新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

11月29日は大いに多忙だった

2018-11-29 15:31:40 | コラム
物の弾みで半日で6箇所を:

まさか自分でこういう事態を招くことになるとは夢想だにしていなかったので、13時半に帰宅した時には昼食も摂っていなかったことも手伝ってか疲労困憊だった。その半日の大活躍を振り返ってみよう。恐らく多忙だった在職中でも、半日でこれほど多くの先を尋ねたことはなかった気がする。

最初は10時の約束で訪れた新宿駅西口の銀行の支店だった。用件は有り余り試算をどう処理すれば良いかという真剣な(?)な相談だった。「嘘を言うな」と何処かで声がする気もする。11時に支店を出てJR新宿駅に向かって、高田馬場駅前の耳鼻咽喉科に再診に行こうと山手線のプラットフォームに。この駅は残酷で、この15番線に上がるエスカレーターもエレベーターもない。心拍数をコントロールする薬を服用している身には地獄の責め苦だ。

11時半前に耳鼻咽喉科の医院に到着すると、前回の初診の時とは違って待合室がガラガラで、直ちに呼ばれるという幸運。アレルギー性鼻炎が一向に収まらないのは温度・湿度の変化に老化したのだろうか体が付いていけないだけとまた同じ事を言われ、鼻からの吸入を終え処方箋を頂いて外に出る。出た途端にまた鼻水が出てくるという状態。次のバスは12時37分なので、その45分間の有効活用を図ろうと直ぐ目の前のジムに入って入浴することにした。

ゆっくりと寛いでから駅前の書店で週刊文春を購入して戻れば、丁度バスが来たところ。次には我が家の近所の調剤薬局に回らねばならないので、我が家の直ぐ近くのバス停で下車して薬局まで2~3分歩くと、早くも13時を回っていた。薬局はそれほど混雑しておらず短時間で終了。外に出て、「そうだ、この際週刊新潮も買ってみるかとファミリーマートに立ち寄った。ここで家内に連絡すると、我が家の反対側にあるイオン系のマイバスケットでの買い物の指令が来た。

そのマイバスケットに入って漸く空腹である事に気が付いた。それはそうだろう。朝から動き回って水一杯も飲んでいなかったと言いたいが、ジムでは風呂を出た後で水は少し飲んであった。そこにワッフルが4個入ったケースが30%引きとなっていたので迷わずに購入し、他の指令された買い物を終えて家に帰れる態勢が整った。そこから歩きながら数えてみれば、6箇所も回っていたのである。最早普段は2箇所回ってもヘトヘトになるのに、気が付けば6軒とはよくぞ弱った体が保ったものだと、我と我が身を褒めたやりたくなった。

帰宅して遅い昼食を終えた後で、どっと疲労感が襲ってきた。それならば横にでもなって休んでいれば良いものなのに、矢張り貧乏根性というか「毎日更新」に忠実なのか自分でも判断できないが、こうして記録に止めておこうと思い立った次第だ。明日の体調がどうなってしまうだろうかと、書き終えて(打ち終えてか?)漸く気が付いたのだ。大丈夫かな?!


曽野綾子さんの「透明な歳月の光」

2018-11-29 08:30:24 | コラム
「カニみたいに指を立てて」:

私は掲題の曾野さんが産経に水曜日に掲載されるコラムを愛読している。曾野さんはアフリカ等の貧困の国を回られて屡々啓蒙的に厳しいことを言われるが、時には独特のユーモアを籠めた時代を批判する独特の鋭い皮肉を言われるのが良いと思っている。私が曾野さんのコラムを好む背景には年齢が近いこと(確か当方が学校年齢で1期下だったと思う)と、我が母校と親戚関係にあるような大学のご出身である事の影響もあると思う。

昨28日の「透明な歳月の光」でも私の興味を惹く事象を二つを述べておられた。その後者が「カニみたいに指を立てて」である。これだけは意味がわからないだろうが、曾野さんは「いい大人が同じように、カニみたいに指を立てて喜ぶようになったら世も末だ。教師は子供たちに意味のわからない動作は友達がやっても決してするな、とと教えなければならない」と言っておられた。私はこの「カニみたいに」は俗に言うじゃんけんのチョキの形である「ピースサイン」だと解釈した。

私にはこの曾野さんの指摘は将に我が意を得たりなのだった。私は我が国で流行りまくっている何かと言えばチョキを出す動作が軽佻浮薄であり、大衆迎合であり、自らを「非知識階級である」と声高らかに名乗りを上げているのと同じだと思って、忌み嫌っているし、そういうことをする非常に多くの連中を軽蔑している。特に、集合写真や芸人などと共に写真を撮る時には全員が例外なしに「チョキ」を出しているのを見せられると胸が悪くなる、「何時から我が国民はこれほど低級化したのか」と。

だが、常に何だかんだと批判的なことを書いてきた私は、何故かこれまでに一度も「この(グーには負ける)チョキ出し」を批判してこなかったと、曾野さんの指摘を読んで深く反省した次第だ。話は本筋から逸れるが、ここに「グー」としたのもテレビが使う奇怪な用語で、彼らは「拳骨で殴った」とは言うことなく何故か「グーで殴った」と言うのだ。それならピースサインなどと言わずに「チョキサイン」と言えと言ってやりたくなる。

私は如何なる場面にあっても間違ってもチョキサインなど出そうとは思わない。それは自分はそれほど下らない流行に乗せられるような軽佻浮薄な人種ではないという誇りがあるし、曾野さんが言われたように「意味がない動作」をする理由も根拠も動機も見つからないからだ。私は「チョキサイン」流行は矢張り「一億総白痴化」の一端であろうと解釈している。

曾野さんは更に「ゆるキャラ」がお好みでなかったようで、チョキサインの批判の前に「ゆるキャラは愛らしいということになっていて(本当か?ぶざまなデブが多いけれど)どこかメルヘンチックだと思われている。しかし表現しているものは、ただ現実逃避の意味のない物語だけだろう。ああいう怪物に駆け寄って写真を撮りたがるのは、せいぜい10歳くらいの子供だろう。」と指摘された。そこから先が上記の「いい大人が」に続いていくのだ。

実は、私もこの「ゆるキャラ」なるものが何故受けるのか、何故あそこまで持て囃されるのかがサッパリ解らなかった。もしかしてそれほど老化したのか、時代に遅れたのかと疑ったことがあった。正直に言えば「何であんな下らないものが・・・」と感じている。だが、自分が時代遅れだとは考えたこともなければ、ゆるキャラなるものを見に行きたいとも思っていない。私には私の誇りがあるし、知識階級の1人としての矜持だってあるのだから。