- 松永史談会 -

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「児童研究」創刊号と児童学

2014年01月21日 | 断想および雑談
要旨:
20世紀初頭のアメリカでは、ダーウィニズムの影響を受けた心理学者のスタンレー・ホールらによって、児童研究運動(Child Study Movement)が起こり、その影響は世界中に広まり、日本にも及ぶこととなった。当時の日本の研究者たちは〝児童学〟を旧来の教育学や心理学との違いを明確にし、生物学的な視点を盛り込むことで子どもの心身を総合的に考察することをめざしていた。本稿では当時の研究者たちが〝児童学〟をどのように捉えていたかを考察していただくために、19世紀末に始まった自然科学的な児童研究が、日本にどのように移入されたのかという原点を確認する意味で、貴重な資料である月刊誌「児童研究」の創刊号の内容の一部を紹介するものである。

20世紀初頭のアメリカでは、ダーウィニズムの影響を受けた心理学者のスタンレー・ホールらによって、児童研究運動(Child Study Movement)が起こり、その影響は世界中に広まり、日本にも及ぶこととなった。明治23年(1890)に心理学者の元良勇次郎、英語学者の神田乃武、社会学者の外山正一、教育学者の高島平三郎らによって、「日本教育研究会」が創設され、後に児童心理学者の塚原政次、心理学者の松本孝次郎も加わり、明治31年(1898)には月刊誌「児童研究」が発行されることとなった。明治35年(1902)には名称を「日本児童学会」に改名し、心理学、教育学、医学の3つの分野から総合的に児童の研究を行う「児童学」を標榜する学会が誕生した。




本稿は、当時の研究者たちが〝児童学〟をどのように捉えていたかを考察していただくために、月刊誌「児童研究」の創刊号の内容の一部を紹介するものである。

19世紀末の科学の時代らしく、児童学は旧来の教育学や心理学との違いを明確にし、生物学的な視点を盛り込むことで子どもの心身を総合的に考察することをめざしていた。興味深いのは、教育や倫理などの基礎づけにも、文化や社会の起源の考察にも、児童研究を生かせると考えているところであり、当時の研究者たちがいかに〝児童学〟という学問に新鮮さとともに期待を感じていたかがよくわかる。

児童学の推進者たちは、子育てや教育に役立てるという実践的な目的だけではなく、「成人と子どもの違い」「文明人と未開人との違い」「ヒトと動物の違い」などを明らかにするための比較研究の方法論のひとつとして児童研究を意識していたことがうかがえる。また、児童研究の動機づけとして、教育の基礎付けとともに人間存在の謎を解き明かしたいという壮大な思いが広がっていた。天文学同様に国際的な協力のもとに研究は進められるべきであるという記述も見られる。ダーウィンの一連の仕事の影響を受け、その信奉者となった世界中の児童研究者たちの思潮がそのまま日本の研究者たちにも流れ込んでいたようである。

明治・大正期の「児童研究」は海外の論文や研究者の紹介が主なもので、原著論文も少なく、内容も雑多なものであり、決して学術的な評価の高いものではないが、19世紀末に始まった自然科学的な児童研究が、日本にどのように移入されたのかという原点を確認する意味で、貴重な資料だと思われる。現在、月刊誌「児童研究」は第一書房の複製版によって読むことができる。

「発刊の辞」と「論説」は編集側の文章であり、執筆者不明だが、「祝辞」は元良勇次郎、「児童研究の発達」は松本孝次郎による。元良勇次郎は日本の近代心理学の父と称され、海外で実験心理学者のヴントや心理学者のホールなどに学び、東京帝国大学に日本で始めて近代的な心理学科を創設した人物であり、日本児童学会の設立にも尽力した。松本孝次郎は心理学者であり、障害児教育の研究者として知られている。

なお、インターネット上の活字の制約から旧漢字の一部は新漢字に、異体字は正字に直し、読みやすいように文章に句読点を増やすなど多少の変更を加えた。また、人物や国名などの固有名に関しても一部は現代の表記に直した。

※参考図書 第一書房「児童研究」複製版3巻、56巻。


「児童研究」創刊号より 明治31年(1898)11月3日

発刊の辞

19世紀の後半において世界の事物は著しく進歩し、学術に工芸にみな急速に観を改めたり。而して学術において、その進歩の顕著なるもの医学の如き理化学の如き、もとより一にして足らずといえども、心理学の如きは、またその顕著なる進歩の行程中にあるものといふべし。

夫れ17世紀の後半においてロックが経験派に属する心理学の基礎を打ち立てし以来、これに続きて18世紀の前半にはヴォルフの合理的心理学の出づるあり。その後半にはカントの知識論の現はるるあり。かくて今世紀の前半においてヘルバルトの観念的心理学出づ。その間一道の気脈綿々絶えず、変化に変化を重ね、発達に発達を加へ、ヘルバルトに至りて、暗にこの光彩絢爛たる今世紀後半の心理学に基礎を与えたり。而してこの基礎は四分五裂して、各固有の方面に向かいて深くかつ遠く研究せられ、ついに吾人が今日に見るが如き各科の心理学を現出するに至りぬ。また盛んなりといふべきなり。

なかんずく児童心理学の如きは、その発達もっともすみやかにして、独に仏に英に米に、あるいは医学上よりあるいは生物学上よりあるいは生理学上よりあるいは解剖学上より熱心にこれを研究し、ついに単に心理学の名に満足せずして、児童学の新名称を付与し、児童の心身全体に関する研究を創むるに至れり。

けだし一対象物につき、かくの如く各科の学者が熱心に研究したるものは古来その類多からざるべし。そもそもこれらの学者は何の必要ありて、かかる熱心を児童の研究に傾注するか。すなわち各自が専門とするところの学に新光明を与ふべき秘密は、かくれて可憐なるこの新来の賓客の中にあればなり。特に教育の如きは直接に児童に関係せるものなれば、その研究の必要いっそう切なるを加えるものあり。これ欧米の学者及びわが国の識者がつとにその研究を企画したる所以なりとす。

しかるに欧米におけるこの種の事業は年々進歩し、著書に雑誌に学会にあらゆる手段を尽くして、その研究に従事せるにかかわらず、わが国においてはかつて幾回か先輩の誘導奨励ありしも、依然として振興の機運に向はざりしは、実に教育上の一大遺憾にあらずや。 

されば本所は奮いて識者先輩の志を継ぎ、我国教育界の機運をして欧米と駢馳して(へんち:並んで)恥づるところなく、よく自国の児童におきて実際の経験観察を重ね、これを欧米のものと比較して、その異同を明らめ、以て国家教育の基礎を置くべき確実なる根拠を得しめんことを期し、ここに天長の佳節を卜(ぼく)し、本誌を発刊して広く世間に頒つに至れり。またこれ吾人教育学術の研究に従事せるものが聖代に酬ゆるの微衷(びちゅう:真心)なり。看ん人これを以ていたずらに流行を追いて利をあみするものと同一視することなかれ。これを発刊の辞とする。


祝辞 元良勇次郎

今人あり。機関の構造を知らずして、器械を使用せんとせば、誰かその危険を思わざるものあらん。あるいは、また植物の性質を知らずして、これを栽培せんとするものあらば、誰かその迂闊を笑わざるものあらん。いわんや万物中最も精巧の活動をなす人類を教育せんとするにあたり、精神活動の性質及びその発達の法則を明にせずして、これを教育せんとするものあらば、人これを何をかいはむ。

