壁左は千尋(せんじん)の谷という人間一人がやっと通るに過ぎない山中の小径で、向うの方から供も連れずに代官ゲスラーがとぼとぼとやって来た。多分狩の最中に供の者にはぐれたのでしょう。運命の悪戯とは正にこういう事を称して言うにちがいない。天下の大道で供を大勢連れて歩く時には飛ぷ鳥を落す代官様だが、平常さんざ虐めていた土民と、しかも腕っ節の強い鬼のようなテルと山中の一本道でバッタリ出会ったのでは、飛ぷ鳥どころか、代官様御自身の足許が問題になって来る。
 向うからやって来るのがテルと判るや否や、代官ははたと立ちすくんでしまった。立ちどまったのではなくて、実際歩けなくなってしまったのです。強ひて平静を装って歩き続けようとしても、膝がががたがた顛へているから、喧嘩にならない内にひとりでに足下の谷底に顛落してしまうかも知れない。代官は見る見る顔面蒼白となり、冷汗をだらだらと垂らしながら、岩壁に片手を掛けた。テルの方では、この様を見ながら、悠々と近づいて来て、まず何気なく挨拶をし、鼻の先に立ちどまって、おやおや、どうかなさいましたか、と言って顔を見るが、その時代官はもう気が遠くなってテルの言葉も何も聞こえなかった。それもその筈です、この懸崖の一本路をお互いに身を除け合って通りすぎるのには、なにしろ狭い危い路の事だから、お互ひにしっかと抱き合って頬擦りするようにしないと除けられない、しかもそれには相当の時間がかかる。そうして絡み合ってゐる最中に、テルが悪い男なら、オッとどっこい旦那危のうござんすよと言いながら、力の入れよう一つで相手を谷底へ転落させてしまう位の事は訳はない。またそうされても文句のないだけの事はこちらの方でちゃんとしてある! これだけの事を大車輪で頭の中で考えたのだから、既にその考えの目まぐるしさだけのためにでも、代官がポーッとなってしまったのは全く無理もない事です。

 悪い事をされた時の怨みはまだ本当の怨みではありません。善い事をされた時の怨みという奴が、これが本当の怨みです。前者は人に訴え神に訴える事が出来るが、後者は誰にも訴える事が出来ない。まさか『俺の方で平生こんな悪い事をしていたのに、相手は俺に対してこんな善い事をして返した!』と言って不平を言う訳にも行きませんからね。咫尺(しせき)の間(かん)に対面して完全に相手に頭が上らなかった、しかもそれを莞爾たる温容を以て、半ば憐まれ半ば皮肉られながらポンと軽くあしらわれてしまった、しかもその皮肉というのが恐らくこちらのひがみで、相手は本当に人間として数等偉かったのだと感じた時、しかも相手が自分より目下の者だとなると、ここには人間最後の悲劇があります。代官ゲスラーは、いわゆる悪役ですけれども、作者シラーはこういふ風に実に旨い具合に持つて来ています。こういう事があったればこそその次に出て来る例のリンゴ射落としの場が本当に生きて来るのです。

 と言うのは、この第1回目は偶然代官の方がテルの手中に飛び込んで来たのですが、その次には、これまた偶然に、代官の張った網にテルが引っかかるという段取りになります。即ち、代官は、国民一般の反抗的気勢に愈々(いよいよ)我慢を切らし、遂に具体的に彼らに徹底的帰順を強いんとして、己が駐在する大広場の真中に王室を象徴する帽子を掲げてこれに敬礼をさせるという強引なお触れを出したのです。勿論その側に兵隊を立てて置いて、敬礼しないで通る者があったら早速引っ立てるといふ手筈です。すると、敬礼するのは口惜しいし、しなければ引っ立てられるというので、土民達は誰もその側へ近づいて来ない。只一人何も知らずに近づいて来たのがお人好しのテルその人です。テルはその時、二人ある男の子の中の一人を連れて来ている。平生は余り人中に顔を出さない男だが、たまに村へ降りて来ると大失敗をしてしまうというわけです。

 一たい天下の御法度というものは皮肉なもので、ちょっと引っ掛かった方がよさそうな人間に限って決して引っかからない。むしろその罰則・規定の精神の目標としてははなはだ見当の外れた種類の人間が真先に引っ掛かる。テルが竿頭に掲げられた帽子にお叩頭(じぎ)をせずに通り過ぎようとして番卒にちょっと待ったを食らうのも、つまりこうした皮肉な風の吹き廻しに依ると思ってよろしい。

