新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

安倍総理のPearl harbor訪問に思う

2016-12-29 08:18:52 | コラム
戦争中は言わば思考停止状態だったと思います:

今朝の産経で田久保忠衛氏が「小学校3年で戦争開始で中学1年で終戦の詔勅を聞いた」と書いておられましたが、私と全く同じ年譜です。でも、私は戦争の時代を体験しましたが、小学校の児童であり、当然ながら直接の戦争体験ではありません。子供心の記憶があります。

昭和16年12月8日に「西太平洋上で戦闘状態に入れり」との放送をラジオで聞いて、偶々いた隣の叔母の家の台所で「やった、やった」と一同小躍りした光景を未だに明確に覚えております。それからの戦争の経過は子供心にも狂気としか思えない事が多々ありました。大本営発表を疑うようなことが出来る訳がありませんでしたが、段々状況が不利になってきたのか程度は解りました。

その上に中学校に入った昭和20年の4月前後のあの連日連夜の空襲では最早13歳でも何がどうなっているかは見えてきました。そこに「本土決戦」になることを前提で「竹槍の訓練」が始まったことには「これは如何に何でも無理があるのではないか」と感じましたが、逆らうことも何もした者はいなかったという記憶しかありません。そういうことが出来る雰囲気ではなかったのです。

何れにせよ、「鬼畜米英」を相手に戦うのであれば「欲しがりません勝つまでは」等々の標語が飛び交い、中学1年生が動員されて辻堂海岸の防風林で松の木の根を掘って「そこから松根油(ショウコンユ)を作って戦闘機の燃料にするから頑張れ」と命令されたのには、陳腐な表現で済みませんが「???」でした。農村動員もお国の為だと言われれば、喜んで出かけました。帰りにお百姓さんから土産に貰えた野菜が貴重品でした。

今でも我が国ではスポーツ界でも何かと言えば「一丸となって」と言いますが、当時は「一億打って一丸となって」だったと記憶します。一丸となって鬼畜米英と戦おうとの精神の下に本当に団結していたと思っております。対戦相手のアメリカも当時言われた「物量の豊富さと強さ」を駆使して国を挙げて攻め立ててきましたし、遂には原子爆弾にまで依存しました。思考停止状態にあった我々、で悪ければ私、はそのことが何を意味するかを把握出来ませんでした。

私が病弱で一時的のつもりで鵠沼に転地療養していた間に、主だった家財を残してきた小石川区の家は4月13日の空襲で焼失しました。群馬県出身の家内の郷のお寺も戦災に遭ってます。私は誰を、何を恨むと言うよりも、狂気の戦争の間のことでは何を言っても仕方がないと諦めていました。それが何と戦争が終わった27年後に偶然の積み重ねで、そのアメリカの会社に転進してしまったのです。全てを凝縮して言えば「生活の為の手段」だったというのが結論であり、正当化の理屈になりましょうか。

と、ここまで申し上げましたが、私はオバマ大統領の広島訪問と今回の安倍総理の“Pearl harbor”(何で真珠港でなくて真珠湾と訳したのでしょうか?先人の英語の知識は素晴らしいと思います)訪問については、何か言おうと思っておりません(「コメントしません」というような日本語擬きを使いません)。「あの頃を体験せず、あの戦争がどんなことだったかを知らない人の方が多くなってしまった時代です」というのが感想です。



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