すちゃらかな日常 松岡美樹

サッカーとネット、音楽、社会問題をすちゃらかな視点で見ます。

【東アジアE-1選手権】深いライン、消失する中盤のプレス 〜日本1-4韓国

2017-12-16 22:50:35 | サッカー日本代表
思わぬPKによる先制で気持ちが守りに入った

 前半まだ3分。望外のPKによる先制点で日本は気持ちが受けに回った。以降、弱気な日本はずっとラインが低すぎ、その結果、中盤にスペースができる。これで日本は中盤のプレスが消失し、韓国は無人の野を行くがごとく攻め立てる。男女とも同じ優勝決定戦。前を向いて倒れたなでしこの負け方は立派だったが、男子はあまりにも情けない。またイチから出直しだ。

 日本の立ち上がりのシステムは4-1-4-1。GKは初戦でファインセーブをくり返した中村航輔。最終ラインは右から植田直通、三浦弦太、昌子源、車屋紳太郎。アンカーには今野泰幸を置き、右インサイドハーフは井手口陽介、左インサイドハーフは倉田秋。前線は小林悠のワントップに、右が伊東純也、左は土居聖真。

 日本はまるで足枷をつけてサッカーをしているかのようだった。終始、ライン設定が低すぎ、韓国にタテへボールを入れられては、こぼれ球を拾われるとそこはもうゴール前でシュートがくる。深いラインにより中盤にぽっかり空間が空き、日本の中盤は完全にスカスカ。韓国はノープレッシャーのままビルドアップしてくる。

 韓国の得点がどれも会心の一撃だったのが、日本のプレス欠乏を物語っていた。今大会のCB昌子の不調が全体に乗り移ったかのような展開だった。

最終ラインからビルドアップできない

 韓国は前からプレスをかけてこないため、日本はDFラインではボールを持てた。だが、そこから前にビルドアップできない。かといってタテにロングボールを入れようにも、前に人がおらず入れられない。

 左SBの車屋が積極性を出すとタテへ抜けて行けるが、ワンプレイ終わるとまた消極的になる。かたや右SBの植田は少ないタッチ数でいいパスを出すシーンもあったが、ポジショ二ングが高すぎて角度がなくCBからボールをうまく引き出せない。

 だからといって日本は、中央のアンカーやインサイドハーフを経由したビルドアップはもともとやらない。真ん中でボールを失いたくない、リスク回避のためのハリルのやり方なのだろうが、そのため日本は組み立てのテをまるで封じられてしまった。

 結果、ワントップの小林は前線で完全に孤立。期待の右WG伊東もケガのせいかタテに抜け切れない。後半25分に投入されたFW川又がせめて一発かましてくれればガス抜きになったが、決定的なヘディングシュートを始め何度かチャンスはあったものの決め切れなかった。

 緩んだチームを引き締める意味も込め、川又の投入は後半立ち上がりからでもよかったのではないか? 日本はビルドアップ欠乏症なのだから、前でポストになれる川又にまずボールを預ける形が作れれば攻めのパターンができただろう。とにかく彼にもっと時間をやってほしかった。

 結局、日本は新戦力のテストにもならず、かといって勝利どころか4点を食らう惨劇。ほとんど何も得るものがない優勝決定戦だった。川又に時間さえやれば芽を出しそうーー。それだけが救いだ。

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【サッカー日本代表】ハリルは選手がクラブで培った連携力を破壊する

2017-12-16 08:31:08 | サッカー戦術論
彼は「フィロソフィ型」の監督の典型である

 スポナビ・ブログで興味をひく記事があった。「ハリルは選手たちがクラブで培った連携を一度バラバラにしてからでないと起用しない」みたいなお話だ。

 ちょうどつい先日、サッカージャーナリストの西部謙司氏も似たような記事を書いていた。それは「小林悠ら川崎フロンターレの選手を何人も呼んでるんだから、川崎勢の連携力や戦術を使えば勝てるのに」みたいな趣旨である。

 実はどっちの記事もハリルが「セレクター型」の監督であることを前提に書かれている。だがそうじゃなくハリルは「フィロソフィ型」の監督だから、彼らの論法は当てはまらない。で、議論がかみ合っていない。その食い違い方が興味深かった。

 ちなみに「フィロソフィ型」と「セレクター型」の監督のそれぞれの特徴や違いについては、この分析記事この記事あたりを参照してほしい。

 カンタンに説明すると「フィロソフィ型」の監督というのは、自分の内なるフィロソフィ(サッカー哲学)を実現するために監督をやっている人種のことだ。彼は集めた選手を手駒に使い、自分の考えるサッカースタイルを形にすることで自己実現する。達成感を得る。つまり彼にとって選手とは、自分の自己実現のための手段であるわけだ。

 このタイプの場合、自分のサッカー哲学を具現化するためのシステムや戦術がまず先にあり、それに合う選手をあとから集めるようになる。だから往々にしてこっちのタイプは、選んだ選手を自分の鋳型(システムや戦術)にハメ込むようにチームを作る。

 そして選んだ選手がもし鋳型に合わない場合も、無理やり鋳型に合わせるプレイを選手に強要する。なぜなら彼にとって自分のフィロソフィこそが唯一絶対なのだから。

 これに対し「セレクター型」の監督とは、まず能力のある選手を上から順にセレクトする(集める)ことから始める。で、選んだ彼らを生かし、彼らの特徴を引き出すシステムや戦術は何か? をあとから考えるタイプ️である。

 やわらかく言えばフィロソフィ型の監督は「オレはこういうサッカーがやりたいんだ」という自分の哲学に基づきチームを作ることで自分が満たされ、充足するタイプだ。いかにも自己主張が強いハリルらしい。

 ハリルの場合、彼のフィロソフィとは「守備からのショートカウンター」である。で、それを実現するための要素として「タテに速い攻め」があったり、「ハイプレス」があったりする。そういう自分の描くポリシーを選手に求める。わかりやすくいえば自分の理想を選手に押しつける。

 さて冒頭にあげた2本の記事が、ハリルのようなフィロソフィ型の監督には「いかに合わないか?」がわかるだろう。だってハリルにとって「川崎フロンターレの戦術を借りて勝った」としても、ちっとも自分が満たされないのだ。

 いやそれどころか逆に「他人が考えた戦術を使うなんて冗談じゃない。それじゃオレがサッカー監督やってる意味がない」って話になる。つまりハリルが集めた川崎フロンターレの選手たちがクラブで培った「連携力」をそのまま使って勝っても、ハリルはちっとも自己実現できないのだ。

 その意味で冒頭にあげたスポナビ・ブログがいう「ハリルは選手たちがクラブで培った連携を一度バラバラにしてから起用する」というのは的を射た指摘である。

 でもふつう、こういうタイプはあちこちから選んできた選手をコーディネートする代表監督というより、じっくり自分の理想を形にし育成していくクラブチーム向きだと思うのだが。まあフィロソフィ型であろうがセレクション型であろうが、勝てればいいんだけどね。

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