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軽井沢からの通信ときどき3D

移住して11年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

Karuizawa Foto Fest 2023(1)

2022-12-02 00:00:00 | 軽井沢
 先日、地元軽井沢商工会役員会がホテル音羽の森で開催され、私も地元区会の代表の一人としてオブザーバー参加する機会があった。

 この日の話題は、表題の「Karuizawa Foto Fest 2023」についてであり、来年2023年4月1日から5月14日までのゴールデンウィークを挟む44日間、軽井沢町内数か所の公園を会場として写真作品を野外展示する「軽井沢フォトフェスト」事業についての説明であった。


当日配られた名刺サイズのフォトフェストの案内(上:表面、下:裏面)
 
 この企画は、軽井沢観光協会が主催し、地元の写真家たちが中心となって実行委員会を運営しているものだという。

 役員会開催日当日現在の事業報告という形で、軽井沢フォトフェスト実行委員会を代表して、この企画の総監督に迎えられた軽井沢在住の写真家、野辺地ジョージ氏が報告を行った。 

 私自身、これまで全く知る機会がなかったが、すでにこの企画は、今年6月末に活動が開始されていて、ホームページも立ち上げられていたという(https://www.karuizawafotofest.jp/)。

 これまでに行った活動としては、フォトウォークとして写真撮影会を3回(7月23日、8月20日、10月22日)、野辺地ジョージ氏によるフォトトーク(9月22日)、同じく写真講座(9月23日)、高校写真部の部員への写真教室(9月21日)、写真家ア ーサー・マイヤーソン氏を招いての公演(10月28日)を行ってきている。

 また、今後も来年の開催日までに、写真家・成蹊大学教授の塩澤一洋氏によるワークショップ(12月17日)をはじめとして、テンプル大・Adobe社のエバンジェリスト氏、ワタナベ・シンヤ氏、写真ギャラリーPOETIC SCAPE創業者の柿島たかし氏、ニューズウイーク日本版フォト・ディレクターの片岡英子氏らによるワークショップやレクチャーも準備しているという(1月、2月開催)。

 来年開催予定の写真祭・Foto Fest の詳細計画は、各会場における写真展示のほか、次のようである。

・4月1日(土)開会式
・週末を中心にキッチンカーや機材無料体験、プロによる撮影会
 ➢第1週(4月1日、2日) 矢ケ崎公園
 ➢第2週(4月8日、9日) 追分エリア(信濃追分駅付近)
 ➢第3週(4月15日、16日) 旧軽井沢、諏訪ノ森公園付近
 ➢第4週(4月22日、23日) 中軽井沢、沓掛テラス等
・4月12・13・14日(19:00~20:30) トークイベント(会場未定)
 ➢12日 JANE EVELYN ATWOOD氏
 ➢13日 IZU KENRO氏 
 ➢14日 SAM ABELL氏 
・4月12・13・14・15日 ワークショップ
 ➢12日 JANE EVELYN ATWOOD氏 クラスルームレッスン
 ➢13日 JANE EVELYN ATWOOD氏 実写会(ストーリー作り)
     IZU KENRO氏 クラスル ームレッスン
 ➢14日 IZU KENRO氏 実写会(フィルム写真)
     SAM ABELL氏 クラスルームレッスン
 ➢15日 SAM ABELL氏 実写会(しなの鉄道)
・4月15日(土)スポンサー・VIPを囲んでの食事会とファンドレイジングイベント
・5月14日(土)閉会式

 スポンサーとしては富士フィルム(メインスポンサー)とDXO、Risk Management Laboratories(ダイヤモンドスポンサー)の名前が挙げられている。

 現在ホームページでの広報活動のほか、参加各ホテルの協賛によるトラベルプラン作成や、プレスによる取材、ポスターやチラシの作成も行い、スポンサー企業によるニューズレターやSNSでの紹介やチラシとポスターの展示、JR駅や鉄道駅での展示、軽井沢各エリアでの展示準備が進められている。

 展示される写真は、すでに一般公募が開始されていて、2023年1月末まで応募が可能である。対象となる写真は今年6月以降に軽井沢で撮影されたものという制約があるがジャンルは問われない。写真家の塩澤一洋氏や「ニューズウィーク」日本版のフォト・ディレクター片岡英子氏などが審査員となり、250枚を選定する。

 各会場における写真祭の開催イメージは、海外のフォトフェストと同様の方法とし、屋外の展示が可能な特製ターポリン(ポリエステルなどを塩ビフィルムで挟んだもの)に印刷された写真が用いられ、これを取り付ける天然木の丈夫なフレームが準備される。

展示会場のイメージ写真(配布資料から)

 この企画は来年2023年を初回として、その後も継続して開催したいと関係者は話している。私もぜひ応募したいものと思っている。

 ところで、近年写真をテーマにした展示が国内各地で行われている。軽井沢町の西に接する御代田町では、2018年から「浅間国際フォトフェスティバル」が開催されていて、2019年に続き今年2022年は3回目が、7月16日から9月4日まで行われた。ここでは、国内外の優れた写真家たちの作品の展示や、写真の楽しさを提案する体験型のイベントが実施された。

 軽井沢のずっと南、八ヶ岳では、2016年から参加型の「八ヶ岳フォトフェスタ」が開催されており、今年7回目を迎えている。今年度の写真作品募集期間は2022年11月25日〜2023年1月20日で、写真展開催時期は未定とされている。

 このほか、北海道では、「HOKKAIDO PHOTO FESTA」が2018年から行われていて、今年は第4回が、屋久島国際写真祭と連携して、2022年10月24日から10月30日まで、プロ写真作家の個展を中心として開催された。

 その「屋久島国際写真祭・YAKUSHIMA PHOTOGRAPHY FESTIVAL」は現在第4回が2022年11月18日ー12月2日の期間、開催中である。企画内容はプロの写真家の作品展示とワークショップ開催になっている。

 北海道では札幌中心の前記HOKKAIDO PHOTO FESTAのほかにも、上川郡東川町国際写真フェスティバル が開催されている( https://www.photo-town.jp/ )。この写真祭は歴史が古く、1985年から毎年夏に開催されていて、今年は第38回が2022年7月30日から8月30日まで開催された。写真作家の作品展示のほか、写真学校の生徒の作品や、自由公募作品の展示が行われている。

