軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

ジャコウアゲハとお菊さん

2022-09-09 00:00:00 | 
 思いがけず、ジャコウアゲハの幼虫を育てる機会を持つことができ、幼虫12匹はすべて無事蛹になり、そして羽化していったが、このジャコウアゲハの蛹は別名「お菊虫」と呼ばれている。

 原色日本蝶類図鑑(1964年 保育社発行)には次のように記されている。
 「(ジャコウアゲハの)蛹は『お菊虫』と呼ばれ、後手に縛された姿にも似て『口紅』に似た赤い斑点さえもひとしお可憐である。」

 確かにジャコウアゲハの蛹の形や色は独特で、他のアゲハチョウの仲間に比べ一風変わった外観をしている。今回育ててみて初めて気が付いたのであるが、形もさることながら、上記の赤い斑点は特異なもので、この蛹を人型になぞらえると、この赤色班は口の位置と目の位置などに現れているので、より一層生々しく思えてくる。



ジャコウアゲハの蛹「お菊虫」の頭部(2022.7.12 撮影)

 12匹の蛹のうち撮影できた10匹を比較すると次のようであり、外形は同じようにみえるが、赤色班は微妙に異なっていることがわかる。


10匹のジャコウアゲハの蛹の比較(2022.7. 12 撮影) 

 ところで、上で原色日本蝶類図鑑の記述を紹介したが、他の書籍ではジャコウアゲハの蛹を「お菊虫」とする記述はどのようになっているかと思い、手元にあるより新しい書籍「チョウ①」(1991年 保育社発行)や、「フィールドガイド 日本のチョウ」(2013年 誠文堂新光社発行)をみたが、ここにはそうした記述は見当たらない。
 
 「お菊」とは、各地に残る怪談「皿屋敷」のお菊に由来しているが、よく知られているこの物語は封建時代の出来事とは言え悲惨なものであることから、こうした引用は、この2冊の本では控えられたのかもしれない。

 一方、姫路市ではジャコウアゲハを1989年に市の蝶に指定し、姫路市自然観察の森ではネイチャーセンターや園内で飼育しており、一年中、成虫や幼虫、蛹を観察することができるという。

 これは、姫路城主だった池田家の家紋が揚羽紋であること、ジャコウアゲハの幼虫の食草がウマノスズクサのため農作物に害がないこと、そして、かつてお菊虫(蛹)が土産物として売られていたことが理由とされる(姫路科学館 サイエンストピック 科学の眼、Jul. 15, 2017 No.522 )。

 このように、戦前までは蛹の「お菊虫」を姫路城の天守やお菊神社でも売っていたということである。お菊神社というのは、皿屋敷の物語にある、不憫なお菊を哀れに思った城主小寺則職が姫路城下の十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったとの言い伝えに由来する神社である。

 いくつかあるとされる「皿屋敷」物語の舞台の一つが姫路城に関するもので、『播州皿屋敷』として知られている。

 このほか「皿屋敷」の物語には江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』があり、こちらの方がよく知られているのではと思う。

 ところで、以前、世界遺産の富岡製糸場からの帰路、県道47号線(以前の富岡妙義線)を走っていた時、「お菊の墓」と書かれた案内板が目に入り、あの「皿屋敷」のお菊さんは実在し、この地方の出身だったのだろうかと妻と話したことがあった。

 今回、ジャコウアゲハの幼虫を育て、蛹の様子も観察できることになったので、「お菊虫」にちなむ富岡市のお菊の墓を訪ねてみようと思い立ち、ちょうど吉井町にある妻の友人の畑に、ブルーベリー摘みに誘っていただいたのを機に、帰路立ち寄ることにした。

 妻にネット情報を調べてもらったところ、お菊の墓と呼ばれているものがこの地方に2か所あることが判った。

 一カ所は、以前通りかかって、案内板を見た県道沿いのものだが、もう一カ所は宝積寺という寺の本堂裏にあるという。いずれも、吉井町の畑からの帰路に立ち寄ることが可能な場所にあるので、道順に従い両方を訪ねることにした。

 最初に訪れた宝積寺は、国峰城を拠点とした豪族・小幡氏の菩提寺とされる。本堂裏手の高台に、小幡氏累代の墓があり、その案内板の最後の部分に、「墓所に付随して菊女とその母の墓がある」と記されているとおり、その傍らには二人の墓があった。


豪族・小幡氏の菩提寺・宝積寺(2022.6.29 撮影)


小幡氏歴代の墓の案内板(2022.6.29 撮影)


菊女とその母の墓(2022.6.29 撮影)

 また、境内の本堂右手には高さが6mほどの大きな「菊女観世音菩薩」があり、脇にある説明板には次のように記されている。


宝積寺境内の菊女観世音菩薩像(2022.6.29 撮影)


菊女観世音菩薩像脇の案内板(2022.6.29 撮影)

