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続・新型コロナウイルス(5)PCR-1

2021-01-08 00:00:00 | 新型コロナウィルス
 PCRは今やとても有名になった語で、それはもちろん新型コロナウイルスの感染診断に用いられている技術だからであり、種々の抗原検査や抗体検査法の新たな開発が報じられているが、PCRは現在でも最も多く用いられている方式である。

 昨年2月頃には、TVのニュースやワイドショウでもこのPCRという言葉を聞くようになっていたが、その頃、目にした解説に福岡伸一博士(1959.9.29- 生物学者、青山学院大学教授)の次のような文章があった。福岡博士については、生物学に関する著述で名前を知っていたし、数年前に東京・銀座でフェルメール展が、意外にも氏の企画で開催されていたのを見る機会もあったので、また別な意味でも親しみを感じていた。

 福岡博士の文章の一部を引用すると、
 「感染拡大する新型コロナウイルス-福岡伸一『PCR法が鋭敏すぎて生まれる問題-』(2020.2.20 AERA dot.)

 新型コロナウイルス感染が拡大を続けている。重症化するケースもあるので油断はできないが、軽挙妄動するのは注意したい。

 いうなればこれはインフルエンザ同様、ウイルス性風邪のひとつであり、新型とはいえ、未知ではなく、原因ウイルスも、そのゲノムも解明されており、検出法も確立されている既知のものだからだ。いずれワクチンも開発され、数年後には『今年もインフルとコロナの予防注射をしておこうか』という具合に、ごく普通の、日常的なものになることだろう。

 今回、この新型コロナウイルス感染の問題を社会的により大きくしてしまったのは、皮肉なことに、鋭敏で厳密な遺伝子検査法リアルタイムPCRにある、と言えるのではないか。・・・

 新型コロナウイルスは・・・ごく一般的なコロナウイルスなのか、SARSコロナウイルスなのか、そのような差異は<電子顕微鏡でも>判別することができない。そこで活躍したのがリアルタイムPCRである。・・・

 リアルタイムPCR法は、新型コロナウイルスのゲノムにだけ特徴的な部分を選び出し、その部分の遺伝子断片をポリメラーゼ連鎖反応(PCR)で増幅して、その増幅速度を特殊な蛍光反応で検出する。PCRは変人科学者キャリー・マリスの発明。彼はこのアイデア一つでノーベル賞を獲った(詳しくは拙訳書『マリス博士の奇想天外な人生』を)。

 ・・・米国のCDC(疾病コントロールセンター)はサイトにいちはやく、リアルタイムPCRに使用する遺伝子配列を複数パターン公表した。現在の検査はこの情報に準拠しているはずだ(ただし、ウイルス側の変異の速度も早いので、この点の注意も必要)。

 問題は、リアルタイムPCR法が鋭敏すぎることだ。

 ほんのわずかでもウイルスゲノムがあれば(理論的には一滴の鼻水サンプルの中に一個のウイルスがいれば)、それを陽性として検出してしまう。なので、ある集団に対して(症状にかかわらず)網羅的に検査をすれば必ずやかなりの程度の陽性者が発見されることになる。しかし風邪の症状が出るのは、個人個人の免疫系とウイルス増殖とのせめぎあいのバランスによる。陽性でも、全く無症状の人、ウイルスを拡散する危険がほとんどない人も多数存在するだろう。ある意味で、我々ヒトは多数のウイルス、細菌とともに共存して生きている。・・・」

 この文章を読んで、PCR法の概要と、PCR法を発明したキャリー・マリス博士(Kary B. Mullis : 1944.12.28-2019.8.7)のことを初めて知ったのであった。

 福岡博士はすでにここでPCR法の使い方には注意が必要なことを説いていた。PCR法を新型コロナウイルスへの感染診断に用いる際の問題点が、その後現在に至るまで、国会での質疑を含め議論されていることは注目すべきだと思う。

 また、ネットにあふれているコロナに関する様々な情報の中には、キャリー・マリス博士自身が、PCRを感染症の診断に用いてはならないと、遺言しているといったものも見受けられる。使用に際して、慎重であるべきとの意見とは異なる視点からのものであるが、果たして、キャリー・マリス氏が実際にそうした発言をしているかどうか、気になるところである。