 このように、国内でも多くの写真祭が開催されているが、ここまで見てわかるように、これら「写真祭」の名称はバラバラである。「写真」については外国語の日本語表記で「フォト」と一致しているものの、アルファベット表記では、FOTO、PHOTO、PHOTOGRAPHYが用いられており、「祭り」についてのアルファベット表記は、FEST、FESTA、FESTIVALが用いられている。

 ちなみに、軽井沢町が今回用いている FotoもFestもドイツ語由来である。ドイツ語を採用した理由については聞きそびれた。

 当ブログを見ていただいている方々の中には写真好きの方も多いと思う。ぜひ応募されてはいかがだろうか。

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今月の雲場池(11月)

2022-11-25 00:00:00 | 軽井沢
 11月ともなると、朝散歩に出かけるときの気温が随分低下している。雲場池周辺の紅葉のピークは昨年よりやや遅い5日前後であったが、11月14日ごろにはほぼ散ってしまって、観光客の姿も少なくなった。

 先月に続き、雲場池の定点の様子からご紹介する。

10月28日撮影


11月4日撮影

11月11日撮影

11月18日撮影


11月24日撮影

 同じ場所を、スマホのパノラマモードで撮影した写真は次のようである。


10月28日撮影
11月1日撮影

11月5日撮影

11月7日撮影
11月10日撮影

11月12日撮影
11月14日撮影
11月18日撮影

11月22日撮影

 定点以外の雲場池の紅葉を以下にご紹介する。近くの結婚式場から撮影にやってきたカップルの姿も見られた。

見ごろを迎えた雲場池西側の紅葉 (2022.11.8 撮影)

散り始めた雲場池東側の紅葉が池に浮かぶ (2022.11.8 撮影)


池西側の紅葉 (2022.11.7 撮影)

雲場池西側から入口方面を望む (2022.11.1 撮影)

雲場池に隣接する企業保養所庭の紅葉 (2022.11.3 撮影)


雲場池周辺の別荘地庭の紅葉 (2022.11.7 撮影)

紅葉 (2022.11.1 撮影)


フェンスの木杭に落ちたモミジ葉 (2022.11.7 撮影)


雲場池で記念撮影をする新婚カップル (2022.11.2 撮影)

 続いて水鳥。いつも見られるのはマガモ、カルガモ。マガモ♂はには冬羽への換羽の状態の異なる種が混じる。

 オオバン、キンクロハジロもほぼ毎日のように見ることができる。コガモは日によって全くいなくなってしまう。


逆立ちして餌を採るマガモ♂の群れ (2022.11.7 撮影)


エクリプスから冬羽への換羽状態の異なる3羽のマガモ♂と♀ (2022.11.2 撮影)


オオバン(2022.11.1 撮影)


オオバン (2022.11.24 撮影)

羽ばたくキンクロハジロ♀ (2022.11.2 撮影)

キンクロハジロの群れに囲まれたオオバン(2022.11.2 撮影)

 たまに姿を見せるのはホシハジロで、10月は先発でやってきた1羽だけであったが、今月中旬に8羽まとまって飛来した。


ホシハジロの群れ (2022.11.15 撮影)

ホシハジロのペア (左♀、2022.11.15 撮影)

羽ばたくホシハジロ♀ (2022.11.15 撮影)


羽繕いするホシハジロ♂ (2022.11.15 撮影)

 オカヨシガモにも♀が加わった。外観はマガモ♀によく似ているが、羽の文様や翼の形が異なっている。また、どことなく優しい表情をしている。

霧の出た朝、飛来していたオカヨシガモ♀ (2022.11.18 撮影)

オカヨシガモのペア (2022.11.18 撮影)


潜って餌を採るオカヨシガモ♂(左)と♀ (2022.11.23 撮影)

 先月換羽中でみすぼらしい姿を見せていたコガモ♂の中には、本来の姿を取り戻した個体も現れた。

冬羽にもどったコガモ♂ (2011.11.10 撮影)


換羽中のコガモ♂も混じる (奥の2羽、2022.11.10 撮影)


羽ばたくコガモ♀ (2022.11.11 撮影)

 ダイサギも高い木の上で1羽が様子をうかがっている風である。


樹上のダイサギ (2022.11.8 撮影)

 池周辺で見られる野鳥はいつものシジュウカラとヤマガラのほか、ミソサザイ、キセキレイ、セグロセキレイ、カケス、ホオジロ、ゴジュウカラ、キバシリ、シメ、ガビチョウなどである。


元気なシジュウカラ (2022.11.7 撮影)

 ジッジッという地鳴きで気が付くことが多いが、池周辺に少なくとも1つがいのミソサザイが居ついている。

 
敏捷に池の周辺を飛び回るミソサザイ (2022.11.1 撮影)

 この日もミソサザイの姿を追っていたら、木のフェンスの上で囀り始めた。傍らには♀と思しき姿があったが、♂の求愛行動か。

ミソサザイの求愛? (2022.11.2 撮影)




羽を震わせて囀るミソサザイ (2022.11.2 撮影)

 ある朝、ミソサザイの鳴き声に姿を探すと、2~3m先の枝先に止まっていた。飛び去る様子もなく、ファインダー越しに見ると、カメラ目線でこちらを見ているようであり、撮影を求められているような気がした。

ミソサザイ (2022.11.22 撮影)

 キセキレイもまた奇妙なダンスを見せてくれた。枝に止まっていたキセキレイが、雲場池の上流にかかる橋の上に舞い降りたと思ったら、何やら奇妙なダンスを始めた。足に何かが絡みついたようである。

樹上のキセキレイ (2022.10.30 撮影)


キセキレイの奇妙なダンス (2022.10.30 撮影)

 セグロセキレイは上流の浅い場所で餌を探す姿をよく見かける。

雲場池上流の清流で餌を探すセグロセキレイ (2022.10.30 撮影)

