新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1月4日 その2 我が国とアメリカの企業社会を比べてみれば

2022-01-04 17:02:53 | コラム
文化というか風俗・習慣・思考体系・歴史の違いだったと思う:

私は動もすると「アメリカ側に立った視点」から我が国を見てしまうので、何度も何度も「文化比較論」として語って来た間に「我が国ほど平等なというか機会均等な国はないな」と思うようになっていた。ここにはやや論旨の飛躍があるかも知れないが、この説は「アメリカとは途方もない格差社会である」と批判することの裏返しであると言えると思っている。

私はこれまでに繰り返して「アメリカでは最大限に見積もっても精々全アメリカの人口の5%の人たちが政治・経済の面を支配している」と論じてきた。また、その支配階層にいる人たちは、先ずIvy Leagueに代表されるような東海岸の私立大学のビジネススクールの出身で、MBAかそれ以上の学位であるPh.D.即ち博士号を持つ最高の格歴の保持者なのである。

しかも、そこに至るまでの学費ともなれば、今日では5~7万ドルの授業料に加えて諸々の費用を合算すれば、優に年間に1,500万円に達してしまうのだ。そのような費用を厭わない階層に属する家柄に育ち、しかも頭脳明晰な者たちが政財界官界に進出して能力を発揮している世界なのだ。一方、我が国では必ずしもそのような経済的にも富有層に属するわけでもなく名家でもない家柄でもない家庭環境で育ってきた若者でも、学業成績が優秀であれば、政界、財界、官界でも最高の地位にまで上がっていけるような、アメリカと比較すれば「極めて機会均等で、平等な世界」と見えるのだ。

私の上司だった二人の有力者は共に、2名のお子さんたちを東海岸の有名な私立大学に送り込んでいた。1980年代末期のことである。当時ではその学費は合計で年間2,000万円に達していたが、お二方にとっては、そのくらいの負担は何でもないほどの年収と資産があったのだと聞かされていた。思わず「一体彼らはどれほどの金持ちなのか。どれほどの年俸を取っているか」と唸らせられた。同時に、これがアメリカなのかと少し解った気がした。

これまでに何度も指摘してきたことで、アメリカの企業社会では年功序列で年俸が決まるわけではないので、立派な経歴というか職歴があり能力と実力が備わっていれば、実績次第で(誇張して言えば)何歳になろうともそれに見合った年俸が取れるようになっている。しかも、その年俸は雇い主である上司と話し合って決まってくるのだ。我が国のような人事部の介入はなく、それこそ実力と実績次第なのだ。極論かも知れないが「実績が上がっていれば、会社全体の利益とは関係なく昇給する契約になっている世界か」と思わせられていた。

我が国ではこのような仕組みになっていないので、会社の成績が振るわなければ優れた技術者でも給料が安いことになるのだとの批判がある。この点について大前研一氏だったと記憶するが「我が国の人事の在り方だとどれほど優れた技術者でも年功序列型賃金に巻き込まれて、毎年少ししか昇給しないので、高給で韓国でも中国にでも誘われれば出ていってしまうのだ」と、その至らなさを寧ろ嘲笑うように指摘していた。

また、何処の何方かは誰だかは失念したが「その会社に多大な利益を生む製品を開発した技術者が表彰されて3千円貰ったそうだ」と語っているのを聞いたこともあった。これなどは平等という美名に隠れた悪平等に近い仕打ちだと思ってしまう。だが、我が国の文化では「優れた功績に禄を以て報いることは、言うべくして不可能なのだ」と思わせられる。この例にはカラーのLEDを開発されてノーベル賞を受賞された中村氏にも当て嵌まるように思える。

我が友YM氏は早くから「韓国で我が電器や半導体メーカーの優秀な技術者たちを超高級で引き抜くか、土日祝日勤務で勧誘し働かせて、彼らの技術を吸い上げている」と指摘していた。この事を某社の元副社長に尋ねてみれば、我が社からも行っていたようだと承知していました」と敢えて否定されなかった。我が国の仕組みでは「能力ある者を別格に優遇できないので、他国にこういう隙を与えている」と痛感した。

ここで、近頃言われ始めた日本型雇用と「ジャブ型」(jobの発音は断じて「ジョブ」ではない)を考えて見よう。私は何れの方式が良いかという議論よりも「その何れが自分に合っているか」と見極めを付けるのが先決ではないのかと見ている。私は正直に言えば、知らずしてその中に身を投じて22年も過ごしてきたので、如何なる事かは認識出来ている。

