第十三章
久一の出征の見送りに舟で街まで行く。行くのは送られる久一、送る老人、那美、那美の兄、荷物の世話をする源兵衛、そして画工である。
那美は画工に自分を描いてくれと願うが、画工は「少し足りない所がある」と言う。那美に足りなかったものは何か。「憐れ」ということは最後に明かされるが「憐れ」とはなんなのか。
那美は那古井の世界の人間であり、那古井の世界の規則に縛られていた。だから那古井の中では気違いという役割を演じなければならなかったのだ。人間社会の必然である。所属する社会の中で、自分の所属する社会の中の共同幻想の中で役割を果たさなければいけない。自分では自由だと思いながらも、実は縛られている。那美は那古井の中にいるかぎり、出戻りの気違いである。「憐れ」はない。
この舟下りの場面から加速度的に流れていく。序破急の「急」ということになろう。第十二章の別れた夫の場面が「破」と言うことになるだろうか。「草枕」全体の流れは能の構成を踏まえている。
那古井から抜け出すと、そこは「現実社会」である。
いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢である。憐むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛みついて咆哮している。
厳しい近代文明批判が繰り広げられる。近代が人間から個性を奪い去るさまを厳しく非難している。しかし、実は那古井も同じように自由を奪っていたのである。
ここでこの小説の冒頭の語りがよみがえる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
どこへ行っても同じなのだ。那古井という閉鎖的な共同幻想から抜け出せば、那古井の閉鎖性からは自由になるかもしれない。しかしそれは一瞬にすぎない。すぐそこには「現実社会」の共同幻想が待っている。どこへ行っても同じなのだ。
現代文明は蒸気機関に目がくらんだ。パラダイムチェンジが起こった。蒸気機関をはじめとする産業革命は、貨幣経済を発展させ、資本主義が世界の意識をさらに変化させる。資本主義が世界に広まり、世界中の国々が同じ価値観になってしまった。いまや人間は蒸気機関を手にした資本主義に支配されてしまっている。画工にとっては敗北を目前にしている。その時に那美の表情に「憐れ」という人間の根源的な心を見た。それは戦いの糸口であり、画工はその糸口を手に戦いにでるしかない。
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