英語の公用語化論:
「頂門の一針」第3824号に平井修一氏の「企業の英語公用語化は不可避?」との論文が掲載されていた。そこでそれに触発された私の考えを述べ行こうと思う次第。
私は何時のことだったか、楽天やユニクロでの社内の公用語を英語にするという方針を批判したことがあります。その際にも平井氏が今回引用された本田の伊東社長の否定論も引用したと記憶します。以下には”English”(=native speakerたちの言葉)と「英語」(我が国の学校教育における科学としての英語)を別けて使いますのでご理解のほどを。
我が国の英語(乃至は語学)教育の問題:
私が否定する理由は第一に「世界で通用するようなEnglishを使いこなせるようになりたいのなら兎も角、我が国の学校教育で教え、TOEICなるものでその仕上がりの度合いを試す『科学としての英語』で社員同士が会話か対話をするようになっても、ほとんど意味が無いと言うかnative speakerたちと自在に切り結べないのではのではないか」と危惧するのです。
これを言う訳はその『英語』で育ってこられた我が国の一流企業の方々の英語はEnglishではなく、命の遣り取りのような現場では効果が挙がらなかった場面を幾らでも見てきたからです。これは通じないという意味ではなく、本当にnative speakerたちに理解させるのに手間取って、まだるっこい思いをさせられたから言うのです。通訳が出来る者がそこにいるではないかという意味もあるとご理解下さい。
しかも、我が国の英語教師たちの外国人離れした発音で育ってきた方々には、native speakerたちのアクセントやイントネーションに直ぐにはついていけずに難渋しておられたのをずっと見てきたという経験もあります。これも我が国の英語教育の結果と言うか負の成果の一つです。あの発音で育てられれば聞く耳が発達しないのです。実を言えば、私も英語の現場から離れて21年も経った今では「耳」が大いに問題と化しています。
文化比較論:
平井氏が文中に引用された伊藤忠商事の北村氏の
<楽天の英語公用語化の内容を知り「語学力は国際化の一つの要素だが、ま ず日本の文化を理解していないとグローバル化に対応できるとは思えな い」と述べられたノーベル賞学者の赤崎教授の言葉が思い出された>
は誠にその通りです。この点は私の英語教育改革論だったか、その批判で採り上げたことです。即ち、「Englishによる意志の表現と相手が言うことを出来る限り正当に理解出来るような、ある程度以上の水準に達する為には英語圏のある程度以上の階層に属する人たちと、その国との文化(ある集団なりグループなりの言語・風俗・習慣・仕来り・思考体系を言う)の理解と認識が必須で、その為にはそもそも自分が何者であるかを承知しておくべきだ」と主張してあり、これは私の経験にも基ずく信念であります。
アメリカの会社に籍を置いた22年半というか、広い意味ではそれ以前の終戦直後からそういう環境にあって英語で(アメリカ語?)話すことを半ば強制されて来た者として言うことは「違いを弁えずして異文化の中に入っていくことは危険だ」であり、日本の学校教育だけ乃至はそれを主体して育った来た方々同士で「英語」で話し合うことが真の意味での国際場裏というかそのような環境に慣れた人材の育成になるかとの疑問です。簡単には成れないという意味ですが。
換言すれば、私自身はアメリカ語の中で育って来て、それを媒介にして「国際的とは何か」を言わば”OJT”で学んだだけで、ヨーロッパに文化にはほとんど直接に長時間は触れてはいないのです。それでも有り難いことに(有り難迷惑かも知れませんが)国際人と見なされることがあったのです。忸怩たる思いもありました。
それに、私のEnglishの欠陥は「何と言っても獲得形質ですから、相手がnative speakerたちの場合はその場で真似が出来ますし、その雰囲気に巻き込まれて最大限の効果を発揮しますが、真似しても仕方がない(失礼?)邦人相手では力を発揮できないことが多かったのです。私の言わんとすることの意味をお解り願えると思いますが、例えばゴルフのハンディキャップがシングルだった実弟は「参考にならない」と言って私とラウンドしませんでした。
結論:
社内で英語を公用語にすることの意図は誠に壮なるものがあると認識はします。だが、見本になるnative speakersが周囲にいないことには最低限の効果でも発揮しないと危惧するのです。我が国の学校教育で育った方たちが知らず知らずに最も苦しめられるのが”idiomatic expressions”であり、禁忌品である”swearwords”に知らぬ間に引き込まれてしまうことかと思います。経験上も彼らはこういう問題点を教えられてこなかったと解るのです。
結局私の主張の結びは「我が国の世界的にも低水準になる語学(でなければ話し言葉と書き言葉を区別して教えていない)教育の改革にあるということに帰結します。しかし、改革しようにも改革できる水準に達している教師が極めて少ないことも大きな問題でしょう、将来にわたっても。
