新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

薄れ行くWはサッカーへの関心

2014-06-19 10:55:31 | コラム
W杯サッカーは私の関心を呼び戻せるか:

何も第一戦で我が代表が情けない負け方をしただけのためではないが、今回のW杯サッカーには一向に興味が湧いてこない。以前は世界の名手たちが集う4年に一度の大会ということで、熱心に時間が許す限り中継を見ていた。そこには感心もあれば感動もあったし、感激も落胆と共に怒りもあったものだった。

しかし、今回は何故「さー、ゥワールド・カップのサッカーの試合でも見るか」という気にならないのかを振り返ってみた。その理由の第一は我が国の代表級の者たちが欧州の有名なリーグに出て行ったために、彼等が出る試合の中継があると、そこには世界的な名手が登場するので、そういう連中の凄いプレーや上手さを見馴れてしまって、簡単に感動しなくなってきたことがあった。言うなれば、観戦する有難味がなくなってきたのだった。

例えば、「メッシならばこれくらいやっても当たり前だ」とか、「ナルホド、これがクリスチャーノ・ロナウドか」や「ファン・ペルシーは矢張り上手いな」といった具合で、これまでに知り得た知識の再確認だけに終わるのだ。即ち、何も時間を割いて新たな感動を求めようとする意欲は湧いてこなかった。

要するに、野球の場合の張本勲ほどではないが、私には他国が負けようと勝とうとどうでも良いので、我が代表があの監督の下で何とか予選リーグを勝ち抜いていけるかどうかだけが関心事なのだ。外国の名手たちの質の高いサッカーショーを見たいのではないということだ。その例が、オランダが史上希に見る点差でスペインに勝った試合などは「そう言えば」と気が付いて後半からしか見なかったようなものだ。

そこにあの情けないという言葉以外で形容しようがない我が代表の負け方だったので、余計に興味も関心も薄れてしまった。それにテレビを見れば何処の局でもここを先途と可哀想な御用解説者を集めては希望的なことを言わせ続けているのでは、一層興醒めだ。私は決してギリシャに負けるとは言わないが、あの解説者たちの「言わされ方」を見れば、その背景に如何なる圧力があったかくらいは見当が付く。あーあ、放送権料ではないか。

昨夜もある会合でギリシャ戦の見通しを問われたが、「希望的観測のみで言えば、勝って欲しい」しか言うべき言葉を知らなかった。評論家、解説者にマスコミも皆一様に「気持ちを切り替えて」と言うが、私が知る限りでもそう簡単に切り替わるものではないようだ。私は気持ち云々よりも、皆が奮い立って「我こそは」であるとか「目に物見せてやる」、「ギリシャ何するものぞ」といった気迫を見せて貰いたいと思っている。

責任逃れのパス回しなどせずに「俺がやってやる」といった欧米人的な目立ちたがりの精神も発揮して貰いたい。コートジボアールはどうやら我が代表に対するスカウティングを徹底的にやってきた気配があった。我が代表も190センチを超えるギリシャに対して万全の下準備をしてあることを期待している。もう責任逃れのパス交換をする時ではない。「自分でやってやろう」と思って倒れるまで動き回って主導権を取って勝ってくれ。


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