世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

サンカンペーン陶磁の蛍光X線分析・(2)

2017-02-22 08:56:45 | 北タイ陶磁
<続き>

蛍光X線分析装置の名称は「エネルギー分散型・微小部蛍光X線分析装置・AXS Bruker製・M4 TORONADO型」である。
以下、スペクトルと生データを掲示する。これらだけでは類似性などの判断は難しいであろうが、取敢えずそれを羅列しておく。

<資料1:青磁鉄絵麒麟文見込み陶片>
<資料1-A:鉄絵部分>
分析にかけると、焦点が合った時点で分析装置に画像が表示される。下の写真がそれであるが、これでは陶片のどこの部分か判然としない。

中央四角枠内のクロスポイントが焦点を合わせたところである。ところが写真のように鉄絵の何処の部分か分かりつらい。従ってデータを紹介するにあたっては、以下のような写真を掲示する。測定点はマジック○枠の中央とご理解願いたい。
以下、スペクトル・グラフ、生データの順に紹介する。


以上が、資料1の鉄絵部分の生データである。一般的にFe(鉄)が10%前後になると、褐色から黒い色に近づくと云われている。生データをみると鉄は7.87wt%と4.76at%である。重量百分率を用いるのか、原子組成百分率を用いるのか・・・素人にはよくわからないが、鉄絵顔料の一般的な数値であろうと判断している。K、Si、Caは釉薬のガラス質の主成分である。成るほどそのような値を示している。
<資料1-B:素地(胎土)部分>
測定点は、何処でもよいと考えたので、分析官氏にはとくに指示していない。その測定点の画像は以下の写真であるが、どーでも良いと云えばどーでも良いので資料2以降は掲示を省略する。




<資料2:青磁鉄絵双魚文盤>
<資料2-A:鉄絵部分>
写真では左の魚文の尾鰭先端の鉄絵部分にスポットをあてたが、分析装置の焦点合わせミスで測定精度が90%程度と低く、スペクトルは得られたが、生データは提供してもらえなかった。よってスペクトルのみ提示する。

<資料2-B:素地部分>



<資料3:青磁鉄絵見返麒麟文盤>
<資料3-A:鉄絵部分>
鉄絵部分で分析した個所は、マジックの○枠で麒麟の顎付近。


<資料3-B:素地部分>

資料4以降は次回紹介したい。




                                    <続く>

サンカンペーン陶磁の蛍光X線分析・(1)

2017-02-21 08:00:38 | 北タイ陶磁
ことの始まりは、ブログ『の~んびりタイランド2』の2014年11月24日の記事『東南アジア陶磁博物館の再開記念式典』からである。そこには最近のサンカンペーンの後絵盤が紹介されていた。当該ブロガーが保有する昆虫文盤が該当しそうである。
一般的な後絵は低火度化学顔料で、その発色にはムラがなく均一な色彩で黒味がかり、洩れなく釉上彩(上絵)である。従って絵付けの上には、釉薬の光沢はない・・・と云うことで、昆虫文の盤はそれとは異なり釉下彩でいわゆる”ダミ”の濃淡もあり、本歌の可能性は70-80%程度であろうと紹介してきた。しかし、本歌と同じように高火度顔料で、”ダミ”を見せる後絵が存在することを完全否定することは、できないと考えられる。そこで科学的年代測定が必要となる。
年代測定の仕方である。C-14年代測定法が比較的簡便であるが、陶磁器に炭素を含有しないので、それを用いることはできない。そこで熱ルミネッセンス法を用いることになる。
幸い松江に分析業者が存在するので尋ねると、陶磁器の履歴が分からないため、「年間線量」を正確に求めることはできない。そのため16世紀か、ほぼ現代かの区別は可能であるが、正確な年代を求めることはできない、とのことであった。また、分析試料を採取するために、10×10×5mm程度の体積を削り取る必要がある、とのことである。しかも分析料金は25万円+消費税であり、料金もさることながら破壊検査ではどうしようもなく、諦めた経緯がある。
そこで考え付いたのが、基準(間違いなく本歌である)陶磁をさだめ、確認したい陶磁との成分(元素)組成比較である。その分析を鉄絵部分と素地(胎土)部分で行い、データを基準陶磁と比較しようとするものである。しかし、この方法も変量が多く、サンカンペーンの窯場の数も多く、かつ焼成期間が長く、(つまり膨大な資料数であることから・・・)今回分析する5点では、期待するようなデータが得られるとは限らない。
とは云え、他に適当な方法も見当たらないので蛍光X線分析を行うことにした。検査機関は島根県産業技術センターである。
分析者は分析官のY氏である。分析対象物は下写真の5点とした。基準としたのは写真中央の麒麟文の見込み陶片である。
麒麟文の筆致は技巧的でプロの仕業と思われる。写真を見てもわかるように焼成中に気泡が膨らみ、見込みと高台にコブができている。このような盤はサンカンペーンの一つの特徴で10-20枚に1枚程度の確率で目にすることができる。

