新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

「お会いする」は疑問だ

2015-04-22 07:19:01 | コラム
「お会いする」への疑問:

私はこの言葉遣いが気になるのです。敬語のつもりで政府高官からAHOなテレビタレントまでの間で広く使われているのだと思うのですが、違和感があります。大体からしてローマ字にすると「oai 」で母音ばかりでは、「青木」=Aoki が「エイオキ」になってしまう外国人には、まともに発音して貰えないかと危惧します。

Atokでは「お会いする」と入れると「お目にかかる」という敬語があると注釈が出てきます。私もその方が自然だという気がします。「会いに行く」や「会ったことがある」では失礼に当たるのでしょうか。

また、何処かの野球解説者が言い出したのか、あるいはテレビタレントか知りませんが、「私の中で」というのが一般的になった気がします。これは「私が思うには」、「私か感じたところでは」、「私の意見では」、「私の感覚では」、「私の捉え方では」、「私の脳裏には」等々のように具体的な記述が出来ないか、思い浮かばないのか、あるいはそこまで国語を知らないのかの何れかで、国語教育の至らなさを聞く気がします。

そこで、「お会いする」への疑問を解決すべく、多くの大学で国文学を教えておられるKS氏に伺ってみました。その答えを下記に引用すると

「お会いする」について:
基本的に、自分の動作やそれによって生じた結果に、「お」をつけるのは敬語としては間違っています。 ですから、本当なら「お返事をさしあげる」も誤用です。

「お会いする」の場合、「会う」の主語は「私」ですからこれも本来は正しくありません。おっしゃるとおり、「お会いする」は「お目にかかる」と言う方が無難です。>

となっていて、一安心でした。さらに後段の疑問である「私の中では」についても以下のように解説して頂けました。

<これは近年生じた新しい表現と言えます。すこし前の解説者は「自分としては」の意味で「わたくし的には」とよく言っていました。「わたくし的には」がずいぶんバッシングされたので、それに代わる言いまわしが発生したのだと思われます。

私のように、日常的に古文に接している人間には、「新しい言いまわし」が生まれてくるのは止められない、という諦念があります。が、それにしても。江戸時代の書き言葉と現代語の乖離は、19c英語と現代英語のそれと比較にならないほど隔たっています。

きちんと勉強しないと、日本語をきちんと話せるようにも、書けるようにもならないという意識が、現代の中等初等教育の現場においても希薄過ぎる気がしてなりません。>

KSさん、有難う御座いました。


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