だから言えることで、私のようにMBAでもなく、外国人で40歳前後になってからアメリカ側に移ったのは余り賢明なことではなかったと、今になって解ってきている。しかし、地位の垂直上昇がない世界ではあっても、人事部がなく年功序列ではない世界で過ごすのは、我が国の会社で雇って頂いていた頃と比較すれば、身持ちも安らかで非常に気が楽だった。しかしながら、競争が激化する一方の環境で生き長らえるのは容易ではなかった。

また、そのそこで生き長らえる為の条件の一つが「上司に評価されていることが絶対的である上に、気に入っていてもらわねば何にもならないということ」だったのである。何らかの事で嫌われてしまえば、如何に努力していても、一寸した失態を演じれば、“Your job was terminated yesterday.”が待っているかも知れない世界なのである。

私の知り合いのハーバードのMBAでIntelのdirector(部長級に毛が生えた程度の地位)である彼は、ある有名な私立の4年制大学を出てからバンク・オブ・アメリカやプライスウオーターハウス等で4年間の実務を経験して、ハーバードのビジネススクールに進んだのだった。彼は名家の子弟だったが、親はそこまでの面倒を見てくれることがなかったので、学費は貯金と車を売って賄ったと聞いた。これも、アメリカ式の「成人した子供は敢えて谷底に突き落とす」手法だと聞いた。

我が社の技術サービスマネージャーだった同僚は州立のワシントン大学で原子工学を専攻してから、何処かでその方面の会社に就職した後に転進して、ワシントン州の我が社の製紙工場の技術職に現地採用された。だが、大学で紙パルプ学を専攻していなかったので管理職になれないと知り、コミュニティ・カレッジの夜間に通って単位を取得して管理職への昇進を果たしたのだった。

彼はその後に副社長にその優れた知性と能力を認められて本社機構に組み込まれるという珍しい出世まで成し遂げた。アメリカでは地方採用は本社とは全く別な組織での採用であり、その身分から本社機構に上がってきたのは、私が知る限りでは彼と我が副社長だけだった。彼らは4年制の大学だけの出身者であり、当然修士号は持っていないのだから、極めて例外的な出世だったのだ。アメリカが超学歴社会だとは言うが、このような昇進の例もあるのだ。

上記のようなアメリカの学歴社会であること、名家というか資産家の子弟ではないと簡単には支配階層には入っていけないのであるという点を、実体験に基づいて語って見た次第だ。ここまでで我が国が彼らの国よりも遙かに機会均等で平等な国であるとお解り願えれば、この一文を草した甲斐があったと思う。


続「我が国とアメリカの企業社会における文化比較論」

2022-01-04 10:27:46 | コラム
我が国とアメリカの企業社会はどのように違うのか:

組織の在り方が違う:
ここでは、我が国と明らかに違う点をいくつか指摘していこうと思う。

アメリカの組織には我が国のような人事部は存在せず、事業部長の判断で新規の採用をするか人員整理をするとは既に述べた。部員の査定も人事部や勤労担当者の仕事ではなく、事業部長の職務であることも指摘した。

この点だけを採っても我が国と大いに異なるのだが、相違点はこれだけには止まらない。それは製造業界では事業部では4年生の大学出身者を定期的に採用せずに必要に応じて適材というか即戦力となるものを中途採用していくので、同期入社もいなければ偉さというのか地位の差はなく、部員全員が事業部長の下に横一線で並んでいると思って貰って良いだろう。彼らは我が国のように係長、課長代理、課長、部長代理のように段階を踏んでいくことはないのだ。

この点も以前に指摘したことで“manager”というのは単なる肩書き(title)であり、管理職を表してはいないし、その下に部下がいる訳ではないのだ。私の経験からいえば「その見えざる地位は年俸の多寡に表されているのだが、実際には同僚がどれほどの年俸を取っているかを知る術はないのだ。要するに「自分の実績が上司にどのように評価されたか」を知ることができるだけのことで、他人のことなど心配していられる問題ではないのだ。