 「     『菊女観世音菩薩』霊験記
 この菊女観世音菩薩の総丈は台座より六メートル、商売繁盛・子宝・安産をはじめ、無病息災など、生きとし生ける者の、一切の苦悩を救うありがたい観音様として、古くから人々の信仰を受け継いできた。 
 戦国時代の末期、西上州に威を振った国峰城主・小幡上総介信貞候に、美しく、心清らかで優しい『お菊』という腰元がいた。しかし奥方はじめ周囲の嫉妬をかい、城主留守中、無実の罪に陥れられてしまう。天正十四年九月十九日、現在の『菊が池』(熊倉山山中)で、石の櫃(かろと)に毒蛇・ムカデと一緒に入れられて、十九歳で亡くなった。
 お菊を陥れた女性達はその犯した罪に煩悶し、小幡氏も天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めに際し姿を消してしまった。またこの地方一帯でも災いが続いたという。
 その後お菊追善の供養が度々行われ、葬儀も五度繰り返された。さらに明和五年(1768)、江戸時代の高僧・万仭道坦禅師が菊が池に大権現としてお祀りされた事により、お菊成仏の功徳をもって、諸人の願いをかなえる観音様としてあがめられるようになった。
 この『共に喜び共に悲しむお菊様』への供養の果報が、より一層参拝の人々にあらわれるよう、多くの信者の皆様の御助力によって、『菊女観世音菩薩』のお姿がここに安置される所以である。  
 お参りの仕方は、手をあわせ『南無菊女観世音菩薩』と三度お唱えし、その度ごとにを下げるのが作法となっている。
                            曹洞宗 宝積寺  」

 2番目に立ち寄った「菊女之墓」は県道沿いの看板が示す通り、富岡消防署妙義分署前を、道路から10mほど入った民家の庭先にあった。


「菊女之墓」の案内板(2022.6.29 撮影)

 市指定の史跡と紹介されているが、現状はかなり荒れている。向かって左の墓石表面には「菊女之墓所」、右の墓石側面には「菊女父母」と刻まれた文字が見える。


菊女之墓(2022.6.29 撮影)


お菊の墓所(2022.6.29 撮影)

 傍らの案内板には次のように記されている(尚、ここでは国峰城主の名は小幡信真となっていて、前出宝積寺の資料にある小幡信貞と異なっているが理由は不明)。
    
 「富岡市指定重要文化財
    菊女之墓所
                      所在地 妙 義 町 中 里  八 八
                      指 定 平成元年三月二五日

 当墓所は国峰城主小幡氏の侍女であった『お菊』の墓と伝えられる総高一二九・五cm、最大幅五一cmの砂岩製の五輪塔の添碑二基及び中世の石造物残欠から成っている。
 お菊に関する伝説は幾つかあるが、当所の由来は、甲斐国巨摩郡藤井庄出身の菅根正治が中里に住んでいたという。正治は国峰城主小幡信真の家臣であったが、その娘お菊が城主側女として仕え、城主の寵愛を受けたことに同輩や夫人に嫉妬され、城主に運ぶ食膳の飯中に針を入れたといういわれない科により、桶に首ばかり出した上で蛇責めにあい悶絶したという。お菊の家族は不憫に思い、当地にその亡骸を葬ったというものである。
 しかし、菊女の墓といわれる五輪塔の時代観は伝説の背景とする戦国時代より古い様式が見られる。
 また、添碑は先祖の事跡を調査に来た城主の末裔である松代藩士小幡長右衛門龍蟄が菊女及び同家の供養のために、菊女の一族といわれる当村名主藤井仲右衛門に依頼して建立したものである。
 史実と伝承には異なる部分もあろうが、本碑と添碑が並列しているのは珍しい事例である。
                                                                                               平   成 十 年 三 月
                                                                                               富岡市教育委員会  」


お菊の墓所脇に設置されている案内板(2022.6.29 撮影)

 これらにより、異なる2か所に残されている「お菊の墓」とされるものは、同一人物のものであることがわかるが、一方は宝積寺の住職が、他方は家族が建てたものということになる。

 ただ、富岡市に残されている「お菊」の伝説には、「皿屋敷」の話とのつながりはみられず、ジャコウアゲハの蛹との関連もまったくない。後手に縛された姿というのは、後世の講談「皿屋敷」で描かれた菊の姿からの連想であることになる。 

 富岡市のこの菊女の伝説は「番町皿屋敷」の原型の1つであるという説がある。上野の小領主として滅亡した小幡氏であるが、その後は信貞の養子(実子はいなかった)が幕府旗本をはじめ、松代の真田家、紀伊の徳川家、加賀の前田家、姫路の松平家にそれぞれ仕官しており、その子孫から各地の「皿屋敷」伝説が形成されていったと考える説である(永久保貴一氏による)。

 さて、この不幸な女性「お菊」と共に語られるようになってしまったジャコウアゲハの蛹であるが、もちろんこのチョウには不吉な要素は何もない。むしろその優美な色や姿と、ゆるやかに優雅に飛ぶ様子にはファンも多い。

 ジャコウアゲハは幼虫の食草がウマノスズクサおよびオオバウマノスズクサに限られるという偏食性から、その食草の成育環境の変化に強く影響される。都市部でも比較的見られるとはいうものの、全体的には減少しているとされることから、県によっては準絶滅危惧種に指定しているところもあり(鳥取県、群馬県)、地域によってはウマノスズクサの主な生育地である河川の堤防の除草方法などが検討されるなど保全活動も見られている(新潟県信濃川河川敷、大阪市の大和川堤防など)。

 今回飼育したジャコウアゲハから得た卵を預かっていただいた小諸のMさん宅の庭に生育しているウマノスズクサに、後日ジャコウアゲハの♀が訪れ、たくさん産卵していったとの報告を受けた。広い庭に多くのウマノスズクサが生えている環境であり、これからも元気に多くの子孫を残してもらいたいものである。

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