新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私の総合商社論

2020-01-27 15:25:03 | コラム
私の総合商社論:

導入部:
私が1972年6月までお世話になっていた日本の紙パルプ産業界の会社時代には「総合商社(以後「商社」と表記します)とは仰ぎ見る存在で(飢餓輸出も含めて)輸出盛んなりし時代の英雄」でした。しかもその頃は「商社金融」なる融資の方式までが盛んで、製造業者には銀行が貸し込みたがらず商社の金融能力と信用度を活かして、商社経由でしか設備投資が出来ないと言っても良いような傾向がありました。我が国策パルプでは新規の事業の投資にはA産業とM紅経由となって、既存の販売部門には代理店権も与えないという悔しい事態までが生じていました。

その頃の商社の機能は勿論輸出入による需要家との仲介が主体だと思っていましたが、彼等は単に右から左に売り繋ぐだけではなく、金融機関の代行までするほど資金を潤沢に蓄えていました。同時に自社で輸入した製品をユーザーや最終需要家に恣意的に販売するという、言わば配給を執り行うほどの在庫能力と資金の立て替え能力(金利負担の能力)を持つ存在でした。即ち、現在のような過当競争がない時代には、仲介業務だけでも十分に利益が挙げられる時代だったのです。

それが時移り人変わり、私が1972年にアメリカの会社に転出した頃には、一部の需要家には「商社不要論」が声高に唱えられるようになっていて、需要家から中間のマージン率の縮小を要求する傾向が出始めていました。即ち、製造業界に供給過多の傾向が出始めた為に、商社が取るマージンが、最終消費者との中間に入る加工業者等の(国際的?)競争能力(=competitiveness)を弱体化すると公然と言い出す需要家が増えてきたのです。この傾向が「中間で売り繋ぎをするだけの商社機能の冬の時代」の始まりでした。

これは何故かと言えば、それ以前は輸出入の業務には英語の専門語だらけの書類(ドキュメンツと言いました)が使われており、これを理解できていないとL/Cの開設も海外のサプライヤーへの発注も通関業務も出来ないと思われていたのですから。だが、時代の進歩と共に「需要家や最終ユーザーでも英語くらいは解る組織も個人も出てきて「何も商社に依存することはない。自社でやって利益率を改善し、コストを引き下げよう」という傾向が出てきたのです。

私のW社時代の担当範囲内でも、最大の需要者だった客先はいち早く1%程度の総合商社のマージンが余計な負担だと、商社を外してアメリカのサプライヤーからの直接の輸入に強引に切り替えてしまいました。我々サプライヤーとしては信用限度に不安がない顧客から徐々に増えてきた直接取引の要求を受け入れざるを得ないように変わって来たのでした。私はこの種の要求を謹んでお受けしただけで「彼は商社無用論者だ」という芳しくない評判が立てられたのは、正直に言って心外でした。それは受け入れたのは言うなれば「バイヤーズ・オプション」であって、我々海外のサプライヤーが主導した訳ではなかったからです。。

この頃に最も苦労したことは「その永年お世話になった商社に恩義は感じるし、その能力を評価しているが、競争がここまで激化した時代の変化にあっては、世界的な流れである中間業者を排除するのは止むを得ないのだ」と強硬に主張される大手最終ユーザーと、そのユーザーと共謀しているのではないかと商社に疑われた我々の立場を如何にして納得して貰うかでした。その最終ユーザーに「商社と縁を切っては彼等が将来持ってきてくれるだろう新たな商機を失う危険性をご考慮下さい」とも説得した事態でした。結局は商社が不承不承納得した形で決着したのでした。

この次に多くの商社に現れた現象が「単なる輸入代行業者の地位から離れて、海外をも含めて自社のプロジェクトを企画し、自社で海外に投資して製造した原料や最終商品を輸入して貰う形に移行」とでも言えば良い「プロジェクトの時代」がやって来ました。この傾向は大手商社の間にアッという間に広まっていきました。しかも、成功例もありました、様々な形での失敗もありました。何処とは言いませんが、失敗の結果で当時の10大商社の中には不幸にも破綻してしまった会社すら現れました。同時に、財閥系を中心にしてグループ化も強化されたという気もしたのです。

各論:

