世界の街角

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日本と泰国の環濠集落・#3

2017-02-03 08:31:57 | 古代と中世
<続き>

先ず前回の続きとして田和山遺跡について追記しておく。それは関和彦氏の著作「古代に行った男ありけり」に、以下のように著述されている。
”頂上の九つの柱穴遺構に関して、出雲大社の本殿に象徴される大社造建物の始原ではないかとされている。神々の聖地として崇められていた。環濠の中から礫石が三千個近く発見された。武器と考えられている。
山の頂きの建物は、神が鎮まる社殿であり、その聖地を三重の聖なる溝で囲み、田和山周辺の古代びとは、自分たちが奉斎する神を「神々の戦争」から守ろうとしたのである。この山頂の空間自体を磐座(いわくら)・神籬(ひもろぎ)・神木と同じように依代と考えたのではなかろうか。”
・・・とある。神々の戦いの礫石とは何であろうか?関和彦氏のよう想いが巡らない。

大阪・池上曽根遺跡である。南北1.5km、東西0.6kmで面積はせいぜい90ヘクタール未満で、前々回吉野ヶ里は40ヘクタールと記したが、もっと広いとのことである。総面積は約100ヘクタール程度であろうか。いずれにしても妻木晩田の約半分である。
畿内で著名な遺跡は唐古鍵遺跡であろう。現段階の調査で30ヘクタールの面積が確認されており、さらに広がる可能性もあるというが、それにしても100ヘクタール未満であろう。

畿内の弥生中期から後期頃の環濠集落をみてきた。畿内で巨大遺跡と云えば纏向遺跡がある。総面積は300ヘクタールに及ぶと云う。妻木晩田の約2倍であるが、時代はやや下り、弥生末期から古墳前期の遺跡であるという。ここでは東西配置の建物群の柱穴が発掘された。
その復元模型が神戸大学・黒田龍二准教授から発表されている。この東西配置はインド古来の配置である。日本では飛鳥以降、中国式の南北配置となる。漢委奴國王印を拝領したとか、魏志倭人伝には卑弥呼の朝献に対し、親魏倭王と為し金印紫綬を仮したとある。倭国側の使者は中国・都城に出向き、南北配置の都城と建物を見たのだが、倭国の遺跡・環濠は見てきたように円形や楕円形で、建物配置はやや時代が下った纏向でさえ東西配置である。
日本の環濠集落のルーツは長江中流域と南モンゴルであると云われており、朝鮮半島を南下してきたであろう。しかしこの定説(?)には、上述のように疑問が残る。ここで、同時代の泰国の環濠集落事例を紹介しておく。
写真はコラート高原のカラシン県ファーデート・ソンヤーン環濠集落で先史時代の遺跡という。高度4000mの衛星写真である。同じ尺度の日本の環濠集落と比較願いたい。いかにその面積が大きいか、理解頂けると思う。その遺跡の北部は墓地マウンドである。吉野ヶ里の北部分が墳丘墓であることと似ている。
果たして日本の環濠集落は、朝鮮半島経由であろうか?そしてなぜもたやすく環濠集落を放棄するのであろうか?倭国大乱が収まり、異民族の脅威が解消したからであろうか?・・・不思議が多い。




                                    <続く>