 さて、この福岡博士の記事を読んでから随分後になってからのことになるが、友人のYさんから福岡博士の訳によるこの本『マリス博士の奇想天外な人生』(2004年 早川書房発行)を借りて読む機会ができた。マリス氏自身の手によるこの本の中で、彼がどのように発言しているのか見ておこうと思う。
 

『マリス博士の奇想天外な人生』(福岡伸一訳 早川書房発行)のカバー表紙

 文字通りマリス博士の奇想天外な人生が、本人の手で綴られている内容であるが、全22章の記述の中で、主としてPCRに関係する記述がある章を選ぶと、
1. デートの途中でひらめいた!
2. ノーベル賞をとる
9. アボガドロ数なんていらない
10.初の論文が《ネイチャー》に載る
18.エイズの真相
19.マリス博士の講演を阻止せよ
ということになるだろうか。

 これら各章でのPCRに関する記述の一部を引用すると、次のようである。

1. デートの途中でひらめいた!
 ・・・私の銀色のホンダ・シビックは、山に向かってぐんぐん進んでいた。ハンドルを握る手が、路面の様子やカーブの感覚を楽しんでいた。私の頭の中には研究室の仕事がよみがえっていた。DNAの鎖がくるくるとねじれたり、たゆたったりしていた。・・・ヘッドライトは木々を照らしていたが、私の目はなかばDNAがほどかれていく様子を見ていた。・・・助手席にはガールフレンドが眠っている。そして私はとても素敵な問題を抱えている。風の中をたゆたう大きな問題。

 『今夜、ほんのささいな思いつきひとつで、もっとも重要な分子の配列をスルスルと解読することができたら?』

 大きな問題。それはDNAのことだった。・・・
 問題を解く鍵はオリゴヌクレオチドにある。オリゴヌクレオチドとはDNAのごく短い一断片のことで、これはシータス社の研究室で、いまや、ごく簡単に合成できる。自然界に存在するDNAははるかに長いので、合成することはできない。しかし、合成されたオリゴヌクレオチドを長いDNAと一緒に混ぜると、一致する配列を見つけ出し、そこに結合することができる。ちょうど、コンピュータの単語検索機能が長い文章の中から、特別の短い文字列を見つけ出すのと同じようなものである。・・・

 DNAの長さを示す単位はヌクレオチドという。人間のDNAは三十億ヌクレオチドである。この中から特別な「文字列」を検索するためには、化学的なプログラムが必要だ。しかし、いったいどのようにすればよいのか?・・・

 これはたいへん難しい課題だ。夜間、月面から地球上の道路を走る車のナンバーを読み取るようなものだから。

 私にはコンピュータ・プログラミングの心得があったので、単純なルーチンでもそれを繰り返し行うことによって、大きな仕事が可能になるという感覚が分かっていた。

 それはこういうことだ。まず初期値をインプットする。すると計算値が得られる。それをインプットする。新しい計算値が出る。それをまたインプットする。この繰り返しである。たとえば、ある数値の二倍を計算させるるルーチンがあるとしよう。すると二は四に、四は八に、八は十六に、十六は三十二にとなる。これを繰り返すと、数値は瞬く間に指数関数的に増大する。

 これをDNAに応用すればどうなるだろうか。まず、オリゴヌクレオチドを合成する。それを使って、長いDNA鎖状のある特定の地点に結合させる。そこを出発点にして、DNA鎖のコピーをつくる。これを何回も繰り返せば・・・。私は問題解決のすぐ近くにいるような気がした。・・・

 長いDNAの中には、そういう場所が多数あるに違いない。三十億ヌクレチオドからなるヒトゲノムの中では、1000か所くらいはそういう配列が存在するとしても不思議ではない。しかし、その程度の精度ではダメなのである。もっと正確に必要な場所が特定されなければならないのだ。

 まったく突然、どうすればよいかがひらめいた。・・・一番目のオリゴヌクレオチドが結合する場所の下流に、二番目のオリゴヌクレオチドが結合するように設計しておけばよいのだ。・・・

 そこでDNAが自分自身をコピーする能力を利用してやればよい。そうすれば、一番目のオリゴヌクレオチドと二番目のオリゴヌクレオチドの間に挟まれた部分のDNAのコピーを作り出すことは簡単だ。・・・

 私は自分のコンピュータに『立証されていない思いつき』というファイルをためていた。私は新しいファイルを開いて『ポリメラーゼ連鎖反応(Polymerase Chain Reaction:PCR)』とファイル名を付けた。」