私の経歴:
敢えてこの点にも触れておこうと思います。私は「商社」という概念を思いきり拡大解釈すれば、商社出身になるかと思っております。それは、私が新卒で1955年に採用された旧国策パルプ工業で配属されたのが、同じビル内にあった直系の販売会社でした。そして、その会社は戦前の三井物産が解体されて出来た第2会社を国策パルプ工業が買収して子会社としたものだったからです。その際に国策パルプへの転進に参加しなかった人たちは別の旧物産系の会社に転じ、後の物産の大合同で三井物産の紙パルプ部門となっていました。

因みに、私が配属された会社の幹部は国策パルの常務が兼務していた社長と代表取締役専務を除けば、幹部は旧三井物産の出身者が占めていたので、会社の雰囲気は三井物産色が豊かでした。

往年の十大商社とは:
前回で「商社冬の時代」などという点に触れましたが、嘗ては10社の大手総合商社が「10大商社」と呼ばれていた時期がありました。その10社とは、三菱商事、三井物産、住友商事という財閥系、伊藤忠商事、丸紅(丸紅飯田)安宅産業、日商岩井(日商)、日綿実業(日本綿花)、東洋綿花、兼松江商でした。現在これらの10社の中で何社の社名が消えてしまったかを考えて見て下さい。安宅産業は破綻したし、日商と日綿が合併して双日となり、東洋綿花は豊田通商に吸収されています。

関西にはこの10社の中で「五綿」と言われていたのが、伊藤忠商事、丸紅、日綿、東綿、江商で、繊維製品の取り扱いを主力としていたのです。その分野から総合商社へと事業の規模を拡大していったのです。また、伊藤忠商事と丸紅はそもそも大建産業という同じ会社だったのでした。

栄枯盛衰とはこういう状況を指しているのでしょうし、同時に私はここに時代の変化の恐ろしさを見出すのです。その移り変わりを間近でというか、海外のサプライヤーの立場から見てこられたのも、実に貴重な経験だったと思っております。

余談の部類でしょうが、紙パルプ産業界の出身者として残念だと思うことを挙げておきますと、今や総合商社の中で「紙パルプ本部」が残っている会社はないという冷厳な事実です。この点ではアメリかでは2000年代の初期に大手の紙パルプメーカーで印刷用紙というか所謂模造紙やアート紙を製造していた会社は、全て事業を売却したか撤退していました。

総合商社では:
優秀な人材の宝庫だと言えるでしょう。今や商社冬の時代などは何処へやらで、伊藤忠商事は何年も大学生の就職希望先の第1位の座を占めていました。私には何故それほど人気が高いのかは解りません。しかし、22年以上もの間にアメリカのサプライヤーの一員として商社を介して、我が国の市場にアメリカの製品を輸出してきた経験から確信を持って言えることは「総合商社とは優秀な人材の宝庫である」です。それは良く考えなくても当然のことで、我が国の上位に格付けされている大学から選りすぐりの優秀な人材を採用するのですから。

しかしながら、後難を恐れずに敢えて言えば、広い範囲にわたって展開されている商社の仕事の中には色々なことを経験してきました。1980年代だったでしょうか、私が親しくしていた某商事の精鋭と軽く一杯やりながら語り合った際に(筆者注:その頃は営業担当者としてはお付き合いで少しは飲んでいましたが)私は彼等が担当する分野の中の一つに「我が社もここに国立一期校出身の若手の精鋭を数名が起用することが出来ました」と誇らしげに言ったのでした。

私は「何もそこはそれほどの精鋭を充てるまでもない分野だと我々専業者は認識している。私には壮烈な人財の浪費だとしか思えない」と率直に批判したのでした。彼等は激怒して一旦退席してしまいましたが、やがて戻ってきて「そういう考え方にも尤もな点もあると思う」と言って和解したのでした。その中の1人で当時は課長でにもなっていなかった若手の切れ者は、常務にまで出世した後で転出した我が国最大の紙器加工の会社で70歳を超えても社長を務めて大活躍しておられるのです。商社には優れた人財が豊富だという一例として上げておきます。

この特定の分野は商社向きでもあり、少ない人員で担当しても大きな売上高が確保できる性質なのですが、何分にも過当競争で利益率は低く信用状態が不安な業者が多いというリスクもあり、最終製品である紙器も常に買い手市場でした。換言すれば、リスクの割りには利益が上がらない「商内」ということです。この「商内」という表現は、旧三井物産の擁護だったかも知れません。

