寝転がって気ままに想う事

 世の中ってこんなもんです・・
面白可笑しくお喋りをしましょうか ^^

月の争奪戦か

2024年01月28日 09時08分53秒 | 笑い

おはようございます。

最近 日本の上げた人工衛星が月に着陸したニュースがありました。

人工衛星・月…と聞いて 皆さんどう思いましたか。

若い世代は気象衛星を思い浮かべましたか(笑)

 私は、久し振りに何やら甘酸っぱい感触に覆われました。

と言いますのが、このふたつの単語から連想するのは、「大阪万博」

 1970年に大阪で行われた万博…万国博覧会。

この時にアメリカ館に月の石が展示されていました。

中学生だった私は、大勢の人が押すな押すなと集まって見ようとした月の石を

ほとんど見えないまま人の波に流されて 外に押し出されて ハイ、オシマイ。

何時間も待った挙げ句 人の頭を見て終わったのです。

体験の無い方に申しますと初詣の行列を思い浮かべてもらいますといいでしょうか。

ある落語家さんが、噺のマクラ(落語の出始めの前菜とご理解ください)で 

あの万博から並ぶ習慣が出来たようですね、と笑わせていました。

 なるほど、それ以来人が並ぶことが珍しくなくなったようですが、私みたいな当時中学生だった

中途半端なおじいさんでは そこの感性がイマイチ分かってないかも知れませんね。

 ところで、人工衛星を云々…ですが、万博から半世紀も経って 再び活性化したのには理由がありました。

以前はアメリカとソ連の間に冷戦、睨み会うだけで手は出さないと考えれば結構な期間がありました。

あっちがこうしたら ウチも負けずにやろう、と 日本流のことわざで言うところの 隣に蔵が建って嬉しいなぁ

 ですね。簡潔な四文字熟語で 切磋琢磨 この心意気が良い方向に向かえば科学や医学、文学、諸々が向上したでしょう。

ですが この輩(やから)はケンカするための道具をせっせと作って貯めるだけでお互いを牽制していました。

その中で 宇宙競争もかなりやりました。

ガガーリン飛行士が宇宙から地球を見て 「地球は青かった」は名言でした。

あれはソ連が宇宙遊覧を世界で初めて成功した時でした。

ソ連に出し抜かれたアメリカは、必死に追い上げて人類史上初の月に着陸した。

と鼻高々で喧伝したのが 大阪万博でした。  

あれから半世紀、当時の熱意のままで競争を続けていたら 今頃は月に観光旅行に行っていたか

住宅もあったかも知れませんね。

ところが 宇宙競争は、衛星を上げて空から地上を映すだけが目的になって費用が掛かる割にメリットがないと 

両国は競争の熱が冷めたようです。

それから 再び月が注目されるようになったのは、月には水が有る、鉱物資源も豊富に有る、

と分かってきたからです。

宇宙に上げる人工衛星もいまでは60ヵ国が競うくらい技術的な問題はクリアしています。

あとは月に作業機械を着陸させて鉱物資源を探ったり掘削したり持って帰ったりするだけ。

ここまで進むのにどれくらい時間がかかるのか分かりませんが、60か国が競争し始めると意外と早いんじゃないでしょうか。

それで、問題になるのが、取得権ですね。

従来の大国が仕切る地球上と違い、宇宙の可能性は無限にあります。

先ずは、月ですが、南極がどこの国の領土でもないと決めているように、

月もどこの領土でないと決まっているようです。

ですが その月から得る鉱物資源はどうするの?と議論が出てきました。

