軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

同窓会名簿とH君

2023-12-15 00:00:00 | 日記
 少し前に予約をしてあった出身高校の同窓会名簿が届いた。A4版で、厚さが3㎝近い分厚いものである。


令和5年度版同窓会名簿表紙

 この名簿を受け取るのは、私は初めてのことで、これまでどれくらいの間隔で発行されてきたものか知らない。というのは、大学卒業後すぐに地元の大阪を離れ、さらにその後も転勤その他で転居することが多く、高校の同窓会事務局とは連絡を取ってこなかったからである。

 どのようにしたのか、今は思い出せないが、ようやく連絡がとれ、地元大阪で開催された学年同窓会に参加したのは、卒業後50年以上過ぎた2016年秋のことで、当時独り暮らしになっていた母親の見守りのために毎月10日程度帰阪していた時である。

 平成28(2016)年11月28日、会場となった大阪駅直結のホテルグランヴィア大阪には同学年生徒数約500人のうち、100人近くが参加していたと思うが、高校時代に親しくしていた友には誰とも会えなかった。

 しかしこの時、会場で熱心に写真撮影をしている、大学の写真部でも一緒であったK君と再会し、彼が来春、やはり高校の同窓生の一人F君と、写真と絵画の二人展を行うので、よかったら来てくれないかと誘われた。

 母親の見守り日程ともうまく合致したので、翌2017年の4月6日に、大阪国際交流センターのギャラリーで行われている 二人展に出かけると、そこにはすでに数名の女子同窓生も来ていた。しばらくすると、大学写真部の1年上級生のAさんも見覚えのある横顔の姿を見せた。

 私の方はAさんのことをよく覚えていたのであったが、K君に紹介されても、Aさんの方は私のことをまったく覚えていなかった。

 K君は、大学の写真部時代に撮影した写真から最近の写真までを展示していて、その中には見覚えのある懐かしい作品も含まれていた。また、愛用のカメラ、ニコンFほかの撮影機材のコレクションも多数展示していた。

 絵画を展示していたF君の方は名古屋市在住とのことで、リタイア後、独立して建築設計事務所を経営する傍ら、最近始めたのだという写実的な作品を展示していた。

 この時、会場に来ていたIさんとも話す機会があった。彼女は関東在住であるが、京都にも別荘があるので今回この場に来ていたのであった。彼女の紹介で関東在住の何人かの同窓生とも、このあと会う機会が持てるようになった。

 こうして、高校の同窓会とのつながりが復活し、同窓会誌も届くようになり、今回の同窓会名簿の購入につながっていった。

 届いた同窓会名簿を早速開いてみると、巻頭の現在の校舎の写真に続いて、明治29年に始まる128年に及ぶ学校の歴史の折々の写真が載せられている。
 続いて校歌と、我々は応援歌と思っていた旧校歌(黄塵はるか)の楽譜と歌詞があり、歌詞を目で追っていると、自然にその歌が口をついて出てきた。

 その次には、128年のあゆみとして、年ごとの校史抄と運動と文化活動についての抄報が記されている。

 私の在校期間の箇所を見ると次のような記事が見られる。

  校史抄
  昭和37年 4月1日 1年生(500名10クラス) 定員1,400名
        10月7日 運動会後のファイアストーム始まる
  昭和38年 4月1日 第11代校長 着任
            定員1,500名
                                 新館落成(生徒数増のため4教室増設)
  昭和39年 3月    体育優秀校として第1回リッカー賞を受く
       4月    定員1,600名
                                  2年生女子コース(家庭科コース)廃止
       9月26日 東京オリンピック聖火リレーに17期生U君他6名参加     

  運動と文化活動についての抄報
  昭和37年
   陸上部 インターハイ・国体出場(16期 HTさん)
   自転車競技国体出場(15期 OTさん)
   生物部 大阪府学生科学賞
   KJ先生 国体出場
   吹奏楽部創設
  昭和38年
   陸上部 インターハイ・国体出場(16期 HTさん)
   水泳部 インターハイ出場(16期 INさん)
   ラグビー部 全国大会出場
   剣道部 インターハイ出場(16期 NTさん)
   美術部 全日本油絵コンクール入賞(16期 NMさん)
   FT先生 国体出場
  昭和39年
   陸上部 インターハイ出場(19期 KHさん)
       国体出場(17期 TSさん)
   水泳部 インターハイ出場(17期 STさん)
   硬式テニス部 インターハイ出場(17期 KYさん)
           新聞部 100号記念号発行

 同窓会名簿はこれが初めてのものであるが、これとは別に、今私の手元には、母の遺品の中に含まれていた、私の高校入学時に配布された96ページの「生徒保護者名簿」がある。ずっと大切に保管していたのであろう。ここには、1年生から3年生までの全生徒のクラス別に整理された氏名、保護者氏名・職業、住所、電話番号、地区名とクラスの担任の氏名が記されている。


昭和37年度版生徒保護者名簿表紙

 長い間見ることのなかったこの保護者名簿の新入1年生の部分を見ていくと、上記の同窓会名簿の校史抄にある通り、10組の編成で、各組50名となっている。男女の割合は男子が多く約35名、女子が約15名である。ちなみに、2年生と3年生とは9組の編成である。