頃日、教育研究所において児童研究といへる雑誌を発行せんとする挙ありて、高島・塚原・松本の諸氏またこれを賛し、各その専攻にかかわる学説実験を掲記せしむと聞く。これ我が教育社会のために賀すべきことなりとす。何となればこれ我が教育社会の新事業にして将来大いに希望を属すべきものなりと信ずればなり。そもそも古来の思想によれば人の精神は身体の性質によるべきものにあらず、単にその鍛錬如何によりて発達すべきものなりとし、各個人の性質をも区別せず、ただ厳重なる教育鍛錬を施し、どうもすればこれがために、あるいはその一部の事業に熟達することあるも精神全体の健康を失ひ、その人格を損ひたること少なからざりき。かくのごときはもとより独り東洋にのみ行われたることにあらず。各国を通じて同一の状態なりき。

しかるに、西洋においては近世心理学のますます明なるとともに精神と身体の密接なる関係及び各個人によりて精神活動の状態大いに異なれるを発見し、教育者として必ずまず児童の性質を明にし、その性質に応じてこれを教育せざれば、その功少なくあるいはかえってこれを害するのおそれあることを是認し、児童研究いよいよ盛んなるに至れり。

我国維新以後、百事西洋各国の思想を輸入し、教育の如きも西洋の例に倣いたるなり。これ開国の当時止むを得ずるの事情にして、かくのごとくして吾人を益したること少なからず。しかりといえども、今や教育の事略は整ひたり、今後ますますその発達を謀らんとするには、必ず本邦人の性質を明にし、これに応じて教育の道を講ぜざるべからず。本邦人の性質を明にせんとするにおいては、児童の研究はそのもっとも大切なるものなり。

己にその研究を教育者に促したるもの無きにあらざりしも、その時期の至らざりしがために好結果を得ざりしなり。しかりといえども、今日は己に時機至れるものなるが如し。世の児童研究に従事するものはもちろん、いやしくも教育に関係あるものは直接あるいは間接に発行者の志望をして貫徹せしめんこと余の切望に堪えざるところなり。いささか思うところを述べて祝辞に代ふ。


児童研究 論説 児童研究の必要(一部抜粋)

教育に関する思想界一般の趨勢は、いまや那辺(なへん:どちら)に向いて集注せんとするか。賢明なる読者はすでにこれを認知せるならん。見よ、児童研究と名づくる新方面の研究は19世紀の後半に起こり、将来20世紀の教育界においては次第に研究の焼点たらんとするものあることを。

おそらくは新教育学なるものが児童研究の上に建設せらるるの期あらんと信ずるは、決して迷妄の期望にあらざるべし。ここにおいてか吾人が平生懐抱するところの意見を提げて、これを我が教育界に呈露するはあながち無用のことにあらざるを信ず。

いわんや我が国教育の事業は比較的に進歩したるものありといえども、未だ完美の域に及ばざるや遠し。而してここにまず児童研究と称する思想の新潮流に対して、現今教育者が取るところの態度を顧みれば、ことに歎ずべきもの少なからざるを覚ゆ。いやしくも身を以て教育の事業に当たらんとするものにありてはここに猛省一番の要なしとせんや。

およそ事物の研究は、まず詩的の段階より始まりて、漸々科学的研究に移るものなり。試みにこれをギリシャ哲学の発達に徴するも、最初は詩的思想と謂つべき神話より、次第に純然たる哲学思想を起こしたるが如き是なり。児童の研究の如きもまたかくの如し。

かつてフランスにおいては「ルソー」がその名著『エミール』を公にし、児童を以てこれを研究するの価値あるものなることを唱道したり。この書は実に、世人の児童に対する観念に一大変動を与えたり。而して行文雄健(こうぶんゆうけん:力強き文体に)加ふるに熱情を以てす。読み去り読み来たりて、興味津々たるものあるを覚ゆ。

しかれども、「ルソー」の時代は、もとより今日の時代とは異れり。彼は決して心理学者にあらず。彼は決して生理学者にもあらざるなり。すなわち、彼は児童を観察し、これを研究するに当たりて、現今の如き精密なる科学的眼孔を以てしたるものにあらざることは、何人といえども承認するところなるべし。而して彼はこの精密なる科学的観察に代るに、詩的眼孔を以てせり。しかるに現世紀の後半に至りて、一般に科学の進歩を見るに及びて、先には詩的観察に止まりしものも、今は変じて次第に科学的に考究せられんとす。あに思想界の一大変動というべきものにあらずや。

児童の研究がかくのごとき機運に遭遇せる所以のものはそもそも何ぞや。思ふにこれ畢竟種々の方面の研究よりして児童研究の必要なることを認め得たるを以てなり。そもそも諸般の研究は、種々の必要に迫られて起るものなり。而して児童研究の如きは如何なる種類の必要によりて起りたるものなるか。今これらの問題について考察するは、すこぶる有益なることなりとす。吾人は便宜のために、ここに理論的方面に関する必要と、実際的方面に関する必要とに分かちて、これを論ぜんと欲す。

今理論の方面よりしてこれをいえば、児童研究の必要は、児童が原始的のものなるにあり。自然科学にありては、動物学及び植物学の如きは、古生物学の研究によりて大いにその眞趣を解釈し得たるもの少なからざると同じく、すでに発達せる人間の心理を研究するものは、原始的の状態に遡りて、児童の心理を明らかにせば、これがために大いに得るところあることもちろんなり。また人類学者にとりては、児童は自然の位置において成人と動物との中間に位するものなるを以て、人類と他の動物との比較研究をなし、あるいは文明時代の児童と野蛮人とは、如何なる点において類似せるかを発見するを得べし。

哲学者にとりては、人生ながらにして如何なる種類の知識を有するか。経験は我々に如何なる知識を与ふるものなるか。いわゆる先天観念の如きものは、吾人は到底これを承認せざるべからざるか等の問題に対して、大いに研究の材料を供給することを得ん。ドイツの哲学者「パウルドイスセン」曰く、若幼児童がその生活の最初において、彼らの心に起るところのものを我々に知らしむることを得ば、以て「カント」の唯心論を解するを得んと。けだし至言と謂つべし。

而して児童の研究は、倫理学者に対しても、また大いに指示するところあらんとす。倫理学派中ことに先天的基礎の上に倫理学説を建設せんと欲するもののごときは、しばしば良心の判断を以て、人間の心が本来より有する機能なりとなせり。かくのごときものは心理作用の発達を参照してこれを批判すべきにあらずや。その他人間は、本来自愛的のものなるか、はたまた他愛的のものなるかの問題の如きも、大いに児童研究に待つところありといふを得べし。また生理学者の比較発達の研究の上にも、児童研究するは一大要務なりとす。

さらにひるがえって、実際的の方面より観察すれば、なほ諸般の必要は、続々として吾人の念頭に浮かぶものあらむ。幼児の保育は、如何なる用意と方法とを以てなすべきものぞ。児童の教育は如何なる心理上の基礎によりて行うべきものなるか。学校における児童の管理は如何なる方針と標準とによるべきものなるか。如何なる家庭の教育が児童の発達にとりてはもっとも適当なるものなるかなどの問題に向ひて、確実なる指導を与ふるものは、これ児童研究に外ならざるべく、これらは吾人に直接に必要を感ずるところのものなりとす。

かくのごとく我々は児童研究そのものの理論的及び実際的の必要を詳らかにするときは、這般の事業がよって起こる所以を明らかにすべく、また軽々に看過すべきものにあらざることを知る足らむ。これに加ふるに、吾人は児童が社会において如何なる位置を占むるものなるかを考察するときは、さらにいっそう必要を感じることすこぶる大なりとす。


