とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

朝日新聞「折々のことば」より「できる人と、できない人の間には、できるけど疲れる人がいるんだ。(石井あらた)」

2020-10-19 18:22:08 | 折々のことば
 このタイトルを見て思わず笑ってしまいました。私は「できないのではなくて、疲れているからやないのです。」とついつい思ってしまします。しかし自分ができない理由を「できないのではなくて、やらないだけだ。」という生徒の主張とまったく同じです。こういう私のような人間をおちょくっている言葉なのかなと思って笑ってしまったのです。

 しかしこの「ことば」はそういう意図ではないようです。「折々のことば」では次のように書いています。

 学校でもバイト先でもそこでのあたりまえになじめず、和歌山県の限界集落でニートたちの共同生活の場を営む石井さん。都会じゃない場所で、家族じゃない仕方で月々2万円弱で暮らす。そういえばNGOもNPOも、Nonがつく、国家や企業「じゃない組織」。「納得」を基準に生き方を選べば、少なくとも暗くならないでいられると。『「山奥ニート」やってます。』から。

 どうやら「できるげど疲れる」からしないということを前向きにとらえているようです。そう思ってもらえるなら気が楽ですよね。がんばらくていいと言ってもらったようで心が軽くなるような気がします。

 だとすると「できないのではなくて、やらないだけだ。」という生徒を認めてあげなければいけないのかなと思ってしまいます。

 いやそれはだめだ。
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朝日新聞「折々のことば」より 「若いときに読んだ本のなかでもっとも重要なものを、人生のある時間に、もう一度読んでみることが大切だ。」(イタロ・カルヴィーノ)

2020-10-15 07:04:15 | 折々のことば
 今日の朝日新聞の「折々のことば」より。

 古典とよばれる書物は、集団や個人の無意識の記憶の襞(ひだ)の内にまでしみ込むことで時代を潜(くぐ)り抜けてきた。つまり読む人の経験を分類する枠、価値を測る尺度ともなってきたとイタリアの作家は言う。だから時を経て読み返すと、自分がどう変わったかを知る、別の新しい出来事が起こると。『なぜ古典を読むのか』(須賀敦子訳)から。

 音楽は繰り返し聞きます。音楽が自分のものとなりい、自分のものとなった音楽が力を与えてくれます。

 映画もそうです。2回、3回と見ていくと、感動がさらに大きくなる場合が多くあります。本だってそうです。同じ本を繰り返し読むと、たくさんの発見があり、楽しさがどんどん膨らみます。

 しかし、あまり繰り返し本を読むことはありません。なぜなのか。私が消費文化に染まってしまったからなのだと思います。

 反省して、今、できるだけ過去に読んだ本を繰り返し読むようにしています。ちょっと遅かったけど、読書の楽しさが広がっています。
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朝日新聞「折々のことば」より 「我々の社会は、『死』を如何に身近に感じ得るか、という点で、準備が少なすぎるのではないか。」(村上陽一郎)

2020-06-25 19:02:50 | 折々のことば
 6月24日の朝日新聞「折々のことば」より。以下鷲田清一さんのことばを引用する。

 戦時下、人命が余りに軽んじられた反動で、命の「至上の価値」を唱えるうち、日々死の脅威に晒(さら)されている人々を支える体制も手薄になっていたと、科学史家は憂う。この社会は「隣にいる成員が日々次々に死んでいく社会」でもあるのに、その過程に人は子細に目を向けていないと。「近代科学と日本の課題」(「中央公論」7月号)から。

 授業で古典の授業をしていると、この話題がよく出てしまう。昔の人は身近な人の「死」を経験することが、少なくとも現代人と比べれば多かった。それに対して今の高校生は身近な人の死をほとんど経験していない。だから「死」をリアルに感じることができない。

 これはとてもいいことではある。長生きすることは人間の夢だ。ただし「死」の重みを知らないまま大人になる人ばかりになってしまうと、命を軽く感じてしまうのではないか。あるいは「生きることの大切さ」の実感に乏しいのではないか。それが心配になるのである。

 古典の世界の人たちは「死」を覚悟している。その価値観の違いを考えることは古典を学ぶ意義の一つである。

コメント (2)
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「人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩(じくじ)たることだ。」(サン=テグジュペリ)

2020-04-04 06:24:12 | 折々のことば
 朝日新聞4月3日の「折々のことば」より。このことばについての鷲田清一氏の解説を引用する。
     
 忸怩たるとはここでは「責任を感じる」ということ。郵便物を搬送する飛行士が遭難した。看護にあたる僚友は、彼が「人間のあいだに新たに建設されつつあるもの」に自ら職務を通じて繋(つな)がっていると感じていたと言う。人々の歓喜や悲嘆と自分は無縁でないと。20世紀フランスの作家の自伝的小説『人間の土地』(堀口大學訳)から。

 自分に関係のないことに対しては責任を感じてはいけないというのが、現代的な考え方である。責任を感じてそれを口に出してしまえば、責任をとらなければいけないからだ。訴訟時代である現代は他人事を他人事にするように育ってしまう。

 しかし本来、人間というのは他人事を自分の問題として考えるから発展してきたのだ。この「当たり前」を改めて言葉にしなければいけない「現代」こそがいびつな時代なのだ。
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「ひとりの人間のもっとも優れた価値は、その人が所有権を要求できない領域にある(ルイス・カーン)」(朝日新聞「折々のことば」より)

2019-09-20 18:57:04 | 折々のことば
 朝日新聞9月20日の「折々のことば」より。このことばについての鷲田清一氏の解説を引用する。

 私の発想、私の作品などとこだわるところに真の創造性はないと、米国の建築家は言う。私の中にあって私より先に、そしてつねに蠢(うごめ)いているもっと古いもの。そこにこそ創造性の種はあると。着手点(スタート)から前方を見るよりも、むしろその手前にある真の始まり(ビギニングズ)に溯(さかのぼ)れとの提言は人生にも当てはまりそう。『ルイス・カーン建築論集』(前田忠直訳)から。

 「人まねをするな」と言われることがあるが、創作活動をした人間ならだれでもわかると思うが、完全なオリジナルなんてありえない。創作は「人まね」から始まる。過去の作品を土台にして新たなものを作りだしていくのである。それが芸術の本質である。

 だから行き過ぎた著作権は創作活動を阻害するものである。もちろん著作権自体は保証されるべき権利である。しかし死後70年も保護されてはいけない。これは芸術活動が経済活動によって抑え込まれている状態である。

 現代社会は経済論理が強くなりすぎている。経済の発展が人類の発展であるという幻想に支配されている。最近よくこのブログで発言している入試改革も、経済論理によっていびつな改革になっているのはあきらかだ。もちろん貧しさは人間に苦しみを与えるのは確かだ。しかし必要以上の富よりは、文化のほうが幸福を与えてくれる。文化を育て、よりよい教育のためにはもっと経済論理を抑えていかなければいけない。
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