・・・ うっとりと実る ・・・
9月16日☀折々のことば
秋になると 果物はなにもかも忘れてしまって うっとりと実ってゆくらしい 八木重吉
「うっとり」 することが昨今少なくなってきた。「ぼんやり」はするが「うっとり」できない。私の心にゆとりがないからか。なにもかも忘れて無心になれば「うっとり」できるのだろうか。
鷲田清一は次のように書いている。 秋は稔りと収穫のとき。そんなふうに自然と秋を迎えられる時代はよかった。秋は黄昏時というよりは、成熟のときだった。人のみならず自然にもどこか品位があった。今は、人生の秋を前にして人はつい悪あがきをするし、、。
人生の秋が迫るのは、還暦の頃か。この世の出口が近づいてきた。このまま世を去るなんて、、と慌てるのは当然だ。おおかたの人間は自分の目標に達していない。でも成功、大成功している人もいる。花束に埋もれている友だちがいたら焦る。悪あがきする。マイホームを得る為に投資して失敗、借金に追われる。還暦の頃にウツになったり、大病を患う人が多いらしい。
八木重吉は1926年、結核のため病臥、詩集「貧しき信徒」の刊行される前に28歳で亡くなっそうだ。町田市の彼の生家が八木重吉記念館になっている、日本一小さな記念館。
❤ 本栖湖にほどなき葡萄園にきて木より未完の果実を奪う
私は葡萄をよく詠んでいる。紫や緑の小さな球が集い大きな房になる果実。特に紫の葡萄はまるで瞳が集うようで手にとればあの女、あの男の瞳になりわたしを見つめる。わたしに何か語りかける瞳、訴えている瞳、恨んでいる瞳もある。ぶどう狩りで私に切り取られた葡萄の房。まだまだ木に垂れ下がり 「うっとり」実っていたかった葡萄たち、もっと生きられたのに、もっと生きたかったのに木から私に奪われた葡萄たちよ、ごめんなさいね。
9月17日 松井多絵子