新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

曽野綾子さんの「透明な歳月の光」

2018-11-29 08:30:24 | コラム
「カニみたいに指を立てて」:

私は掲題の曾野さんが産経に水曜日に掲載されるコラムを愛読している。曾野さんはアフリカ等の貧困の国を回られて屡々啓蒙的に厳しいことを言われるが、時には独特のユーモアを籠めた時代を批判する独特の鋭い皮肉を言われるのが良いと思っている。私が曾野さんのコラムを好む背景には年齢が近いこと(確か当方が学校年齢で1期下だったと思う)と、我が母校と親戚関係にあるような大学のご出身である事の影響もあると思う。

昨28日の「透明な歳月の光」でも私の興味を惹く事象を二つを述べておられた。その後者が「カニみたいに指を立てて」である。これだけは意味がわからないだろうが、曾野さんは「いい大人が同じように、カニみたいに指を立てて喜ぶようになったら世も末だ。教師は子供たちに意味のわからない動作は友達がやっても決してするな、とと教えなければならない」と言っておられた。私はこの「カニみたいに」は俗に言うじゃんけんのチョキの形である「ピースサイン」だと解釈した。

私にはこの曾野さんの指摘は将に我が意を得たりなのだった。私は我が国で流行りまくっている何かと言えばチョキを出す動作が軽佻浮薄であり、大衆迎合であり、自らを「非知識階級である」と声高らかに名乗りを上げているのと同じだと思って、忌み嫌っているし、そういうことをする非常に多くの連中を軽蔑している。特に、集合写真や芸人などと共に写真を撮る時には全員が例外なしに「チョキ」を出しているのを見せられると胸が悪くなる、「何時から我が国民はこれほど低級化したのか」と。

だが、常に何だかんだと批判的なことを書いてきた私は、何故かこれまでに一度も「この(グーには負ける)チョキ出し」を批判してこなかったと、曾野さんの指摘を読んで深く反省した次第だ。話は本筋から逸れるが、ここに「グー」としたのもテレビが使う奇怪な用語で、彼らは「拳骨で殴った」とは言うことなく何故か「グーで殴った」と言うのだ。それならピースサインなどと言わずに「チョキサイン」と言えと言ってやりたくなる。

私は如何なる場面にあっても間違ってもチョキサインなど出そうとは思わない。それは自分はそれほど下らない流行に乗せられるような軽佻浮薄な人種ではないという誇りがあるし、曾野さんが言われたように「意味がない動作」をする理由も根拠も動機も見つからないからだ。私は「チョキサイン」流行は矢張り「一億総白痴化」の一端であろうと解釈している。

曾野さんは更に「ゆるキャラ」がお好みでなかったようで、チョキサインの批判の前に「ゆるキャラは愛らしいということになっていて(本当か?ぶざまなデブが多いけれど)どこかメルヘンチックだと思われている。しかし表現しているものは、ただ現実逃避の意味のない物語だけだろう。ああいう怪物に駆け寄って写真を撮りたがるのは、せいぜい10歳くらいの子供だろう。」と指摘された。そこから先が上記の「いい大人が」に続いていくのだ。

実は、私もこの「ゆるキャラ」なるものが何故受けるのか、何故あそこまで持て囃されるのかがサッパリ解らなかった。もしかしてそれほど老化したのか、時代に遅れたのかと疑ったことがあった。正直に言えば「何であんな下らないものが・・・」と感じている。だが、自分が時代遅れだとは考えたこともなければ、ゆるキャラなるものを見に行きたいとも思っていない。私には私の誇りがあるし、知識階級の1人としての矜持だってあるのだから。



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