 以上は1983年頃の話である。この年の12月16日にプラスミドと呼ばれる小形の人工遺伝子を出発材料とする方法で氏は実験に成功している。

2. ノーベル賞をとる
 1993年、マリス博士はPCR法の発明で、Michael Smith 博士と共にノーベル化学賞を受賞することになるが、これに先立ち、日本の国際科学技術財団の日本国祭賞を受賞し、来日している。

 本にはその時のことが、次のように記されている。

 「家に帰りつくと一通の手紙が待ち受けていた。日本の国際科学技術財団からだった。日本国際賞に私が選ばれたとの知らせであった。賞金として巨額の数字が記されていた。しかしそれは円だてで書いてある。・・・この数字がドルにしてどれくらいになるのか、皆目見当がつかなかった。・・・朝になって、その賞金だけで当分の間、楽に暮らしていけることが判明した。日本国際賞の賞金は五千万円だった。・・・

 私は日本に向けて出発した。・・・受賞式では天皇と皇后に会うことができた。
・・・私は皇后ととても楽しく会話した。他の国の皇后とはお知り合いですか? 私はたずねてみた。世界に皇后の称号をもつ方は私を含めて三人しかおりません、と彼女は答えた。あとの二人はどなたかと私はきいた。その答えをきいて、私はその人たちがガールフレンド候補とは考えにくい方々だと言い、皇后もそれにどういしてくれた。・・・

 実際の所、皇后はとても素敵な、そしてエレガントな女性だった。『皇后陛下の生活で楽しみというと何ですか?』私はきいた。『お買い物や映画鑑賞など行かれることもありますか?』

 皇后のスケジュールは完全に管理されていて、すべてがあらかじめ予定されたものだという。皇后自身が判断を下す局面はほとんどないと言ってよい。私は自分が詠んだ本のうち、彼女もきっと楽しめると思った本の名前を言ってみた。すると彼女は、自分の読むものは、まず、お付きのものが目を通す習わしになっているのだと説明した。私には信じられないことだった。・・・」

 ノーベル賞受賞に至る記述は次のようである。
 「私は、自分がその年、つまり一九九二年のノーベル賞受賞者になることに確信があった。・・・ふたが開いてみると、その年の受賞者は私ではなかったのだ。それ以来、私はいつ自分が受賞するのかを考えることをやめることにした。・・・一九九三年の春になって、大学時代の恩師であるジョー・ネイランズに会う機会があった。・・・その彼が言った。『今年のノーベル化学賞は君かもしれない。そうなる可能性は大いにある。しかしな、君ももう少しノーベル賞委員会に協力してやってもいいんじゃないか。つまり、まあ無理かもしれないが、君はマスコミにしゃべりすぎだってこと。ノーベル賞委員会にとってみれば、死ぬまで君にノーベル賞をあげなくてもなんの痛痒も感じるひつようはないわけだしね』

 私の電話が鳴ったのは、1993年10月13日の朝6時15分だった。・・・電話が鳴っても私はベッドに寝たままでいた。しばらくすると相手が留守番録音にメッセージを話している声が聞こえてきた。『ノーベル財団』とその声は言っていた。私はベッドから飛び起きた。受話器を取ったのと相手が電話を切ったのが同時だった。・・・
 と、その時もう一度電話が鳴った。・・・『おめでとうございます、マリス博士。あなたがノーベル賞を受賞されたことをここにお知らせできることはたいへん喜ばしいことです』
 『もらうよ、もらう!』と私は言った。・・・

 アメリカ人受賞者はスウェーデンに行く前に、ホワイトハウスに招待された。クリントン大統領とヒラリー夫人に会えるのは楽しみだった。

 私にはある計画があったのだ。もし大統領と個人的に会話するチャンスがあれば、・・・『大統領、あなたがマリファナ・タバコを吸いこまなかったのを見て、回し飲みしていた仲間たちは、もう一度タバコをあなたに回してくれましたか?』
 しかし大統領は急ぎ足で部屋をひとわたりしただけに終わった。

 だが、かわりに私はヒラリー夫人と話すことができた。当時、彼女はアメリカの医療保険制度の改革という大任を背負っていた。

 私は、オーストラリアの医療保険制度はどうなっているのか、質問をしてみた。ヒラリーは、オーストラリアの医療保険制度について非常に正確に教えてくれた。『ではアイルランドはどうです。アイルランドの保険制度はどうなっていますか』ヒラリーは、アイルランドの医療保険制度について非常に正確に教えてくれた。
 私は彼女を見直した。たいした女性である。ダンナの方は確かに大衆受けする魅力がある。しかしヒラリーは違う。彼女は本物だ。

