稲荷社横の「樋門」と「樋守」というのはその居宅or番小屋を含めた表記だろうか。
中新涯の突端に樋門があり、そこに樋守の家族(佐藤さん)が生活していた。佐藤一家が住んでいた2階建ての番小屋が写っている。長男は昭和21年生まれ位だったろうか、一家には女の子を含め子供が何人かいた。生活はいずこも同じで普通に貧しく母親が家計を支えるため下駄工場で働いていた。人里離れた一軒家だったため永くカンテラ生活を余儀なくされていた。長男が中学を終えるころには樋門が近代化され、一家はどこかに転居した。
天保新開の番小屋だった思われる小さな家に山中君(昭和25年生まれ)という子供がいた。下駄工場勤めの若いお母さんと二人連れで家路につく姿がいまでも不思議に思い出される。夫婦の年齢差があった感じで、ほとんど戸外に出ない感じの父親は当時すでに50歳ちかい初老者ではなかったろうか。
中新涯の突端に樋門があり、そこに樋守の家族(佐藤さん)が生活していた。佐藤一家が住んでいた2階建ての番小屋が写っている。長男は昭和21年生まれ位だったろうか、一家には女の子を含め子供が何人かいた。生活はいずこも同じで普通に貧しく母親が家計を支えるため下駄工場で働いていた。人里離れた一軒家だったため永くカンテラ生活を余儀なくされていた。長男が中学を終えるころには樋門が近代化され、一家はどこかに転居した。
天保新開の番小屋だった思われる小さな家に山中君(昭和25年生まれ)という子供がいた。下駄工場勤めの若いお母さんと二人連れで家路につく姿がいまでも不思議に思い出される。夫婦の年齢差があった感じで、ほとんど戸外に出ない感じの父親は当時すでに50歳ちかい初老者ではなかったろうか。