文化というか風俗・習慣・思考体系・歴史の違いだったと思う:
私は動もすると「アメリカ側に立った視点」から我が国を見てしまうので、何度も何度も「文化比較論」として語って来た間に「我が国ほど平等なというか機会均等な国はないな」と思うようになっていた。ここにはやや論旨の飛躍があるかも知れないが、この説は「アメリカとは途方もない格差社会である」と批判することの裏返しであると言えると思っている。
私はこれまでに繰り返して「アメリカでは最大限に見積もっても精々全アメリカの人口の5%の人たちが政治・経済の面を支配している」と論じてきた。また、その支配階層にいる人たちは、先ずIvy Leagueに代表されるような東海岸の私立大学のビジネススクールの出身で、MBAかそれ以上の学位であるPh.D.即ち博士号を持つ最高の格歴の保持者なのである。
しかも、そこに至るまでの学費ともなれば、今日では5~7万ドルの授業料に加えて諸々の費用を合算すれば、優に年間に1,500万円に達してしまうのだ。そのような費用を厭わない階層に属する家柄に育ち、しかも頭脳明晰な者たちが政財界官界に進出して能力を発揮している世界なのだ。一方、我が国では必ずしもそのような経済的にも富有層に属するわけでもなく名家でもない家柄でもない家庭環境で育ってきた若者でも、学業成績が優秀であれば、政界、財界、官界でも最高の地位にまで上がっていけるような、アメリカと比較すれば「極めて機会均等で、平等な世界」と見えるのだ。
私の上司だった二人の有力者は共に、2名のお子さんたちを東海岸の有名な私立大学に送り込んでいた。1980年代末期のことである。当時ではその学費は合計で年間2,000万円に達していたが、お二方にとっては、そのくらいの負担は何でもないほどの年収と資産があったのだと聞かされていた。思わず「一体彼らはどれほどの金持ちなのか。どれほどの年俸を取っているか」と唸らせられた。同時に、これがアメリカなのかと少し解った気がした。
これまでに何度も指摘してきたことで、アメリカの企業社会では年功序列で年俸が決まるわけではないので、立派な経歴というか職歴があり能力と実力が備わっていれば、実績次第で(誇張して言えば)何歳になろうともそれに見合った年俸が取れるようになっている。しかも、その年俸は雇い主である上司と話し合って決まってくるのだ。我が国のような人事部の介入はなく、それこそ実力と実績次第なのだ。極論かも知れないが「実績が上がっていれば、会社全体の利益とは関係なく昇給する契約になっている世界か」と思わせられていた。
我が国ではこのような仕組みになっていないので、会社の成績が振るわなければ優れた技術者でも給料が安いことになるのだとの批判がある。この点について大前研一氏だったと記憶するが「我が国の人事の在り方だとどれほど優れた技術者でも年功序列型賃金に巻き込まれて、毎年少ししか昇給しないので、高給で韓国でも中国にでも誘われれば出ていってしまうのだ」と、その至らなさを寧ろ嘲笑うように指摘していた。
また、何処の何方かは誰だかは失念したが「その会社に多大な利益を生む製品を開発した技術者が表彰されて3千円貰ったそうだ」と語っているのを聞いたこともあった。これなどは平等という美名に隠れた悪平等に近い仕打ちだと思ってしまう。だが、我が国の文化では「優れた功績に禄を以て報いることは、言うべくして不可能なのだ」と思わせられる。この例にはカラーのLEDを開発されてノーベル賞を受賞された中村氏にも当て嵌まるように思える。
我が友YM氏は早くから「韓国で我が電器や半導体メーカーの優秀な技術者たちを超高級で引き抜くか、土日祝日勤務で勧誘し働かせて、彼らの技術を吸い上げている」と指摘していた。この事を某社の元副社長に尋ねてみれば、我が社からも行っていたようだと承知していました」と敢えて否定されなかった。我が国の仕組みでは「能力ある者を別格に優遇できないので、他国にこういう隙を与えている」と痛感した。
ここで、近頃言われ始めた日本型雇用と「ジャブ型」(jobの発音は断じて「ジョブ」ではない)を考えて見よう。私は何れの方式が良いかという議論よりも「その何れが自分に合っているか」と見極めを付けるのが先決ではないのかと見ている。私は正直に言えば、知らずしてその中に身を投じて22年も過ごしてきたので、如何なる事かは認識出来ている。
だから言えることで、私のようにMBAでもなく、外国人で40歳前後になってからアメリカ側に移ったのは余り賢明なことではなかったと、今になって解ってきている。しかし、地位の垂直上昇がない世界ではあっても、人事部がなく年功序列ではない世界で過ごすのは、我が国の会社で雇って頂いていた頃と比較すれば、身持ちも安らかで非常に気が楽だった。しかしながら、競争が激化する一方の環境で生き長らえるのは容易ではなかった。
また、そのそこで生き長らえる為の条件の一つが「上司に評価されていることが絶対的である上に、気に入っていてもらわねば何にもならないということ」だったのである。何らかの事で嫌われてしまえば、如何に努力していても、一寸した失態を演じれば、“Your job was terminated yesterday.”が待っているかも知れない世界なのである。
私の知り合いのハーバードのMBAでIntelのdirector(部長級に毛が生えた程度の地位)である彼は、ある有名な私立の4年制大学を出てからバンク・オブ・アメリカやプライスウオーターハウス等で4年間の実務を経験して、ハーバードのビジネススクールに進んだのだった。彼は名家の子弟だったが、親はそこまでの面倒を見てくれることがなかったので、学費は貯金と車を売って賄ったと聞いた。これも、アメリカ式の「成人した子供は敢えて谷底に突き落とす」手法だと聞いた。
我が社の技術サービスマネージャーだった同僚は州立のワシントン大学で原子工学を専攻してから、何処かでその方面の会社に就職した後に転進して、ワシントン州の我が社の製紙工場の技術職に現地採用された。だが、大学で紙パルプ学を専攻していなかったので管理職になれないと知り、コミュニティ・カレッジの夜間に通って単位を取得して管理職への昇進を果たしたのだった。
彼はその後に副社長にその優れた知性と能力を認められて本社機構に組み込まれるという珍しい出世まで成し遂げた。アメリカでは地方採用は本社とは全く別な組織での採用であり、その身分から本社機構に上がってきたのは、私が知る限りでは彼と我が副社長だけだった。彼らは4年制の大学だけの出身者であり、当然修士号は持っていないのだから、極めて例外的な出世だったのだ。アメリカが超学歴社会だとは言うが、このような昇進の例もあるのだ。
上記のようなアメリカの学歴社会であること、名家というか資産家の子弟ではないと簡単には支配階層には入っていけないのであるという点を、実体験に基づいて語って見た次第だ。ここまでで我が国が彼らの国よりも遙かに機会均等で平等な国であるとお解り願えれば、この一文を草した甲斐があったと思う。