 羽を広げると白黒のコントラストが美しい。後日、しばらく待って飛び立つところを撮影した。

飛び立つセグロセキレイ (2022.11.4 撮影)

 人の気配を感じると、鋭い鳴き声をあげるのがカケス。数も増えてきて、雲場池から周辺の別荘地の庭でよく見かける。とてもにぎやかである。

樹上のカケス (2022.11.12 撮影)


落ち葉の中でドングリを探して食べるカケス (2022.11.5 撮影)

別荘の庭で餌を咥えるカケス (2022.11.24 撮影)


金属フェンスの上で面白いポーズをとるホオジロ (2022.11. 10 撮影 )

木の幹を敏捷に移動するゴジュウカラ (2022.11.4 撮影)


動きがゴジュウカラによく似ているキバシリ (2022.11.14 撮影)

高い木の枝に止まるシメ (2022.11.14 撮影)

アイラインが特徴的なガビチョウ (2022.11.18 撮影)

 池周辺の別荘地の庭ではニホンリスが相変わらず元気である。

ニホンリス (2022.10.30 撮影)

 最後に、朝霧の出た日、散歩の途中で見かけた景色をご覧いただく。都心より一足先に冬景色になった。 

霧の日の朝 (2022.11.18 撮影)
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今月の雲場池(10月)

2022-10-28 00:00:00 | 軽井沢
 日々変化していく雲場池の様子を1か月単位でご紹介する「今月の雲場池」を今月からスタートする。

 10月は、池周辺で紅葉が始まり木々の変化も大きく、また水鳥たちの種類も増えてくるので、ご紹介しておきたい内容が多くなる月であるる。

 もっと頻繁にご紹介できるといいのだが、週1回のペースのブログなので、雲場池のことのほかにもあれこれ書き留めておきたいこともあり、まずは月の最終週に1回のペースで始めようと思う。

 最初に雲場池入り口の定点の4枚の写真から。10月初旬にはまだ緑が残っていた木々であるが、下旬にはすっかり秋色に染まった。

10月1日撮影

10月7日撮影

10月14日撮影

10月22日撮影

 雲場池は南北に長いが、まず向かって右側の池東側の木々が色づき、次いで少し遅れて西側の数本のモミジの大木が紅葉する。

 したがって、両岸の木々が揃って紅葉するのは短い期間で、西岸が紅葉するとまもなく東岸のモミジは散り始める。昨年両岸が美しく色づくのが見られたたのは11月1日前後であった。さて、今年はどうだろうか。

池の両岸が紅葉する様子(2021.11.1 撮影)

 次に、種類と数を増してきている水鳥の様子をご紹介する。

 雲場池に通年生息している水鳥は通常カルガモだけである。ただ、昨年から一羽のマガモ♂が住み着くようになっていて、少し様子が変わっているが。

 このマガモ(マガオ君)については別途紹介しているので、ここでは割愛するが、9月になると北から渡ってきたマガモが加わる。はじめのうちは、新たに渡ってきたマガモの♂はまだエクリプス状態なので、既に美しい冬羽へと換羽しているマガオ君とは容易に区別されるが、後から加わったマガモ♂の羽色も次第に冬羽に変化していくのと、中にはすでに冬羽に変化したマガモ♂も渡ってくるので、次第に区別がつかなくなった。

 夏の間は見ることのなかったマガモ♀の姿も見られるようになっている。10月後半にはマガモの数は雌雄合わせて10数羽ほどになっている。


通年雲場池で過ごしたマガモ♂、マガオ君(2022.10.7 撮影)

飛来したマガモ♂・エクリプス(2022.10.3 撮影)


換羽が進み始めたマガモ♂・エクリプス(右後)と♀(2022.10.12 撮影)


飛来したマガモのペアとともに泳ぐマガオ君(2022.10.15 撮影)


冬羽へと換羽が進み頭部が緑色に変わってきたマガモ♂(2022.10.15 撮影)


冬羽に変化したマガモ♂とキンクロハジロの群(2022.10.22 撮影) 

 マガモより少し遅れてコガモの換羽が始まっている。コガモは少し前から雲場池に数羽が現れていたが、すべて♀の姿をしていて、その中にエクリプスが混じっているのかどうか区別できないでいた。


池の小島でくつろぐコガモ(2022.10.15 撮影)


雌雄の区別がつかないコガモ 1/2(2022.10.17 撮影) 

雌雄の区別がつかないコガモ 2/2(2022.10.17 撮影) 

 そのコガモも、10月も半ばを過ぎて、羽衣に変化が見られるようになって、ようやくエクリプスの存在を確認することができた。

羽衣に変化が出始めたコガモ♂・エクリプス(2022.10.21 撮影)

換羽が進み栗色の頭部が見え始めたコガモ♂・エクリプス 1/2(2022.10.25 撮影)

換羽が進み栗色の頭部が見え始めたコガモ♂・エクリプス 2/2(2022.10.25 撮影)

 続いてカイツブリ。すでに紹介したが、今年はこのカイツブリの親子5羽が池を賑わせてくれた。ほとんど鳴き声を上げることのない水鳥たちの中にあって、9月から10月にかけて、カイツブリの雛の鳴き声が池に響いていた。

 10月中旬まではずっとカイツブリの親子の姿が見られたが、下旬には雛たちの姿が現れた時と同じように、突然消えてしまった。ただ、私が雲場池に出かけるのは、朝の短い時間帯だけなので、詳しいことは判らない。池にある小島に上っているために姿を見ることができないのかも知れないし、飛べるようになった雛を連れて、親鳥ともどもどこかに移動していったのかもしれない。


カイツブリの親子(2022.10.14 撮影)


カイツブリの親子(2022.10.15 撮影)


1羽残されているカイツブリの親(2022.10.22 撮影)

 この時期マガモと同程度に数の多いのはキンクロハジロである。最初に見かけたのは9月12日であるが、その後次第に数を増し、10月下旬には10数羽になっている。群れていることが多く、隊列を組んで池を移動する姿を見かける。

キンクロハジロ♀(2022.10.27 撮影)

キンクロハジロ♂(後方の2羽、2022.10.27 撮影)


