字・本郷島の上に田畑をもつ今津住人
今津島に田畑をもつ高須・今津の住人
今津島に農地を所有した大工 三右衛門だが、この大工とは浜子のチーフのような職業をいったものだろか。
今津島に田畑をもつ重右衛門・惣八は今津の人間だと思うが「今津」注記なし
字「町の上」に番所屋敷・牢屋敷
字「今津島ノ岡」の次がこの字「悪水賈上」、そして字「土手下」。今津村の惣八はここに出作り。
徳島という地名は西村出身の徳兵衛という干拓工事に従事した人夫のリーダーの人柄に惚れた本庄重政が徳兵衛に因んで命名した地名だとか。『元禄検地帳』記載の公儀名徳兵衛は井手氏かと思ってきたが今津村野取帳に松永村境に農地を所有した「本多徳兵衛」という人物がおり、本多(藤橘)家での史料採訪時にも江戸中期に本多徳兵衛の名前を記載した過去帳メモが存在したので直観的に徳兵衛とはこの本多一族のご先祖だろうと観てきた。この名前を公儀名とする家をこれまで探してきたがどうも他には見つからない。本多氏に関しては機織新涯の開発をし、郡会議員としても活躍した町内の有力者だった本多藤橘の親父が常次郎(東町で質屋業を営み、明治土地台帳では西町地区に1町歩ほどの土地保有)が幕末期のご当主なので、明治初年作成の野取帳記載された「本多徳兵衛」は町内に二軒あるうちの、もう一方の本多家の御仁だった蓋然性が高い。
要確認!
これまで松永村古図といえば『備陽六郡誌』の付図がよく知られそれに依拠した話題を提供してきたが、石井亮吉『松永塩業史・文化史の研究』に記述された「元禄13年検地の時の古地図写(石井亮吉は「松永村古地図」と呼称)」に当たるものが現存し、それを見ながら『松永村元禄水帳』を読んでいくといろんな新発見がある。
松永村元禄13(1700)年検地帳
なお、広島大学図書館の情報公開サイトにUPされた「沼隈郡松永村検地帳」は撮影ミスがあって一部史料が欠落していたが、こちらは当方が通知し正しく訂正された。沼隈郡東村の場合も同様に欠落が訂正された。柳津村検地帳についてはデータの重複があるが連絡していない。欠落の有無は不明。かなり杜撰なデータの撮影作業が行われた結果、わたしがチェックした範囲内でもかなりの頻度で問題が見つかった。欠落箇所は別史料との校合が必要で見つけるのは非常に難しいだけに広大のこのサイトは大いに要注意だだ。