第九章
画工が部屋で本を読んでいる。那美が来て雑談を始める。画工は開いたところをいい加減に読むという。那美は理解できない。画工は筋なんかなくても面白いのだという。非人情に読むのだという。逆に筋を読むというのは探偵になるということであるという。
漱石にとって探偵は忌み嫌う存在である。探偵は無理に筋をつける。しかし筋のないところに人間の真実がある。筋はあとからつけるものであり、無理な筋は人間の心を捻じ曲げるものなのだということかもしれない。人間は自分たちの行動に意味をもたせようとする。生きることに意味を持たせることによって何とか毎日を乗り切っているとも言えよう。しかしそれは「意味」に取り込まれるということになろう。社会にとっての「意味」とは「社会」にとっての都合によって作り上げられた虚像にすぎない。食事をとるのは本能であり、「意味」があるわけではない。しかし、その食事にも「感謝」とか「団欒」とか、あるいは「美食」とか何らかの「社会的意味」を与えることによって、価値を生み出すのが社会である。それはそれで悪いことではあるまいが、逆に考える自由を失うのも事実であろう。漱石が夢に興味を抱くのもそこに理由がある。
画工は昨日の振袖姿について聞く。那美は画工が見たいと言ったから見せたのだと答える。風呂に入ってきたのも親切からかと画工は攻めると、那美は「どうも済みません。お礼に何を上げましょう」と逆に攻めてくる。刺激のある会話が解放感を生む。
画工が茶に呼ばれたときどこにいたのかと那美に聞くと、「鏡の池」にいたという。「鏡が池」ならば固有名詞に聞こえるが、「鏡の池」というと普通名詞のように聞こえる。さらに那美は「身を投げるに好い所」だと言い、「私は近々投げるかも知れません」とも言う。さらに
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
とまで言う。ここまでくると、那美には何らかの意図があるように感じられる。那美と画工はお互いに攻め合いながら、協力して進んでいく関係である。ただし、そこに死を忍ばせているところが、意味深さもあり、逆にあざとさも感じられる。