羽ばたくキンクロハジロ♂(2022.10.9 撮影)


キンクロハジロの群れ(2022.10.18 撮影)

 このほか、単独で現れた種としてホシハジロ、ヒドリガモの姿がみられた。


ホシハジロ♂(右手前)とキンクロハジロ♂(左、2022.10.9 撮影)


羽ばたくホシハジロ♂(2022.10.9 撮影)


ヒドリガモ♀(2022.10.14 撮影)

 10月下旬にはオカヨシガモが加わった。

オカヨシガモ♂ 1/2(2022.10.25 撮影)

オカヨシガモ♂ 2/2(2022.10.25 撮影)


オカヨシガモ♂(右)とコガモ♂・エクリプス(左、2022.10.25 撮影)

 紅葉は雲場池の奥でも始まり、池周辺に植えられているドウダンツツジの紅葉も加わり美しい景観を楽しむことができる。

ドウダンツツジの紅葉とマガモ(2022.10.24 撮影)

雲場池奥部の紅葉 1/2(2022.10.22 撮影)

雲場池奥部の紅葉 2/2(2022.10.22 撮影)

雲場池奥部の遊歩道(2022.10.22 撮影)

 色づいてくるのは木々の葉だけではなく、ソヨゴ、ニシキギ、ツリバナ、ズミなどの木の実も赤くなる。


ソヨゴの赤い実(2022.10.14 撮影)


ニシキギの紅葉と赤い実(2022.10.14 撮影)


ツリバナの赤い実(2022.10.14 撮影)


ズミの赤い実(2022.10.14 撮影)

 池周辺の別荘地などには種々のキノコ類が発生する。よく目立つのは赤いタマゴタケやカサに白いぼつぼつのあるテングタケである。

タマゴタケ(2022.10.12 撮影)


テングタケ(2022.10.18 撮影)

 池周辺の別荘地の庭で時々見かけるのがニホンリス。動きが素早く、撮影は容易ではないが、時にはこのように立ち止まってポーズをとってくれる。 


ニホンリス(2022.10.1 撮撮影

 池周辺には紅葉を求めて観光客が増えてくるが、ヤマガラは人をそれほど気にすることなく、大好物のエゴの実を食べにやってくる。
 
エゴの実が好きなヤマガラ 1/2(2022.10.20 撮撮影)


エゴの実が好きなヤマガラ 2/2(2022.10.20 撮撮影)

 10月から11月にかけて、紅葉を求めてあつまる観光客で雲場池は1年のうちでも一番にぎわいをみせる。そして、静かな晩秋を迎える。

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軽井沢病院から旧軽井沢公民館へ-旧軽井沢公民館の歴史

2022-04-15 00:00:00 | 軽井沢
 旧軽井沢区の公民館が新築されることが決まった。現在の公民館建物の老朽化に伴い、地元住民から建て替えの要請が出始めたのは数年前の2015年頃であったが、それから区民の間での討論と町への申請を経て、町予算で建設費8400万円が承認されたのは2021年4月であった。



旧軽井沢区公民館新設を伝える軽井沢町HP

 その結果、現在の公民館(以下、現公民館)は、新公民館の竣工後に取り壊されることになった。当初着工予定の2021年に、新公民館の建設予定地から医療廃棄物が見つかるといった予想しなかった事態が起き、建設場所の変更を余儀なくされたこともあり、予定から1年ほどの遅れが生じているが、新公民館は2022年6月頃の着工、2023年7月頃の竣工予定であり、現公民館の取り壊しは2023年後半以降になるとされている。

 現公民館の建物の歴史を振り返ると、軽井沢病院として1953(昭和28)年から利用が始まり、その後、1961(昭和36)年には、建物が狭いとの理由で増築されることとなり、総工費624万円で病院診療棟の新築と、従来の診療棟の病棟への改築が行われ、同年5月22日に落成式が執り行われた。増改築された病院棟の利用は、中軽井沢地区に新たに病院棟が建設され、ここに移転する1974年6月まで続く。

 1年後の1975年には、この病院棟は病室など一部を解体し、大ホールなどを増築して、現在の旧軽井沢地区の公民館としての利用が始まった。
 病院としての利用が21年、その後1年のブランクの後47年間は旧軽井沢地区の公民館として、合わせて約70年の長きにわたり活用されてきたこの建物には軽井沢と旧軽井沢の幾多の歴史が刻まれている。
 
 歴史的にすこし遡った時期も加えて見ていくと、現公民館に関わる歴史は3つの時期に分けることができる。

 先ず、軽井沢に本格的な病院ができる前の時代(1期)であるが、現公民館から少し離れた場所には別の病院、マンロー病院(サナトリウムあるいは軽井沢病院とも呼ばれた)があり、このマンロー病院の一部を借りて、町立病院としての診療が開始されている。

 2番目の時期(2期)は、町立の建物が建設され、本格的に病院として機能し始め、さらに増改築されて現在の建物が使用された期間である。

 そして、3期は病院機能を中軽井沢地区に新設された新病院に移し、一部を取り壊し、一部を増設して旧軽井沢地区の公民館として利用してきた期間である。

 病院から公民館への切り替え時に取り壊されたのは、病室や渡り廊下などで、周囲の樹木も中軽井沢地区に移植されたという記録がある。公民館機能を確保するために増築されたのは、現在の大ホール部分とその周辺部分である。

 こうした経緯を図示すると次のようである。

 
旧軽井沢公民館の建物の歴史

 この3つの期間について以下順に見ていく。

 第1期であるマンロー病院が設立される前後の期間については、現公民館との直接の関係は薄く、概要だけを記述しておくと次のようである。
【第1期】病院建設以前
 明治期
 ・明治30年に岩村田の医師、菊池音之助氏が旧道に病院を設立し、西洋医学による医療の走りと
  なる。
 ・明治30年代後半に御代田に開業していた水沢源氏が新軽井沢に出張所を設け、偶数日の午後、
  診療に当たった。
 ・明治38年に里見新緑氏が診療を始め、大正4年以降追分の現在地に医院を確立した。
 ・大正6年にマンロー医師が旧軽井沢の別荘の一角で診療を始めた。
 ・大正9年に清原芳司氏が沓掛(中軽井沢)で診療を始めた(清原医院)。
 ・大正13年に軽井沢会とマンロー氏が提携し、軽井沢サナトリウムが新築・設立された。
 ・昭和8年に星野に、星野温泉医局が開業し、昭和60年まで続く。
 ・昭和24年に、マンロー病院の一室を借りて、国保診療が開始。高嶺登医師。
 ・昭和27年、軽井沢町国保旧軽井沢診療所開設。