児童研究の発達  松本孝次郎

児童研究のことたる、決して斬新なる事業といふべからず。古来いずれの国にありても、学者及び教育者は深く児童に注意せるものありしは事実なり。ただに学者及び教育者のみならず、一般の人士もまた多少児童に注意せざるものは、ほとんどなしというも可ならむ。人類は一般にその子を愛せざるものなく、また発育成長を願わざるものなし。これを愛すればすなわち、これに注意すること深く、これが発達を欲すれば、養育扶掖(よういくふえき)至らざることなかるべし。およそ天下の事多しといえども、情を以てこれをいへば、子を思ふ親の心より切なるものはあらず。この切なる熱情を以て、至愛の子に臨む。これゆえに親はその子の笑ふを見てはこれを悦び、叫ぶを聞きてはこれを憐み、如何にして成長せしめんかと、如何にして賢良たらしめんかと、苦心焦慮至らざるところなし。而してこの苦心この焦慮は、これすなわち児童研究に外ならざるなり。

古代ギリシアにおいても、すでに「プラトン」は、その対話篇「共和国」の中に、教育のことを論じ、児童の教育は如何になすべきかを説き、またその対話篇「法律」の中には、児童保育に関する意見を述べ、出生後如何に児童を取り扱うべきを論じたり。その他ローマにおいては、「クインティリアヌス」は、幼年時代の教育がすこぶる重要なる価値を有する所以を説きて、保母の選択はもっとも注意すべき事項なることを述べたり。

これらは皆児童を研究せるものなりといふを得べし。而して時代により、あるいは土地によりて児童に対する観念を異にすれども、要するに多少児童に留意せざるものなく、幾分か児童に関する試験なきものはあらざるなり。故に曰く、児童研究と名づくる事業は、むしろ古代より行われ来るものにして、近頃これに新たなる名称を与えたるに過ぎずと。

しかれども、児童の研究は「ペスタロッチ」によりて、ますます精確となり、現今児童研究において用いられるところの方法と、ほとんど同一なる研究法を行ふに至れり。疑ひもなく古代の研究と近世の研究との間に差異あることもちろんなるは、あたかも他の種類の研究が、その発達上取れるところの段階と同じく、児童研究にありても、古代の経験説は、次第に組織的研究に変じ来れるは、明瞭なる事実にして、児童に関する科学的方法が発達したるは「ペスタロッチ」において、その端緒を開きたりといふを得べし。而して児童研究を以て、一個独立のものとし、これに特殊の名称を附したるは、アメリカ「インディアナ」の人「オスカー・クリスマン」にして、1896年「パイドロギー(Paidology)」と題する論文を著はせるを以て始めとす。

「パイドロギー」は、これを児童学と訳すべきものにして、その語源は、ギリシア語より由来せり。ここに吾人は、よく児童学といへる語に注意するを要す。児童学は決して児童心理学と同意義にあらざるなり。すなわち児童学は、単に児童の精神に関する研究をなすのみにあらずして、身体に関する追究をも包含せしめんとするものなり。換言すれば、児童全体につきて研究せんとするものなり。今この意義における児童研究は、現今如何なる程度に発達し来れるかを攻究すべし。

夫れ児童研究の発達を考ふるに、二個の点において漸々(ぜんぜん:徐々に)進歩し来りたるの傾向あるを見る。(1)研究法の上に変化し来れる傾向あること。(2)種々の興味によりて、諸般の方面に、研究を及ぼせること是なり。

そもそも児童を精確に研究せんとせるはドイツを以て始めとす。1782年「マールブルグ」の哲学教授ディートリッヒ・ティーデマンが『児童精神の発達』を著はせる。これ小児童研究の嚆矢にして、この書はフランスの「ペレー」氏が『ティーディマンと児童学』と題する著書を、1881年において公にしたるより、広く世に紹介せられたり。1851年「レービッシ」氏の著『児童精神の発達史』と題するものを公にせられたるが、実際上著しき勢力を世に与ふることなかりき。その後1856年「シギスムンド」の『児童及び世界』といへる観察録あらはれたり。氏の観察ははなはだ精密なるものとして一般に承認せられたるが、この後「クッスモール」「ゲンツメル」「フィールオルト」などの生理者及び医師が、ますます精確なる研究をなすに至れり。 1880年「フィリッツ・シュルツェー」氏が公にしたる児童の言語に関する研究も、また有益なるものなり。この頃「ストルムペル」氏は、その心理的教育学を著し、附録として初二年間における、女児の精神発達に関する注意を載せたり。

1882年「プライヤー」氏は『児童の精神』と題する著述を公にし、すこぶる精密なる児童の研究をなせり。而してプライヤー氏の著述が、ドイツにおける学術界に及ぼせる影響は、これを外国に及ぼせる影響に比すれば、かえって少なるの傾きあり。

この故に児童研究は、もしその起源をドイツに発せるも、現今もっとも隆盛の域にあるものは、反りて米国なるを見る。しかれども、ドイツにおいても1896年より「コッホ」「チムメル」「ウーフェル」及び「トルゥペル」などの諸氏の尽力によりて、「ディー キンデルフェーレル」と題する研究報告を発行せられ、以て児童心理学のために、大いに貢献するところあるに至れり。

ジギスムンドが『児童及び世界』といえる著書を公にするや。その序文の中に彼の希望を述べて曰く、児童の精神に関して、多数人の一致を以て、研究を進めんことを望むと。この希望は、決して空想を以て終わらざりしなり。少なくとも、英国及び米国における児童研究の発達は、明らかに氏の希望を満足せしむるものにあらずや。

イギリスにおける児童研究は、チャールズ・ダーウィン氏が、1872年幼児の観察を公にせるを以て始めとす。また、その翌年氏が公にしたる『人間及び動物の感情の表出』もまた児童心理学にとりては重要なる著作なり。

これに次いで1878年「ボロック」氏は「児童の言語の発達」といえる研究を著せり。また1889年「ローマニス」氏は『人間の精神的発達』を著し、その他「フランシス・ワーナー」氏は1893年「児童研究」を出版して、研究の方法に関する有益なる著述をなせり。1896年「サレー」氏は、児童の研究を公にして、多くの観察上の事実を蒐集し、1897年「ステイムプル」氏は、これをドイツ語に翻訳せり。
 而して、多人数の団体としては、1881年国民教育協会の設立ありて、多く教育に関する方面を研究し、また1894年「ミス・ロウク」及び「ミス・クラブバアトン」によりて、英国児童研究会設立せられ、現今400名以上の会員と、5個の支会を有するに至れり。そのほか学校衛生改良会の事業の如きも、変態の児童を研究せる点に関して、児童心理学のために、材料を与ふること多し。

アメリカにおいては、有名なる「スタンレー・ホール」氏を以て、児童研究の創唱者となす。氏は1887年より、米国心理学雑誌を発行し、また1891年より教育壇を出版し、広く研究の成果を蒐集して、学会のために便益を与ふることすこぶる多し。而して、1893年以後、児童研究大会の設立に関して、尽力するところ少なからず。ついに児童心理学は、米国において、もっとも健全なる発達をなせるは、「ホール」氏の功興って大いに力ありといふべし。 

またクローン氏は、1895年よりして、児童研究月報を発行せるが、その材料すこぶる豊富にして、しかも有益なるは我々の敬服するところなり。著述として大いに価値あるものは、「トレーシー」氏の「児童心理学」、「ボールドウィン」氏の「児童及び人種における精神の発達」。「ミス・シン」の「児童発達記要」、「オッペンハイム」氏の「児童の発達」、「チェンバレン」氏の「原始的文化における児童」等なり。現今に至りては、カンザス、アイオア、イリノイ、ミネソタ、ネブラスカ、ニューヨークなどのごとき、児童研究会を設けて、さかんに研究の途に進みつつあるを聞く。

