寝転がって気ままに想う事

 世の中ってこんなもんです・・
面白可笑しくお喋りをしましょうか ^^

選ばれし者(11)

2010年09月30日 09時20分35秒 | 日記
いつも使っている銀座のお店で永田専務はほろ酔い加減でおっしゃいました。
『藤岡、おまえ幾つになる?』
『私は今年五十三です』
『そうか!やんちゃ坊主がええおっちゃんになったなぁ…』そう冷やかすと声を出して笑いました。
ちょっとむっとした藤岡工場長は
『専務はお幾つになられるんですか』つい永い付き合いから藤岡工場長も負けずに言い返したのでした。
『ハハハ俺は四だよ』
そうです。永田専務と藤岡工場長は一回り違ったのでした。
『あのなぁ藤岡よ俺の話をよく聞けよ』
永田専務は水割りをグビリと飲むと側の女の子に席を外す様合図しました。
『俺は来年役停だよ』
*会社には役停(役職停年)があります。一度は五十七才で本部長以下はこの年令が来たら肩書きはなくなります。もう一度は六十三才です。これは役員の停年ですが平取締役が対象です。常務や専務は六十五才が停年です。

『えっ専務にも停年があるんですか』藤岡工場長には永田専務は永遠の太陽みたいに思っていたのでした。 『ははは♪お前は気楽でいいなぁ』
さすがの藤岡工場長も永田専務に掛かると子供あつかいでした。
『専務が停年って…』いきなり停年の話で面食らいました。永田専務に停年が迫っている… 『専務が会社にいらっしゃらないなんて…』
『俺は辞めないよ相談役で残るんだよ』
永田専務は明るい声で宣言しました。 『あっ!そうか会社に残られるのですよね』
藤岡工場長は胸を撫で下ろしました。永田派と呼べばいいのでしょうか。永田専務から見出だされたのは藤岡工場長だけではありません。各部署、各役職に相当な人が抜擢されていました。
その中でも藤岡工場長は異色中の異色でした。あとの人材はさすがに一流大学を出ていましたから、永田専務が抜擢するまでもなく出世するだけの力量を持ち合わせていました。 無論永田専務も一流大学を卒業していましたが、永田専務はちょいと趣味が変わっていたのでした。
大卒者にはないエネルギッシュな人材を抜粋してエリート集団に活を入れたのでした。
この狙いは成功したかどうか判断は難しいのですが、 永田専務が馴れ合いになっている現状を活性化しようとした手段に藤岡工場長は使われたのでした。
一時は高校卒の部長、工場長として話題にもなり地方工場の星!と呼ばれた時がありました。その点では永田専務の狙いは当たりました。
当時話題になったハイセイコ―と言う地方競馬出身の馬が並み居るサラブレッド(中央)を押さえて重賞レースを征した時期と重なっていました。
…これからどうなるのかな…
藤岡工場長は水割りのグラスに映る自分の顔に問い掛けていました。
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選ばれし者(十)

2010年09月29日 11時40分11秒 | 日記
新潟では仏の藤岡と呼ばれて二年たちました。
工場の業績は相変わらず順調に生産していますし今年辺りはそろそろ移動かな、藤岡工場長には予感がありました。
そもそも役員となる人は各部署を二三年ごとに渡り歩くようになります。これは会社が意図的に行なっている訳でして所謂(いわゆる)出世コースに乗った事を意味します。このパターンは財務以外は殆ど共通していますから社内ではこの人に対して取り扱いが別格扱いになってきます。
『俺もそろそろ…』と考えたのも無理のない話でした。
営業から主力工場の工場長…
あとは何かの本部長を二つくらいこなせば役員でしょう。
現在五三才の年齢からして順調な出世でした…
そして秋になりました。
ここへ来て二年半、藤岡工場長は先月本社で永田専務と会食したことを思い出していました。
以前の営業だと毎週のように飲み歩いた専務とも地方にいるとそうはいきませんでした。
銀座のいつものお店で永田専務はおっしゃいました…
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選ばれし者(九)

2010年09月28日 09時08分11秒 | 日記
藤岡部長の絶好調は続きました。昨日お話ししました後藤係長が人事部に抗議しましたが、人事部も実績が群を抜いた藤岡部長では強くは言えません。おまけにバックにはあの永田専務がついています。【虎の威を借りたキツネ】正に藤岡部長はそんな感じでした。そして営業で名を上げた藤岡さんは新潟工場長として永田専務からご指名を受けました。 たぶんこの辺りが絶絶頂期でした。
この時代は永田派であらずんば人であらず!それくらい一世を風靡していました。藤岡部長はその後新潟工場長として管理職に治まりました。これは次のステップに繋がる人事でした。つまりうちの会社(製造業)ですが営業もさる事ながらやはり工場の管理職が出世の道です。現場も知らずに経営が出来るか…これがこの会社の暗黙のルールでした。この新潟工場は最新の設備に受注が好調でした。その結果事業部全体の売り上げの二十%を上げていました。
…ここをうまく乗り継いでいけば、取締役つまり役員の席までいけるのです。
長い社歴の中で高校卒の役員誕生も目前となりました。
一方プレッシャーのキツい営業を離れて藤岡工場長はのびのびしてきました。元々工場育ちの藤岡工場長は現場の空気が性に合っていたのでしょうか。
周りのスタッフも本社の営業部長時代の噂を聞いていたので最初は戦々恐々としていました。ところが本来の人懐っこさが受けて直ぐに工場に打ち解けてしまいました。
…営業時代は大卒者から軽んじられないように背伸びしていたのでしょうか。言葉の端々にも行動にもピリピリしたものがありました。
『大卒に舐められてたまるか』
これが藤岡部長の口癖でした。
分からない専門用語は密かに勉強をしたといいますから…
大卒者もそんな藤岡部長を冷ややかな視線で見ていたのでそれに気がついた藤岡部長は開き直ったような振る舞いにでたのでした。
変わって新潟工場…
今も仲良く付き合っている社員や業者もほとんどがこの新潟工場時代の人達でしたから、本当に過ごしやすかったのでしょう(笑)

