新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

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2015-06-06 11:37:30 | コラム
「直向きさ」と「やってやろう」という気持ちの強さを見た:

5日夜はNHKのBSで放映した準々決勝(the quarterfinal game かな)で二連覇中のドイツに勝った試合で見えてきた。今となってはあの頃の女子たちがどういうサッカーをやっていたのかという記憶が薄れてきたので良い勉強になったのだった。反省すれば、当時でもFIFA(と書いただけでも何となくおぞましさを感じる)の4位だったという認識はなかったほど女子のサッカーには疎かったのだった。

半分も見ないで認識出来たことは「今となっては望むべくもない『直向きさ(ヒタムキさ)』と『やる気』と『何としても勝とう、イヤ勝って見せよう』という気迫が恐ろしいほどに見えていた試合振りだった。「負けても失うものはない」と割り切って当たっている捨て身のような挑戦と見えた。しかも、自分たち以上に強力だと解りきっている相手に対して、何としても守り切ってやろうとの強い意志がハッキリと出ていた。

誤解なきよう申し上げておけば「やる気さえあれば上位者にも勝てる」というものではなく、勝てるだけの実力があったことが重要なのである。ドイツは日本に対する事前の調査も不十分だった気配が見えていたし、捨て身で来ている相手を如何にしてこなして勝ちに持って行くかという力がなかったのが悲しいかな、あの時点での彼等の実力だったということであろう。

我が代表の現在との明らかな違いの一つが、私が忌み嫌う後陣でのというか味方間で横パスを回し合って前で誰かが動いてスペース(おっと、カタカナ語だった!)を作るまで待っているという消極性がなく、積極的に組み立てようとの意欲が見えていた点。しかも、あの試合での横パスの速さもその直向きさが表れていてかなりスピードがあり、ドイツに容易にインターセプションを許すものではなかった。

私は既に「彼女らには伸びしろが余り残っていないようだとか、なでしこリーグの隆盛のためにあのレベルで纏まってしまった後進しか育っていない」と批判した。だが、あの試合を見ると「今や前世界王者としての強さを見せなければ」であるとか、その意欲が余ってか「貫禄」さえ漂うサッカーになってしまい、4年前の「直向きさ」は何処に行ったのかを感じさせられた。

この貫禄というか偉そうにしてみせるサッカーを最も解りやすく見せているのが、あの試合では佐々木監督が使っていなかった川澄だ。決勝戦とその後の多くの国際試合で見せた澤や宮間に使われてこそ勝ちがあった川澄は、今や周りを使うことに自分の力を見せる場があるとでも思って(錯覚して?)いるのか、初心を忘れたかの感があるのが残念だ。

再度言えば、今や余裕と貫禄の見せ場かと疑う後ろでのパス回し、積極性よりも消極的なパス回しが多く見えてくる。私は批判しているかも知れないが、W杯を獲ってしまったという重圧を全員が感じすぎて、引いて守って数少ないチャンスに得点をして勝とうというような消極的とも見えるサッカーは出来ないであるとか、大事に大事にと後ろにいる者にパスをしている場面が多すぎると感じている。

即ち、「失うものの大きさ」をイヤというほど感じていると見える。それを批判するほど私は意地悪ではない。「私如きには解らない重圧と戦っているという面があるのだろう、大変だろうな」と思っているだけだ。私がそういう捉え方となることの原因を確認が出来たのが、あのドイツとの延長戦に勝った辺りにあったようだ。

素直に言えば、私は佐々木監督以下選手たち全員がもう一度あの時に見せた初心というか「直向きさ」と「やる気」を出せれば、連覇も見えてくるかと希望的に考えている。


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