本の読み方の設計図。

本の構造を明らかにしていく。
論拠・主張

論証=事例、引用。

夢を持つと貧しくなる?!:松山情報発見庫#332

2005-11-17 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
下流社会 新たな階層集団の出現

光文社

このアイテムの詳細を見る

この本の内容は大きく2部に分かれるといえる。
まずは前編ともいうべき、下流社会への変遷ともいうべき部分。
著者によると、
1950年代までは、いわゆるヨーロッパなどと同じ階級社会であったという。
つまり、働かなくても豊かなお金持ち=上流(ex.資本家,地主など)と働いても働いても豊かになれない下流がいたということだ。
ところが、それが1950年代後半から1970年代前半の高度経済成長期になるとサラリーマンという新中間層といわれる階層の誕生により国民の多くが中流意識を持つようになった。
そして、2000年代になって、ここでもその背景は幾度か述べたので省くが、自らの生活水準を下流であるという層が台頭しだしてきたのであある。

このそうの特徴は、
まず彼らが上層意識を持つ部に比べ、「生活の中で大事にしていること」として、「個性、自分らしさ」「自立・自己実現」をあげていることがあげられる。
ある新聞の書評では、この部分が大きくフューチャーされていたようだが、それはおそらく以前このブログのエンプロイアビリティーが人生を変える。でも取り上げたエンプロイアビリティーということと関連があるのだろう。(ちなみにこの『下流社会』は、その目的がマーケッターによる消費社会論ということもあるのだろうが、このことにはまったく触れられていない。)

ちなみに、

エンプロイアビリティは直訳すると、雇用される能力です。エンプロイアビリティの主要な要素としては、スキルと職歴。その人が持っている専門分野での能力と、これまでの実績。これは履歴書にも書けるし、誰もが外側から知ることができるものです。外からはかんたんには見ることができない能力もあります。それは、個人の持っている思考特性、行動特性。これは、仕事への積極性や、協調性といった部分にあらわれます。さらに内側にある仕事へのモチベーション、人生へのモチベーション、あるいは仕事から喜びを得る能力も広い意味でのエンプロイアビリティと考えられます。(株式会社グレイスHP「働き方を考えよう」より http://www.grace-e.co.jp/work/index03.shtml)

ということだ。
つまり、著者が「自分がほんとうに好きなことを見つけて、それを仕事にしようと間に受けて自分探しを始めた若者は、結果としていつまでもフリーターを続けて30歳になっても低所得に甘んじ、てい階層化に固定化されていく」(163-164項)といっていることに関連はあるが、このことは若者の自己規定の内部に潜む病理とまではいわないが、一種の自己否定的感情と関連があるのであろう。
つまり、サルトルの対自存在と即自存在ではないが「自分を探す」ということは「今の自分はほんとうの自分ではない」ということを内包し、自己否定につながり、会社としては、自己否定を含むものにはなかなか多くの給料をあげるような仕事は与えにくい。
つまり、自らを低階層と規定する若者にはいやおうなしに内的なエンプロイアビリティー(雇用されうる能力)が低くなってしまうということがあるということだ。

また、著者は、この低階層に属する若者の自己規定の特徴として引きこもりがちなオタク的性向があるということを節々で指摘している。
このことは、おそらく以前図解構造主義①のニーチェの解説の部分でも述べたが、「蓄群」としてむれをなして「奴隷」的に自己実現、夢といういっしゅ空虚な言葉に踊らされた結果とまではいいたくないが、無力な自分に直面し、独りを好むようになっていくということだろうか。


コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教わる技術。コミュニケーション講座。いよいよ来週です!!

2005-11-16 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
ツイてる!ツイてる!
感謝してます!!
いつも、皆さん、ブログを愛読いただきありがとうございます!!
本日、解説以来最高アクセス数を突破することができました!!
なんと273PVにまでようやくたどり着くことができました。
これもひとえに皆様のおかげです!!

さてさて、先日もここでお知らせしましたが、ついに!!
「教わる技術。コミュニケーション講座。」
開催されます!!
運よくこのお知らせをお眼にされた方はツイてるツイてる!!

今話題のデジタルハリウッドの講師でもあり、
自らも年商うん億円のネットショップオーナーであり、
3冊目の本を執筆中であり、
それでいて、気さくで、
聞いた人をハッピーにしてくれる!!
そんな水上先生のセミナーが愛媛で聞けるのです!!

IT業界のトレンドを知りたい方!!
IT業界に就職したい学生!!
コミュニケーションに不安のあるそこのあなた!!
どんどんツイてるツイてるでどうぞお気軽にご参加ください!!

11月22日火曜日!!
18:30!!
愛媛大学城北キャンパス
グリーンホール(共通教育大講義室)
に大集合です!!

ツイてる!ツイてる!
感謝してます!!
で、どうぞよろしくお願いいたします!!