これについては、先の植民地政策で裕福な国になった欧米をもじり、我々にも権利があるゾ、

と出てきたのが先進国と一線を引くグローバルサウス諸国です。

具体的には、インド、中国、サウジアラビア、ケニア、南アフリカ、コロンビア・・

日本は先進国7ヶ国にいますが、負けずと上げたのが先日の人工衛星月に着陸のニュースでした。

日本の自慢は狙った場所から百メートル以内の誤差で着陸した精度ですね。

さてさて これからどうなるのでしょうか。半世紀前の米ソ冷戦のような単純な対抗構図では

ないので それも複雑にからみあって 目を離せません。

♡ 織姫と彦星さん、お騒がせしそうです、ご容赦ください♡

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雪の降る日は・・

2024年01月24日 16時06分02秒 | 笑い

 おはようございます。

私の住む地域は大雪です。今年は暖冬 との予報があったので 今年も雪が降らなくてヤレヤレだ、と

胸をなでおろしていたところが この大雪。ある気象予報士さんが 「むかしは 雪が降ればこんなもんじゃなった、明治以前は地球温暖化もなく冬には

 ど~んと雪が降りました、それでも人々は慌てず越冬する準備を怠らなかったので 雪を眺めてじぃと過ごしていました」

今なら会社は?学校は? と驚くでしょう。でも昔は 会社に勤めてる人は田舎だけにいなかった(笑) 

街(集散地など)の商店は大雪だと開店休業状態でそこらの掃除や整理整頓で過ごしていたそうです。

学校は もちろん休校、明治以前は学校は無かったのでいつもと同じ子供たちは遊んで暮らす、エエですなぁ(笑)

大人は、農業も出来ず 藁で縄を撚至り(縄を作りました)莚(むしろ)やっぱり藁を使ったカーペットみたいなモノや草鞋など 

燃料も藁、何でも藁で用を足していました。

冬は雪がたんと降って積もりました。現代より気温が低かったので十二月に大雪が降ると そのまま根雪になりました。

もちろん集落の道は皆が雪解けをして空けていましたが田んぼは一面真っ白の銀世界。田んぼで作業も出来ず、仕方なく縄を作ったりしますが 

どうしても手が空きます 小屋の作業は退屈だったようです。そこで気の合った知人が ふらりとのぞいて何人かで 無駄話の世間話。

お茶ばかりでは寒くてやってられんと茶碗酒をチビチビとヤりながら あれこれご近所の噂話で時間をつぶしていました。

女房方も同じようで、夕飯のおかずを支度しながら やっぱり気が合う母友が集まって こっちはお茶に甘酒、手製の煎餅をバリバリ。

外は寒いし ウチがエエよ。外に出てるのは子どもばかりかな(笑)

ひと冬がこんな調子、働きもせずによくこんなことで生活できたなぁ と思いますが、世の中はゆっくり のんびりしていました。

テレビもないしラジオもない、スマホどころか電話などの通信機器もありません。

自給自足の生活は一日三食は必ず、ごはん、どれだけ飽きてもごはん‥パンもカップ麺もありません。

米オンリーと言っても米百パーセントじゃぁなくて麦が混じってましたね。米と麦の価格は断然米が上、

しかも同じ作付面積当たりの生産量も多いので絶対お米を作るでしょう。麦は水はそんなに要らないので荒れたところに栽培

していました。麦すら生らないところに蕎麦を植えているのは山間部の荒れ地でした。

現代は飽食時代ですから ごはんみたいなカロリーの高いものは食べたらアカンとドクターストップになった人いませんか(笑)