数カ所にコブを見ることができるが、上写真の右側に大きなコブがあるのを、御覧頂けると思われる。まさかこのような陶片に、後絵をして打ち捨てたとは考えられないことから、これを比較対象の基準とした。次回から各盤の分析結果を紹介する。



                                   <続く>

北タイ陶磁の源流考・#25

2017-02-20 09:34:20 | 北タイ陶磁
<続き>

前回#24ではタイを中心とした中世までの文化的背景を環濠集落と仏教遺跡の分布で見てきた。如何にもそれらの環濠や遺跡と窯址が重なりあっている。この背景というか土壌と窯の間には何がしかの因果関係があると考えざるを得ない。
先ず前回の宿題である、チェンライ県チェンセーン郡に、ワット・パサックなるシュリービジャヤ様式の仏塔が建っている。シュリービジャヤと云えば、スマトラやマレー半島先端のマレー系民族の美術様式である。
(写真出典:Google earth投稿Panoramioより転載)
写真はタイ国スラタニー県チャイヤーのシュリービジャヤ様式の仏塔である。チャイヤーの地はスマトラやマレー半島を根拠にしたシュリービジャヤ王国の版図にあった。
このシュリービジャヤ様式の仏塔がチェンセーンのワット・パサックで下の写真がそれである。
(写真出典:Google earth投稿Panoramioより転載)
先ずお断りしておく、当該ブロガーは仏塔の何がしかを語る知識は持ち合わせていない、従って誤解を多々含有するであろうと危惧するが、ど素人の論調を続けたい。
成るほど基壇と低い層に仏龕を有し、仏塔は方形で頭に円錐形の身捨を載せるのは同じように見える。
では何故北タイのチェンセーンにシュリービジャヤ様式の仏塔であろうか?・・・これに関し正面から回答する何がしかの知識を持たない。
しかし、繋がる話は存在する。シュリービジャヤ王国の版図であったタイ領から、タイのビーナスと呼ばれる菩薩像が出土したが、これはインド・グプタ朝のサールナート派の影響、つまり大乗仏教の影響を受けていると云う。
(写真出典:バンコク国立博物館にて撮影)
同時期の9世紀モン族が製作する仏陀像は、左右の眉毛がつながり目、鼻、口等がモン人の特徴を表すようになる。これはいままで見て来たように混住するモン族がシュリービジャヤ様式の影響を受けたと識者は考えている。
(出典:バンコク国立博物館・・7-10世紀 如来立像:ブリラム県出土)
同時期であるドヴァラバティー王国の時代、コラート高原でのモン族による仏像やヒンズー像は同時代のインドの製作様式を継承しながら、顔や体形は上述のように特徴的である。
(写真出典:バンコク国博にて撮影・・ブラフマー神・クメール様式・10-11世紀)
上のブラフマー神は、ほぼ同時代のクメール様式の像である。左右の眉が繋がっているのが即目につくと思われる。
以下、チェンセーン様式なる仏像である。シュリービジャヤ人であろうかモン族であろうか?多くの識者はモン族としているが・・・。チェンセーン様式なる青銅仏が存在する。
(写真出典:チェンマイ国博ガイドブック チェンセーン様式仏陀座像)
チェンセーンでは多くの仏像が鋳造された。その工人集団はモン族であったと、チェンマイ国博ガイドブックは記している。
噺がくどかったが、シュリービジャヤとチェンセーンが何とか繋がった。やはりモン族の仕業と思われる。

