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論拠・主張

論証=事例、引用。

書くということ。作者、筆者の存在。:松山情報発見庫#331

2005-11-15 00:00:00 | 松山情報発見庫(読書からタウン情報まで)
テクストの快楽

みすず書房

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寝ながら学べる構造主義

文藝春秋

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『寝ながら学べる構図主義』
第4章 「4銃士活躍す その二」-バルトと「零度の記号」
バルトのいう、零度というのは、フーコーでいうある概念、事象などが生成されたその時点という意味である。
バルトが記号というのは、たとえば将棋の駒のようにそれ自体ではただの木の切片に日本語の文字が描いたものであるが、ある一定のルールが了解されているもとにおいては、それが将棋の駒として機能するといったようなことをいう。
つまり、「ある社会集団が制度的に取り決めたしるしと意味の組み合わせ」ということだ。(115項)

バルトは、この上で述べた記号学と言う学問の構築を試みた。
本書では、バルトの記号学的な考え方のうちでエクリチュールと「作者の死」ということについて取り上げている。


まずは、エクリチュールについて見てみよう。
まず、私たちは日本人である、この場合私たちの「ラング」は日本語であるといえる。そして、私たちはたとえば話す時には、速度、リズム感、音感、韻律、息遣い書く時には、文字の印象、比ゆ、文の長短、などなどにおいて個人的な好みがある、これがバルトのいう「スティル」である。
そして、わたしたちが大学生、高校生、もしくは、ガテン系、公務員系、アキバ系、ギャル系などなどのように、それぞれの人が属する社会的集団によっていやおうなくに演じてしまう語法のことをバルトはエクリチュールというように読んでいる。
バルトは、私たちは、自由に話しているようでこの「エクリチュールの囚人」であるというように捉えている。 

☆次は、ロランバルトの真骨頂ともいうべきテクスト論のひとつでもある「作者の死」という概念について見てみよう。
バルトはひとことでいえば、それまでの分析解釈を中心とした近代的な文学研究に一石を激しく投じたといえる。
見方を変えて見れば、読書という行為に新しい考え方を導入したともいえる。
この論理は、テクストという言葉の原義から始まる。テクストとは本来「絡み合い」という意味である。
読むという行為は、ひとことでいえば、読者がテクストに向かい合うことで、そのテクストと絡み合いの構造を創り出すということだ。

バルトは、テクストについて、作者自身が何か明確な意図をもって作り上げたとは限らないというラディカルな視点を持ち込む。
テクストは織り上げられたものであり、「さまざまなところから寄せ集められたさまざまな要素から成り立って」(129項『寝ながら学べる構図主義』)いるというように考えた。この中には、「媒体からの主題や文体や指数の指定、同時代的な出来事、他のテクストへの気づかいと競合心」(同)など無数なファクターが絡み合いいつのまにか織り上がって(テクスチュア)しまうということが起こるという。
つまり、テクストとは、まさにこのブログというインターネットのシステムがそうであるように作者と読者の無数の絡み合いにより絶え間なく生成され続けていくものであるというのである。

***
以下、ロラン・バルトの『テクストの快楽』を直接参照することで更に、読むという行為と作者の関係について論じて見たいと思う。
上で述べてきたようなテクスチュア的な読者と作者の関係についてバルトはなかなかおもしろいことをいっている。
「《私は狂気にならないために書く》とバタイユはいった-これは彼が狂気を書いたということだ。しかし、《私は恐怖を抱かないために書く》とは誰がいえよう。」(92項)
というようにバルトは述べている。
また、「テクストのおしゃべり、それは単に書きたいという欲求の結果生れる言語活動の泡に過ぎない。それは倒錯ではなく欲求だ。」(8項)
というようにも述べている。
そしてこの本のタイトルでもある、テクストの快楽については、「決して弁解せず、決して釈明せず」(5項)
というようにも述べている。

どうだろうか?
このバルトのテクスト論は?
バルトは、テクストへの分析もしくは研究というものを否定しているようにも感じられる。逆から考えると、そのテクストへの道の不可探求性から、転じてテクストは各自が自由に絡み合ってよいものである。
というようにいっているよいうにも感じる。

バルトは、テクストと読者を絡み合わせているものを「悦楽」であるというようにも論じている。テクストへ絡ませようとするその上体、もしくは絡み合っていること自体が快楽であり、絡み合いの絶頂が悦楽であるというようにも述べている。
また、テクストは、ひとつの「確かな肉体」(31項)でもあるというように述べている。
このバルトの論理はあまりに豊穣でエロティックな言葉で絡まれているために容易に解明できるものではないだろうし、バルト自身、解明されることではなく、ただ快楽を求められることを求めているのであろう。
しかし、ここでの論考は、後に述べることになるサルトルによる詩人マラルメ論にも深く関係していくことになると思う。
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