水上浩一先生の本はこちら

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書くということ。作者、筆者の存在。:松山情報発見庫#331

2005-11-15 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
テクストの快楽

みすず書房

このアイテムの詳細を見る


寝ながら学べる構造主義

文藝春秋

このアイテムの詳細を見る



『寝ながら学べる構図主義』
第4章 「4銃士活躍す その二」-バルトと「零度の記号」
バルトのいう、零度というのは、フーコーでいうある概念、事象などが生成されたその時点という意味である。
バルトが記号というのは、たとえば将棋の駒のようにそれ自体ではただの木の切片に日本語の文字が描いたものであるが、ある一定のルールが了解されているもとにおいては、それが将棋の駒として機能するといったようなことをいう。
つまり、「ある社会集団が制度的に取り決めたしるしと意味の組み合わせ」ということだ。(115項)

バルトは、この上で述べた記号学と言う学問の構築を試みた。
本書では、バルトの記号学的な考え方のうちでエクリチュールと「作者の死」ということについて取り上げている。


まずは、エクリチュールについて見てみよう。
まず、私たちは日本人である、この場合私たちの「ラング」は日本語であるといえる。そして、私たちはたとえば話す時には、速度、リズム感、音感、韻律、息遣い書く時には、文字の印象、比ゆ、文の長短、などなどにおいて個人的な好みがある、これがバルトのいう「スティル」である。
そして、わたしたちが大学生、高校生、もしくは、ガテン系、公務員系、アキバ系、ギャル系などなどのように、それぞれの人が属する社会的集団によっていやおうなくに演じてしまう語法のことをバルトはエクリチュールというように読んでいる。
バルトは、私たちは、自由に話しているようでこの「エクリチュールの囚人」であるというように捉えている。 

☆次は、ロランバルトの真骨頂ともいうべきテクスト論のひとつでもある「作者の死」という概念について見てみよう。
バルトはひとことでいえば、それまでの分析解釈を中心とした近代的な文学研究に一石を激しく投じたといえる。
見方を変えて見れば、読書という行為に新しい考え方を導入したともいえる。
この論理は、テクストという言葉の原義から始まる。テクストとは本来「絡み合い」という意味である。
読むという行為は、ひとことでいえば、読者がテクストに向かい合うことで、そのテクストと絡み合いの構造を創り出すということだ。

バルトは、テクストについて、作者自身が何か明確な意図をもって作り上げたとは限らないというラディカルな視点を持ち込む。
テクストは織り上げられたものであり、「さまざまなところから寄せ集められたさまざまな要素から成り立って」(129項『寝ながら学べる構図主義』)いるというように考えた。この中には、「媒体からの主題や文体や指数の指定、同時代的な出来事、他のテクストへの気づかいと競合心」(同)など無数なファクターが絡み合いいつのまにか織り上がって(テクスチュア)しまうということが起こるという。
つまり、テクストとは、まさにこのブログというインターネットのシステムがそうであるように作者と読者の無数の絡み合いにより絶え間なく生成され続けていくものであるというのである。

***
以下、ロラン・バルトの『テクストの快楽』を直接参照することで更に、読むという行為と作者の関係について論じて見たいと思う。
上で述べてきたようなテクスチュア的な読者と作者の関係についてバルトはなかなかおもしろいことをいっている。
「《私は狂気にならないために書く》とバタイユはいった-これは彼が狂気を書いたということだ。しかし、《私は恐怖を抱かないために書く》とは誰がいえよう。」(92項)
というようにバルトは述べている。
また、「テクストのおしゃべり、それは単に書きたいという欲求の結果生れる言語活動の泡に過ぎない。それは倒錯ではなく欲求だ。」(8項)
というようにも述べている。
そしてこの本のタイトルでもある、テクストの快楽については、「決して弁解せず、決して釈明せず」(5項)
というようにも述べている。

どうだろうか?
このバルトのテクスト論は?
バルトは、テクストへの分析もしくは研究というものを否定しているようにも感じられる。逆から考えると、そのテクストへの道の不可探求性から、転じてテクストは各自が自由に絡み合ってよいものである。
というようにいっているよいうにも感じる。

バルトは、テクストと読者を絡み合わせているものを「悦楽」であるというようにも論じている。テクストへ絡ませようとするその上体、もしくは絡み合っていること自体が快楽であり、絡み合いの絶頂が悦楽であるというようにも述べている。
また、テクストは、ひとつの「確かな肉体」(31項)でもあるというように述べている。
このバルトの論理はあまりに豊穣でエロティックな言葉で絡まれているために容易に解明できるものではないだろうし、バルト自身、解明されることではなく、ただ快楽を求められることを求めているのであろう。
しかし、ここでの論考は、後に述べることになるサルトルによる詩人マラルメ論にも深く関係していくことになると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

図解構造主義!?②:松山情報発見庫#330

2005-11-14 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
寝ながら学べる構造主義

文藝春秋

このアイテムの詳細を見る

第2章 始祖登場-ソシュールと『一般言語学講義』
この章では、一般的に構造主義哲学の始祖であるとされるソシュールについて。
著者によると、ソシュールは、
「あるものの性質や意味や昨日は、そのものがそれを含むネットワーク、あるいはシステムの中でそれがどんな『ポジション』を占めているかによって事後的に決定されるものであって、どのもの自体の内に、生得的に、あるいは本質的に何らかの性質や意味が内在しているわけではない」(71項)
ということを私たちに教えてくれたとしている。