他の商社はこの紙器業界向けの原紙を生産する専業の製紙会社を2社傘下に置いていていました。嘗てその商社にはその分野を管理する地位にあった者が高校の同期生で、個人的にこの難しい分野の系列会社を如何にすべきかと意見を聞かれたことがありました。私の考えは単純明快で「その分野は御社のような絹のハンカチの会社が進出すべき所ではなかったと思う。手を引くべきか否かの相談ならば、早い時期に撤退された方が良い」でした。そして撤退して、後にその助言を感謝されました。これは自慢話ではなく、商社の仕事にはその会社毎に向き不向きがあるという意味なのですが、これ以上の説明は長くなるから省略します。

商社は格好良い働き場所か:
そこで、ここに採り上げるエピソードなどは、未だ社会の実態に触れていない大学生たちが商社をこのように見ているのかと思わせてくれます。

ここでは敢えて伏せ字にしますが、X商事で部長を務めた後に、系列企業の社長を経験された方が、嘗て以下のような経験談を聞かせてくれました。それは「私の所には多くの大学生から是非御社に採用して頂きたいのでどうすれば良いのでしょうか」と尋ねてくる。希望する理由を訊くと「商社に入れば高価な服を着てブリーフケースを片手に海外を飛び回って活躍できるから」というような、良く言えば夢を抱いているようだ。そこで、先ず系列のスーパーマーケットに案内して売り場の裏側で魚をさばき、牛肉の目方を計ってトレーに乗せているような仕事をしているあの人は国立大学出身の秀才だと言って聞かせると半分ほどの者は「結構です」と言って引き下がる。

それでも引き下がらない者たちは、矢張り傘下に置いている古紙回収から選別して製紙会社に納入する作業の現場に連れて行って「あの埃にまみれで作業をしている係員も某国立大学の出身者だ」と聞かせると引き上げていく。我が社に採用されようと思えば、そこまでの試練を経験する覚悟が必要で、商社に勤務するということは決して君たちが思い描いているような綺麗事ではないと納得させねばならないのだ」ということでした。ここで引用されたのはやや極端な例ではありますが、商社だろうと製造業であろうと、実社会に出て働く事はこのように綺麗事ばかりではないと言う点を語っておられたのだと解釈しました。

確かに商社では他の業種と比較すれば給料は高いというのも事実だろうと思います。それは、製造業でない以上、人を大事にして良い待遇をするのは当然でしょう。だが、そうすることのコインの裏側にはその給与に見合った働きをしなければならないし、仕事の量も負担も大きくなっていくものだということです。

新卒で入社してきた者は先ず配属された部門で商社の仕事の基本である「受け渡し業務」から始まって国内外向けの商売に必要な書類(ドキュメンツ)の取り扱い、内勤と進んで行きます。商社によっては海外出張と駐在員となる為の資格というか能力を試す英語の試験が課されています。私が知る範囲では、Q商事で新入部員が2~3日ほど同じスーツで勤務しているので理由を尋ねて見ました。答えは「仕事をその日のうちにこなしきれず、会議室に椅子を並べて社内泊しているのだ」と言うのでした。

彼は「これは我が部門の仕事の割り振りがおかしいのか、あるいは私の能力が未だ未だ不足しているのかの何れかと思います。同期入社で花形の部門に配属された者は既に1週間連泊しています」と語ってくれました。こういう状況が全ての商社にある訳ではないと思いますが、商社と言うか会社に勤めると言うことは、こういうことも覚悟しておく必要があると言うことでしょう。

総合商社を分析すれば:
専門的知識:

商社が多くの点で際立って優れた存在である事は明らかですが、万能選手である訳でもありません。ここでは先ず商社の精鋭たちでも専門的知識が十分ではないという点で苦労する場合もあれば、進出した国内市場でそれまでに経験したことがなかったような伝統的な流通機構との競合もあったのです。そう言った実例を私が永年勤めてきた紙パルプ業界の場合を主体として触れてみます。

商社に進出した業界によっては向き不向きがあるとは既に指摘しました。私の紙パルプ産業界の中でも「紙」の分野には、商社は後発で進出してきました。その為に徳川時代から延々と紙の流通分野を担当してきた紙商たちが手を出さなかったリスクが大きいが成長性は高い分野に出て行かざるを得ない傾向もありました。しかも、戦前からのメーカーと紙商(卸商でも良いでしょうか)たちが固めている洋紙(印刷や筆記用の紙)の分野に出ていく為の専門的知識は不十分で自然に苦戦に追い込まれました。