 番卒が引っ立てようとする、テルの子供が泣き叫ぷ、村人が寄って来る、その中には革命の志士もいるから、ごたごたして大騒ぎが待ち上がる、そこへ遠方からラッパの音が嚠喨(りゅうりょう)と響き渡って、大勢の供を従えて威風堂々と近寄って来たのが丁度鷹狩から帰って来た皇帝の代官ゲスラーその人です。

 『こらこら、何を騒いでおるか、静まれ静まれ』と言いながら群集に近づいて来た時には、彼はまだ、まさかテルが捕まっているとは知りません。そのうちに番卒が彼の前に罷り出で、実はかくかくの次第、帽子に対して欠礼をしたのはこの男であります、と言いながら指差す方を何気なくふと見ると、いたいた、例の一件このかた夢寐(むび)にも忘れぬテルのこん畜生が、ポソッと突っ立っている!

 誰も人のいない所だったら恐らくニタりと笑って両手を揉んだに違いない。しかしこの度は人中だ、しかも衆人注目の的たる代官様だから、そう露骨に有卦(うけ)に入(い)ってはいけない。嬉しい所をぐっと我慢して、彼は強いて気むずかを装いながら、手に持っていた鷹を小姓に渡す。この鷹を小姓に渡すという科(しぐさ)はシラーが脚本ではっきりと指定していますが、この一寸した動作がなかなか面白い。何でもない事のようですが、たとえば喧嘩と聞いた兄貴が腕まくりをしたり、これから何か爆弾宜言でも叩きつけようとする男が予めほくそ笑みながら一本煙草に火を付けたりするのと同じような寸法で、舞台の上では物凄い効果があります。『ようし来た、──まあゆるゆると取りかゝろう、仕事はこれからだ』といったよぅな感じを与える。舞台はシーンと静まり返る。

 それからまあ、そろそろと、身元調査という奴から始めるわけですが、身元といったところで、夢にまで見る男であって見れば、改めて聞かなければ解らない程の身元でもない。けれどもまあ、これからする事を考え考え、空とぼけた顔をして何気なく訊いて行く。訊きながらテルの頭から爪先までじろじろと眺めていると、まず差しづめテルが手に持っている弓銃(アルムプルスト)が注目を惹く。この弓銃という奴は、普通の弓とは一寸様子が違っていて、矢を番(つが)えて引金を引くと飛ぶようになっている特殊な弓です。テルが弓銃の名手だという事は有名ですから、さしづめ大した名案も無いとなれば、弓でも引かせて芸人扱いにでもして侮辱してやろうか………と考える。この瞬間には勿論まだまさかわが子供の頭の上にリンゴを載せてそれを射止めさせようなどという悪辣な名案は代官の念頭には無いので、その思いつきは、その次の瞬間に、テルの子供が横合から口を出すのを聞いた瞬間に初めてキラリと彼の脳裡に閃めくのです。

 『その方は、なんでも、弓銃の名手だというが、それに相違はないか?』と言って訊くと、止せば好いのにテルの子供が横合から出しゃばって、「そうだとも、百歩向うにあるリンゴの実だって中(あ)てるよ!』と言う。電光石火、代官の復讐計画はこの瞬間にピタッと決まった。その時まではテルの方ばかりに気を取られていて、連れている子供という奴には大して注意しなかったのです。

 『これは、おまえの子か?』
 『そうです』
 『この外にもまだ子供があるか?』
 『子供は二人あります』
 『どちらの方が本当に可愛い』
 『どちらも可愛うございます』
 『そうか、よし!』、さあ代官はもう面白くて面白くて仕様がない、『ではテル、わしの方から一つ相談がある。百歩の外にリンゴを射貫くという名人のお手並みを拝見するとしよう。では百歩の距離を距ててその児の頭にリンゴを載せ、それを見事に射落として見よ。最初の一矢を以て射落としたらばそれでよし、さなくばおまえの首を申し受けるがどうじゃ』

 大抵の事では愕かないテルも、これには流石に度肝を抜かれてしまった。本当にリンゴを狙えば我が子を殺すかも知れない、我が子の命を惜しんで故意に外せば妻子を後に残して自分が死なねばならぬ……只一つ助かる途は彼の弓から百歩の外なるリンゴの真中を貫いて彼方に通じているのだが、当り前の時ならいざ知らず、わが子に向って弓を引くとなれば自分の腕にもそう自信は持てぬ………