各部員というか組織の構成員は事業部長とは繋がっているが、横の繋がりは我が国とは違って極めて薄く、協力関係にもなく、お互いに手出しも下しもしないのである。全員が個人単位の「職務内容記述書」(=job description)に従って行動するのだから、隣のオフィスにいる者の動静も行動予定も全く関知していないのである。であるから「今晩、返りの一杯行こうか」などとは先ずなり得ないと思っていて間違いではあるまい。また、車社会であるから、これは成り立たないと承知しておいて欲しい。

Direct report:
これは日本語で表現するのが少し困難な資格というか、その部内に於ける事業部長との繋がりを示す言葉である。即ち、事業部内の人員が増えれば事業部長は毎日膨大な数の報告書を完全に読んで、それに基づく指示をするか、命令等を時間の無駄をせずに各人に出していくことが物理的にもん何になってくるのだ。そこで儲けられた仕組みが「事業部長が重要と看做した特定の限られた人数の者から直接に報告をして良い」と承認し、それ以外の者については中間管理職的な者を何人か任命して、そのもの経由にする」のである。その直接の報告を認められた者を“direct report”と呼ぶのだ。

アメリカの表現では「誰それの指揮下にある」というのを“I am reporting to George.”か“I am working for Mr. Smith.”のように言うが、direct reportともなれば、誇らしげに“I am a direct report to my general manager.”のようになるかも知れない。ここにも「個人単位」が良く表れていると思う。

だが、私は22年間に2社を経験しただけだが、事業部員の中から事業部長に昇進していった例は2人しか知らない。それ以外の場合は殆ど何処からともなく現れて来るか、MBAなりPh.D.の学歴に加えて華々しい職歴の所有者が「本日か着任した」といって現れるものだった。言葉を換えれば、社内で色々な部署を経験して管理職になれた者が年功を積んで事業部長に任命されるのではないと思っていて貰って良いだろう。

General managerの仕事:
日本の会社の権威的存在の「人事部」はないと思って誤りではないとは既に指摘した。アメリカの大手企業では事業部の本部長(Division General Manager、GM)は“general”と称しているのだから事業部運営の全般的な責任を持っている。すなわち、営業、製造、経理、総務、人事(採用、査定、昇給、馘首、事業再編成等)全ての権限が彼一人に集中している。だからこそ、この私の採用に当たっても人事担当者が出てこなかったわけであるし、出てくる理由もなかったのである。

 事業部員の採用、毎年の給与査定交渉はGMの重要な仕事である。彼らは仕事があってこそ新人を採用するので、人を雇ってから仕事を作り出すのではない。従って、定期採用はなく、各事業部に所属する全員の入社年月日は異なるし、給与にしてもそこに至るまでの職歴、実績、能力等々を基にGMと各人が話し合った上で決められているので、各人がバラバラであるし、仮令他人の給与を知ったとしても、自分の給与交渉には役には立たないのである。

 従来は年に1度のGMとの1対1の話し合いで翌年の努力目標と達成すべきゴールを設定し、翌年その結果を(当然数量化されている)話し合って、納得の上で5段階での査定が下されてきた。だが、近年は全員を集中的に同じ時期に行う会社が増えてきたと聞く。前年に自分が納得して設定した目標を達成できなかったならば、どのような結果になるかは「社会通念」として理解している。

すなわち、最低ならば馘首があるという通念である。これを厳しいと取って貰いたくない。自分で決めたことの結果に従うのが当然と受け止めている民族なのである。近年は上司のみの査定や評価では公平ではないと、同僚による査定も広く実施されている。これは評価させる相手を選ぶことが出来るので、私も数名から依頼されて困惑した。それは思うが儘に低評価をすれば、その通りに総合評価に反映される確率が高く、その人の不利に作用する危険性が高いからであった。

 出世にも触れておこう。アメリカでは学歴に大きく支配されているのは事実だろう。それは今や4年生の大学の出身では出世コース(ファストトラックなどと呼ばれる)に乗れることはないという意味だ。勿論、実力も兼ね備えていなければならないが。我が事業部のGMは4年制の州立大学出身者で、アメリカの大手企業に数多くいるMBAではない。所謂“Fast track”に乗ることが珍しい学歴だった。

これは実力があれば昇進できることもあるということを証明している。この辺りはこれまでに散々触れてきたので、ここでは手短に言えばアメリカの企業では入社年次や年功序列で昇進するのではない。直属の上司が年下であることを苦にして真っ向から不満を述べる人は少ない。有名私立大学のビジネススクール(大学院)でMBAを取った者がある日突然入社してきて上司になること、大きな組織の責任者になることは珍しくない世界である。多くの場合Fast trackに乗る有資格者が昇進していくのについて行くしかない世界である。