フランスにおいては、1863年「ティーディマン」氏の児童観察をオランダ語に翻訳したり。これこの国における、児童研究に関する書籍出版の嚆矢なり。1876年「テーヌ」氏は児童言語の発達について、著名なる著述を公にし、翌年「エグジェー」氏は、児童の知力及び言語の観察及び攻究を著せり。而して児童心理学につきては「ペレー」氏の著述たる(1)『児童初三年の観察』(2)『3年より7年までの児童』(3)『児童の芸術及び詩歌』はもっとも有益なるものにして、1878年において、その第一巻を公にせり。「コムペーレ」氏は、1893年『児童の知力及び道徳の発達』を著し、児童心理学のために貢献するところあり。その他フランスにありては、「心理学年報」を出版して、実験的研究の結果を報告するの機関となせり。

欧米における児童研究の発達に関する概略の状況は、上来著述せるがごとくにして、この間において、吾人は研究の方法につきて、変動せる形跡を認むるとすこぶる容易なりと信ず。すなわち最初はもっぱら観察を主とし、自然的条件の下に児童の発達を研究せるに止まりしが、後には実験的方法を用いて、人工的に種々の条件を設け、児童を研究することとはなれり。而して近来に至りては、単に一個人として、これに従事するのみならず、団体を設けてこの研究をつとむるに至りたるは、児童研究における、一大進歩と見るべきものなり。これに加ふるに研究の方面は、漸々多面的となり、種々の方面より興味を起こし、研究を進むるを以て、次第に完全に児童を知るを得るに至るべし。  今試みにその主なるものを挙げれば、「児童の思想及び推理児童の言語」「児童の感情」「児童の道徳心」「児童の芸術」などにして、これらの問題に関する学者の研究の結果が、世に公にせられたるもの少なからず。されば吾人はこれら参考の材料を得ること難しからず。而してここに輓近(ばんきん:近頃)に至りて、児童研究の新方面と称せらるるものが、さかんに勃興し来れるを見る。この新たなる研究の方面は、教育者によりて実行せられ、畢竟するに実際的価値を有するものにして、主として教育に関するものなりとす。すなわち、幼児保育に関するもの、教授の材料及び方法に関するもの、管理に関するもの是なり。思ふに20世紀における児童研究は、大いにこの方面に向って発達するものあるべく、いわゆる新教育学の基礎は、これによりて大いに得るところあらんと信じるなり。吾人がさらに将来に向ひて、希望するところのものは、かの天文学の研究の如く、各国相協同して、その道の進歩発達を計らんこと是なり。

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広島県三原市立図書館旧蔵寄託図書の 目録作成及び調査研究

2014年01月21日 | 断想および雑談
広島県三原市立図書館旧蔵寄託図書の 目録作成及び調査研究
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広島大学学術ポジトリ

市立図書館に寄贈されていた高楠順次郎・弟の沢井、友人の花井卓蔵の蔵書など含む
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若者と青年(youth / adolescent)

2014年01月21日 | 断想および雑談
若者と青年(youth / adolescent)


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◆社会的なものとしての若者と青年:近代と若者・青年
□「年齢的にいえばおおむね10代後半から30代前半の男女を指す。しかし重要なことはそれが必ずしも生物学的な要因によってのみ規定される段階区分ではないといことだ。実際、政府が2010年に作成した「子ども・若者ビジョン」によれば、「若者」という言葉は、思春期および青年期だけではなく、40歳未満までのポスト青年期を含むとされている。つまりそれは社会により時代により大きく伸縮するということだ。
 そもも非近代社会には、近代社会で知られているような意味での若者は存在しなかったともいえる。それぞれの共同体に固有の通過儀礼によって大人以前の存在が大人へと変化するという仕組みを備えていたからだ。資本主義化の進展が、扶養される子どもである期間と自分で働ける大人になってからのそれとの間を引き延ばしていことによって若者と呼び得る人生のある段階が登場する」(浅野[2012:1367])
□「青年という概念は、「もう子どもではない」が「まだ大人ではない」と社会が考えた人たちをさ・・786 す言葉として生じた。したがって、社会や時代あるいは考え方によって該当する年齢層も異なってくる。日本でも江戸時代までは、10代で元服という通過儀礼があり、元服した人間は一人前の大人とみなされ、青年という概念はなかった」(渡部[2012:786-787])

□「子どもから成人への移行期にある人々。概ね、14、15歳から24、25歳くらいの人をさす。我が国では満20歳をもって青年とする。青年期には、(1)性的成熟を中心とする身体的発達、(2)知的・技能的能力の伸張による大人社会への労働力の準備、(3)情操(=社会的価値を持った感情9の発達や自我確立による社会集団への適応など、社会において成人資格とみなされている諸条件が準備される。青年には自由な役割取得のための実験期間としてモラトリアム=社会的任務遂行までの時間的猶予が与えられる。いまだ半人前であることを自覚している青年は自立を渇望し、自己を直視する。そして禁欲的精神を持ってあらゆる可能性を修業感覚で追求、最終的に社会の継承者となることを目指す。
 青年は生物学的概念に依拠しているのではなく、18世紀後半に、ヨーロッパ社会の近代化・資本主義社会の発展の中、中産階級に出現した社会的かつ歴史的産物である。すなわち産業社会は、工業化と社会的分業の発達に伴う技術の高度化と、それに適合する労働力の育成の必要から、青年という大人でも子どもでもない社会参入への準備期間を形成し、当該者へ産業社会への適応と依存を促したので・・609 ある。しかしながら、このような青年期を与えられたのは中産階級以上の一部の若者層に過ぎず、一般の、そして多数の若者層は子どもから即大人・親へと移行するのが通例である」(新井[1999:609-610])

□「子どもから成人への移行期にある人びとを指す。青年が「子ども」でも「成人」でもない独自の社会的カテゴリーとして出現したのは、近代社会においてである。この青年期にそれぞれの社会において成人資格とみなされている諸条件が準備される。その主な条件として、一般につぎの三点を挙げることができる。(1)性的成熟を中心とする身体的発達、(2)知的・技能的能力の伸長を中心とする労働力の準備、(3)情操の発達、自我の確立を中心とする社会集団への適応力の増進。しかし現在、a)早熟化の傾向、b)高学歴化に伴う職業的自立の遅延、c)管理社会化と価値の多元化による自我の確立の困難、という問題状況のなかで、青年期はいっそう葛藤と緊張に満ちた時代となっている」(社会学小辞典[1997:367])

◆政治的なものとしての青年
□「[…]若者と呼び得る人生のある段階が登場する。
 この段階にある者たちは、生活上の必要性から比較的自由であるため政治的に過激になりやすいと懸念された。資本主義の発達が階級間の対立などを激化させつつあった19世紀の諸社会においてはとくにその懸念は強かった。そこでこれらの時期におかれた者たちを一方においては従順な労働者として、他方においては国民国家の忠実な構成員として育成するためのさまざまな介入が組織されていった。このような教育的な介入の対象として見出されたのが「青年」である。それはあるべき労働者、あるべき国民に向けて発達する途上にあり、正しい発達のために介入を必要とする存在として主題化されたのである。かくして「青年」という概念は、彼らを国民という範疇に包摂することで社会内部の対立を見えにくくするものであった」(浅野[2012:1367])

□「我が国に青年が誕生したのは明治期である。200余年もの鎖国状態によって、西欧に技術的に大きく立ち後れた日本では、西欧に急速に追いつくためには明日を担う優秀な若いエネルギーが必要とされ、ここに青年層が誕生する。青年は「時代の革新者」として、純真かつ積極的に社会変革を志向していった。こうして青年には「清く、正しく、逞しく」といったイメージが付与され、このイメージは60年代末まで続くことになる。だがやはり西欧同様、第二次世界大戦終了までは、青年は高等教育を受けた一部、エリート男性の独占物に過ぎなかった」(新井[1999:610])