この著者による著述を見てみると、皮肉なことに、著者が構造主義は現在に思想の世界、もしくは、日常世界においては、常識となってしまったからこそポスト構造主義といえる状態になっていると述べていることがサルトルの本質と実存における議論において起きているといえる。著者はサルトルのことを定説的な批判をして済ましているだけで、その文献には直接には触れていないようが、ここでの議論がまさしくそのままサルトルが述べていることとなっているという皮肉が起こっているのである。

ソシュールの話に戻るが、上のようにソシュールは言語の実存と本質について語り、言語活動とは、「もともと切れ目の入っていない世界に人為的に切り目をいれて、まとまりをつけること」(66項)というようなものだと発見した。

第3章 「四銃士」活躍す その1 -フーコーと系譜学的思考

フーコーは系譜学的に物事を見ることを試みた。
マルクス主義的に一つの出来事が歴史の進歩、進化を経て今という最善の状態あるとは考えずに、今ここにあるものがその形であるのは、「さまざまな歴史的条件が予定調和的に総合された結果というより、さまざまな可能性が排除されて、むしろどんどんやせ細ってきたプロセスではないのか」(86項)というように捉えている。
つまりフーコーは、「監獄」「狂気」「学術」「性」などについて、その概念が生成された場面にまで遡って考えようと試みた。

フーコーの言説については、実際にその著作に当たって見ることでよくこの意味よりよくが分かる。フーコーが試みた論考の中で代表的なものとしては、狂気についての論考がある。フーコーがその生成地点にまで遡って考えることで、何が語られなかった結果として今の状態になっているかということを追求しようと試みた。
今は、精神疾患として「健常/異常(狂気)」というくびきが為されているが、これは18世世紀近代国家が生成される過程において生成された概念であるという。
それまでは、狂人は社会の宗教にシステムの中でうまく組み込まれていたが監禁されることによって健常者との相田で差別化が試みられていった。
といった具合だ。
このあたりの議論は深くみようと思えばいくらでも深くみれるので、興味のある方は、本書もしくは、『狂気の歴史』などを当たって見て欲しい。

*次の章のバルトについては、少し詳しく見たいので次の章に譲る。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

図解構造主義!?①:松山情報発見庫#329

2005-11-13 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
寝ながら学べる構造主義

文藝春秋

このアイテムの詳細を見る

この本での構造主義哲学の定義とは、
「私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない、むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に『見せられ』『感じさせられ』『考えさせられている』。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界にはいることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たち、自分では判断や行動の『自律的な主体』であると信じているけれども、実は、その自由や自立性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたものが構造主義という方法」
というようにしている。

以下、本書で構造主義とそれにいたるまでの道筋を概観しいこう。
第1章 先陣はこうして「地ならし」をした-構造主義以前
【マルクス】
マルクスは、社会集団は歴史的に変動しており、そのファクターとなるのは、「階級」であるということを提唱した。
また人間は、どの社会階級に属するかによって、「ものの見え方」が変わってくる。(階級意識)
また人間個別性は、「生産=労働のネットワークのどの地点にいて、何を創り出し、どのような能力を発揮しており、どのような資源を使用しているか」(31-32項)によって決定されるとしている。
つまり、人は労働によって始めて存在意義を獲得できるという考えである。
「働かざるもの食うべからず」という寒気のする言葉もこのマルクスの言葉に融和せいのあるものであろう。

【フロイト】
フロイトは、私たちの思考は無意識の部屋と言うものがありそれにより制約を受けているということも気づかずに制約を受けているという点で不自由であるということを発見した。
無意識の部屋と意識の部屋の間には「番人」がおり、意識することが苦痛なことを考えないようにするメカニズム(抑圧)があるということを発見した。
つまり私たちは2重の意味で無知であるということを訴えているということである。一つは、そこに番人がいるということを知らない「無知」、もうひとつは番人がどういう基準で抑圧することを選んでいるかということを知らないという「無知」である。
ここでの議論は、脳科学への議論へと飛躍することができそうだ。(後に検討)

【ニーチェ】
ニーチェは私たちはある外圧的な規範の「奴隷」であるということを考案した。
今私たちが抱く自明であると思えることはある時代や地域に固有の偏見であるというようにも考えた。
ニーチェを特徴付けるのは、その大衆社会への強烈なまでの批判である。
彼は、大衆は、「畜群」であるというように捉える。
「蓄群」とは、大衆に特有の同質な行動を成員が群を為して行う状態のことで、この同質性に喜びを感じる人のことを「奴隷」であるというように論じている。
この「蓄群」、もしくは相互模倣の虜囚としての「奴隷」の対極として「貴族」という概念を置いている。
この貴族というのは、身分的なことではなく、行動を起こすために外的な刺激を必要とせずに、自立した存在ということだ。
著者は、「貴族とは何よりも無垢に、直接的に、自然発生的に、彼自身の『内部』からこみ上げてくる衝動に完全に身を任せる」(55項)ものであるというように特徴をあげている。

これを見てみると、私自身が以前から、世の起業家たち、もしくは俳優、歌手たちは夢を持ちそれを語り自己実現させていく、それを真似しようとして結局無残な精神状態、経済状態へと陥ってしまう圧倒的多くの大衆という構図を思い浮かべていたが、このことはニーチェの想起していることに通じるようだ。