 詳しく見ていると、オヤと思うところがあった。1年1組だけは人数が51名になっていて、校史抄の数字とは異なる。定員は500名であるのに、何らかの理由で501名が入学していた。当時の記憶はないので、事の真相はもう判らないが、例えば入学試験の点数が同点であったため、1名を多く入学させたということなのだろうか。

 そのことはさておくとして、私は1年1組であった。同じクラスの生徒の名前を順に見ていくと懐かしい名前がいくつも並んでいる。

 大学の学部・学科まで同じであり、今も交流が続いているIA君、上記の二人展で絵画を展示していたF君、Iさんに紹介され最近では毎年のように東京で顔を合わせるようになったT君、同じ中学校出身のYK君にYT君の名前もある。

 そんな中に、高校時代を通じて親しくしていた懐かしいH君の名前を見出した。すっかり忘れてしまっていたが、H君とは1年生の時に同級生であったのだと再認識した。

 彼とは自宅が比較的近く、近鉄南大阪線の駅では2駅離れたところに住んでいた。2駅というと、当時はまだ住宅が多くない郊外の田畑が多く残っている場所で、見通しもよく自転車で簡単に行き来できる場所であった。

 H君と、その後学年が進んでからも同じクラスであったかどうかは記憶になくて、一緒に写っている何枚かの写真が残っているので、2年生または3年生の時にも同じクラスになっていたのかと思う。


昭和39(1964)年頃 前列右H君、後列右端私

 次の写真は、担任ではなかったが数学の教師であったT先生の発案で、京都嵯峨野方面にハイキングに出かけ、途中の学校の校庭でフォークダンスをした時のものである。中央で女生徒と組んでいるのがT先生。


昭和39(1964)年頃 京都嵯峨野近くの校庭でフォークダンス、中央T先生、その後ろYK君

 鬼のように厳しく、木製のコンパスでビシビシ魂を入れる先生であったが、こうしたレクリエーションを企画し、皆を連れて行ってくださるという意外な面もある方であった。

 この時校庭で撮ったH君の写真がある。 


昭和39(1964)年頃 京都嵯峨野近くの校庭で、H君

 そのH君との一番の思い出は、大学受験を済ませて、合否発表の日までの間の期間を利用して、仲間4人で四国半周の旅に出かけたことであった。

 周遊券を利用して、宿は特に決めずに寝袋を持っての旅であった。1泊目は室戸岬の先端のコンクリート造りの小屋で泊り、翌日は窪川駅の待合室のベンチで寝た。朝、通学の学生たちの声で目を覚ました。

 次の写真は窪川からバスで足摺岬に向かい、さらに西に行った竜串海岸でのものと思うが、遊覧船に乗った時のものと思われる。撮影者はII君、後方にST君、左がH君である。


昭和40(1965)年3月 左H君、右私
 
 この後、私とII君が一緒にさらに西に向かい、柏島のユースホステルに宿泊後、海岸線を経由して愛媛県の砥部に向かった。砥部には母の友人が嫁いでいて、あらかじめ訪問の約束をしてあったからである。
 H君とST君は少し戻って、四国中央部に向かうことになった。

 旅姿のまま大学の合否発表を見るために大阪に戻ったのは、春の大雪の降った日の翌日であった。

 4人の内II君は浪人となってしまったが、H君は大阪外語大に合格した。

 大学時代H君とどのような交流があったのか、ほとんど記憶にないが、京大に入学し、銀閣寺近くで下宿を始めたというST君を訪ねて二人で出かけたことをかすかに覚えている。

 そして、1969年にH君はM石油に就職した。この年、「Oh! モーレツ」と小川ローザが叫ぶコマーシャルが一世を風靡し、H君はこのコマーシャルに誘われるように、入社していった。

 2年後、私も就職して神奈川県に住むようになり、その頃H君はすでに結婚していて、千葉県の五井に住んでいた。彼の住む社宅を訪問したが、これ以後彼とは会っていない。

 ずっと後年、何かの折にH君と最も親しかったST君に会ったときに聞いた話では、H君はM石油の常務取締役になり、定年後は細君の故郷の山口県に移り住んでいるとのことであった。

 こんなことを思い出しながら、H君の現住所を確認しておこうと思い、届いたばかりの同窓会名簿を繰ってみたが該当する高17期の欄には彼の名前は見つからなかった。

 それではと、巻末の総索引を調べてみると彼の名前はあった。そこに示されたページに行ってみると、それは17期生の最後に掲載されている物故者の欄であった。彼は他の48名の友と共にすでに亡くなっていた。

 しばし呆然とそのページを眺めていたが、そこには私のよく知る数名の友人の名前も並んでいた。

 ああ、もっと早くに彼の住所を確認して会いに行けばよかった・・・と悔やまれたが遅すぎた。知的に早熟で、私に読書を進めてくれたH君であった。おかげで、昆虫採集や塾教師のアルバイト、体育系の部活とほとんど読書と縁のない生活をしていた私も次第に読書に目覚めていったのであったが、彼が「君にはこの本がいいと思う」と言って、最初に勧めてくれたのは、北杜夫のドクトルマンボウシリーズであった。

 H君、安らかに!・・・。


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