◆消費者としての若者
□「「青年」が教育的なまなざしの相関物であったとすると「若者」は独自の文化や消費の担い手として彼らを主題化するための概念だ。1960年代末に先進各国で若者が政治運動の担い手として注目を浴び、その運動が退潮していった後、彼らは独自の文化の担い手として主題化された。山田真茂留が論じるように、その文化は大人世代との違いを強調するという意味での下位性をもつばかりでなく、大人たちへの反発を表明するものであるという意味での対抗性をもっていた。
 しかしその下位性・対抗性は山田によれば、1980年代に急速に進展する消費社会化のなかで解体していくことになる。一方において、若者文化は、大人に対する反発の意味を失い、誰にでも消費可能な商品となっていく(ジーンズやTシャツ、ロック・ミュージックやマンガなどを考えよ)。他方において、その文化は大人たちにも広範に消費されるようになり、若者独自のものとはいいにくくなっていく。その結果、1990年代以降、文化によって若者を主題化することは難しくなった」(浅野[2012:1367])

□「[…]青年のイメージは70年代大きく変化を見せる。ドルショック、オイルショックに伴う高度経済成長神話の崩壊と低成長時代への突入は、受験も含めて企業社会の管理体制を整備していった。その結果、若者層はもはや時代の牽引車としてではなく、エリート層も含めてむしろ体制を構成する歯車の一部でありさえすれば事足りる存在となった。一方、大学や専門学校への進学、およびそれに伴う親の高額な援助負担の一般化は、中流意識と保守化を基調とする新中間大衆的意識を定着させる。青年たちのあいだでは学生生活を学業・修行というよりもエンジョイする期間という認識が浸透、ここに、青年期におけるモラトリアムを永続させようと志向するモラトリアム人間が誕生する。
 若者層は現状を肯定し、また社会に対する関心を著しく低下させ、その半面で自らの新しいものを求めるエネルギーを消費行動を中心とした私的生活へと向けてゆくようになる。この時点で、かつて青年に付与されていた「時代の変革者」としてのイメージは遠い存在となり、80年代に入ると、優等生的なイメージがパロディ化されるまでになる。一方、モラトリアム人間的性質が社会的性格化するに伴い、青年期の特権を維持し続けようとする心性を備える年齢層が40代にまで拡大、若者層に特有の行動形態自体が曖昧化してゆく。これによって、若者層は年齢的区分も不明瞭となり、青年という年齢に依拠した概念そのものが若者層を定義するのは時代遅れの観を呈するようになり、代わって「若者」という呼ばれ方が一般化してゆく」(新井[1999:610])


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▼文献
●――――、1997「青年」濱嶋・竹内・石川編[1997:367]
●新井克弥、1999「青年」庄司・木下・武川・藤村編[1999:609-610]
●渡部真、2012「青年」大澤・吉見・鷲田編集委員・見田編集顧問[2012:768-769]
●浅野智彦、2012「若者」大澤・吉見・鷲田編集委員・見田編集顧問[2012:1367-1368]

■濱嶋朗・竹内郁郎・石川晃弘編、1997『社会学小辞典 新版』有斐閣.
■庄司洋子・木下康仁・武川正吾・藤村正之編、1999『福祉社会事典』弘文堂.
■大澤真幸・吉見俊哉・鷲田清一編集委員・見田宗介編集顧問、2012『現代社会学事典』弘文堂.

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▼参考文献
■小谷敏編、1993『若者論を読む』世界思想社.
■阿部真大、2006『搾取される若者たち――バイク便ライダーは見た!』集英社新書(0361B).
■古市憲寿、2011『絶望の国の幸福な若者たち』講談社.
■中西新太郎、2012『「問題」としての青少年――現代日本の〈文化-社会〉構造』大月書店.
■浅野智彦、2013『「若者」とは誰か――アイデンティティの30年』河出書房新社.
■阿部真大、2013『地方にこもる若者たち――都会と田舎の間に出現した新しい社会』朝日新書(406).
■厚生労働省編、2013『平成25年版 厚生労働白書――若者の意識を探る』

●山田昌弘、2012「青年の「アイデンティティ」の二重構造」『青少年問題』648(59巻秋季号):2-7.
●浅野智彦、2012「若者論の現在」『青少年問題』648(59巻秋季号):8-13.
●土井隆義、2012「孤立不安を煽られる若者たち」『青少年問題』648(59巻秋季号):14-19.
●辻泉、2012「オタクの現在を考える」『青少年問題』648(59巻秋季号):20-25.
●山田哲也、2012「「居場所」化する学校と承認をめぐる問題」『青少年問題』648(59巻秋季号):26-31.
●堀有喜衣、2012「「若者の労働研究」はどこへいくのか」『青少年問題』648(59巻秋季号):32-37.
●小谷敏、2012「もちあげ・たたき・あきらめさせる――若者論の20年をふりかえって」『青少年問題』649(60巻新年号):2-7.
●伊奈正人、2012「ゆらぎのなかの若者文化」『青少年問題』649(60巻新年号):8-13.
●難波功士、2012「若者論ウシジマくん」『青少年問題』649(60巻新年号):14-19.
●芳賀学、2012「踊る若者たちと祭りの現在形」『青少年問題』649(60巻新年号):20-25.
●二神能基、2012「「働いたら負け」とつぶやく若者たちへの期待」『青少年問題』649(60巻新年号):26-31.
●布村育子、2012「小確幸の背後にあるもの――幸せのかたちと自己規制のかたち」『青少年問題』649(60巻新年号):32-37.
●古市憲寿、2013「日本の「若者」はこれからも幸せか」『アスティオン』79(2013-11):88-102.

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▼参考文献引用
・若者の誕生
□「そもそも特殊な関心を向けるべき対象としての若者(青年)は、いずれの社会にあっても資本主義の発達と国民国家の形成とが相伴って進展する時期に登場する枠組である。ジョン・ギリスは、イギリス、ドイツ、フランスなど先行する資本主義諸国で青年期がどのように誕生していったのかを描き出している(『〈若者〉の社会史』、新曜社)。要点は三つある。
 第一に、職業に就くまでの時期が延びることによって大人の社会に組み込まれていない若者が出現すること。
 第二に、階級ごとの特徴をもっていた若者の文化が、徐々に中産階級の文化によって浸透され均質化していくこと。
 第三に、軍事的あるいは産業的な合理性へと適合的な身体を形成しようとする関心によって若者の身体が取り囲まれるようになっていくこと」(浅野[2012:9])
 ・ジョン・R. ギリス/北本正章訳、1985『〈若者〉の社会史――ヨーロッパにおける家族と年齢集団の変貌』新曜社.
□「同様の過程はこれらの国に続く形で近代化を経験した日本の場合にも見られる。木村直恵が明らかにしたように明治のある時期に登場した「青年」はそれ以前に「壮士」と呼ばれたような人々が象徴する政治的な活発さを制度の内部に回収し、沈静化するための枠組であった(『〈青年〉の誕生』、新曜社)。このような枠組の整備は、北村三子が論じたように心理学や教育学の確立をともなうものであり、若者たちはそういった諸学問の関心の対象として主題化されるようになる(『青年と近代』、世織書房)。またこの過程において「成功」を目指したり「煩悶」を抱えたりする「青年」として主題化されていたのが主に男性であり、彼らのアイデンティティが女性をいわば「手段」として利用することによって構成されていたことは、平石の研究が詳細に示している通りだ(『煩悶青年と女学生の文学誌』、新曜社)。
 結局、明治期に流通し始めた「青年」という枠組は、政治的対立や性別、地域差などの諸差異を背景に押しやり、専ら生理的・心理的・社会的な発達段階という観点から彼らを主題化しようとするものだった。いずれは国家と資本のために貢献するよき国民、よき労働者となるべきものと想定した上で、その道筋からの離脱を管理するための枠組として「青年」という語は流通し始めたのである」(浅野[2012:10])
 ・木村直恵、1998『〈青年〉の誕生――明治日本における政治的実践の転換』新曜社.
 ・北村三子、1998『青年と近代――青年と青年をめぐる言説の系譜学』世織書房.
 ・平石典子、2012『煩悶青年と女学生の文学誌――「西洋」を読み替えて』新曜社.