麦はコメよりもカロリーが低いのかなぁ…今では麦とろろが結構な食べものになりました。

副食は、野菜を煮炊きしたおかず、たまにニシンやイワシの煮付けがあったりしました。補助食品には漬物(保存食)はド~ンとあったそうです。

夜になると明治以降は電燈が出てきました。それ以前はロウソクは高いので菜種油を採ったものをローソクの芯に浸して

灯りの代わりに使っていました。 灯り といっても今のような明るさではありません、家族の顔が微かに見える程度ですから

何か 動いたり音がしたりすると なんだろう…と怖かったそうで 妖怪や化け物を見た なんて話はどこにでもありました。

まぁ怖いのも 慣れたら闇の空間や全くの大自然には風情がある、とものは考えようでしょうか。 

NHKのドラマは平安時代が舞台になりますが、登場人物は 藤原道長を始めみんな宮廷の貴族や皇族ですから 

もうちょっとマシな生活だったかも知れませんね。

ひとつ貴重な情報です^^ 藤原道長は最高の関白の位に就いて怖いものなし。

美食家の彼の好物は キジの刺身でした。

彼ら貴族や皇族の皆さんは百姓さんとは違う意味で毎日が手持無沙汰でした。

歌会といってもカラオケじゃぁありません。五・七・五・七・七の和歌の詠み比べや蹴鞠、サッカーのボール回しかな、

囲碁や双六はあったみたい、気候の良い頃には遠足に行ったり何かあったら宴会をしていたそうですが、今ほど食材がふんだんに

あったわけではなくて川魚や海産物の干物 春には春の七草、どぶろくをチビチビやりながら道長は好物のキジの刺身を食していました。

 キジって自然の鳥ですから 言われてから獲っていたのかな?と思ったら宴会に備えて猟師が飼っていたそうです。生活の知恵ですね(笑)

 現代は忙しすぎます。どうか雪を眺め自然の豊かさを満喫しようではありませんか。

 

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大寒でした。。

2024年01月21日 09時40分51秒 | 笑い

おはようございます。

毎日 寒くなったり穏やかな日になったりですね。

穏やかな と云う感じは 私が思うに気温が十度を越えたくらいでしょうか。

今年は、暖冬になります…と昨年に長期予報が出されました。

 そして注釈みたいに 暖かい冬になりそうですが、低気圧や寒気の動向によって寒くなる

こともあります。その時は天気予報で確認をして防寒対策に努めて下さい。

と まぁ、痒いところに手が届くような親切なご忠告(笑)

又、暖冬だと聞いたけどエラく寒いじゃぁないか、雪も降ったぞ、とお叱りを蒙らない

逃げ場もちゃんとこしらえている、さすがエリート役人らしいと思いました。

そして 年明けのこの頃は正に暖冬と冷冬の繰り返し。ズーと寒いままも困りますが、

このような波があるのも 気象庁が 体調管理に気をつけて下さい、と注意喚起をして下さる

通り風邪なんか引かないようにしなければなりませんね。

 昨日は 大寒 でした。二十四節気の中で 一番寒い とした日ですね。

そして 次は二月四日の立春。

一応春とは出ていますが時節は冬真只中ですね。

例えば 前の日の二月三日は節分です。この頃によく雪が降ったりするので 

節分寒波と呼んだりしますが、何もなく穏やかな小春日和の年もあるので 

この節分寒波も忘れがちになっています。 

 

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世の中の役に立ちたい・・

2024年01月15日 17時35分00秒 | 笑い

   おはようございます。

昨日 献血に行ってきました。 

献血・・・みなさん なにか 連想することってありますか^^

私は特にありませんが この歳になって何か、せめて世の中の役に立てることがありますか?

