とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

なぜ「現代文」の教科書に出てくる文章が難しいのか

2016-03-10 05:37:11 | 高校国語改革
〔国語の教科書が難しすぎる〕
 現代文の教科書に採用されている評論文は非常に難解です。昔から難しかったという人もいるかもしれませんが、近年さらに難しくなっています。

 最近の現代文の教科書に掲載されている評論文には2つの傾向があります。ひとつは昔からの定番です。
「『である』ことと『する』こと」
「ミロのヴィーナス」
「日本文化の雑種性」
 などですね。かなり昔から教科書にあります。わたしが高校生のころからあったような気がします。このような定番教材が残っている理由は、評論としてしっかりしているという理由もありますが、本当の意味は教師が楽できるからです。教材研究の必要がない。これをやっていればとりあえずなんとかなるという教材なのです。教師の怠慢なのですが、しかし、教師が忙しすぎるのも事実です。教科書会社は選んでもらえなければ商売になれません。ですからどうしても定番がはずせないのです。

 もうひとつの傾向は哲学的な内容のもの、現代思想的な内容のものです。「言語論」「身体論」「科学論」などの新しい分野の評論文が取り上げられています。これが難しすぎる。

 もちろんこれらが悪い文章だと言っているわけではありません。しっかりと理解し読みこなせることができればおもしろいとは思います。しかし高校生の誰もが理解できる内容のものではありません。だから授業は読解というよりも解説になってしまいます。

 私が読んでいても「この文章は何がいいたいんだろう。」と思われる文章がたくさんあります。多くの国語教師はそんな評論文でも簡単だという振りをして授業をします。これはプライドが高いからです。いくら国語教師でもむずかしいものはむずかしいのです。わからないものはわかりません。


〔センター試験型が難しくした〕
 なぜ、国語の教科書に出てくる文章はこんなにむずかしいのでしょうか。これはおそらく大学入試のせいだと思います。特に、センター試験型の解答がすべて選択式の問題になったからです。

 大昔の国語の試験問題はもちろん選択問題もありましたが多くは記述式の問題でした。これは受験生にとってかなりの労力を強いるものです。ところが選択式の問題というのはどれを選べばいいかを考えるだけなので、記述式の問題に比べ非常に楽なのです。解答を作り上げるという労力がないわけですし、選択肢がヒントになっていることもあります。漢字の間違いを気にする必要もなく、多くのストレスからも解消されます。私自身、センター試験の前身である、共通一次試験を受けたのですが、国語の問題がゲーム感覚でできるので、非常に楽にできるような気がしました。

 このような状態ですので、大昔の記述式の現代文で扱われていた文章でセンター試験型の問題を作った場合、簡単になりすぎるという結果になってしまったのです。(共通一次以前の国語の問題については別の機会に書ければと思います。)

 私はセンター試験の国語の平均点がいくら高かろうが、別に構わないと思うのですが、大学側としては(あるいは大学入試センターとしては)、あまりに平均点が高いと、その人の力をはかることができないと考えたのだと思います。本当に力のある人も、そこまで力がない人も同じように満点近くの点数をとるので、本当に国語力のある人がわからなくなってしまうのです。(わたしはそれでもいいと思うのですが、それは別の議論となってしまいますので、ここではこれ以上追求しないでおきます。)

 不定期に続きます。

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