□「この時期(1960年代:引用者補足)に起こったもう一つの重要な変化は、言葉の変化だ。日本では明示以来若者層を指す言葉として「青年」が多く用いられていた。それが1960年代を境に「若者」が一般的になったのだ。社会学者の中野収は当時を振り返り「60年代の、なんといえばいいか、とにかくある気分が「青年」ということば〔パラダイム〕の使用を躊躇させた」と述べている。
 また、当時は若者人口が非常に多い時代だった。ベビーブーマーたる「若者」という存在を誰もが無視できなくなったのだ。それと同時に一億層中流意識の浸透によって世代論を語る素地が整った。現代的な意味での「若者」は、まさにこの時代に誕生したといえる。・・98
 言い換えれば、若者というアイデンティティとは、戦後日本のある時期に成立し、安定した諸制度の相関物に過ぎなかったともいえる。その意味で、現代では「若者」を語ることが非常に難しくなってきているといえる。 若者論が流行した1970年代が過ぎ、1980年代には消費社会化の進展により彼らのライフスタイルは多様化した。さらに1990年代に入る頃には「島宇宙化」と形容されるほど、「若者」は単一の存在ではなくなったはずだった」(古市[2013:98-99])

・若者文化
□「[…]「若者」という枠組は、彼らの作り出し享受する文化が上の世代に対して対抗的であり自立的であることに準拠して見いだされるものだ。だがその文化がやがて様々な形で商品化され消費の対象になっていくにつれ、若者文化は、対抗性も自立性も失っていくことになる。なにしろそれらはまさに大人によって供給され、大人もまた享受するような商品なのであるから。
 山田は、若者文化が若者をそれとして切り出す性能を失った後、若者論が論じるべき主題は彼らのコミュニケーションの様式に移動したのだという。実際、1990年代を通して若者論は彼らの友人関係、家族関係、メディアの利用などを主なトピックとして展開されるようになっていった。コミュニケーションのあり方を広い意味での文化と捉えるならば、1990年代までの若者論は対抗文化から消費文化を経てコミュニケーション様式へと焦点を移動させつつ広義の文化に注目するものであったと言える」(浅野[2012:11])
 ・山田真茂留、2009『〈普通〉という希望』青弓社.



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▼若者の意識調査
◇青少年に関する調査研究等|内閣府→http://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu.htm
◇「中学生・高校生の生活と意識調査・2012」について|NHK放送文化研究所→https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/yoron/social/pdf/121228.pdf
◇財団法人日本青少年研究所→http://www1.odn.ne.jp/youth-study/

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▼関連
◇青年文化/若者文化/ユースカルチャー

コメント

「民衆は何処に在りや・・・・加藤一夫(評論家・編集者。 1887.2.28 - 1951.1.25 )」

2014年01月21日 | 教養(Culture)
民衆は何処に在りや       加藤一夫 (以下、全文引用

 民衆藝術と云ふことが問題になつて居る。
 外国ではトルストイ、ケイ、ローラン等をその最も熱心なる主唱者とし、日本に於ては福田正夫、百田宗治、富田砕花等の詩人を初めとして、本間久雄、大杉栄、内藤濯等の評論家が此主張者の尤(ゆう)なるものである。さう云ふ自分も亦田舎の土百姓の息子に生れた真の民衆の一人として、民衆の心を歌ひ、民衆の心を伝へ、民衆そのものを表現せんとする熱心に於ては敢へて人後におちないつもりである。
 しかし、民衆藝術とは一体何を意味するのであるか。メルシかんばらありあけ 詩人 1876.3.15 - 1952.2.3 東京麹町に生まれる。 日本藝術院会員。、日本近代詩創始期の大きな存在。象徴詩の代表
作「智慧の相者は我を見て」は第四詩集『有明集』(明治四十一年一月 1908 )の巻頭を飾った。回想「『有明集』の前後」は昭和四年(1929)に書か
れている。講談社「日本文学全集22」に拠りつつ若干よみがなを加えた。エは平民によつて鼓吹せられ平民に見せる為めの平民劇と云つた様なことを云つたさうであるし、大杉君は民衆のためにする、民衆によつてつくられ、民衆の所有する藝術と云つた様なことを云つて居る。田中純氏の書いたものは見なかつたけれど、大杉君の文章で見ると田中純氏も同じ様なことを云つて居る様に見える。
 蓋(けだ)しこれは民衆藝術の精神を伝ふる言葉としては最上のものであらう。簡単にではあるが、民衆藝術の希望なり野心なり精神なりを十分に語つて居る。

 トルストイはその藝術論に於て、この様な言葉をつかはなかつたが、あの一篇の全精神は仍(やは)りこれをもつて貫いて居る。彼は先づ演劇なり音楽なり絵画なり小説なりが、夥しき労働者の労力の消費によつて製作され行はれることを注意し、而もそれ等の多くの藝術が何等の慰藉(ゐしゃ)をも力をも感情をもこれ等の労働者に分け與ふる事のないのを指摘して居る。そして藝術はかゝるものであつてはならない、単なる労働者の労力の消費であつてはならないと云ふことを云つて居る。そしてまた、真の藝術は、自分で少しも労働をしたことのない、ほんとの人間らしい生活をしたことのない、たゞ藝術を職業とした、所謂(いわゆる)藝術家なるものゝ所産であつてはならない。ほんとの藝術は、自分で食ふことのために働らき、ほんとの人間らしい生活をしたものが、自ら経験した感情を他人に伝へたい時にのみ存し得るものであるのを主張して居る。此精神も亦、民衆のために民衆によつてつくられたる民衆の藝術でなければならぬと云ふことに帰するものと云はねばならぬ。
 かうした主張の中には一つの溌溂(はつらつ)たる新興の精神もしくは生命の生動して居ることが容易に感じられる筈である。新しい民衆が今目ざめた(たとひそれが如何に少数であらうとも)その民衆は最早従来の多くの貴族的藝術では満足が出來ない。彼等は彼等自身の新しい生気ある藝術を要求する。否、啻(ただ)にそれを他より要求するに止まらず、自分で自分を藝術に表現しないでは居られない。それが此の新興人民の願ひであり欲求でありそして一つの新しい活動である。
 過去の藝術は四分の三以上死んだものである。これはフランス藝術にのみ特殊の事実ではない。一般の事実である。過去の藝術は生には何の役にも立たない。却つて往々生を害(そこな)ふ恐れすらある。とロマン・ロオランは云つて居る。そして彼は、容赦なく過去の劇をはねのけて、その中の僅ばかりを民衆のために採用して居る。同じ精神をもつて、トルストイは更に峻嚴なる批判をなし、過去の藝術の大部分を排斥して居る。
 自分の寡読は同じ権威をもつて過去の藝術を排斥するだけの資格を自分には與へない。しかしながら少くとも自分の読んだり見たりした数少ない藝術のうちにも真に満足する事の出來ないものは少なくない。殊に日本のものに於て一層そんな気がする。日本の藝術は確かに今、向上し、発展しつゝある。併(しか)し公平に見て、誰が今迄の藝術に十分の讃嘆を加へ得よう。
 さうだ、新しい生命が今、民衆の中にあつて(厳密に言つて少数の民衆のうちに在りて)人額の間に生れたのだ。それは最早従来の様な生気のない、生命の消耗しつくされた無気力な藝術には満足することが出來ない。また、民衆の苦しみを知らず悲しみを了解せず、そして生命に根柢を有してない、単なる独りよがりの藝術に一顧の注意を向ける必要もない。
 彼等は今、ほんとの人間を知つたのだ。人間のほんとの価値を知つたのだ。そして彼等自らがほんとの人間そのものになつたのだ。彼等は此の人間性を阻害するあらゆる障碍に向つて戦を挑む。彼等は此の人間性を害(そこな)はれた一切の病的な思想や神経を排する。その様なものを唯一の本質であるかの如くに思つて居る従来の貴族的な、又、弱々しい神経の、一切の藝術を排する。そして、此の過渡期に於ける復活の新生命として、かかる障碍や暴力や病的なる思想又は神経やと戦つて人間性の真郷土に帰らんとする努力を示したところの、また帰り得たところの、生命の高揚を歌へる新しい藝術を要求する。
 それ故に、真に目ざめたる民衆とは、真に人間となり、人間としての生活をなさうとする人民のことでなければならぬ。また民衆藝術とは真に人間とならうとする人間らしい感情と人間らしい意思や理性と、人間らしい生活とを具有する闘争の藝術でなければならぬ。人間の心の奥底に於て、誰にでもふれることの出来る、深い情味の豊かな藝術でなければならぬ。