さて、ニーチェは、この貴族と言う概念に関連してかの有名な超人という概念を持ってくる。超人とは自立的存在である貴族を更に推し進めた概念で、ニーチェ自身ではこれであるというようには定義しておらず、
「私はあなた方に超人を教える。人間とは乗り越えられるべきものである。あなた方は人間を乗り越えるために何をしたか。人間にとって猿とは何か哄笑の種、または苦痛に満ちた恥辱である。超人にとって人間とはまさにこういうものであらねばならない」(55項)と述べるのみである。

2章以降は次に譲る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

可塑性からニューロンイデオロギーへの挑戦。:松山情報発見庫#328

2005-11-12 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
わたしたちの脳をどうするか―ニューロサイエンスとグローバル資本主義

春秋社

このアイテムの詳細を見る

私たちは脳の主体でもあり、生産物でもある。
この本の視点はここから始まる。
そして、脳には、可塑性がある。そのことにより、議論を従来、脳についていわれているニューロンサイエンスへの批判への試みから、現代資本主義社会とニューロンシステムの類似の発見という風に発展していく。
これはあたかも、著者が、
「世界のカリカチュアのレプリカにならないこと、これが私たちの脳についてなすべきことである。爆発を恐れるあまり、永遠の自己制御と、諸々の流れ・移動・交流のままに自らを変えていく能力とを結合した柔軟な個人であることを拒否すること」はあってはならないといっている主張のベクトルに一致するような論理の展開である。

著者のいう脳の可塑性とは、以下の3つの性質を伴う。

*可塑性:固体に外から力を加えると、力をとりさってもそのままの形を残す性質。

a.形を受け取る能力=発達の可能性
b.形を与える能力=歴史を形成し、記憶を加工する能力
c.固体、つまり脳への形質を消滅させる能力

の3つである。
これらの3つの議論を展開させていくことで、著者は、巷でささやかれる、「私たちの人生というのは、遺伝で決定されてしまっている」という議論に一撃を加えようとしている。
これが本書の大まかな主張の流れといえるであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白隠というひと:豆えっせい#16

2005-11-11 00:00:00 | 豆えっせい(#12~)
白隠!!
なんと深い人だ。
今日(11月10日)の朝テレビ東京系で美の巨人たちという番組を聞き流していた。
白隠は、どうやら禅宗の一派である臨済宗の中興の祖とのこと。
禅宗を日本の今の様式にした人とのこと。臨済宗では、公案といわれる命題に対峙することで真人すなわち完成された人間になることを目指すという。(参照:白隠 美の巨人たち)

この番組では、上のような白隠の生き方について、ある若者との公案の問答のような形で進められていた。この番組定期的にDVD化されているようなので出た暁にはぜひも追う一度じっくり見て見たいと思った。

たまたま、今日は、母が伊予鉄高島屋である相田みつを展を見に来ており、一緒にいたこともあり、珍しく感性によい刺激のある一日だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニート、若者の負の縮小図②:松山情報発見庫#327

2005-11-10 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
働く過剰 大人のための若者読本

NTT出版

このアイテムの詳細を見る


4章:仕事に希望は必要か

ここで著者は面白い議論を展開している。
安定した所得、雇用の確保といったことが困難になり、職が不安定になったことを背景に「働く目的として、どうすればやりがいが仕事の中にもてるのかが、かつて以上に関心ごととなっている。心のそこからやりたい、やってよかったと思える仕事に出会いたいという気持ちは、若者を中心に強まるばかりだ」(98ページ)という。
ここでまた問題が生じてくることとなるのである。
一般的にそれほど簡単に自分がやりたい仕事というものがあっさりと見つかるというのは難しい。
このことが「早くやりたいことを見つけなければ充実した人生は送れないのだといった雰囲気」(99ページ)につながり、若者の就職、就業へのハードルを上げてしまうことへとなる。

このことに対し、著者は現実としては多くの人が何も「やりたい仕事」についていいるわけではないが、調査した結果によると会社員、経営者、公務員、自営業、フリーターなどの職業につく人に「やりがいのある仕事を経験したことあるか?」という質問をすると、8割以上がyesと答えるというデータを出している。
その中でも、一番やりがいある仕事を一番経験している人の割合が大きい人の類型としては、「(中学3年当時)希望する仕事はあったが、その後なくなり、別の仕事に希望が変わった」(111ページ)ということが挙がっている。
著者は、希望を持つことで挫折を味わうことにもなるが、その挫折により、やるべきことを再発見することがあることが希望の効用であるというように述べている。
つまり、希望を持つことは仕事意於いては必要だということだ。

Ⅱ-働けない若者の内実

5章:ニート、フリーターは何が問題か
6章:学卒・独身・無職
7章:増える非求職型の背景

著者は、ここでも述べてきたことだが、ニートは、「やりたいこと」の呪縛に縛られ、結果働くことの意義を深く考えようとした結果足止め状態に陥ってしまい、思考的にも、行動的にも硬直してしまっているという。
ニートの問題点ということをこの章では考えていっている。
著者のスタンスとしては、具体的に「夢」といえるような圧迫的なものがなくても、「とにかく何か本の少しでも興味があることであればそこからやって見ればいい」(132ページ)であったり、ジョブカフェなどの専門家などに気軽に相談をし、自分ひとり、もしくは家族の問題として抱え込まないようにということだ。