 十二月のスウェーデンは悲惨な季節である。・・・しかし、それでも十分楽しかった。スウェーデンの国民はノーベル賞をとてもまじめに考えていたらしく、私がふつうでないことをし、ふつうのことはしないのを見てとても喜んだようだった。・・・

 私のここでの最初の公式的義務は、ノーベル賞受賞講演を行うことである。・・・だいたいにおいて講演は難解な話となり、聴衆は誰一人理解できないにもかかわらず、全員が拍手するという奇妙なものとなる。そこで私は、専門的な説明はやめにして、PCRを発明した時、いったい何が私の人生におこったのかを普通の言葉で話してみようと思った。『これから、ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)を発明するということがどういうことなのか、お話してみようと思います』と私は始めた。・・・

 『・・・ここにおられる大多数の方々にとって、それはおもしろい話にはならないでしょう。ですから私は専門的な説明はいたしません。かわりに、発明にいたる経緯と、発明によって可能になったことを皆さんに知ってもらいたいと思います。・・・細かいことは抜きにして、PCRを発明したときの雰囲気の一端でも感じていただければよいと思います。』・・・」

9. アボガドロ数なんていらない
 「PCRが開発されてしばらくの間、ある時はうまくいったり、また別の時はうまくいかなかったりすることが多々あった。が、それがなぜ起こるのかはよく分からなかった。私の最初のPCR理論では、各サイクルごとにDNAの量は倍加するはずであった。・・・しかし、実際には、10サイクル目くらいになると、完全に倍加しなくなるという現象がよく生じた。2倍ではなく、1.8倍、あるいは1.5倍、場合によっては1.3倍くらいにしか増えない。つまり、それは、反応材料のうちどれかが不足してくるのか、さもなければ、反応の邪魔をするものがだんだん作られてくるかのいずれかを意味している。・・・

 PCRでは、約20種類の異なる要素の変化を考慮しなければならない。そしてそのいずれの要素の変動も、他のすべての要素に影響を与える。各サイクルがDNA分子を完全に倍加させるためには、どのような要素が必要なのかを調べようと思って、いきなり私が直面した問題は、異なる要素の量を測るためには、全然別の単位を使用しなければならないということだった。・・・
 そこで私は、この単位の混乱を直そうと心に決めた。・・・」

 こうして、マリス博士は表題のアボガドロ数を含む化学で用いられている単位の整理を始める。その結果たどりついたのは、『(今回の)化学反応を考える時には、そこにいくつ分子があり、どれくらい接近しているかが分かれば十分なのである。となれば、物質の量を決めるとても単純な方法は、直接、分子を数えればよいことになる。・・・』という結論であった。
 この章の最後は次のように締めくくられている。

 「私がPCRの実験を始めたとき、どのくらいの数の酵素分子が、自分の用いている溶液中に存在しているのか分からなかった。というのも、酵素の量はふつう、活性単位というもので表されるからである。活性単位とは、一定の反応条件の下で単位時間あたり、ある分子がどれくらい別の分子に変換させるかを表現した単位である。変換を行うのは酵素だが、活性単位はその働きを表しても数を表すものではない。PCRを行うのに必要とされる各成分の分子数を、私が開発した簡便な方法で割り出して初めて、問題点と解決法とが明らかになった。酵素と相互作用を起こす成分の分子数を、酵素分子の数より小さく保てばよいのである。こんな単純なことが分からないまま日々過ごしてきたというのは、研究者としてかなり恥ずかしいことと言わねばなるまい。」

10.初の論文が《ネイチャー》に載る
 ここでは直接PCRについてではないが、マリス博士の個性と考え方がよく表れているので紹介しておきたい。氏が1968年、24歳の時に投稿した論文が《ネイチャー》に掲載されたという。

 「・・・私の論文は『時間逆転の宇宙論的意味』というものだった。私は自分のアイデアのすばらしさに有頂天になっていた。論文は私自身の経験と想像力をもとに、宇宙全体の創成と終末を論じたものだった。・・・私は当時、まったくの駆け出しだったし、・・・私はカリフォルニア大学バークレイ校の生化学専攻科の大学院二年生にすぎなかった。・・・知識ある読者層をほこる《ネイチャー》編集部が私の私見などを掲載する必然性など何もあろうはずもなかった。