 このマンロー病院を借りている時期に、大きな事件が起きている。高嶺医師と交替して赴任していた川越不二男氏が次のように記している(軽井沢病院誌より、P59)。

 「昭和25年6月9日、熊野平駅付近で豪雨による山崩れがあり、線路で作業中であった長野県側の作業員七十数名が生き埋めとなり、その中に居られた熊の平駅長夫妻も亡くなられました。生き埋めになった人のうち二十数名が救出され、消防の方々が消防車に乗せて病院に搬送してきました。病院は一瞬修羅場となり、少人数で負傷者の泥を落とすだけでも手が廻らないほどでした。小諸から医師会や長野日赤の先生方、更には鉄道病院の救護班、報道関係の方々も駆け付け、皆、大活躍でした。・・・」

【第2期】旧病院時代
 マンロー病院の一室を借りて昭和24年にスタートした軽井沢町の医療施設は、3年後の昭和27年に独自の施設を得て、診療を開始した。
 この時使用した建物は、関係者の下記記述によると新設のものと思われるが、詳しい資料がなく、正確なことはわからない。「軽井沢病院誌」には旧道の診療所として写真が掲載されているが、これが現在入手できた唯一の写真である。
 その後、昭和29年には軽井沢町国保軽井沢病院に昇格し、初代院長には、ふたたび赴任してきた高嶺 登医師が就任する。次は、その高嶺昇氏の回顧談である(軽井沢病院誌より、p57)。

 「(千葉大学)河合外科医局より軽井沢へ行く話があったのは昭和24年初夏の頃でした。・・・当時、軽井沢町では既に国民健康保険を施行しており、従って直営の診療所も欲しかったと思います。私の仕事は、その診療所を主として、その外、週一日小諸保健所での診察と、随時連合国関係の労務者の健康管理の三種でした。
 町の診療所は、旧道万平通りから矢ケ崎川にそってささやきの径に入って左手にあった通称軽井沢会診療所あるいはマンローサナトリウムと呼ばれていたベンガラ塗りの赤い木造洋館の一部屋を借りて、診療を始めました。
 この建物は、大正末期に軽井沢避暑団が設立して、日本の文化人類学のパイオニアといわれるマンロー博士がサナトリウムとして使っていたとのことでした。博士の没後、一時ペンションになったりしていたらしいですが、私の赴任した時にはイギリス帰りの加藤伝三郎先生が内科をしておられました。マンロー未亡人は婦長さんとして・給食係りとして活躍しておられました。病室はオープンで、町の先生方も自由に利用できましたので、アッペやヘルニアの手術後の面倒は専らマンロー夫人がやってくれました。・・・
 初めての冬の寒さに驚きながら予定の半年で、先輩の川越不二男先生と交替して頂いて暮れに帰りました。
 昭和27年秋に軽井沢町では直営の国保診療所を建てたので、再び私が行くことになりました。旧道のテニスコートの近く、諏訪神社の裏手でした。・・・
 その頃までに町では沓掛の清原医院と新道のつるや旅館の一室に診療所を開設しており、一外・一内より派遣された先生が診療にあたっておられました。新診療所は通称軽井沢病院と呼ばれておりましたが、沓掛・新道と新診療所とで医師は4名ですが、病室や看護婦数の不足などで、医療法でいう病院の基準には達しておりませんでした。・・・」

旧道の診療所(「軽井沢病院誌」より)

 次は病院の初代の事務方土屋 篤さんが見た新病院である(軽井沢病院誌より、P69)。
 「昭和27年、旧軽井沢に『設立するなら病院を』という要望が強かったが、取敢えず診療所を設立することになり、同年11月15日、軽井沢町国民健康保険直営診療所として発足しました。
 診療所発足当時は、町の診療所として軽井沢駅前の一室を借りた診療所と沓掛の清原医院の後を借りた診療所(後の中軽井沢診療所)の2か所あったが、この旧道の診療所は町独自で建てたものでした。・・・
 診療所開始以降、患者さんは増加する一方で、手術は近くのマンロー病院を借りて医師・看護婦が出向していったり、入院を要する患者は小諸や長野の病院へ送らなければならず、高嶺先生は町当局に病院設立を熱心に訴えられました。・・・
 結果、旧軽井沢の診療所を改築増設する事で決まり、高嶺先生の指示により手術室・レントゲン室・給食室・浴室・病室(21床、一室を結核専用)も決まり、診療所発足3年目にして(昭和29年10月)『国保町立病院』がたんじょうしました。・・・   
 高嶺先生の時代は、浅間・小瀬方面での自殺・心中が週に一件か二件あり、車のない時代で、その検死にみな苦労したものです。また、外人のパイプカットも多かった様に記憶しています。・・・
 産婦人科診療も始まり(S31.9)、病院は、入院患者も増える中で、外来も忙しく、手術は日曜日に行われることが多くなりました。・・・給食室が出来、レントゲンの機械が入り、多かった結核患者用の病室が二部屋となったのはこの時代です。・・・」

 1961(昭和36)年に、病院棟は転機を迎えた。それまでの建物が狭かったことを理由として増築されることとなり、総工費624万円で病院診療棟の新築と従来の診療棟の病棟への改築が行われ、5月22日に落成式が執り行われた。

