マキペディア(発行人・牧野紀之)

本当の百科事典を考える

赤川次郎さんの日本語(移轍とは何か)

2008年10月21日 | ア行
 赤川次郎氏はオペラについてのコラムの後、今度は「劇場に行こう」と題するコラムを朝日新聞に連載しています。これは要するに舞台芸術についての批評ということでしょう。

 その内容はオペラの時から門外漢の私にも面白いもので、(多分)欠かさず読んでいますが、作家であるにもかかわらず、その日本語については少し疑問を感じることがあります。

   1、「は」の重複

 第1は、助詞の「は」の重複ということです。

 1. あの有名な「女心の歌」は、たいていのテノールのアリア集に入っていて、私もこの歌はよく知っていたが、これが歌われるオペラ「リゴレット」を見たのは、ずいぶん後になってからである。(朝日、2008年08月20日)

 感想・「あの有名な「女心の歌」は」と提題したのに、さらに「この歌は」と繰り返したのは余計だったと思います。「あの有名な「女心の歌」は、たいていのテノールのアリア集に入っていて、私もよく知っていたが」で充分でしょう。

 次の「これが歌われるオペラを見たのは」は小主題ですから、適当でしょう。

 2. 見たいと思う舞台やコンサートは、なぜか重なるもので、特に秋になるとコンサートやオペラの類はぐっと過密になる。(朝日、2008年10月02日)

 感想・2つ目の「コンサートやオペラの類は」は必要でしょうか。これを除くと、「見たいと思う舞台やコンサートは、なぜか重なるもので、特に秋になるとぐっと過密になる」となります。この方が好い日本語だと思います。

   2、どうしても見逃せない(?)

 それはともかく今回(2008年10月15日夕刊)は次の文が気になりました。

 3. そして今年、3年ぶりの舞台がイプセンの「人形の家」とあっては、どうしても見逃せないものだった。

 私が疑問とすることは、このように「どうしても」を「見逃せない」という否定句に掛けるのは正しいかということです。

 学研の「国語大辞典」で「どうしても」を引いてみました。次のように書いてあります。

 第1の意味は、「どんなに努力しても」「どんな方法を使っても」「どう考えても」「どうみても」とあります。

 そして、「参考」として、「下に打ち消しの語をともなう」とあり、例文として、「どうしても分からない」が挙がっています。

 第2の意味は、「どんな事があっても」「必ず」「ぜひとも」とあります。

 そして、文例としては、「どうしても行きます」があり、用例としては、「結局結婚の相手というものはどうしてもこれでなくちゃということで決まるんじゃない~」(森本「女の一生」)があります。

 赤川氏のこの文は、下に打ち消しが来ていますから、第1の意味かと言いますと、違うと思います。第1の意味の場合で「下に来る打ち消しの語」とは、「肯定的な内容を持った言葉(の打ち消し)」だと思います。つまり、どうしても出来ない、どうしても分からない、どうしても乗り越えられない、とかだと思います。

 ここは第2の意味と解するしかないと思います。従って、下には打ち消しは来ないと思います。従って、ここは「どうしても見なければならない」と下を肯定形にするか、「絶対に見逃せないものだった」と前を代えるかだと思います。

 赤川氏の文のままでもいいのだ、今ではそういう使い方もある、と言うとすると、これは関口存男(つぎお)氏の言う「移轍」、三上章氏の言う「途中乗り換え」になると思います。

   3、移轍とは何か

 移轍とは関口氏の説明では、「2つの文(A文とB文)が意味がよく似ていると、A文と結びつきうる句は、多少文法上の無理があっても、同時に又B文とも結びつくようになる現象」(新ドイツ語文法教程、63項備考)のことです。

 たとえば、好く使われる言い方に、「暗くならない前に」とか「お前が生まれない前に」といったように、「~しない前に」と言う言い方がありますが、これは「暗くならない内に」から「暗くなる前に」への、「お前が生まれない内に」から「お前が生まれる前に」への移轍だということです。

 三上章氏はこれを「途中乗り換え」と言っています。例えば、「彼女があの夜のことをどれだけ苦しんだかどうか知らない」という文は、

 A・彼女があの夜のことをどれだけ苦しんだか知らない。
 B・彼女があの夜のことを苦しんだかどうか知らない。

という2つの可能な文で、AからBへ途中で乗り換えてしまったと理解するのです(日本語の構文、133頁)。

 私の拾った例を2つ、出します。

 「間崎は床に腹這い、枕の代りに両肱に顎を支えて」(石坂洋次郎「若い人」)という文は、「両肱に顎を乗せて」の前半から「両肱で顎を支えて」の後半に移轍したのだと思います。

 石川達三の「人間の壁」に、「この地方に来るのは初めての旅だった」という文がありますが、これは、

 A・この地方に来るのは初めてだった。
 B・この地方へは初めての旅だった。

という2つの可能な文で、AからBへの移轍だと思います。

 従って、現下の赤川氏の例で考えますと、本来は、

 A・どうしても見に行かなければならない
 B・絶対に見逃せない

という2つの言い方しかないのですが、それが混線して、途中でAからBに移ってしまったと理解するのです。

 そして、こういう言い方が広く使われるようになった結果、それもおかしく感じられなくなってしまったということです。

 移轍でも広く使われて認められてしまったものから、間違いと言わざるを得ないものまで色々あるのです。

 ともかく少し気になったので書きました。ご意見をどうぞ。

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