 だが《ネイチャー》は私の論文を採択した。・・・

 その後、私も大人になった。・・・本物の賢人がいるのなら、私が初めて書いた宇宙の構造に関する思いつき論文が、世界最高の科学雑誌に掲載されることなど許されるわけもない。

 年を経て私はPCRを発明した。私はプロの科学者になっていた。私はその発見の意味がよく分かっていた。これは宇宙と時間の逆転に関するガキの思いつきではない。これは人間の微細な遺伝子を、まるで道路沿いの荒地に立てられた巨大広告を見るくらいに拡大する技術なのであり、おもちゃのブロックをいじるくらい簡単に操作できるようにする技術なのだ。

 PCRに高額の装置は必要ない。PCRによって超微量のDNAが検出できる。そしてそれを何十億倍にも増幅できる。しかも短時間のうちに。
 この方法は遺伝子疾患の診断にも有用だ。これで個人の遺伝子の中の病気を見つけることができる。培養して調べることが難しい病原体の遺伝子を検出できるので、感染症の診断にも利用できる。・・・

 PCRが野火のごとく世界中に広まっていくであろうと、私は確信していた。今回こそ私は自信満々だった。《ネイチャー》誌は一も二もなく掲載を決定するであろう、と。
 《ネイチャー》編集部の返事は『却下』だった。《ネイチャー》に次いで有名な科学雑誌《サイエンス》もこの発見を認めなかった。《サイエンス》はこう言ってきた。『貴殿の論文はわれわれの読者の要求水準に達しないので、別のもう少し審査基準の甘い雑誌に投稿されたし。』と。この野郎、と私はうめいた。・・・

 私たちは自分の頭で考えねばならないのだ。誰かが七時のニュースで地球上の気温が上昇傾向にあり、海洋が汚水で満たされ、物質の半分が時間を逆行していると言っても、それを鵜呑みにしてはならない。メディアは科学者の思いのままだ。科学者の中には、メディアを実にうまく言いくるめる能力にたけた人々がいる。そしてそのような有能な科学者たちは、地球を守ろうなどとは露も思っていない。彼らがもっぱら考えているのは、地位や収入のことである。」

18.エイズの真相
 「・・・スペシャリティー・ラボ社は、赤十字が一日に収集する何千リットルもの献血液中にレトロウイルスが潜んでいないかどうか、PCRを使って検出する方法を開発しようとしていた。その計画の資金提供者に向けて、私は経過報告書を書いていた。私は冒頭の一文を『HIVはエイズの原因とされている』と書き出した。

 私はスペシャリティー・ラボ社のウイルス学者に、HIVがエイズの原因である、という記述の根拠となる論文を引用しておきたいのだが、それはどこにあるのか、と聞いてみた。

 『そんな論文の引用は必要ないよ』彼は言った。『それは常識だから』・・・『どうしてもというなら、CDC週報を引用しておけばいいよ』と彼は言った。そして、米国疾病コントロールセンター(CDC)の週報であるMMWRのコピーを私にくれた。

 私はそれを読んでみた。それは科学論文ではなかった。そこには、単にあるウイルスが発見されたと報じられているだけで、どのように見つけられたのかは記載がなかった。…週報は、医者向けの広報誌であり、医者たちは情報源を知る必要を感じない。医者にとってみれば、CDCがそういうのであれば、HIVがエイズの原因だという証明が、どこかにきちんと存在するにちがいないと思っても無理はない。・・・

 私はコンピュータで検索を行ってみた。しかし、モンタニエもギャロも、あるいは他の誰も、HIVがエイズを引き起こすという結論に至った実験について記した論文を公表していなかった。・・・論文はどれも、HIVがエイズを引き起こすということを示してはいなかった。HIV抗体を持つ人が誰でもその病気になるとも示されていなかった。事実、彼らは抗体をもつのに健康な人を何人も見つけたのだ。・・・

 私は『HIVがエイズの原因である』と書くことをためらった。それを支持する論文が見つからないからである。・・・

 これまでに私は数えきれない研究集会でPCRについて講演した。そこには、必ずHIVの研究者が参加していた。私は彼らに、HIVがエイズの原因であることは、いったいどのようにして分かったのかと尋ねてみた。・・・しかし、・・・エイズがHIVによって引き起こされることを証明した論文を私に送ってくれた人は一人もいなかった。

