新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私の記憶力

2022-01-30 12:00:01 | コラム
何か特別に鍛えたのではない:

「貴方は記憶力が良い」と(褒めて頂いた)言われたことが何度もあった。正直に言えば「何故そうなったか」は、私自身で解っていないのだ。だが、アメリカの会社に転じた1972年の夏から後では、明らかにそうなのではないのかなと、自分でも思うようになった。では、どのような点でそうなのかを、順序不同で振り返ってみよう。

電話番号:
簡単なことでは「電話帳を作ったことがない」ということを挙げておきたい。これは中学の頃からただ単に面倒だからというだけの理由で、単語帳もカードも作らなかったのと同じで、面倒だから作らなかっただけのことだった。だが、不思議なことにその番号を頭から唱えてみると、簡単に記憶できたのだった。自分でも何故覚えられるのかは解らなかったが、日本の会社で担当していた得意先の番号でも何でも、その気になって一度唱えれば覚えられたのだった。

不思議なことだったのは、一度でもメモを取ってしまうと、先ず記憶できなくなってしまうことだった。だが、この「読んでみる」という記憶術はアメリカの会社に転じてからは殆ど役に立たなくなってしまった。これは我ながら不思議だった。そこで何時だったかアメリカでどうしても必要な番号を、市外局番(=area code)からそこにあったファイルホールダーの表に書き殴っておいた。

すると、その関係で書き留めておかねばなならない番号が他にも出てきた。そこでまた書き留めた。そうするうちに、そのホールダーは電話帳の如くになってしまった。というのは記録した番号は記憶できないからだ。後になって考えれば、アメリカの市外局番は我が国と違って「ゼロ」から始まっていない為に流れが悪いので、違和感があったのが原因ではと思うようになった。現在は携帯電話と固定電話に入れてある。

経費:
アメリカの会社では出張中の経費は全て会社負担となるのだが、その旅費の経費清算の伝票には詳細に全ての領収証を添えて(会社によって異なるが、一定額以下は不要という規定がある)申告するのが決まりだ。しかもその中には全ての場面で渡したテイップ(tipだが、カタカナ語では「チップ」)も全て含めるのだ。これは領収証が取れないが、それでも認められる。その経費は宿泊代、食費、交通費、その他の多岐な項目に亘って毎日細かく発生する。そこで、普通には毎日のように記録を取っておく必要がある。その為のメモ帳も準備されている。

ところが、私の場合はここでも「面倒くさい病」が発生し「恐らく記憶できるだろう」と高を括って、一切メモは取らなかった。そこで試してみると、2週間くらいの出張期間では何と言うことなく「その日毎の出費が順を追って覚えていられる」と判明したのだった。テイップも一件も残さずに記憶できていた。だが、これは、時と場合と場所で渡す金額を決めておいたことも手伝っていたとは思うが、間違いなく覚えていた。これには家内が同行していた場合には証人になっていた。

通訳:
これも、何故覚えていられるのかが自分にも解らなかったが、5分くらい話し続けられても何の苦も無く違う言語に転換して口から出てきた。私は勿論通訳の訓練も勉強をした訳ではなく、選んだ仕事では嫌も応もなく「通訳もできる当事者」でなければならなかった。だから、何の意識もなくボスが言う事を日本語にしたし、得意先の方の日本語を英語に出来たのだった。後になって気が付いたことは「聞こえたことがその音の流れのままで頭の中に残っていて、それを他の言語に自然に変えていた」という作業ができていた点だった。それが記憶力だと思っていた。

通訳をするときの要点は「話し手が言っておられることに違和感と反感とか正確かどうかなどという受け止め方は一切しないで、頭の中を空にして聞こえたことだけを覚えていれば良い」のだということ。頭の中を空に出来るようになるまでには少し時間がかかったが、その点だけは「そうなるように」と努力したのは間違いない。だが、これは独学であって誰の教えでもない。しかし、通訳論は記憶力論と少し趣が異なると思うので、ここまでにする。

なお、私が一切メモを取らずに通訳することに疑念を持たれたことがあったが、この点は一度第三者が同席して検証されて「間違いなし」と立証された。但し、日本語と英語では数え方が違うので、数字だけは書き留めていた。特にmillionからbillionとなると特に苦手だった。

昔の出来事の記憶:
これは何でも覚えていられる訳ではない。記憶を呼び起こそうと思って出てくることもあれば、どうしても思い出せないことは当然のようにある。だが、例えば2022年となっては37年も前のことになってしまった1985年10月4日(金)の貰い事故を今でも鮮明に覚えている。

それは、シアトル郊外のサウスセンターというショッピングセンターに中にあったホテルに最大の得意先の常務さんをお送りしていたときのことだった。運転したのは当時の直属の上司だった。そのホテルに向かって左折する際に、横からぶつかってきたフォード・マスタングの黄色の車に当たられた瞬間「何でここに車が来るのか」と不思議だと思ったこと、左隣の席に座っておられた同行の課長さんに向かって倒れ込んだこと、等々は全て覚えている。

パラメディックだと言った人が駆け寄ってきたこと、他には救急隊員が色々と質問した内容、例えば数字を10から1まで反対に言って見ろとか、住所氏名等を言え、どこの救急病院に行きたいのか等々だった。救急病院の希望を言えとは無茶苦茶で「私は外国人で出張旅行中だ。知る訳がない」などと言い返していた。救急病院でX線写真を撮るときに技師が「大きく息を吸って、ハイ止めて」と呼びかけたのも鮮明に覚えている。英語で、だがね。

これはほんの一例だが、昔の事を言う場合には通算で7冊も取得したパスポートを調べれば「何年の何月に出張した時」であるか等々は簡単に解る。また、1980年代からのdiaryというのか予定表は保管してあるので、そこから証拠は探し出せる。また、リタイア後にはほぼ全ての海外旅行は「旅行記」として業界の専門誌に寄稿したので、そのファイルを参照すれば確固たる資料が出てくるという仕掛けだ。

報告書:
在職中は取引先との会談乃至は交渉事の内容は全てメモを取ることなく記憶できていたので、その日のうちに報告書にして副社長に(当時はファクシミリしかなかったが)送っていた。この場合は取引先との電話での話し合いでも「重要だ」と思った内容は全て記憶から纏めて送っていた。これらの報告書の数が最高で1日に15本に達したこともあって、秘書さんに迷惑をかけたことがあった。

アメリカの企業においては「如何なる事柄でも証拠を残すこと」は極めて重要であるから、細大漏らさず上司と工場の幹部等関係先に知らせておかねばならないのだ。彼らは「記憶から物を言う」のを認めていないのだから。故に、全てを報告書の形に残して置かなければ身の危険(job security)となる事すらあるのだ。だから、その日に記憶が新鮮なうちに、文字にして残して置くのである。だがら、記憶力が良くなければならないのだと言える。

だが、その記憶力も流石に年齢を重ねる間に衰えてきた。だが、記憶に頼って記録してこなかった習慣から容易に抜け出せないので、89歳となっては難渋している。実は、この話題も昨日に纏めておいたのだが、忘れないように「件名」だけ書き残してあった所から、記憶を呼び起こしている次第だ。予定表は相変わらず作っていないが、この部屋にかけてある100円ショップで買ってきた大きな玉だけのカレンダーに、病院の予約その他を書き込んである。

本稿はPresident誌の22年2月18日号に「記憶力を鍛える」という記事があったので、それに刺激されたものである。