ニートとその周辺の定義を少しばかり見てみよう。
ニートとは、基本的には、就職活動もしていない、そのための訓練も受けていない、または、とくに学生であるとかのように学業を受けているわけでもない。
という状態の人のことで、その調査などによりその人数は意外まちまちであったりするというのが現実だ。

ニートはいわゆる無業者の中の一ジャンルである。
無業者の3分類

a.求職型=失業者
:注意しなければならないのは、なにもニートと失業者は同じではないということ。ニートは著者もいっているが、失業者にもなれない人ということになる。
つまり、失業者とは、職を失ったいる状態で求職活動中の人のことを指すからだ。
以下b,cがいわゆるニートである。

b.非求職型-43万人(2002年)
:これは、就職希望はあるにはあるが、具体的に求職活動はしていないというタイプ。このタイプでほんとうに恐ろしいとされているのが、以前に62パーセントの人が就業経験があるということである。つまり、労働市場から、何らかの理由がありあふれ出してしまったのである。
この非求職型は実は、最近になって増加している(7章)。
その理由としては、
「探したがつきたい職が見つからない」
「知識、能力に自信がない」
「病気、怪我のため」
といったことだ。

問題とされているのが、3つめの「病気、怪我のため」という理由だ。
つまり、前にも少し述べたが、ここに属する7割の若者は、以前に修行経験があり、過度なノルマ、長時間労働の結果として、メンタル面で支障をきたし、職から離れていったという。
これが、なんど92年から、2002年に掛けて6.4万人から、10.4万人に増加しているという。

8章:非希望型と社会階層
c.非希望型≒社会的引きこもり
 =40万人ほど
:この非希望型は、おそらくいわゆる私たちがニートと聞いて一番にイメージするものだろう。実際現在無職であり、とくに就業希望を表明していないという人たちだ。この層はじつはほぼ一定して40万人という数であるようだ。
この非希望型で問題なのが、そこに社会的階層もしくは、学歴による相関関係があるということだ。
ひとことでいえば、最近になって特に低所得者、低学歴の層からこの非希望型が増えているという。(収入との関係:191-192ページ,低学歴との関係:181,187ページ参照)
この背景としては、学歴が低い層に属する場合、親が、子供に対してほとんど期待を掛けないためにそうなるということがあるようだ。

9章以降は省略。


コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニート、若者の負の縮小図①:松山情報発見庫#326

2005-11-09 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
働く過剰 大人のための若者読本

NTT出版

このアイテムの詳細を見る


著者である玄田有史氏は、本書末尾で「実のところニートそのものは、若者のなかの数パーセントを占める、ほんの一部の人々が直面する問題にすぎない。しかしながらニートは、自分のやりたいこと探しの迷路にはまり込んでしまっていることや、他人との対人関係を築くことに大きな困難を抱えているなど、それは多くの若者に共通する『生きづらさ』を体現した存在である。」(273ページより)
といううように述べている。
つまり、ニート問題の核心はそこに今を生きる若者の不安な気持ちが濃縮還元されているということである。
つまり、ニートという問題自体は多くの若者にとって実現するようなことではないにしても、その問題を考えることは若者がいかなる状況におかれているかということを考えるときに非常に参考になるということだ。

著者は冒頭において、ニートという問題を論じる前に今若者が於かれている状況として、
市場が創り出した即戦力思考、個性重視、自己実現の幻想、コミュニケーション能力重視、過剰労働などにより翻弄されており、その背後に階層問題も絡んでいるというように指摘している。
以下順を追って、これらの問題を概観していこう。

Ⅰ働く若者に起こっていること より

1章 即戦力という幻想

まず、日本においては、バブル経済の崩壊後、金融不況が起こり、1997年以降雇用情勢が深刻化してきた。そのことにより、それまでは新卒採用に対して企業側は学生に「無地のキャンパス」(6ページ)であることを望んだ。採用後にそれぞれの企業が育ていこうということがあったためだ。それが不況になり、大学を出ても何も学んでいないとはけしからん、即戦力とまではいかないまでも何らかのスキルは身につけておくべきだ。というような考えが出てきた。
このことにより、若者はもとより、大学側は、それぞれの学生において個性的であることを求められるようになりだす。
個のような流れの中で、皆が皆、自己研鑽に励めるわけではない。
このあたりが、著者は、学校から、就職というそれまでのレールに軋みが生じてきたターニングポイントであったと見ているようだ。

そのような流れの中で、「働く人の主体的な能力開発の取り組みを支援し、雇用の安定と再就職の促進を図ることを目的とする雇用保険の給付制度」を売り文句とした教育訓練給付制度も始まりだしたり、はたまた成果主義の導入、グローバル競争の激化、それによる長時間労働の激化などが起こりだす。(10ページ参照)
バブル崩壊後の人減らしにより、しわ寄せは、現在30代の若手に及んでいくこととなる。これは、後に述べるニート問題とも絡んでくることだ。

