同人の集合写真。興味のある方は人物を特定してみてほしい。
わたし? まったく判らないてか、あまり興味のない連中だ
まだ東京外国語学校ロシア語本科の学生だった米川正夫・中村白葉らが出した雑誌「露西亜文学」明治44年正月号。発刊は明治43年10月(1年1号)。
本誌に広告を寄せた雑誌「芸文」と「スバル」。
京都帝国大学内に編集拠点(=京都文学会)を置いた雑誌「芸文」には哲学者西田幾多郎、心理学者松本亦太郎、言語学者の新村出、経済学者高田保馬、考古学の浜田青陵そしてもっとも記事数が多い投稿魔の上田敏ら。変わったところでは松本亦太郎の教え子:京都帝大学生三浦恒助「透視の実験的研究」を掲載。松本は元良勇次郎の死後は東京帝大の教授に転出するが、元良の下で当時東京帝大の助教授だったのは超常現象研究にご執心の福来友吉だった[助教授であった福来は学者としての資質を問題視され大正4年東京帝大を休職(事実上の分限免職)させられている]。当時、大正生命主義の堕落した局面を福来・三浦は悲しいまでに体現していた訳だ。
雑誌「スバル」には森鴎外・与謝野晶子・高村光太郎・吉井勇・和辻哲郎・谷ヶ崎潤一郎(谷崎潤一郎)・木下杢太郎ら。ちなみに表紙画は藤島武二。和辻は当時20歳、第一高等学校を卒業した頃。
雑誌「白樺」2巻一号の宣伝:柳宗悦・木下利玄・武者小路・志賀直哉ら
記者7名「自由劇場試演に就いて(座談)」で取り上げられた話題は文芸雑誌「新思潮」明治44年元旦号の特集「自由劇場号」と同じ。彼らは当時一つの読書空間を共有していたのだろ。
雑誌「白樺」、洛陽堂刊
雑誌「劇と詩」第二巻1号と文芸雑誌「新思潮」(第一次)。
いずれも創刊まもないよちよち歩きのヒヨコ状態の雑誌たちだが・・・・
前者には坪内逍遥・小川未明ら、後者:自由劇場号には谷崎潤一郎・和辻哲郎・小山内薫・小泉鐡・木村荘太ら。
ロシア語学科の学生が出して間がない雑誌に、広告を出させた米川らのエネルギーと各雑誌発行者のフレンドリーな姿勢(=連帯精神)/対応にも感心させられるが、なにより歴史に名を残した人々が当時としては大変前衛的であったこれら雑誌の中にキラ星のごとく登場しているあたりが凄い
天晴会講演会の講師の中に高島平三郎、小笠原長生。長生の6女:小雪の夫は牧師から無政府主義者そして最後には天皇崇拝者へと転生を重ねた詩人で評論家の加藤一夫。刑務所から出てきて生活に困窮していた時代、加藤は洛陽堂からたくさんの著書・翻訳書を刊行。高島平三郎は洛陽堂の最高顧問。
日蓮讃仰天晴会編『天晴会講演録・第一輯』、明治43より
武者小路の処女作『おめでたき人』が明治44年に洛陽堂から出版されたのは高島平三郎の尽力によるが、当時の文学界の新しい潮流に対する高島平三郎の反応はおよそこのようなものだった。
高島「日蓮上人の文学」(日蓮讃仰天晴会編『天晴会講演録・第一輯』)463-477頁。
文学青年どもよ、チト文体が難解かもしれないが日蓮の遺文録などは昨今の新文学よりよほど為になる。よい文学作品というのは文学的な美を備え、人に何かを教え、人を動かす力があるものだが、そういう条件をすべて備えた日蓮さんの遺文録をいまどきの文学青年たちには読んでほしいものだ。高山樗牛の作品を通じて日蓮さんの著作物に触れるのもよいが、日蓮さんの文章が読めるだけの教養も同時に身に着けて欲しい。そういった講演内容だったようだ。講演のテーマが「日蓮上人の哲学(倫理学)」なら凡庸だが、「日蓮上人の文学」という風にちょっと外したところが高島平三郎の面白さ(or センス)かな~