新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

高校野球は我が国の「文化」の一つである

2023-04-02 08:19:52 | コラム
甲子園の野球を我が国の文化としてみて見ていた:

昨4月1日の選抜野球の決勝戦は非常に興味ある試合だった。そこで、私独特の視点からの高校野球の見方を紹介しておこう。面白いというか変わった見方をすると思ってお読み頂ければ幸甚である。

ハッキリ申し上げておくと、当方は今を去ること40年ほど前から、甲子園の野球も含めて「高校の全国大会の開催」には否定的なのである。その根拠は今日までに繰り返して主張してきたので、本稿では展開しない。

名前:
これには文化論としても非常に興味深いのだ。偽らざるところを言えば「我が国の命名(名前をつけること)の歴史と文化は、現在の高校生たちの親御さんたちの世代では取り返しが付かないところまで変化されてしまった」のである。確認しておくと、ここに言う「名前」とは「下の名前」のことなのである。当方は先ず試合開始とともに守備位置に散っていく選手たちの名前に注目するようにしている。それは、そこには明らかな名前の文化と時代の変化が読み取れるからだ。

具体的に言えば、彼らの名前の90%には珍しい漢字、例えば普通の(在来の)漢字に冠や偏をつけてあるとか、当て字が使われている等々の為に解読不能なのだ。また必ず誰か1人は翔の字が使われているのも特徴だ。2文字目に斗、希、大、平、太、輝が使われていることが非常に多いのも時代の変化だ。このような「新時代を象徴するかのようなきらきらネーム的な命名は、地方に行くほど多くなる傾向が認められる。特に「翔」が多用されるのは大谷君に肖るのではなく、漫画の悪影響ではないかと疑って嘆いている。

日本高野連の非常識:
「非近代性」でも良いかもも知れないとすら考えている。NPBでも近年は先発投手交代の目安が100球のようである。先日のWBCでは「65球」、「85球」、「96球」だったかに制限され、所謂「ワンポイント」が禁じられていた。あの場に登場する投手たちは鍛え上げられた大人の「プロ」である。

一方の高校生たちは成熟する前で鍛え上げられていないのは明らかだ。その生徒たちに100数十球も平然と投げさせて、何試合も連投させて恬として恥じない。間違っていると思わない精神構造を疑う。

こういう無茶苦茶な「勝利の為には如何なる犠牲も厭わない」という使い方がどれ程非合理的かは、ここに論じる必要はないだろう。私だって昭和23年に国体の決勝戦まで行った経験があるので、「全国制覇」がどれ程の夢であり大目標であるかは承知している。

だが、その為に、高校生の野球選手としての将来を危うくして良いものかどうかは考慮しても良いのではないかと考えている。「子供たちに勝たせてやりたい」と願う大人たちの勝手な願いではないのか。

優勝した山梨学院の林投手は6試合全部投げ抜いたそうだが「疲れは感じない」と言っていた。だが、あるスポーツの通は「彼を大学かプロが投手としては取らないだろう」と厳しい見方をしていた。林君は高校の野球部員としては最高の名誉を獲得したが、もしかするとここまでで投手としての身体能力を使い果たしてしまったかもしれないのだ。彼にはそれが高校生としての大目標だったのならばそれでも良いだろうが、運動選手としての将来は別問題ではないのかと言いたい。

偏差値の問題:
実は、何時でも対戦する両校の偏差値を調べるようにしている。そこに見えてくる傾向は、低く出ている学校の方が勝つことである。昨日の山梨学院高校対兵庫県の報徳学園は全く同じの48―59だった。その点からは優劣が認められなかった。という次第だったから、試合開始前には「どちらが勝つか」の「閃き」が来なかったので、どのような展開になるかとの興味を持って観戦していられた。理屈では「大阪桐蔭をひっくり返した報徳に勢いが付いているかな」という程度に見ていた。

だが、山梨学院のあの1回で7点を取ってしまった攻めは見事だったと褒めてあげたい。だが、報徳学園の監督さんはあれほど良く投げていた間木という珍しい名字の投手の交代の時期が一人遅れた為に、山梨学院を勢いづかせる結果になってしまった。

野球は「モメンタムの競技」であるのだから、波に乗ってしまった相手は食い止めようがないと、残酷なまでに監督の逡巡が墓穴を掘ってしまった事を見せていた。でも、明らかなことは「勝った方が強いのだ」という紛れもない事実。

7対3と4点は開いたが、偏差値が並んでいたことが示したように、実力が拮抗した良い試合だった。実は、9回に山梨学院が2アウトを取るまでは報徳学園の反撃がありはしないかと密かに期待して見ていた。矢張り、一人で林投手の9回投げきった精神力を賞賛してあげねばなるまいと思う、仮令、高野連の時代遅れの指針に阿ることになるかも知れなくても。高野連が何時かはこの事態遅れの」「文化」を改革すべきであると指摘して終わる。


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