2章:データで見る働く若者の実情

ここでは筆者は、何も今を生きる若者は、価値観が多様化した結果として正社員志向が弱まったり、独立心が強まったりしたわけではなく、むしろその逆が真実だということを調査に基づいたデータを例示し示している。
このことにより、
正社員としての就業の機会は減るが、それを望む若者(a)正社員となれ、それにしがみつこうとする若者(b)しかしながら、過酷な長時間労働により労働市場からあぶれ若年無業者と化す者(c)正社員という立場にありつけず、より安定したいすを求めさまよう若者(d)というような実態を炙り出している。

3章:長時間労働と本当の弊害
ここでは、満足感が一番高い労働時間は、週40~44時間という短めのもので、労働時間が長くなるほど、能力を主体的に開発していく時間がなくなる。そのことが著者は弊害であるというように論じている。
ここでの議論は、前章との関連で見ると、安定はしたいが、あまり長時間労働はしたくないという若者のの意識への実感値と近い解が導き出せるように感じる。

4章:仕事に希望は必要か
(以下ニート、若者の負の縮図②に続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教わる技術。コミュニケーション講座。@11月22日愛媛大学!!

2005-11-08 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
いよいよ詳細決定です!!
今回の11月22日の愛媛大学火曜ナイトサロンでは、「教わる技術。コミュニケーション講座。」と題して水上浩一先生に2度目のご登壇していただくことになりました。
今回のナイトサロンに企画内容は、

①自分企画書を作ろう!!
:自分の長所、得意分野、特徴をガッツリつかんでしまおう!!
 就職活動だけじゃなく、ゼミで、コンパで〈!?〉社会に出てから、いろんな人とコミュニケーションをする上で自分のことをしっかり把握して相手に伝えていくのは基本!でも意外に難しいこと!!
 それを今回はやっちゃうのです!!
②教わる技術的コミュニケーション法!!
:つまりは、相手との共感を生み出す方法を水上先生が伝授してくれちゃいます!!
③IT企業化と水上先生があって得た話から学ぶ!!
:水上先生はいわずとしれたオールアバウト〈ALL ABOUT〉のIT業界トレンドウォッチャー!!
なんとあのmixiを主催するイーマーキュリーの社長から、近頃はコンビにでもおなじみEdyの社長、それから、サイバーエンジェントの社長まで幅広くインタビューをしグリグリ記事にしちゃってるんです!!
そこから、得たあつ~い話をきいてあつ~くなっちゃいましょう!!
今を輝くIT起業家の人生の栄光と挫折から学べることはきっと多いはず!!

IT業界に就職したい人、ITで暮らしはどう便利になるのって思っている人、それから『教わる技術』を読んだことある人、コミュニケーションスキルを磨きたい人までぜひぜひ振るってご参加ください!!
あのデジタルハリウッドでも講義を持つ水上先生の話を愛媛で聴けるのは、もしかすると宗田が大学生のこれが最後の機会かもしれません!!

---------
水上先生の簡単なプロフィール:
オープン80日で月商1100万円等、実績に裏付けられたコンサルティングを展開。小規模のECサイトから大手企業のネットソリューションまで幅広く活躍。著書に「教わる技術」「人気ネットショップ店長セキララ奮闘記」がある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

存在の探求から「無」への考察:松山情報発見庫#325

2005-11-07 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
存在と無 上巻

人文書院

このアイテムの詳細を見る

今回は予てから取り上げてきていた『存在と無』(上)の緒論から第一部「無の問題」についてまとめて見たいと思う。
緒論においては、存在の探求ということが行われている。
サルトルは、
現れこそが本質で、本質それ自身が現れである。(16項)というようにいう。
また、本質は、「ここの顕現の無限の一連鎖によってあらわされるべきだ」(17項)という。
これは、1部1章で述べられている「存在は本質を前提とする」(67項)言い換えればあの著名な「実存は本質に先立つ」という言葉にもつながることである。
つまり、たとえばいす、机などの本質はそれを道具としてどのように使うかということによって規定されるが、人間の本質というのは「世界-内-存在」的に存在としてサルトルのいう対他存在として規定される。

「対他存在」という言葉はおそらくここでは初めて出て来ると思われるので規定しておこう。
以前取り上げた『サルトル1905-80』の語句解説によると、
:人間が「他者に対して存在する」という側面。人間は他者に「関係され」他者の対象となるものとして存在する。それはまた、他者に「見られる」身体として存在するということである。(280-281項〉

われわれが世界もしくは、他者と関係する時もちろんわれわれは「他者ではなく」「世界ではない」という形で存在する。
これを『存在と無』〈上〉の語句解説における「無」と照らし合わせてみよう。
:対自の根源的な否定のはたらきが、存在のただなかに、いたるところにまきちらす「ない」。〈中略〉無は人間によって世界にもたらされる。無は存在するのではなくて、存在される。〈中略〉人間存在は、自己自身の無であるべき限りにおいて、自由である。人間存在は、自己を時間化することによって無である。また、なにものかについての意識として、と同時に、自己自身〈についての〉意識としてあらわれることによって無である。更に、超越であることによって無である。人間存在は、いまだ存在しない無としての目的によって、自己が何であるかを自己に告げ知らせる。〈594項〉
という風に規定されているのが「無」である。