以下、余談である。
サンカンペーンにワット・チェンセーンなる無住職の寺院が存在する。誰が云いだしたのか? そこの仏塔がミャンマーのピュー様式だと云う。それは以下の仏塔である。
(写真出典:現地にて撮影)
当初ピュー様式とばかり信じていた。ピュー人の末裔が建立したであろうとも推測した。ピューと云えば中国文献にも登場し緑の瓦や煉瓦が存在したと記されている。その何がしかがサンカンペーンの操業に絡んだと、思ったりもしたが何かがおかしい。そこでGoogle Earthで調べると全く異なる。
(写真出典:Google earth投稿Panoramioより転載・・ピュー様式仏塔)
ワット・チェンセーンの仏塔をピュー様式とは呼べないであろう。ところがワット・チェンセーンには碑文が存在する。過去当該ブログでも取り上げたが再掲する。
碑文には”ムーンダープルアンという名の大臣が、「プーラオの人々」と共にワット・チェーンセーンを建立した”と記されている。
これをもってKriensak Chaidarung氏は「プーラオの人々」は、パヤオのウィアン・ブア窯群から移ってきたパヤオの人々の集団である・・・としている。氏は「プーラオ」を「パヤオ」とした。その根拠はチェンマイの歴史書にい「プーヤーオ」または「プーヤオ」とパヤオを呼んでいたと記載されていると云う。これは氏の推測以外のなにものでもないと考えるが、パヤオ窯とサンカンペーン窯との関連を伺わせる噺ではある。
以上、後の噺は置いておくとして、文化的何がしかの背景をみてきた。モン族の関りを感じずには居られない。北タイ諸窯の開窯時期は、多くがタイ族の南下・西南下後のことであるが、それ以前から幾つかの窯は煙を上げていたであろうと思われる。

いよいよ謎解きと云うか、北タイ陶磁の源流についての考察であるが、先人が既に『Ceramic Kiln Lineages in Mainland Southeast Asia』と題し、レポートを発行している。彼の著名なDr.Don Heinのレポートである。はっきり云って冗長すぎるが、彼の長年の調査探求の集大成と思われる。そのレポートの概要を当該シリーズの一時中断後紹介する。




                                 <一時中断>


北タイ陶磁の源流考・#24

2017-02-18 08:05:37 | 北タイ陶磁
<続き>

前回までインドシナ各地の窯構造を概観してきた。北タイ陶磁の源流を考察する前に、インドシナ特にタイを中心にカンボジアとミャンマーの文化的背景を概観しておく。

<環濠集落分布>
先に「日本と泰国の環濠集落」とのテーマで、タイの先史時代からドヴァラバティー時代や北タイのハリプンチャイ朝までの環濠集落を紹介してきた。先史時代のそれは先住民であったモン・クメール系民族の環濠であり、ドヴァラバティーやハリプンチャイのそれは、モン族の環濠である。以下、それらの環濠(あくまでも一部の環濠であるが)をクメール(アンコール帝国)の最大版図を薄い桃色で、ハンタワディー・ペグー朝、ドヴァラヴァティー王国、ハリプンチャイ朝のモン族国家の版図を薄い水色で示した中にプロットした。
カンボジアに環濠集落が存在するかどうか不勉強と怠慢で調べていない。ミャンマーの環濠集落については図上にプロットしていないが存在する。ヤンゴンとペグーの中間に存在するラグンビーはモン族の環濠の一例である。
モンとクメールの勢力下にあったタイ中部に環濠集落が分布するほか、タイ北部のモン族勢力下にも環濠集落が分布する。北タイと中部タイに窯址が点在するが、それはモン族勢力下の地であったことに留意したい。