*新潟と言えば米所ですね(笑)お酒も美味い地酒があるし日本海からは海の幸また山の幸と美味しい物に恵まれた地域です。
衣食を足りて礼節を知る…
この新潟で藤岡工場長は人間的にも大きく成長しました。
…これは恐らく永田専務の配慮ではなかったでしょうか。
工場の運営を一通りマスターした藤岡工場長はそのあとは技術系の部長などにお任せしていました。
じょあ本人は? そうです。事業部の三割の売り上げを製造していましたから、従業員も二千人近くおりました。その関係で事故防止や福利に力を注いだのでした。
『この工場で働く者は皆家族なんだ』
豪快に見える藤岡工場長は実にきめ細かく社員の面倒を見ていきました。無論下請け(協力工場)にも手厚く対処したのは言うまでもありませんでした。
こうして鬼の藤岡は仏の藤岡と変わっていきました…
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選ばれし者(八)

2010年09月27日 12時39分51秒 | 日記
藤岡部長は大卒者に対して徹底的に意地悪をしました。
英語の得意な加藤君は…
『部長、pureboyetc…です』
『馬鹿野郎!ここは日本だ。日本語で喋れ!』と怒鳴る始末です。
酒の飲めない伊藤君には無理強いして潰してしまいました。
このように藤岡部長の大卒コンプレックスは相当なものでした。
反面女子社員には甘くて出張に出かけた時には必ずお土産がありましたから(笑)
女子社員は大体が短大卒ですが、まぁ女には大甘なんですね…
そんな極端な態度で毎日を過ごしていた藤岡部長ですが、困った事に業績はうなぎ登りでした。
大卒者も怒鳴られ慣れた(笑)と言いますか、『またゴリラがなんかほざいてるぜ…』なんて陰口で鬱憤をはらしていました。 今から考えると好景気が全てだったのですね。
ただ問題が無かった訳ではありません。
ボーナス時期になると査定がありました。当時既に査定表がありまして成績や勤務態度その他十数科目の項目がありました。藤岡部長は数値で動かせない部分を除いて自己査定部分でかなりの身びいきをだしていました。
つまり好き嫌いで評価ポイントをだしていたのです。『おまえなんか俺の言う事を聞かんから…』『お前この前俺の悪口言っただろ…』
『俺はW大学は特に嫌いだ…』
こんな調子で嫌いな社員はE査定をつけていました。 *E査定…五段階方式で上からA~Eまでありました。因みにEは最低です(笑)
ある時その露骨な身びいき査定にクレームをつけた後藤係長、数か月後に閉鎖寸前の部門に移動となりました(苦笑)
こうした藤岡部長の力ずくの支配は数年間続いたのです。
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選ばれし者(七)

2010年09月25日 11時58分38秒 | 日記
藤岡課長時代は正に黄金の日々でした。それが数年続きました。

そして円熟の五十代になると親分の永田取締役が専務に昇格しました。 …以前ご紹介しましたようにこの会社は事業部制を採用しています。つまり各事業部の合算が会社の売り上げとなります。
各事業本部は独立採算となっていますから、事業本部長の専務は実質の社長になります。
…念願の事業本部長となった永田専務は自分の色の濃い人材を重視しました。 当然ながら一の子分の藤岡課長は文句無く営業部長に昇進です。 今度は試験も何もなくストレートでしたね(笑)審議会も以前のトラブルを事前に聞いたらしくて面接のみの採用でした。
そして業界は相変わらず好調でした。
部長に昇格した藤岡さんは仕事に没頭していきました。…この辺りはさすが永田専務のお眼鏡に叶った人でしたね。いくら天狗になっていても仕事はきっちりとやる人です。(まあ当然ですが…)
藤岡部長は学歴のないぶん、そりゃあ努力したと思います。
世の中は大学卒業者が一流企業を占めてきましたから以前のような高校卒は見られなくなりました。
営業も技術も得意先や業者までも大卒に様変わりして行きました。
そして藤岡部長の周りのホワイトカラ―は皆大卒になっていました。
藤岡部長の扱う電子部品は日進月歩の業界です。技術系の用語は全て英語でありますし、その他専門用語の多さに藤岡部長は音を上げていました。
会議中に飛び交う専門用語がちんぷんかんぷんの時もです。
そんな時に限って意見を求められて閉口したこともありました。
部長と言えば経営者会議にも末席を占める事もありました。重責と理解不能の用語が重なりストレスがたまり出したのは半年ほどしてからでした。
たいしたことないミスに怒鳴ることがよくありました。
『おい、はやみず』『?…』
『はやみず!ちょっと来い!』
『はい!部長僕速水(はやみ)ですけど…』
『何でもいい』
『お前この計算間違ってるぞ』
『すみません』
『もうなんて事だよこんな簡単な計算もできないなんて…』『…』
『大学の四年は無駄だったんじゃあないか』
万事こんな調子です。
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