この言葉の規定の部分は恐ろしい。
巻末についているというだけあって、サルトルの思想を要約しているともいえるかもしれないからである。そのことについては、後に譲るとして、この無についての規定を確認した後でこれまで取り上げてきた対自存在、即自存在などの問題に立ち返って見るとたいへん興味深い。
対自存在に関連すること、もしくは、上の規定の中でいえば時間化ということについて面白い例が挙がっている。
不安の例と、自己欺瞞の例である。

まずは、不安の例について、
サルトルは不安について、「私は未来に期待を持ち、〈この部分はいまだ存在しない無に対して自己を自己がどうでありたいかということを規定しているといえる-宗田〉私は《この時、この日、この月の向こう側で私自身と会うことを約束している》のである。不安とは、この約束の場所で私自身に会えないかもしれないというおそれであり、私がもうそこへ行こうとしないかもしれないというおそれである。」という風に述べている。
つまり時間についての哲学をさかのぼるまでもなく、時間というものは存在しない
。存在するのは今というこの瞬間だけである。厳密にいえば、この瞬間ですら、流れ落ちていく滝のように消えていく。
そんな状態にわれわれは身をおき、将来に対して想いをめぐらす。ないことについて想いをめぐらし、ない仮定をすることにより、もしかするとそれがないかもしれないという結論を導き出し、不安になるということだ。〈こちらの不安についての例は、対自存在についての参照となるであろう。〉

もう一つが、自己欺瞞について、
このことについてサルトルは、「自己欺瞞においては、私はほかならぬ私自身に対しての真実をおおい隠すのである」〈120項〉というようにいう。
これは、「あるものであり、あらぬものであらぬ」という即自存在の性格の参照となるであろう。
つまり、自分はこうこうこうで在りたいという理想を思い描き、それと現実がずれていることをおおい隠そうとする。
そのことにより自己欺瞞が発するということだ。

一部「無の問題」ということに関することはこのあたりでしめることにする。
ただ、二部で述べられていることは、「対自存在」についてであるので、いささか内容が重なると思われるので適宜判断して取り上げていくこととしたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中島義道批判の失敗!!:松山情報発見庫#324

2005-11-06 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
ああ、自己嫌悪

PHP研究所

このアイテムの詳細を見る


自己嫌悪ということの効用とはいわないが、自己嫌悪ってそんなに悪いことじゃないジャンということをあの手この手で私たちに伝えようとしているのがこの本である。
面白いのが、日本人は自己嫌悪民族というようなくだりで、
日本青少年研究所というとことが日本、アメリカ、中国、韓国の高校生1000人に行った調査として、
「全体として見れば、私は自分に満足している」という質問の答えとして、
「不満足度」は、
上から、日本63.9%、韓国51.7%、中国39.8%、アメリカ9.7%というデータだ。

著者自身はあまり自己嫌悪に陥ることはないという。
著者は、自己嫌悪に陥ってだめな状態になるよりは、
自己嫌悪というのは、自分の規範に対する反省なわけで、
「ほんとうは自分はいい人間なんだという根拠もない幻想」を打破するためには必要なことであるという。
加えて、そのことにより、心を強く、伸びやかに広くすることに役立つとなればなおよいとのように述べているように思う。
うむ?このくだり読むとなんだか、またまたサルトルの本来性と反省のところで述べた部分とかぶる気がする・・・

この本の著者は、どうやら、中島義道をライバル視しているようでかなり批判的な部分が在るようだが、正直そのことにより逆に醜態をさらす結果になっている気がする。
中島義道は嫌いだ!
もっと俺なら中島義道的になれるんだ!!
そんな錯綜した想いから、中島義道に特有の洗練された無様さからただの無様な感じになってしまっている。
タイトルはこの本、確かに買いだ!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「やりたいことが見つからない」時代ゆえに:松山情報発見庫#323

2005-11-05 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
名前のない女たち 2

宝島社

このアイテムの詳細を見る


前々から読みたいと思っていた『名前のない女たち』(中村淳彦)の続編だ。
読み進めていくうちにどろどろとした不気味な感じにとらわれるタイプの本だ。
著者である中村氏はまえがきで、本書でのアウトラインもしくは、問題提起として、
「なぜ、彼女らはセックスするという職業を選んだのか?また、選ぼうとしているのか?そのテーマは変わらない。なにがフツーであるのかがわからない『生きづらい』混沌とした世の中で、ふとしたキッカケで脱いでカメラの前でセックスして、一瞬だけ刹那に輝いて次の場所に消えていく。サバイバルにワイルドサイドを歩く、裸一つで生きる彼女たちは、んいたような日々を繰り返す筆者が羨ましくなるほど、とても必死に、一生懸命に生きている。」
という風に述べている。
サルトルの実存主義という言葉が出てきた当時は、この言葉はパリ界隈で性に明け暮れ自堕落な生活をしていた若者に対して使われたいたようである。
そのことがふと頭をよぎる本だった。