 だが茲(ここ)に一つの問題がある。
 それでは、我々の社会の何処その民衆が存して居るかと云ふことである。今云つた様に目ざめた僅かばかりの人間は居る。しかし、そんな少数なものゝためにのみする藝術は果して民衆藝術であらうか。民衆藝術の影響すべき世界は、もつともつと広いものではなからうか。
 民衆藝術を論じたものは多い。しかしそのうちの殆んど誰もが、肝心のその民衆そのものに就いて語つたものはない。
 もつともこれは余りにわかりきつたことであるかも知れない。殆んど説明の必要のないものと思つて居るのかも知れない。かくて或る者はこれを単に平民と云ふ言葉でもつて表はし、或るものはこれを労働者と云ふ意味にとつて居る。勿論それであるのには違ひない。だが、それ等の平民なり、労働者なり、農民なりにして、ほんとによく此の人間を自覚した新興の生命を何処にもつて居るか。自分がさきに新しい民衆が目ざめたと云ひながら、極少数のとつけ加へざるを得なかつたのは此のためである。
 メルシエが平民と云つたときに、その平民とは誰を意味したのか自分は知らない。しかしトルストイが労働者と云つた時に、その労働者とは果して何人(なんぴと)を意味したのかを察する事は難(かた)くない。彼は朝から晩まで働きづめに働いて器械の様な単調無趣味な労作を繰返して居る人をもつて真の労働者であると思つたであらうか。もしさうであるとしたら、そんな労働者がそんなに高貴な藝術を製作し得ると考へたと云ふことになる。だが、何でトルストイともあらうものが、今日の労働者の状態を知らないで居られよう。彼の書いた殆んど何の本にでも此の悲惨な労働者の生活を語らないものはないと云つてもいゝ位である。あの様な小やみなき激労の後の疲れはてた肉体をもつて、あの様に無趣味な器械的動作にのみ用ひられる枯痩荒廃した精神をもつて、トルストイの云ふ様な高貴なる藝術の製作されないのは勿論、彼等のために提供されたる藝術を享楽する心の余裕をさへ有(も)ち得ないだらうと云ふことをトルストイが知らないで居る筈がない。トルストイがこゝで謂ふ労働者とは、人間がその本然性に従つて、また人間に本具した先天的義務に服従して、生活の為の適当なる労働をなし、そして人間としての本質的なる生活活動をなして居る人民のことであるのは云ふ迄もない。さう云ふ人間こそほんとの藝術を製作し得る。
 近頃はまた、戦争の一結果として、労働者なども大分景気がよくなつて、中には一日参圓五圓の儲けをするものも少なくない、彼等の生活は吾々のそれに比べて何れだけいゝかしれない。けれども、それで居て彼等は尚彼等の真の生活を創造する事が出來ない。彼等には自覚がない。まだ人間が生れない。
 然らば平民と云つても、労働者と云つても、それが直ちに、吾々の謂(いは)ゆる、真の意味の民衆ではあり得ない。
 それ故に、新しい民衆とは直ちに平民もしくは労働者を意味しない。それがほんとの民衆となるためには真に人間を自覚しなければならぬ。それ故にまた、新しい民衆とは全く上流階級もしくは知識階級に存しないと云ふのではない。誰が、トルストイやドストエフスキイやロマン・ロオランやなどを民衆でないと曰(い)はう。上流階級者も知識階級者も、ほんとに自分の位置をさとつて、自分の今の生活の不合理を感じて、そして、ほんとの人間にならうとする時に、又、なるために生活革命をなした時に、彼は最早貴族でない、富豪でない、彼は民衆の一人である。
 民衆とは即ちヒュウマニティーを遺憾なく生き得るもの、少くともヒュウマニティーに生きようと努力するもの、全人類をヒュゥマニティーの自由なる活動とせんとする者の謂(いひ)である。
然らば民衆は果して何処に居るのか。
 ロマン・ロオランが「諸君は平民藝術を欲するか。然らば先づ平民を持つ事から始めよ。その藝術をたのしむ事の出來る自由な精神をもつて居る平民を。そして容赦のない労働や貧窮に踏みにじられない閑暇のある平民を。凡ゆる迷信や、右党若(も)しくは左党の狂信に惑はされない平民を。自ら主人公たる、そして目下行はれつゝある闘争の勝利者たる平民を。ファウストは云つた『始めに行為あり』と」と云つたは真実である。
 真の民衆はまだ存しないと云つてよいのだ。吾々は先づ民衆を得なければならないのだ。目ざめたる民衆は人類の新なる魂だ。人類はこれに聴かねばならぬ。人類は此の魂の打ちならす鐘に耳を聳(そばだ)てねばならぬ。目ざめたる魂は常にその人間性を研(みが)いて不断にこれを表現せねばならぬ。それは人類に対しての義務だ。生命に対しての最高の奉仕だ。
 芽ばえかけた新らしい生命の幼木を踏みにじると云ふことは、生命に対する大なる罪だ。生命は民衆の出現によつてその自由なる世界を楽しまうとして居るでないか。そしてその世界の出現を目ざめたる民衆に托して居るでないか。そしてその努力と闘争との喜びを溢るゝばかりに若き心霊のうちに盛つて居るでないか。
 先づ自己のうちに平民を得よ。そしてまた人類のうちに平民を得よ。即ち人間性の真に徹せよ。人間性の絶対的価値を把握せよ。
 勇気と力と智恵と愛とは泉の様に湧いて来るであらう。そしてそこによき藝術は創造せられ、よき運動の波は打ちはじめられるであらう。
 吾々は自分の過去の罪障をも、現在の自分の弱いことをも無学であるのも凡てみなよく知つて居る。けれどそれがために新しい生活への進行を阻(はゞ)まれる事はない。吾々は最早、上手とか下手とか云つて居られない。技巧のことなんぞ云つては居られない。たゞ一途に人間性の開展をはからねばならない。人間性の深みを掘らねばならない。
 藝術は生の終るところから始まる。生が完成されたところには藝術はないと云つた藝術家の野心は大きい、深い。吾々の藝術は、徒(いたづ)らにこまやか(4字に、傍点)になつた繊弱な神経に夢魔のやうに悩まされおびやかされて居る、謂ゆる現代人と称するものゝ藝術でない。一時青年の間に、近代人とか現代人とかの理想が流布して、何かと云へば、あの男は新しいとか旧いとか、まるで人間界が此の新旧の二分野しかないかの如くに語られた。しかし今や新なる民衆には、その謂ゆる現代人の心すら廃れ行くべき性質のものとなつた。藝術は常に新しい生命を人類に持ち来すものでなければならぬのは云ふまでもない。しかし何でも新しいものならいゝと云ふ道理が何処にあるか。役にも立たぬ新らしさは呪ふべきである。役に立つ、ほんとの新らしさはたゞそれが人間性に適応して居るか居ないかによつてきまるのである。
 一つの力が人類の間に生れかゝつて居る。こゝに一つの新しい内発的な、自律的な、ムーブメントが起るべきである。そして、自分はそれの起ることを確信するものだ。

