明治42年に東京洛陽堂を創業した河本亀之助が高島平三郎を頼って東京に出たのが明治24年如月27日だった。本雑誌は高島平三郎が明治25年2月号に投稿した女性論(「婦女子に告ぐ」)。雑誌「女鑑」は広島県出身の西澤之助が明治24年8月に創刊し、その9号に高島が寄稿したのがここで紹介する儒教的倫理をベースとした小論文だ。亀之助は高島の紹介にて西澤之助が創業した国光社に印刷部門の雇として明治25年に就職したので、この論文と亀之助の国光社への入社とは軌を一にするのだ。
明治維新期の社会的混乱の中で舐めた辛酸を「武家の子」、武士の誇りという一点を拠り所として自己を鼓舞した高島にとって武士道精神は終生、彼の行動規範の基底にあり続けた。
参照
高島の人間性がよく表れた著書:『現代の傾向と心的革命』
明治維新期の社会的混乱の中で舐めた辛酸を「武家の子」、武士の誇りという一点を拠り所として自己を鼓舞した高島にとって武士道精神は終生、彼の行動規範の基底にあり続けた。
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高島の人間性がよく表れた著書:『現代の傾向と心的革命』