「頂門の一針」第3824号に平井修一氏の「企業の英語公用語化は不可避?」との論文が掲載されていた。そこでそれに触発された私の考えを述べ行こうと思う次第。
私は何時のことだったか、楽天やユニクロでの社内の公用語を英語にするという方針を批判したことがあります。その際にも平井氏が今回引用された本田の伊東社長の否定論も引用したと記憶します。以下には”English”(=native speakerたちの言葉)と「英語」(我が国の学校教育における科学としての英語)を別けて使いますのでご理解のほどを。
我が国の英語(乃至は語学)教育の問題:
私が否定する理由は第一に「世界で通用するようなEnglishを使いこなせるようになりたいのなら兎も角、我が国の学校教育で教え、TOEICなるものでその仕上がりの度合いを試す『科学としての英語』で社員同士が会話か対話をするようになっても、ほとんど意味が無いと言うかnative speakerたちと自在に切り結べないのではのではないか」と危惧するのです。
これを言う訳はその『英語』で育ってこられた我が国の一流企業の方々の英語はEnglishではなく、命の遣り取りのような現場では効果が挙がらなかった場面を幾らでも見てきたからです。これは通じないという意味ではなく、本当にnative speakerたちに理解させるのに手間取って、まだるっこい思いをさせられたから言うのです。通訳が出来る者がそこにいるではないかという意味もあるとご理解下さい。
しかも、我が国の英語教師たちの外国人離れした発音で育ってきた方々には、native speakerたちのアクセントやイントネーションに直ぐにはついていけずに難渋しておられたのをずっと見てきたという経験もあります。これも我が国の英語教育の結果と言うか負の成果の一つです。あの発音で育てられれば聞く耳が発達しないのです。実を言えば、私も英語の現場から離れて21年も経った今では「耳」が大いに問題と化しています。
文化比較論:
平井氏が文中に引用された伊藤忠商事の北村氏の
<楽天の英語公用語化の内容を知り「語学力は国際化の一つの要素だが、ま ず日本の文化を理解していないとグローバル化に対応できるとは思えな い」と述べられたノーベル賞学者の赤崎教授の言葉が思い出された>
は誠にその通りです。この点は私の英語教育改革論だったか、その批判で採り上げたことです。即ち、「Englishによる意志の表現と相手が言うことを出来る限り正当に理解出来るような、ある程度以上の水準に達する為には英語圏のある程度以上の階層に属する人たちと、その国との文化(ある集団なりグループなりの言語・風俗・習慣・仕来り・思考体系を言う)の理解と認識が必須で、その為にはそもそも自分が何者であるかを承知しておくべきだ」と主張してあり、これは私の経験にも基ずく信念であります。
アメリカの会社に籍を置いた22年半というか、広い意味ではそれ以前の終戦直後からそういう環境にあって英語で(アメリカ語?)話すことを半ば強制されて来た者として言うことは「違いを弁えずして異文化の中に入っていくことは危険だ」であり、日本の学校教育だけ乃至はそれを主体して育った来た方々同士で「英語」で話し合うことが真の意味での国際場裏というかそのような環境に慣れた人材の育成になるかとの疑問です。簡単には成れないという意味ですが。
換言すれば、私自身はアメリカ語の中で育って来て、それを媒介にして「国際的とは何か」を言わば”OJT”で学んだだけで、ヨーロッパに文化にはほとんど直接に長時間は触れてはいないのです。それでも有り難いことに(有り難迷惑かも知れませんが)国際人と見なされることがあったのです。忸怩たる思いもありました。
それに、私のEnglishの欠陥は「何と言っても獲得形質ですから、相手がnative speakerたちの場合はその場で真似が出来ますし、その雰囲気に巻き込まれて最大限の効果を発揮しますが、真似しても仕方がない(失礼?)邦人相手では力を発揮できないことが多かったのです。私の言わんとすることの意味をお解り願えると思いますが、例えばゴルフのハンディキャップがシングルだった実弟は「参考にならない」と言って私とラウンドしませんでした。
結論:
社内で英語を公用語にすることの意図は誠に壮なるものがあると認識はします。だが、見本になるnative speakersが周囲にいないことには最低限の効果でも発揮しないと危惧するのです。我が国の学校教育で育った方たちが知らず知らずに最も苦しめられるのが”idiomatic expressions”であり、禁忌品である”swearwords”に知らぬ間に引き込まれてしまうことかと思います。経験上も彼らはこういう問題点を教えられてこなかったと解るのです。
結局私の主張の結びは「我が国の世界的にも低水準になる語学(でなければ話し言葉と書き言葉を区別して教えていない)教育の改革にあるということに帰結します。しかし、改革しようにも改革できる水準に達している教師が極めて少ないことも大きな問題でしょう、将来にわたっても。