- 松永史談会 -

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水・器考

2018年06月11日 | 断想および雑談

本庄重政が『自白法鑑』に面白いことを書いていた。


水と器を巡って水の器に住するか、器の水を住せしむるか、水器不二なるかという禅問答風の記述だ。

要するに主客関係で言えば水と器のいずれを主とするかあるいはその双方を主でもあり客でもあるのかという話なのだ。


ルビンの壺(るびんのつぼ、Rubin's vase)だが、文字注記から対面する二つの顔の方を主題(主あるいは図:figure)、顔と顔の間の黒い部分は背景(地:ground)として処理されている。

こちらはやや傾向の違うだまし絵だ。

選択する観点の違いに応じて少女(少女のあごの線が老婆の鼻の左側の輪郭線、同じく少女のネックレスが老婆の口唇)あるいは老婆の横顔が読み取れる。そして次のMessage d'Amour des Dauphinsだが・・・エロスを認識できない幼児は数頭のイルカが泳ぐ絵だと理解するらしい。




本荘重政(1606-1676)が提起した水か器かの命題だがこの話題は文字の形(字ずら)と文字の実(意味)、妄想心を捨て清浄なるときは人の心は仏という文字の実に触れることが出来るという話の続きに出てくる。
すなわち、水と器を巡って水の器に住するか、器の水を住せしむるか、水器不二なるかということだが、本荘は「悟り知るべし」と書いている。つまり修養を積んで自分で答えをつかみ取れという訳だ。禅的な意味での正解はむろん「水器不二」。
この記述が登場する前後には「水月(写真は@京都天龍寺)(自然界に有りふれている「モノ」といった解釈(空気のように当たり前のように何処にでもある→あってもありふれていてその存在に気づかないという意味では「何処にも無い」同然)から、「空(くう)」を表す)」「見性悟道」といった禅宗用語が目立つようになるのでこういう解釈でよいだろうと思う。

江戸初期の日本を代表する陽明学者は池田光政に一時仕えた熊沢蕃山だが、岡山藩主池田光政のもとを離れて浪人になったという点で同じような経歴を有する10歳年長の本荘(1644年、39歳時に岡山藩から禁錮状を出され、浪人。49歳時に夫人の兄上田氏が家老職を務める福山藩の客分に)とは共通の時代精神の中に生きていたのだろう、しばしば類似の比喩(あの福沢諭吉が徹底的に否定した「陰陽五行説」からみの比喩)を使っている。例えば、

たしかにこの一文からでも熊沢蕃山の文芸表現の巧みさや識見の高さは歴然

大橋は熊沢蕃山の治山治水論を捉えて日本最初のエコロジー思想家だと持ち上げ、わが国の環境倫理学者にも同様の評価をする人がいるが、本荘は水野時代の福山藩の財政基盤整備の為に塩浜開発を金山に代わるものとして果敢に行っていった(未確認情報だが、水野氏は藩領内で金山開発を精力的に行った。沼隈郡内についていえば地質学的可能性などほぼ無視した形で、そこらじゅうで探鉱を行っていたようだ。『沼隈郡誌』によれば金山彦社の類が高頻度で見られる)。言うまでもなく蕃山は塩田の造成は周辺山地の禿山化をもたらすし、新田開発は古田の荒廃を惹起するとして大反対していた人物だった。土木工事現場の統括責任者の人生が本荘重政の人生観を形作り、それを晩年になって書記化したものとして『自白法鑑』があったという理解の仕方でよいのだろうという気がする。

熊沢蕃山同様に本荘の書いたものも雑学趣味を反映したものだがまことに意味深長な”変”・”妙”(例えば空変・空妙・・・変/妙/奇/絶/佳/曲などは頼山陽が景勝地を表現するときに多用した語だと指摘→作庭家重森三玲「山陽の水西荘庭園と彼の風景観」、『庭園』147 号、日本庭園. 協会、1932 年、8-11頁)といった概念とか、二項コード:形/実、形/影を提示しつつ筋の通った叙述を心掛けている。ただ全般的にはそれぞれに道徳価値を割り当てられた図形や数値を多用(操作自体はきわめて稚拙な数秘術:仏教の五輪、儒教の五常、風水術の羅盤のようなものに独自の解釈を付加))しながら儒仏的知見をつまみ食い的に摂取した道徳哲学風教説を展開したもので、(『松永町誌』418頁は幽玄だと論評しているが、)ユニークだが、やや言葉足らずのところも感じられ味気ない。この味気ない部分が実は本荘の真骨頂を発揮した部分(「自白法鑑」の大半部分:4-43頁)だとも言えると思うのだが、その神秘主義的処方は今のところわたしの理解できる範囲を大きく逸脱している。熊沢蕃山には『易経小解』・『八卦之図』・『繋辞上伝』という著述があるが、本荘のそれは似て非なる内容なのだ。

やっと『自白法鑑』読解作業の入口付近まで小舟を乗り付けたかなという状況だが、船着き場は結構波が高くて・・・・(その後、Gregory Batesonではないが、哲学的思考の背後には数学的知が必要だと思うが、本庄の陰陽五行説がらみの神秘主義的教説に対してはわたし的には一切論評をしないことに決した)

【メモ】『西備名区』編著者馬屋原重帯の場合治山治水論は平安時代の『類従三代格』中のある太政官符を引用する形でその必要性を説いている。 参照:松永史談会2024-3例会 3月例会 開催日時 3月29日 午前10-12 開催場所 蔵  話題:『西備名区』(西備図絵を含む、文化元年~5年、1804~1808)に見る馬屋原重帯の地理事蹟研究及び古学研究の在り方(学知的傾向とその水準)について(菅茶山『福山志料』・弁説の中身に関しても必要に応じて言及)<要旨は2025年度の市民雑誌(無査読)投稿予定> 『西備名区』@国会図書館(簡単な利用者登録が必要)。 岩橋清美『近世日本の歴史意識と情報空間』、名著出版、2010。佐竹昭「地誌編さんと民衆の歴史意識」、広島大学・地誌研年報5,1996、59-76頁など一応視野に入れておくが「空間認識」「歴史意識」ではなくknowledge(知→geosophy:前近代的地理思想)上の問題として定式化していく。なお、副次的な問題に過ぎないのだが、佐竹論文はlocal historyがnational historyに包摂される過程を構想した論攷だが、わたしの理解では事柄の本質は佐竹論文の真逆、すなわちnationalなもの(例えば尊王思想、瀟湘八景といった類の「思考の鋳型」)がどのような形で「地元化」=regional/localなもの中に拡散/浸透(=定着)して行っていたのかという側面の見極めにあると考えており、その方面からの言及予定。
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