 このニュースを、軽井沢町の広報版は次のように報じている。
 「国保直営軽井沢病院は、昭和二十八年の開院いらい歴代の院長はじめ医局員の努力で入院設備の少ない当町の医療センターとして、重要な役割をはたしてきた。
 数年前までは、盲腸の手術すら上田、小諸あるいは岩村田方面の医院にかけつけなければならなかったのが、いまでは町の病院で大きな手術がおこなわれている。最近特に増加した交通事故による負傷も治療され、いく多の尊い人命が救われている。・・・
 ベッド数二十一では不足をきたし、昭和三十四年いらい入院希望者をことわるという事態が生じてきた。・・・
 この問題を解決するため、昭和三十五年度で、総工費六百二十四万円で病院診療棟の建設と現在の診療棟を病棟に改築して十二ベッドを増すことを決め、昨年十月着工した。
 着工以来六か月気候の悪条件を克服し、着々と工事は進行、五月二十二日しゅん工した。
 これで、二十一ベッドは三十三となり、満員のため入院不能の事態は、解消されるものと思う。・・・」 


病院棟の増築を伝える軽井沢町の広報誌「かるいざわ」(りんどう文庫提供)

 
増改築された軽井沢町立病院(南東方向から、「軽井沢病院誌」より)

 
診療棟と渡り廊下で繋がれた増改築後の病室棟(「軽井沢病院誌」より)

 この時代に起きた衝撃的な事件として、多くの病院関係者の記憶に強く残っているのは あさま山荘事件である。

 五代目院長・木戸千元氏は、次のように詳しく記している(軽井沢病院誌より、p95)。
 「縁あって、軽井沢病院に赴任したのは昭和44年秋の頃であった。・・・
 病院就任以来、町には浅間山の大爆発、新道の大火などの事件があったが、昭和47年2月、静かな冬の軽井沢に降って沸いた様に突然銃声が響いて、この浅間山荘事件が勃発した。・・・
 警察は、総力を挙げて、10日間の攻防戦の末、2名の殉職警官(一人は広野先生の富山の中学時代の同級生であった)の犠牲を払いながらも人質を無事解放し、犯人を全員逮捕したものである。
 事件が始まるや、当院は最前線の医療機関に指定されたため、大学病院から応援の医師を依頼して待機態勢を採っていたが、厳重な包囲網をくぐって山荘に近づこうとした一民間人(私の医局時代の同僚の知人であった)が頭部を銃撃され、救急車で搬送されるという事もあった。・・・
 10日間のにらみ合いの末、・・・夕闇迫るころ、遂に落城した。人質は無事に救出されて直ちに病院に運ばれた。異常な体験を強いられた人質であったが、水を被り寒さに凍える以外は擦り傷程度の外傷があったくらいで、他覚的な異常所見はなく、思いの外元気であり、気丈でもあった。精神的にも大分痛め付けられて居るのではと予想されたので、拘禁症状の有無等について、予めお願いしてあった国立小諸療養所の精神科医にも立ち会ってもらったが、特に異常所見はなくホッとしたものであった。この際の一問一答が、翌日の某大新聞の一面にそっくり載っていて、驚いたのであったが、後に病室で盗聴器が発見され、報道合戦の凄まじさに目をむいたものであった。・・・
 お陰で、軽井沢病院も全国から注目の的となり、その名を天下に響かせたのであった。数日後、院内で人質との共同記者会見が設けられ、全国にトップニュースとなって流されて、ようやく報道陣は潮が引く様に去って行き、元の静けさに帰ったのであった。・・・」

【第3期】旧軽井沢公民館時代
 中軽井沢に軽井沢病院が新築され、旧軽井沢から移転したのは1974年6月の事であるが、その後、1975年には、この旧病院は病室棟や渡り廊下などを解体し、公民館としての活用のための大ホールなどを増築して、現在の旧軽井沢地区の公民館としての利用が始まった。

 5月に、それまでの公民館からの引っ越し作業は区民の協力により行われ、盛大な開所式も執り行われた。

 
区民の協力による引っ越し作業(1975年5月 撮影 旧軽井沢公民館所蔵)

現公民館の開所式(1975年5月 撮影 旧軽井沢公民館所蔵)

 公民館として残された建物は、1961年に建てられた当時のものと、床面積(528平方メートル)や室数(15室)がほぼ一致していて、大ホール部分が追加された形になっている。平面図は次のようであり、公民館としては他地域と比較してもかなり広いスペースが確保された。   


現公民館の平面図

 公民館は、地域の活動の拠点となり、区の役員会、総会会場としての利用はもとより、子供から老人までの活動の場として利用された。さらに、夏期には旧軽井沢の名物になった「夏の蚤の市」の会場としても利用が始まり現在まで続いている。

現公民館での区民総会開催(2011年2月28日 中田秀雄氏撮影)


現公民館で例年開催されてきた夏の蚤の市[骨董市]の様子(2021年7月31日 撮影)

 現公民館の入り口近くの壁面上部には「開館の礎」として、公民館建設に尽力した方々の名前と共に、次の文が掲げられている。
 「東は碓氷の霊峯に西は大浅間の火峯に抱かれた我が旧軽井沢はその昔から栄枯盛衰をたどり旧観は全く一変し当時を偲ぶことは困難であるが郷土を愛し守って来た先人の血は今日の人々にも流動している。
 激動する近代社会で公民館活動が発展し生活の多様化に即応出来得るような学習の場所が要求される今日幸にも町当局の御理解を得て旧病院の建物を貸借出来た事は区民にとって誠にありがたいことであった。
 社会教育の充実を求め区内から建設実行委員会が組織され区民一致協力その改修資金(一九00余萬圓)と物品を拠出して区内の業者(諸職工組)が之を請負いここに教育並びに生活文化向上の殿堂が完成を見たのである。
 これを機会に町当局に深い感謝の意を表すと共にこの事業の目的に精力的に携った建設実行委員諸氏の名を印して記念とする。
昭和五十四年二月吉日」

 
現公民館に掲げられている「開館の礎」


現公民館建設実行委員の名を記した銘板

 
病院時代の雰囲気の残る管理人室入り口(2022.1.27 筆者撮影)

現公民館の廊下(2022.1.27 筆者撮影)


現公民館の近影(2022.1.11 筆者撮影)



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あさま山荘(3/3)