と自問したところが 特に何も出てきませんでした。

これは イカンぞ、と思いましたが よく考えると世の中の役に立つってなんだろ・・

と考えると 余計に出てきません。

 もしも こうすればいい、とわかったらそれを実行すればたちどころに私の高い志は癒されるのですね。

ですが、その肝心な 何をすれば・・から ちっとも進まず 一旦休憩をして 又熟考すれども同じこと。

あほぅの考え休むに至り の如し遅々として思考が停滞してる内に 私の関心は違うところに移ってしまいました。

 私は元々根気の要る事が苦手な性質(たち)でして、最初 何かの切欠(きっかけ)で思いついたことは

すぐさま実行に移さないと気が済まない即断即決型なのです。

 ですが取り組んだそのあとに 難し過ぎて手に負えなくなったり何かの拍子で面白くなくなると ポイ^^

熱しやすく冷めやすい の典型ですね。昨年も レイカデア大学という 要はシルバー世代の仲間を作ろう大学

(大学とは名ばかり)に入ったのですが初日に講師の人といざこざになってたった一日で辞めてしまいました。

だいぶ引き留められたのですが、説得するのがトラブルの原因の講師だったので 思い直すはずないでしょう。

そんな訳で半年分の授業料2万五千円はパァ^^

変にこだわってしまいワシはあほだなぁと思いながら これが自分自身なんだ。と思い聞かせたり慰めたり 呆れたり、

シマッタなぁと舌打ちをしても後の祭り、済んだことは仕方ない、と今では遠い過去と霧の彼方に消えつつあります。

 話を戻しますが、献血、これは日本赤十字さんが窓口になって行われているボランティア活動でしょうか。

 手術で輸血が必要な患者さんに血を提供する = 喜ばれる ⇒ 世の中の役に立つ。

ほとんど自己満足の世界かも知れませんが『世の中にあなたの献血を待ってる方が大勢いらっしゃいます』  

そんな広告を見て黙っていたのでは おとこ じゃぁないぞ! 私は勇気を振り絞って献血車に乗り込みました。

・・とまぁ これは私の三十代のお話し^^献血って、やるは簡単、あまり痛くない、しかも 景品をいっぱいもらえるし、

ありがとうございました。と感謝と丁寧なお礼も頂いて ホント 心豊かな気分になりますね。

 ところが 難点がひとつあります。それは、献血をお願いします、という宣伝が薄いのか 次はいつなのか

よくわからないことです。 あれれ、と思ったら先週終わっていた、なんてこともありました。

でもわざわざ血液センターに行くほど私は暇じゃぁありません。イエイエ^^時間はあるんだけど面倒くさいのが実態。

こんな物臭さ野郎の為に是非 今度いついつに来ます、よろしくね! とハガキでも送って下さったら

私の献血履歴もかなり重ねていたでしょう。

 先ほど話しました通り 冷めやすい私は、何回か空振っている内に、『献血』が頭の中から霧の彼方に消え去っていました。

それから数十年・・還暦を越えた私は 冒頭の世の中の役に立てることはないかな?と再び思ったのです。

 そしてアレコレ考えてみましたが ありません。ない筈はない筈だ、と半場自棄になってみましたが 出てきません。

例えば、社会貢献として 災害地への寄付金やボランティアでの救援活動の奉仕作業。これは直ぐに思いつきました。

新聞やテレビなどでボランティアの奉仕作業はよく目にします。しかし それを見て よぅし! とならないところが

私の 不徳の致すところでございます^^。

 私は 当時仕事を抱えていて時間が取れない所為もありましたが、どうも直接人に介助を施すことをした経験がありません。

優しい言葉ほど苦手で照れくさいものはありません、万事控えめな私ですから、出来たら間接的なところで世の中の役に立てたら

 と考えていました。 ♪じゃぁ、あんた、そこまで言うのなら一千万円くらい寄付したらどうなの。

 これは実に的を得た逃げも隠れもしない男同士の直球勝負だと思いますね^^私も同感、感無量です。

・・でありますが、世間にはそれ相当の相対比率というものが存在しています。 

仮に私が一千万円を寄付したとしましょう。そして某プロ野球の球団から チャリティーイベントを行いまして

募金、寄付を募りましたところ締めて八百万円だったので、二百万円ほど選手会から足してキリの良い一千万円にして寄付をしました。

これがニュースとして新聞に載りました。 あの有名なⒼという球団です。

片や名もない一般庶民の年金暮らしのおじいちゃんが ポンと一千万円。これじゃぁ 世間様が黙っていないでしょう^^

折角いいことをしたはずのⒼは世間から非難轟轟(ごうごう) お前ら何千万何億円も給料もらってるのにせこく庶民から寄付金を集めて

足らない分二百万円を足して一千万円を贈った、だって? おいおい、チャリティーイベントの中にお前らみたいに何千万円も貰ってる

人なんかいやしないぜ。三千万もする新型ベンツを買う(Ⓖのエースかな)金が有ったら二千万円のクルマにして一千万円を寄付しろよな!