 人事異動:
ここまで語ったのであればこれにも触れておくべきだろう。ここでも我が国とアメリカとの間の違いは際だっていると思う。GMがいわば会社内会社の社長の役目を果たしているのであるから、その事業部と言うか会社内会社での異動はあるが、日本の異動のような会社内を広く動いていく異動は先ずないと言ってもそれほど誤りではあるまい。

ある得意先(日本のである)で、会社の基幹工場の営繕課長だった人が加工工場の製造課長に転出してきたことがあった。アメリカ人は「あり得ない!」と言って驚いた。「まるで別の会社に転出してきたのと同じではないか。その専門家でもない人とこれから交渉するのか」と言って嘆いた。

その得意先と同業の外資企業の副社長(日本人である)は「そのような人事異動を平然と行う会社と、我々専業者が競い合っても勝てないことがあるのは何故だろう。その辺りに万能選手というか“all-around player”(all-round playerはクイーンズ・イングリッシュ)を育てているのが日本の会社の特徴である。我々はどうやら飽くまでも縦の組織内を動いているだけの専門家=“specialist”集団であるようだ」と評したのが印象的だった。

 別な表現をすれば、日本の大手企業のシステムはこのように社内の多くの異なった部門を経験させた上で、力量のある者を昇進させているように見えるが、アメリカでは飽くまでもその事業部門内での専門家に育てているだけで、専門家を昇進させて事業部の指導的立場に立たせようとはしていないと見た。経営担当者はその任に適した人物を会社の内外から選んできていると思っていた。しかも、経営の担当であるから、必ずしもその分野に精通している必要もないのかと考えていた。

General Manager(GM)の役割:
Generalにmanageするgeneral manager(GM):
アメリカのGMはごく普通に実務をも担当している点が日本の本部長との違いだろう。GMが重要な得意先を自ら担当することがあるし、事業部の得意先を年に何度も巡回訪問していることが多い。このように多くの分野に責任を持っているとの意味で、部門内で最も所得が高い担当者のようでもある。

また得意先を訪問して具体的な商談を進めるのも決して珍しいことではない。私の生涯最高の上司だった副社長兼事業部長は自ら最大の得意先国である日本を担当していたし、それ以外の諸国と国内の得意先も常に訪問していた。彼が家にいられたのは月に数日だっただろう。そういう仕事のせいか、決して私行上の理由からではなく、私の上司だった副社長、部長2人は皆離婚する羽目になっていた。我が国では考えられないことではないだろうか?

 GMは毎日のように部員から無数のレポートを受け取っており、それには必ず目を通しで決済すべきものは即刻処理しなければ、部全体の仕事が進まなくなる。それだけではなく、部員同士のメモでもGMにCCが来ているものには必ず目を通すのも義務なのである。アメリカの企業ではCCされた者が「読んでいなかった」「知らなかった」と言うことは許されないのである。

これは言うべくして簡単なことではない。現在のように情報がIT化されていない時代には、GMも部員も常に膨大な枚数のレポートを持って歩かねばならなかった。そこにブリーフ・ケースが普及する理由があったのかとすら考えていた。

 GMとはかくも大変な職務なのだが、そのために高給を取っているのだし、中には「彼は好き好んであの地位に就いたのだし高給を貰っているのだから、忙しくて当然」と公然と言う部員もいた。

 さらに忘れてはならぬことがある。GMの判断でその事業部の要員に採用される以上、日本式の事業部門間を横断する人事異動などは極めて希である点だ。その部門を出で他の事業部に移ることは、ほぼ他社に転職する場合と同じ事になるであろう。であればこそ、日本の企業で工場の営繕課長が本社の全く関係がない製品の営業課長に転出してくることは彼らの理解を超越している。そして、「これから新しい仕事を勉強させて頂いて御社との関係強化に努めたい」などと挨拶しては、外国人に目を白黒させるのだ。

 以上は掲題が示すような「我が国とアメリカの企業社会における文化を比較した場合の一部」である。これ以外にも相違点は幾らでもある。であるからこそ、私はこれまでに何度か「アメリカの会社組織があのようなものだと予め承知していたら、転進はしなかっただろう」と振り返って見せていたのだ。