尼崎の事故の少し前に本書を購入し、事故が起こって少ししてから読み始めた。購入したきっかけは、写真を趣味の一つとしているため「映像が嘘をつく」ということに興味を持ったからで、読み始めたタイミングと言うのは、今まで読んでいたほかの本を読了したからというものであった。だがしかし、GW辺りから「本書の内容」と「現実に起こっている事」とが次第にシンクロし始めていることに気がついた。つまり「報道の在り方」について再考するための一つのきっかけになったのである。
本書内で著者の森達也氏は何度も『公正中立を求められるべき報道というのは、主観を完全に排除して中立な位置に視点を置くことがそもそも不可能なものなのである』ということを述べているのである。氏の言葉を本書から抜粋してみる。
『中立な位置を保つためには、両端から等分の距離を測定することが前提になる。でもならば、その両端の位置は誰が決めるのか?言い換えれば誰かが決めなければならない。(中略)両論併記なども同様だ。公正さを担保するためによく使われるこの手法だが、Aの対論がBであると決めるのは誰か?Cかもしれないし、Dかもしれないのだ』
高速道路で起きたトラックと軽自動車の追突事故のニュースで「現場のそばの路肩に置かれた花束」の映像を流すのと、「現場のそばを高速で走り行くトラック」の映像を流すのでは、事故に対する見方が明らかに異なってくるのである。
そして私は次のことに気付かされる。
【或る事実】が【報道】という一連の分業体制の中で、様々な主観(フィルター)によって切り刻まれた末にようやく【一つの客観的事実】として我々視聴者の元に届くのである。
それは・・・
撮影する者のソレであり、
映像を編集する者のソレであり、
原稿を作る者のソレであり、
全体を纏めるもののソレであり、
原稿を読み上げる者のソレであるのだ。
更に牛山純一氏の言葉として次のような言葉が引用されている。
『報道は客観的な事実を伝えるのではなく、事実を客観化することだ。観察者によって事実は百八十度回転する。(中略)記録する者の現実の解釈なのだ。そしてそこには人間が必ず介在する』
しかし本書に収録されている内容もまた著者の主観的考察によって切り取られた事実の断片にしか過ぎないということも知っておかなければいけないと私は思う。
『ドキュメンタリーは嘘をつく』
森達也著 草思社¥1,785(税込)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794213891/qid%3D1115379056/250-2631175-2688255#product-details
本書内で著者の森達也氏は何度も『公正中立を求められるべき報道というのは、主観を完全に排除して中立な位置に視点を置くことがそもそも不可能なものなのである』ということを述べているのである。氏の言葉を本書から抜粋してみる。
『中立な位置を保つためには、両端から等分の距離を測定することが前提になる。でもならば、その両端の位置は誰が決めるのか?言い換えれば誰かが決めなければならない。(中略)両論併記なども同様だ。公正さを担保するためによく使われるこの手法だが、Aの対論がBであると決めるのは誰か?Cかもしれないし、Dかもしれないのだ』
高速道路で起きたトラックと軽自動車の追突事故のニュースで「現場のそばの路肩に置かれた花束」の映像を流すのと、「現場のそばを高速で走り行くトラック」の映像を流すのでは、事故に対する見方が明らかに異なってくるのである。
そして私は次のことに気付かされる。
【或る事実】が【報道】という一連の分業体制の中で、様々な主観(フィルター)によって切り刻まれた末にようやく【一つの客観的事実】として我々視聴者の元に届くのである。
それは・・・
撮影する者のソレであり、
映像を編集する者のソレであり、
原稿を作る者のソレであり、
全体を纏めるもののソレであり、
原稿を読み上げる者のソレであるのだ。
更に牛山純一氏の言葉として次のような言葉が引用されている。
『報道は客観的な事実を伝えるのではなく、事実を客観化することだ。観察者によって事実は百八十度回転する。(中略)記録する者の現実の解釈なのだ。そしてそこには人間が必ず介在する』
しかし本書に収録されている内容もまた著者の主観的考察によって切り取られた事実の断片にしか過ぎないということも知っておかなければいけないと私は思う。
『ドキュメンタリーは嘘をつく』
森達也著 草思社¥1,785(税込)
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