2022-03-18 00:00:00 | 軽井沢
 あさま山荘事件は連合赤軍メンバーが人質を取り、軽井沢レークニュータウン内の河合楽器「あさま山荘」に立てこもった1972年2月19日に発生、10日間の攻防の末、2月28日に警察が強行突入し、人質を救出するとともに、犯人5人を逮捕した。

 その28日、事件解決に当たった内田尚孝警視長と高見繁光警視正が撃たれ殉職したことから、1年後軽井沢町発地に顕彰碑「治安の礎」が建てられ、事件後毎年2月28日には慰霊式が行われてきた。

 事件から50年たった今年も慰霊式が行われた。式は新型コロナウイルス対策で、出席者を10人程度に絞って開催され、事件現場の方向を向いて全員で黙とうし、関係者が献花する様子が、TVのニュース番組で放映され、翌3月1日の新聞各紙でもその模様が報じられた。

 新聞3紙の3月1日の記事内容を見ると次のようである。

・【読売新聞・地域面(長野)】
  「『警察の使命感 引き継ぐ』 あさま山荘事件50年 殉職2人を慰霊」との見出しのもと、
 慰霊式の様子を次のように紹介した。
  「・・・式は、亡くなった警視庁第2機動隊長の内田尚孝さん(当時47歳)と、特科車両隊
 指揮官の高見繁光さん(同42歳)を追悼するため、毎年開かれている。今年は警視庁や長野県
 警、地元の防犯団体の関係者など約15人が参列。全員で黙とうをささげた後、花を供えた。
  軽井沢署の柏木隆所長は『非常に厳しい状況の中で任務に当たった警察の使命感は忘れては
 ならない。その気持ちを引き継いでいきたい』と話した。式には、当時クレーン車を運転し、
 山荘を壊す『鉄球作戦』に協力した白田弘行さん(84)(長野市)も参列した。白田さんが
 乗り込んだ防弾ガラス付きの運転席も狙撃され、近くで指揮をとっていた内田さんが銃弾を
 受けたのを目の当たりにしたという。
  白田さんは『銃口が私から(内田)隊長に向かうのが見えて《隊長、顔出さないで。狙われて
 いるよ》と注意したら《ありがとう》と言って、その2,3秒後に撃たれた。50年たって体は
 ガタガタだが、よく覚えているもんですね。本当に痛ましい』と振り返った。
  また、式の前には、突入部隊の破壊工作班長を務めた箱山好猷(よしのり)さん(86)ら、
 長野県警機動隊OB7人も献花に訪れた。事件を知らない世代が増える中、箱山さんは『月日の流
 れを感じるが、二度とこのような事件が起きなければそれでいい。平和になったということだ』
 と話した。」

 信濃毎日新聞は2つの紙面でこれを報じている。
・【第三社会面】では、
  「あさま山荘 警察の強行突入から50年 『事件風化させない』誓い 新たに」との見出しと、
 式の様子を伝える記事とともに、
  「・・・式の前後に訪れ、コーヒーやたばこを供える人もいた。当時、県警機動隊分隊長だっ
 た箱山好猷さん(86)=上田市真田町=は、共に山荘に突入した当時の隊員6人と訪れて手を
 合わせた。内田さんと突入前日に話をしたといい、『亡くなった2人の方の功績は大きい』とし
 のんだ。二十数人の部隊員は事件後、突入した部屋の名前(かえでの間)をとって会をつくり
 交流してきたが、メンバーの高齢化もあり、この日で解散するという。・・・」と報じ、50年
 の歳月が、事件関係者にも一つの区切りが来たことを感じさせた。
・【地域面(東信)】では、地元の建設会社で働いていた佐藤さんの談話を紹介した。
  「3人の死 今もふに落ちず あさま山荘事件50年 作戦協力の住民」
  「土のう作り・除雪・・・『二度と』手合わせ」
  「・・・佐藤さんは会社や町外の同業者の人らと、昼も夜もひたすら土のうを作り続けた。
  ・・・(突入を)決行する28日の前夜から山荘へ向かう道には雪が積もった。クレーン車が通
 りやすいようにと、佐藤さんが除雪を買って出た。・・・当時使ったブルドーザーはキャタピラ
 が鉄製で、固い路面では横へ滑る恐れがあり、細心の注意を払ったという。・・・慰霊式に合わ
 せ、毎年顕彰碑を訪れてきた佐藤さんは『三つの命が亡くなったのは、今でもふに落ちない
 ね』とつぶやいた。」

 朝日新聞の記事は次のようである。
・【長野面(信州)】
  「『50年たっても忘れられない』 あさま山荘事件 慰霊式典 「鉄球作戦」元運転手も
 参列」
  「・・・(事件発生から)10日目の2月28日、巨大な鉄球をつるしたクレーン車が投入された
 ことが局面打開のひとつのきっかけとなった。
  当時、県警に依頼され現場で米国製のクレーン車を運転していたのが白田弘行さん(84)
 =長野市。重機オペレータだった白田さんは、事件発生後に警察から依頼の電話を受け、鉄球の
 操作を担当する義弟と2人で現場に向かったという。・・・
  白田さんは事件解決から50年目の28日、妻澄江さん(85)と慰霊式典に参列した。
  『理不尽事件で殉職された警官の方は本当に気の毒だ。体はがたがただが、来られるうちは
 また訪れたい』と話した。」

  慰霊式の翌日、3月1日朝の現地の様子は次のようであり、献花された花束がまだ残されていた。

軽井沢発地にある「治安の礎」(2022.3.1 撮影)

 前回、信濃毎日新聞が2月6日に掲載した記事について当ブログで紹介したが(2022.2.18 公開)、その後事件が発生した2月19日前後からから突入まで、新聞各紙は「あさま山荘事件」についてどのように報じたか。ふだん購読している新聞のほかに数紙を入手し、調べてみた。
 記事内容は次のようである。尚、産経新聞はこの事件について連日記事を掲載していたことを後で知ったが、残念ながら入手できず、ここでは紹介できなかったことをお断りしておく。