私が見るところでは「商社は輸出入の仕事に特徴があり、その能力を活かして紙パルプの業界に進出してきたのであって、専業者のような専門的知識で勝負している訳ではない。である以上、その知識の有無を論じるのは適切ではない」と思っていました。私の担当分野ではその点を我々サプライヤーが補って「コラボ」しておけば良いと考えていました。

そこで商社が採った手法が既に述べた商社金融であり、得意分野だったパルプ等の原料を中小のパルプ製紙会社に供給し、そのリスクをヘッジする為に、その会社の製品である紙や板紙類を買い入れては印刷や紙器業者に販売するという手法を採っていました。

その限りにおいては、紙の物理的乃至は化学的(科学的でも良いでしょうが)な知識が絶対的に必要ではなかったようです。だが、品種が多岐にわたる洋紙の分野では基本的な知識は必須で、容易に商社の進出を許しませんでした。そこで何社かが編み出した手法が、紙とパルプの販売の分野に特化した専業者である系列会社を設けるやり方でした。ここでは当然ながら伝統的な流通機構である各メーカーの代理店や卸商との競合が発生しました。ここでの結論めいたことを言ってしまえば、現在では後発の商社系販売会社も何とか既存の流通機構を混乱させることなく共存できている状態であるとでも言えば良いでしょうか。

業態の変化:
紙パルプ産業界向けには内販会社を設けて進出していた例を挙げましたが、三菱商事も伊藤忠商事も傘下にコンビニエンスストアを置いていますし、住友商事はスーパーマーケットも設けています。伊藤忠商事にはソーセー類のプリマハムもあります。ここに見られる傾向は横方向への多角化とでもいえば良いかと思う「売買の仲介ではない業態」への進出という変化でしょうか。

また、財閥系の商社でも必ずしもそのグループ内で優先的に仕事が貰える訳でもないような例も見てきました。少し古い話になりますが、キリンビールがアメリカで最も人気が高いオレンジジュースのブランドの“Tropicana”を国産化する権利を得た際に、その特殊な紙パックを受注できたのは三菱商事ではなく、大日本印刷だったのでした。これは、競争が激しい現代にあっては、必ずしも同じグループ内の商社を優先しない時代だという厳しい例でしょう。

英語力:
後難を恐れずに言えば、私は経験上も「一騎当千の商社の精鋭たちの英語力が他の産業界の人たちよりも遙かに優れているだろうと思うのは、飽くまでも一般論としては正しくはない」と思っています。それは22年以上も商社とアメリカのサプライヤーの一員として仕事上で密接に付き合い、1997年からは某商社と契約して3年間内側から見てきたから言えるのです。より簡単に言えば「我が国の学校教育の英語で育てられてきた普通の方々の英語力と、商社に採用された大学卒の精鋭たちのそれと大きな違いがあるはずがない」ということです。これは我が国の学校教育の至らなさの一つである実用性の欠如を指して言っているのです。

私がその商社で個人指導を依頼された若手は在学中に応募しようとした際に、所謂リクルーターに「英語を余程良く勉強してこない限り大変な苦労をするぞ」と予め言われていたそうです。それは会話能力であるとかそういう実務的なことも含めて、新卒で入ってきた者は先ず担当する受け渡しの仕事では輸出入関係の書類(ドキュメンツ)は全て英語であり、散りばめられているのは全て貿易の専門語(今でもそういう表現があるかどうか知りませんが、インコタームス)ですから、学校教育の英語が解っている程度では通用しないのです。それに、その商社では「海外に出張できる段階」、「英語圏に主張できる段階」、「海外に駐在できる段階」と3段階の英語の試験があり、それに合格できないと憧れの海外出張などは一夜の夢と消えるのです。私がお手伝いした仕事の中には、このような英語力を如何に強化していくかもありました。

要するに「我が国の英語教育は実践的ではない」ということは商社に入ってみれば良く解るということだったのです。勿論、商社には優れた英語力の持ち主は数多くいました。それは元々優秀な彼らが国の内外において英語で仕事をし、更に彼等自身が懸命に勉強もしたし、海外駐在の現場でも苦労したからです。私は持論として「我が国の学校教育の英語だけで育った人が、英語圏の人たちと完全に意思の疎通が図れる会話能力があるとか、native speaker並みの発音で会話が出来たら、それは化け物であり、奇跡を通り過ぎた現象である」と言ってきました。