(大正七年一月「新潮」)

(かとう かずお  評論家・編集者。 1887.2.28 - 1951.1.25 和歌山県西牟婁郡に生まれる。 大正七年(1918)「新潮」一月号初出。)


農民芸術論(加藤一夫流のプロレタリア文学論)、昭和6、春秋社
農民芸術論

加藤一夫 著



[目次]
標題
目次
序文
農民文學論
一 農村の黎明 / 3
二 農村文學の要求 / 4
三 農民文學は存在理由を有するか / 10
四 農民文學の基調としての農民意識 / 23
五 農民文學の特質 / 41
六 農民文學とプロレタリア文學 / 58
七 農民文藝の正系 / 68
社會文藝論
一 序説 / 85
二 社會文藝の發生の意義 / 89
三 藝術とは何ぞや / 95
四 文藝の社會性 / 122
五 社會文藝とは何ぞや / 135
六 社會文藝の特質 / 140
七 社會文藝の内容 / 161
八 社會文藝の形式 / 170

発禁処分を受けた「土の叫び地の囁き
洛陽堂、大正7
[目次]
標題
目次
汎労働の思想及び生活
一 「竹」 小説 / 1
二 食糧労働と自我表現 / 33
三 現代文明の覊絆 / 52
四 人間であり度い / 67
五 人道主義に就いて / 83
六 芸術・芸術家・芸術の職業化 / 92
七 新しき芸術の泉 / 108
八 弥助爺の死 小説 / 127
九 石神井より / 138
トルストイ研究の断片
一 トルストイの宗教 / 161
二 宗教家としてトルストイ / 178
三 自然と人道 / 193
四 トルストイの自然生活論批判 / 203
五 トルストイとツルゲネエフ / 230
土の叫び
一 自然よ私はお前を知り度い / 233
二 九官鳥 / 236
三 雲雀の歌 / 239
四 新興の露西亜よ / 243
五 自然讚頌 / 246
六 孤独 / 252
七 自分の弱さに泣かうでないか / 255
八 偉なる太陽は沈むだ / 261
地の囁き
一 自由の解放 / 267
二 生きると云ふこと / 270
三 批評家と創作家 / 270
四 破壊の響き / 272
五 自信と排他 / 272
六 若き労働者 / 273
七 根と芽と / 277
八 愛と孤独 / 278
九 愛と知識 / 283
一〇 愛と喧嘩 / 284
一一 弱き故に強し / 286
一二 手におへぬ自分 / 288
一三 凡悩具足 / 290
一四 心の籬の取り除かれた時 / 291
一五 世界と云ふもの / 295
一六 本を読むこと / 297
一七 土と人間との親和 / 300
一八 二つの心 / 303
一九 「自然」の救 / 305
二〇 青年牧師の自殺 / 315
二一 無辺の愛 / 327
二二 愛に就いての対話 / 331
二三 生活と云ふこと / 340
二四 予言者と社会改良家 / 345
二五 真の偉大 / 346
二六 征服慾と愛慾 / 347
二七 怠ける時 / 348
二八 礼儀 / 348
二九 沓掛の温泉塲より / 349
本然の芸術
一 本然生活の芸術的表現 / 363
二 自由の憧憬と芸術 / 375
三 反逆の芸術 / 380
四 宗教と芸術 / 399

コメント

『随感録』 パスカル著・加藤一夫訳,洛陽堂(T3)の問題点

2014年01月21日 | 教養(Culture)
『隋感録』 パスカル著・加藤一夫訳
pascal_zuikanroku.pdf (2,997,877 byte)


大正三年に翻訳されたパスカルの『パンセ』。
明らかな誤字・脱字は訂正し、本文中に引用されているフランス語・ラテン語の文や句は、
Pascal pense que...で公開中の『Pensees (Leo Brunschvicg 1897 edition)』PDF版と見比べて補訂。
難読漢字には適宜フリガナを追加。
PDFにフォントを埋め込み、旧字・旧仮名も底本のまま再現(今昔文字鏡を使用)。

入力していて気付いたのは、引用されているフランス語・ラテン語の綴りが、物凄くテキトーという事。
翻訳者も編集者もロクにスペルチェックしなかったとしか思えない。
日本語訳そのものにも意味不明な部分が多い。
これを読んで当時の読者がどれだけ理解できたか、かなり怪しいと思う。(全文引用先

洛陽堂刊行の加藤一夫(1887-1951)辺りの翻訳書は、もともと翻訳対象の書籍の誤字脱字が未チェックで、訳者による誤訳・翻訳本の誤字脱字を考えると、ちょっと資料としては慎重に扱う必要がありそうだ。
本文研究が前提となる?
木村庄八とか尾崎喜八らの翻訳なども要注意だ。当時の校正作業は神近市子のような英語学校の学生連中のアルバイト仕事だったようだが、・・・・・やれやれ。

加藤一夫はたくさんのトルストイの翻訳書をロシア語からではなく英文和訳という形で行ない、評論面では当時白樺同人らに大きな影響を与えた。
この人物の自伝がこちら「み前に斎く」、竜宿山房、昭和16年、218P.
[目次]
標題
目次
I 温床時代
一、 解散された中學生の思想團體 / 1
二、 神にか自己にか / 7
三、 キリストへの献身 / 12
四、 恩寵の生活 / 15
五、 自然主義文學の影響 / 17
六、 神學校卒業生の惱み / 21
七、 如何に生くべき? / 24
八、 私と自由基督教 / 29
II トルストイアン前後
一、 一學期間の女學校教師 / 35
二、 トルストイの「我等何を爲すべき乎」 / 39
三、 「科學と文藝」の創刊 / 43
四、 田園生活 / 45
五、 出版會社春秋社の創立 / 48
六、 世界大戰の結果 / 52
III 反省
一、 芦屋の生活 / 61
二、 夢 / 63
三、 アナアキズムより農本主義へ / 66
四、 不面目な農村生活 / 71
五、 農本塾の創設 / 79
六、 事業の蹉跌 / 83
七、 傳道への再出發 / 85
八、 されど我が神は / 89
IIII 魂の故郷よ
一、 我が神は玆に在り -天皇こそはわが神に坐す- / 91
二、 天皇は大御親なり / 106
三、 支那事變の勃發と日本教會 / 111
四、 日本信仰協會への飛躍 / 120
五、 天皇信仰の一兵卒 / 132
V 天皇信仰者、現代日本に與ふ
一、 天皇信仰の旗の下に / 137
二、 拜み合ひの社會組織 / 148
三、 禍を後世に貽す勿れ / 153
四、 天皇信仰と宗教 / 160
五、 便乘者團體の整理 / 176
六、 天皇信仰と救の問題 / 182
七、 宗教的天皇機關説 / 194
八、 宗教による國體の方向轉換運動を撃滅せよ / 201
九、 先づ懺悔せよ / 213

ふまじめというか場当たり的というか、思想的な変節の度合いも尋常ではないし、書いていることは誤訳新説の塊だと言う点において確信犯的な売文家だったと思うのだが、いまのところ得体のしれない、よく判らない御仁だ。こんな奴と洛陽堂(河本亀之助)はかなり太い接点を有していた。

最近まで早稲田大学(紅野敏郎)・慶応大学(小松隆二)辺りには加藤一夫研究者がいたようだ。
加藤の本はあきつ書店という古本屋がたくさん集めているが、ここは東京で一番高値販売する店なので、研究用だけなら国会図書館のデジタル資料を活用するのが得策。

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