2月17日
・【読売新聞・文化面】
  「連合赤軍事件」50年 閉じた関係の中 命と言葉が逆転した。その瞬間はどこにでもある
 山本直樹さん(漫画『レッド』著者)、
 殺人への連続線上にいないと断言できるか北田暁大さん(社会学者)、
 砂粒化する青年らの焦りと孤独 浜崎洋介さん・批評家

2月19日
・【読売新聞・社会面】
  あさま山荘 背景に「葛藤」 きょう発生50年 映画「突入せよ!」原田真人監督語る
・【毎日新聞・総合・社会面】
  あさま山荘事件50年 捜査に関わった元検事 「赤軍 誰もがなり得た」 退官後、受刑者と手
 紙で交流 「事件終わっていない」
・【朝日新聞・長野面(信州)】
  同時代の記憶 あさま山荘事件50年① 緊迫の中継 9割が見つめた 「社会の矛盾は続く 投降
 すべきだった」-連合赤軍の「原点」知る男性 
・【信濃毎日新聞・第三社会面】
  発生50年 あさま山荘事事件 衝撃の記憶① 「運転できるなら出られる」 犯人に告げられた
 人質の牟田泰子さん 救出後に受けた批判 心に負った傷
 
2月20日
・【信濃毎日新聞・論面】
  「あさま山荘」 戦前と戦後交錯 ■(20年以上も前に生まれていたら)皇軍の立派な兵士、
 ■思想では逮捕せず ノンフィクション作家 保坂正康
・【信濃毎日新聞・第三社会面】
  発生50年 あさま山荘事事件 衝撃の記憶② 使命感で突入 救出に安堵 県警機動隊分隊長だ
 った箱山好猷さん 工作班として人質がいるとみられた2階へ
・【信濃毎日新聞・第三社会面】
  連合赤軍とオウム事件は類似 あさま山荘事件時に現地入り 元警察庁長官・国松孝次さん
 (当時警視庁広報課長)
・【朝日新聞・長野面(信州)】
  同時代の記憶 あさま山荘事件50年② 攻防の最前線 構えたレンズ 耳のそばで音
 「それ弾ですよ」-現場を取材した写真記者 
 
2月21日
・【信濃毎日新聞・第三社会面】
  発生50年 あさま山荘事事件 衝撃の記憶③ 厳寒 警官・記者らの支えに 馬取地区の
 佐藤松江さん・五月女くに子さん 炊き出しでおにぎり作り 自宅は取材拠点

2月22日
・【信濃毎日新聞・第三社会面】
  発生50年 あさま山荘事事件 衝撃の記憶④ 「勝手な考え 押し付けようと」 警察と銃撃戦
  元連合赤軍の加藤倫教さん 「総括」で殴った兄が死亡 従うしかなかった
・【朝日新聞・長野面(信州)】
  同時代の記憶 あさま山荘事件50年④ 世界追った札幌五輪の熱気 「代表=『模範』
 明確な答え見えていた」ー出場した元選手 

2月23日
・【朝日新聞・長野面(信州)】
 同時代の記憶 あさま山荘事件50年⑤ 「鉄球」の映像 人生の転機 「迫力があった。
 あの時がスタートなん」-リンゴ農家からスキー場経営 

2月24日
・【朝日新聞・長野面(信州)】
  同時代の記憶 あさま山荘事件50年⑥ 野球の快進撃 諏訪は沸いた
 「怖かった」心揺らしながらも日本一へ-元三協精機の選手

2月25日
・【朝日新聞・長野面(信州)】
  同時代の記憶 あさま山荘事件50年⑦ 激動期 日本の動脈とともに 
 「蒸気機関車は人間的だよね。一生懸命走る」-元国鉄職員
・【信濃毎日新聞・第三社会面】
  発生50年 あさま山荘事事件 衝撃の記憶⑤ 次代へつなぐ「語り部」に 
 彰碑の清掃続ける新見文彦さん 引き継いだ 訪れる人の気持ち受け取る役割
 
2月26日
・【読売新聞・社会面】
  あさま山荘 殉職警官悼む 事件50年 突入時の盾も公開 
 「『あさま山荘事件』から今月で50年となる。隊長が殉職した警視庁第2機動隊で25日、
 隊員らが『顕彰之碑』(東京都江戸川区)に献花を行い、慰霊を行った。」 
・【信濃毎日新聞・第三社会面】
  発生50年 あさま山荘事事件 衝撃の記憶⑥ 引き金は「他者顧みぬ独善」 
 同時代のノンフィクション作家・吉岡忍さん 孤立した運動は暴走する-現代への教訓に 

2月27日
・【読売新聞・地域面(長野)】
  山荘突入「死を覚悟」 あさま山荘50年 転がってきた爆弾 部下と別れの杯 あす警官
 慰霊祭
・【朝日新聞・長野面(信州)】
  同時代の記憶 あさま山荘事件50年⑨ 女性 もの言わぬ風潮だった 
 最高幹部逮捕に衝撃「こういう世界にも女性が」-元下諏訪町議

2月28日
・朝日新聞(社会面)
  あさま山荘事件 50年 突入時 連合赤軍メンバーと警官は いまも罪に向き合って、
 同じ構造の事件 いつの時代も
・朝日新聞(長野面)
  同時代の記憶 あさま山荘事件50年⑩ 友の死 革命からの離脱決意 「集団で掲げた幻想
 個々人が押し殺された」-元連合赤軍メンバー
  連合赤軍リンチ殺人 犠牲者追悼 群馬・高崎 現場近くの寺院で法要
・【信濃毎日新聞・第三社会面】
  あさま山荘事件50年 目前で警官狙撃 憤り鮮明 鉄球つったクレーン車運転
 長野の白田さん 今日慰霊式

 記事の見出しは以上のようであったが、これらを纏めると、新聞各社のこの事件に関係した記事の掲載状況は次のようであった。地元の信濃毎日新聞の記事数の多さはなるほどという感がするが、朝日新聞が他紙に比べ多くの関連記事を掲載していたことがわかる。
 事件当時の取材合戦の状況を思い出すと、新聞各社の関心の度合いからも、50年の歳月が感じ
られる。


 〇印はその日関連記事が掲載されたことを示す。 
 
   

 

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