こんな野次が起こるのかも・・ 私が良きと思って寄付した一千万円の所為なのでした。ああ無常・・

・・とまぁ 後悔は後に立たずですね。蛇足ながら 後悔の字を紐解くと 後で悔(く)いる と読みますから正に字の如し。

そんなわけで Ⓖの皆さん、球団の関係者の皆さん方、私が出しゃ張ったお陰で皆さんの美徳を無茶苦茶にしてしまいそうです。

ですから 私は寄付 ということにこだわらず 何とかボランティアを通じて世の中の役に立ちたいと切に願った揚句 ふっと

思い出したのが献血、 そうだ、そうだ、これがあったんだ!私の目のまえは明るく啓(ひら)かれました。

 

 

  

 

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蘭学者の新年会

2024年01月01日 11時24分39秒 | 笑い

  明けましておめでとうございます。

一年の過ぎるのが早いように思える年代になってきました。

若い頃と時の経つ速度が速くなっているわけでもないのですがね。

さて、年始早々の話題としまして 歳、年であります。

以前も話しましたが、暦は太陽暦、新暦とも言うそうですが、それはもう昔の話。

今は暦 という言葉すら聞かなくなりました。暦…カレンダーが今なら当たり前の通り名ですが

今から百数十年前にはカレンダー、暦は太陰暦を使っていました。

太陰暦とは お月さんが地球を回る軌道を数えて暦を作っていました。

なぜなのか私は解りませんが、一年を12か月365日とするのは古今東西の決まりだったようですが、

この一年、ひと月、一日を数える基準は月の満ち欠けで測っていました。もっと昔は山から下ってくる

湧き水の量を測って それで時を刻んでいました。

それを先進国の中国から 水の流れる量で時間を測るなんて安定しないし、第一渇水したらどうするん? 

後進国だった日本は笑われて それじゃあぁと導入したのが 月の軌道を使った暦。

お月さんは 新月(何も見えない)から満月までがおよそ二十数日の周期です。

それはそれで滝川よりも規則正しいので あとは一年十二か月、一か月およそ三十日に合せる(微調整)をすることで

一年という日月を正確に表せました。   

ただし お月さんの周期は二十数日ですから 毎月30日にするために

閏月を設定しました。 今の新暦はお月さんと違って太陽の周期を暦にしているので誤差、調整は四年に一度の二月に閏年として

28日を29日と修正することで補っています。

ところが太陰暦、旧暦とも言いましたお月さんの軌道で一年を表わすと 毎月修正するか それって面倒だ、となって

十一月に調整をする閏月を入れるようになりました。 

まぁ十一月の後に閏月を入れてその次に十二月がありました。

何だかややこしいし、わかりにくいのではじめから太陽の周期にしたら…と思いますが何せ日本には太陽の周期を研究する

学者さんやそもそも天文学自体がありませんでした。

兎に角 そんなわけで 今日、一月一日はお正月ですが、珍しい記事がありました。

1795年(寛永七年) 江戸時代ですね。

閏十一月十一日は新暦の1796年の正月でした。それを西洋の科学を学んでいた

 当時の学者、大槻玄沢以下二十数名が、これからの世の中は欧米と同じ太陽暦ではなくては

進んだ文化など何も取り入れられない、と危機感を募らせわざわざ江戸の芝蘭堂に集まって西洋料理で

元旦の祝賀を催しました。  明治政府が太陽暦を採用する1873年よりも78年も早い事でした。

たぶん、世の中は十一月なのに年賀を祝ってる宴会を見て こいつら気でも触れたのか、と冷やかされたでしょうね。

こんな新進気鋭で気骨のある考え方の人がたくさんいたから明治維新が推進されたんでしょう。

 今年もよろしくお願いします。

 

 

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