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日本と泰国の環濠遺跡・#2

2017-02-02 09:36:20 | 古代と中世
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山陰の松江市田和山遺跡を概観したい。総合研究大学院大学・藤原哲氏は、弥生前期の山陰は、空き地の環濠遺跡であると云う。その代表が田和山遺跡である。

丘陵尾根に掘られた弥生時代前期末~中期後半の三重の環濠が検出された。住居跡の痕跡はない。頂上部の9つの柱跡は柱間の寸法が区々で、建物跡ではなく柱だけの施設ともいわれるが、縄文以来の巨木施設とも思えず、やはり掘立柱建物跡で、首長の館や見張り台と思われる。
従って倭国大乱の時期の戦乱時は、辺りに散居する人々が砦としての遺跡に集まり防衛したのであろう。特に三重の環濠跡はその証と考えられる。
旧国名でいえば伯耆、出雲国に隣接する米子市と大山町にまたがる妻木晩田遺跡。弥生時代後期を中心に、中期終わり頃から古墳時代前期初頭にかけての遺跡である。総面積は吉野ヶ里の3倍にもなり、その十分の一しか発掘されていないが、それでも約900の居住跡と24基の墳丘墓が検出されている。
全て発掘されれば万余戸とは云わないが数千戸になるであろう。邪馬台国の時代北部九州や畿内とともに山陰に一大勢力が存在した。畿内の銅鐸、北部九州の銅矛、山陰の銅剣文化圏である。今後開発がすすめば、山陰(出雲、伯耆)でも妻木晩田と同様な大きな環濠集落が出現するであろう。
それにしても総面積170ヘクタールは、弥生時代・倭国の環濠集落規模としては大きい。これは何を物語るのか?




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