 あるときついに、モンタニエ博士自身にその根拠を尋ねる機会がきた。・・・その返答でモンタニエ博士は次のように言った。『CDCレポートを見たらよいでしょう』

 私は次のように言った。『読みました。けれど、それはHIVが確実にエイズの原因かどうかという問題に焦点を当てたものではありませんでしたよ』
 結局、彼は私に同意した。きつねにつままれたような気がするとともに、怒りがこみあげてきた。モンタニエですら知らないことを、いったい誰が知っているというのだろう。・・・

 HIVはある日突然、熱帯雨林やハイチから出現したものではない。・・・HIVは昔からこの地球上に存在していたのだ。大都市のエイズ患者だけを対象にHIVを捜すから、HIVが都市に極限しているように見えるのである。一度それをやめてみれば、HIVがどこにでも存在する普遍的で無害なウイルスであることに気づくだろう。・・・

 1634年、ガリレオは人生の最後の8年間、自宅軟禁の刑に処せられた。宇宙の中心は地球ではなく、地球は太陽のまわりを回っているにすぎないと書いたからであった。科学的見解は宗教的教義の問題ではない、と主張したガリレオは異端だと責められた。今後、年月が流れ、われわれの時代を振り返った人々は、エイズとHIVとの因果関係がたやすく受け入れられていたことを愚かに思うだろう。・・・

 私がこの問題について話す時、きまって次のような質問が来る。『もしHIVがエイズの原因でないのなら、何が原因なのか』と。その質問に対する答えは、ギャロもしくはモンタニエがその答えを知らない以上、誰にも分からないということである。私は、HIVがエイズを引き起こすことを示す証拠はないと主張しているのだ。エイズの真の原因が何かは、まだ分からないのだ。・・・」

19.マリス博士の講演を阻止せよ
 PCRの発明で有名になったマリス博士のもとには、多くの講演依頼が来るようになった。1993年12月、博士のもとに大手薬品メーカー、グラクソ社の薬品部門の責任者、ジョン・パートリッジ博士から講演依頼の手紙が届いた時の話は次のようである。
 
 「・・・彼の求めている講演者は『優れて言語明晰な科学者、生化学と医学との橋渡しが可能で、つねに新しい発見を希求している人物』だという。
 それならまさに私のことだ。・・・

 この招待に食指が動いたのは、グラクソが世界最大の製薬会社であることもさることながら、同社の主力商品の一つが、エイズ治療薬AZTであることだった。・・・

 だから私は、この問題に関して講演できる機会ができたことを喜んだ。公演は『化学と医学におけるフロンティア』と題され、ノースカロライナ州において、グラクソ社とノースカロライナ大学が共同で開催し、多数の科学者が参集することになっていた。・・・

 1994年1月26日、化学部門副本部長という肩書のM・ロス・ジョンソン氏から手紙を受け取った。その手紙にはこうあった。『講演依頼をご快諾いただき大変感謝しております。ファースト・クラスの航空券二席分、ホテル滞在費、ならびにご講演謝礼金3000ドルをお支払いいたします』と。手紙の結びには、『つきましては、ご講演の演題をお知らせいただくようお願いいたします』と記されていた。

 私は、『・・・いわゆるヒト免疫不全ウイルス(HIV)がエイズの原因であることを示す化学的証拠は何も存在しないこと、そしてエイズ治療薬と称しているAZTを服用することは、まったくもって毒を飲むのとなんらかわりがないと考えられること』と記した。

 講演まで残すところあと1ヶ月という1994年10月14日になって、私はまた一通の手紙をグラクソ社から受け取った。・・・その手紙にはこう書かれていた。『謹んでお伝え申し上げます。よんどころない状況の変更によって、今般の貴殿のご講演を開催することがかなわない事態に至りました。つきましては貴殿に対するご迷惑の代償として、1000ドルの小切手をお支払いいたします』・・・

 その頃から徐々に、マリスは騒動を作り出す人物である、との評判が形作られていくことになった。できれば私に話をさせたくないと思っている団体や個人が多数存在しているということも分かってきた。そう思うのはもちろん、彼らの勝手である。・・・」

 『マリス博士の奇想天外な人生』からの引用はこれで終わる。ここで紹介しなかった章にはさらに奇想天外な彼の人生が綴られているが、興味を持たれた方は直接この本を読んでいただくとして、PCRに関連した引用はここまでにする。


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