<仏教遺跡分布>
●タイ東北部や中部はクメール様式の仏塔(プラーン:トウモロコシのような仏塔)が立ち並ぶ、クメールの勢力下であり、当然と云えば当然である。
●ところがタイ北部(後世のランナー領域)は、モン族のハリプンチャイ様式の仏塔である。
●そのハリプンチャイ領域にあって、チェーンセーンにワット・パサックなるシュリービジャヤ様式の仏塔が建っている。シュリービジャヤと云えば、スマトラやマレー半島先端のマレー系民族の美術様式である。それが距離的に隔たるチェーンセーンに何故・・・ということになる。・・・この謎解きは次回。
上の版図に各遺跡の位置と共に、主要窯址群の位置もプロットした。如何にも重なる・・・ことをご理解頂けたと考える。一部の無釉陶やクメール(ブリラム)陶を除き、北タイや中部タイの開窯はタイ族西南下・南下後とおもわれるが、彼の地の先住民の何がしらの土壌抜きに考えられない重複である。




                                    <続く>

北タイ陶磁の源流考・#23<インドシナ各地の窯構造・#13>

2017-02-17 09:46:22 | 北タイ陶磁
<続き>

7.下ビルマの窯構造
下ビルマの窯構造を概観するにあたり、いずれも津田武徳氏の著述や論文から引用した。それらの論文等は以下による。ひとつは上智アジア学第23号(2005年)所収「ミャンマー施釉陶」、ふたつめは東南アジア古陶磁展(六)・富山市佐藤記念美術館所収「ラオス、ミャンマー陶磁概説」、三つめは東南アジアの古陶磁(9)・富山市佐藤記念美術館所収「ミャンマー陶磁とその周辺について」より引用している。

7-1.ラグンビー窯
ラグンビーは13世紀後半に成ったモン族国家(ハンタワディー・ペグー朝)の都・ペグーに従属する集落で、歴史上出土遺物の分析から12世紀末まで遡りうるという。窯の成立は集落成立後としても、いつまで遡りうるかは定かでないという。発掘されたラグンビー古窯址は、15-16世紀であろうと云われている。
(写真出典:東南アジア古陶磁展(六))

(写真出典:ミャンマー国立博物館局)


●平面プラン
 地上式楕円形(煉瓦構築)
●窯諸元
 最大長:10.2m
 最大内幅:4.4m
●開窯時期
 15-16世紀
●出土陶磁
 灰釉系青磁、無釉陶
●轆轤回転方向
 左回転
●特記事項
 時代がいつまで遡れるか判然としないようであるが、13世紀なにしは14世紀に
 は開窯していたであろうと推測される。ここでもモン族が陶業に関わっていた。

7-2.パヤジー窯
(写真出典:東南アジアの古陶磁(9))

●平面プラン
 地上式楕円形(煉瓦構築)
●窯諸元
 外寸全長:15.9m
  燃焼室長:4.6m
 外寸全幅:5.8m
 昇焔壁高:0.9m
 煙道最大内径:2.5m
●開窯時期
 16世紀中頃
●出土陶磁
 施釉陶磁、無釉陶磁
 碗、盤(直口縁、鍔平縁、鍔輪花、鍔稜花)、瓶、壺、動物貼花筒状器、動物肖形
●特記事項
 北タイ・パーンとの類似性が指摘されている。窯構造や棒状焼台を用いる点さらには
 瘤牛の肖形を焼成することに依る。但し轆轤はパヤジーが左回転に対しパーンは左右
 混在である。安易な結論は出せないが、時代背景は双方で似ている。

7-3.パガン

パガンには小規模の昇焔式窯が幾つか点在していると云われている。

今回でインドシナ各地の窯構造の概観を終了する。まだ上ビルマや中部タイの古窯址で紹介していないものもあるが、勝手ながらほぼ網羅したことにして、次回以降文化的土壌について検討したい。

                                 <続く>