 顔面蒼白、全身汗だくとなってわなわなと顛へ始めたテルは、我にもあらす、つい不覚な気持が生じて、代官の前に跪いて命乞いをします。ただ一人、子供だけは呑気なもので、お父さんは絶対に上手だと思っているから、的に立つと言って聴かない。一人で駈けて行って、代官の指定した木の下に立って、自分の頭にリンゴをのせて待っている。

 それからテルが、絶対絶命と知って、愈々弓を手に取るまでには相当の暇がかゝります。ちょっと試みに照準して見るが、手が顛へて照準が定まらない。群衆が危ないから止せ止せと言って留めてしまう。

 この時に、代官ゲスラーの供としてやって来た侍たちの間にも、だいぶ色々な危機が動き始めます。代官のやり過ぎを多少非難し始める者もあり、諌めるものもあり、中には遂に反抗して彼と袂を分かつ者も生じます。群衆も段々と不穏の兆を見せる。

 飛んでもない事態に面すると、たとえどんなにしっかりした男でも、最後の肚を決めるまでには相当の時間が掛かる。けれども、見定める可き所を見定め、見極める可き所を見極め、もはや絶対に遁れ方なき鉄扉の前に跪き疲れ、叩く可き所を叩き、揺さぶる可き所を揺さぶってしまって、もはやどうしても動かない扉だという事が腑に落ちて来るというと、その後の決心は案外速いものです。テルは、遂に弓を本当に手に取って、本腰を据えて狙います。但しその前に、恐ろしい眼付きをして代官を睨めつけ、同時に、何と思ったか、第二の矢を抜いて、それを序でに腰に差してから仕事にかゝります。これは、若し射損じたり我児に当たったりした暁には、反す二の矢を以て代官を射殺そうという下心であったのです。

 矢は見事にリンゴを貫いた。『これはいかん』と思ってあたりの者が止めに出ようとするうちにテルは引金を引いてしまったのです。子供は実に呑気なもので、相変わらず遊んでいるような気持で、矢の刺さったリンゴを高く翳しながら駈け寄って来る。半ば夢心地でじっと矢の行衛を見送っていたテルは、この様を見て半信半疑、擬したままの手つきで弓銃をばたりと地に取り落とし、駈け寄って来た我が児を両の腕にひしと抱き締めたまゝその場にばたりと立ち崩れてしまいます。

 これが有名なスイス建国、ウィルヘルム・テル、リンゴの挿話なのですが、これで問題は終らない。代官はテルの一拳一動を見張っていたから、テルが二の矢を出して腰に挿んだ事を見逃がすわけがない。そこで、一応は大いに褒めてつかわして置いて、後でこの『矢のお替り』を準備した理由を問ひ糺し、それを口実にしてテルを獄に投じます。けれども連行する途中でテルは脱走し、代官の帰路を擁し、問題の『二の矢』を以て代官を射止め、これが謂はば合図の狼火となって国内の志士が決起するというのがウィリアム・テルの後年部の荒筋です。

 幾度も申し上げた如く、別に政治的な意味における志士とか何とかいったような気持の毫もないテルという男が、ただ仲間に対して義侠的な男であったがために代官に睨まれ、遂には衆人の面前において残虐無道の取扱いを受け、この調子で行くと今後一家にどんな危事が及ばぬとも限らぬ、妻子の身の上が案じられるというので、謂はばまあ追い詰められた野獣の如き絶対絶命の正当防禦的立場から放った復讐の一矢図らずも邦家を救ひ建国の礎石となるというのがこの実験の面白いところでありまして、作者シラーの自由思想もまたこの点を面白いと思ったればこそ、この題材を取り扱ったのだろうと思います。政治問題の解釈としてはあるいは多少理想的、あるいは少し個人主義的に過ぎる点もあるかも知れませんけれども、シラーとしては、時代が例の有名なフランス革命の直後乃至最中と言っても好い頃の事ですから、人間本来の自然な気持から出立しないで、政治思想から出立してやたらに群衆的行動に出たり、為政者を放逐したり、他人を殺したりする事に対する批判的な気持が動いたのは無理もない事だろうと思います。
   (ロッシーニの歌劇「ウイリアム・テル」の序曲のレコードに付けた解説)