英語圏の人たちの会社と取引する為の英語力はTOEICやTOEFLで何点取れたかではなく、如何に論旨を構築し、彼ら外国人に自分の主張を理解させて説得できるかが問題であるということです。ペラペラであれば良いというのではありません。私の従兄弟は日比谷高校から東大出身の精鋭でしたが、某商社アメリカの支店に派遣された当初は「アメリカ人の英語は何処で始まって何処で切れたかが全く聞き取れず苦労した」と語っていました。それが努力した結果で、その支店で一番の英語の使い手になっていたという評判を聞きました。誰でも生まれたばかりでは赤ん坊なのですが、3年経てば3歳になるということでしょうか。結局は得意の英語論になってしまったようです。


26日の大阪女子国際マラソンの結果に思う

2020-01-27 08:17:32 | コラム
松田瑞生の優勝は感動的だったが:

昨26日の大坂マラソンでの松田瑞生さんのアフリカ系走者を引き離しての優勝は、確かに感動的だった。記録は2時間21分14秒で陸連の瀬古利彦だかが設定したオリンピック代表への目標記録を超えていた。私はこの種目は今や男子と同様にアフリカ勢に席巻されているので、陸連やマスコミがどれほど盛り上げようとしても、遠慮のないところを言えば、嘗ての高橋尚子さんや野口みずきさんたちのようにオリンピックを制覇する可能性は低いと思っている。


すると、そこにフジテレビが画面に出した日本記録は2005年に野口さんが出した2時間19分12秒だというのに驚かされた。何と陸連(なのだろう)が設定した標準記録は14年前の日本記録以下だったのだった。しかも現在の世界記録はケニアのコスゲイ(Brigid Kosgey)が出した2時間14分04秒だとWikipediaが教えてくれた。「陸連は相変わらず何をやっているのだろうか」というのが、偽らざる残念な感想だった。もしも少し慰めがあれば、松田さんは例のNikeのカーボンファイバーのバネ入りの靴を履いていなかったということくらいだ。

私は昨日のマラソンのように来たるべきオリンピックを盛り上げようと努力するのは良いことだと思っているし、応援もするべきだと思っている。だが、余りにも世界の水準からかけ離れているだけではなく16年前の日本記録以下の標準タイムを設定している苦しさには同情したくなった。男子の方はこれほど世界記録に引き離されていないが、IOCの明らかな横車でいきなり競技会場を東京から札幌に移されては、代表に決定済みの2人も苦しいのだろうと同情している。

正直に言えば、私は2006年1月から心筋梗塞等の大病が続いたので、まさか2020年の東京オリンピックまで生存できるとは期待していなかったので、オリンピックには関心が薄かったのだ。それが何とか87歳の今日ここまで長らえたが、未だ7月を無事に迎えられるか確信がない。それは考えてもご覧なさい、今回のようにいきなりコロナウイルス性の肺炎が中国で始まってあのような勢いで(推定)世界中に広まっているではないか。その中国からあれほど旅行と称して避難してくる輩が多いのでは、いつ何時この後期高齢者が罹病するか解らないのではないのか。

私は世を挙げて「東京オリンピックを成功させよう」と盛り立てているのは尤もだと思っている。しかし、英語の講釈めいたことを言えば「成功」という意味の“succeed”という言葉は、私の感覚では精々「上手く行く」と言いたい時に使われていると思うのだ。即ち、私が言いたいのは「オリンピックを恙無く上手く行くようにしよう」と努力して貰いたいのだ。そう言う訳は、今や気候変動が予期した以上に激しく、今年には昨年以上の天災が夏場に襲ってくるかも知れないし、あの肺炎がオリンピックの前に収束するか否かだって不明ではないかと危惧するのだ。

誰が予測か予想したかも知らないが、金メダルとやらを31個獲得できるようだ。先日、その内訳を見る機会があったが、全てとは言わないが個人種目ばかりだった。団体競技では先頃のラグビーのW杯の結果が示したように“one team”とやらに纏まれば、アフリカ系や白人たちにも一矢報いることが出来たではないか。団体競技の上部団体ももう少し奮起してメダル獲得とやらの圏内に一丸となって入って行けるように奮起して貰いたいのだ。その直前にあのU-23のサッカーの体たらくを見せられたのでは、サッカー出身者としては大いに不満だし不安だ。頼みますよ、田嶋さん。