この本の中でインタビューされているAV女優の中にはもちろん男性器が好きで仕方ないとか、セックス自体がものすごく好きというのもいないわけではないが、少数のように感じる。
もちろんこの本でインタビューされている女優はどちらかというとなにか人生に癖のあるというか問題を抱えた女優を中心にセレクトされていると思えるので、それをAV女優全般に適応できるかどうかは疑問はあるが、
この本の中で取り上げられている女優に共通すると思えた要素は、
-やりたいことがなにも見つからず、AVという似非「銀幕」に非日常的刺激を求め飛び込んでいったこと。
-性への倒錯した興味があること。言い換えるならば心に何らかの闇があり、それを埋め合わせんがために自傷的に性に耽溺していく。
-親族、特に母親、もしくは父親との関係が何らかの形で望ましくないということ。
-お金への執着が強いこと。
などが挙げられるように感じた。

著者が前書きでも述べているように、
AV業界ではその「賞味期限」は短いようだ。
最初のデビュー作でぱっと打ち上げ花火のように注目を浴びた後は、アナルセックス、スカトロなどいわゆるヘンタイとされる性行為を解禁していくことで生き延びていくというのが一般的なモデルのようだ。
この本が興味深いのは、著者である中村氏が辺に彼女らを「これがAV女優だ!」というカテゴリー化をしようとしていないということだ。
彼は、多くのモデルを示すことでその実像を削りだそうとしているように感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サルトルの倫理観:松山情報発見庫#322

2005-11-04 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
サルトル―1905-80

藤原書店

このアイテムの詳細を見る


哲学者としてのサルトルの続き

③自由と状況を連結した
サルトルは、われわれは歴史的、経済的、社会的などあらゆる状況に「拘束され、全面的に自由な人間」〈本書112ページサルトル創刊の『現代』誌創刊の辞としてのことば〉であるというように捉えている。
われわれは自由であるが、それゆえ選択の基準が必要だ。
それは、本来性ということだ、水野浩二氏によると「自由とは、本来性に到達した状態のこと」〈本書207ページより〉である。
自由で在るからこそ、本来性に到達するということが私たちに求められているであろう倫理的な基準ということであろう。
さて、水野氏は、本来的であるということを「状況がいかなるものであれ、自己の〈状況-内-存在〉を余すことなく現実化すること」「自己の状況を『自覚し』、『引き受ける』こと」〈同〉という様に定義している。

われわれが本来的姿になるためには、水野氏はサルトルの『倫理学ノート』からの言葉として純粋な反省が必要であるとした上で、
「純粋な反省は、私の企てそのものによって、その企てが他者に対して現れるかぎりにおいてではなく、その企てが私の方へその主観的な面を向ける限りにおいて私を定義するのである。というのも、本来性に従えば、唯一妥当な投企は、〈在る〉ではなくて〈為す〉であるからであり、しかも、為すという投企は、具体的な状況に働きかけ、その状況をある方向に変える投企であるからである。」(同208ページ)という風に説く。
また、本来性への回帰を促す「純粋な反省」は〈挫折〉という経験によって導かれるというようにも水野氏は説いてもいる。
この〈挫折〉というものは、何も私たちがイメージするようないわゆる挫折とは少し意味合いが違うようだ。
状況に拘束された中で、そこへ自らを投企することによってしか生きることができない状況をさして、それを不自由としその状況をこそ〈挫折〉という風にサルトルは述べているようだ。
つまりは、生きとし生ける状況において、対自存在として自分の今にどのように関わるかということのベクトルが純粋な反省ということにつながるのであろう。

ここでの議論をいわばハウツー本的に言い換えるならば、「人間は、今ある状況において、自分を律することをしながら生きていくことが大切なのですよ。」といった意味になるだろうか。
読み流してしまうと意味を解すことが難しい哲学書ではあるが、じっくり読むとなんと感慨深い内容だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

哲学者、詩人というもの。:豆えっせい#15(卒業論文素描)

2005-11-03 00:00:00 | 豆えっせい(#12~)
「人間存在とは即自でありたいという欲求である」という風にも述べている。
という記述からだが、
この言葉は、哲学者としてのサルトルの中でも述べたが、哲学者もしくは、詩人というものの性格をまさしく言い当てたような表現であるといえる。

抽象的で、一見意味不明とも思える表現で哲学者、もしくは詩人というものは、何を言おうとしているのだろうか?
それは、すべてのケースに当てはまるとはいえないかもしれないが、個人として、この世界を生きるうえで、彼らが感じたことをできるだけ性格に「概念」として表現しようと試みているといえるのではないだろうか?
抽象的な表現を核に添えながら、この「人間存在とは即自でありたいという欲求である」という表現がそうであったように、実は、切実な生への問題として捉えられた問題提起が隠されているのである。

それゆえ、抽象的で一見社会へ閉鎖されたように見える文学、もしくは、哲学でこそ、強烈な社会へのアンガージュマンの意識が露呈しているという一見矛盾したようにも思える現象が起こることもあるといえるのではないだろうか?
そして、おそらくこのことが、サルトルが近年再評価されて来ているということの一因、ひいては、彼が、抽象的な表現で知られているマラルメをして最もアンガジェしている文学者であると評した所以であるともいえるのではないだろうか?
詳しくは、後にマラルメについて論じる際に再検討したいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする