新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

8月14日 その3 安倍総理の70年談話

2015-08-14 14:03:53 | コラム
公明党は「お詫び」を入れよと要望:

先程TBSの「ヒルオビ」とやらを見ておりましたところ、公明党は総理の談話に何としても「お詫び」を入れて貰いたいと要望し、これが最後通告だと言ったと報じられていました。しかも、平和を標榜する創価学会にとっては安保法制案はその趣旨に反するので、離党した者までいたというので、些か呆れております。そこには韓国からの介入もあり、中国からの侵略への反省を求めるが如き干渉があるとも解説されていました。

私はW社の製品においても我が国の細かく厳し過ぎる(”too demanding”等という表現が当たりますが)品質に対する要求基準を屡々満たせなかったために、お詫びせねばならぬ場面に何百回も遭遇しました。しかし、私は彼らアメリカ人はそれが自社の責任であると解りきっていても「申し訳ない」か「お詫び申し上げます」に相当する事をのっけから絶対に言はないと承知していましたから、分かの違いに不馴れな間は随分苦労したものです。

そこで遂に一計を案じて「解った。君らは謝罪する気はないようだが、我が国では潔く自らの罪・咎を認めて謝る事から入っていかないと、クレーム補償の次の段階の交渉に進めないのだ。故に、君らは何か勝手に適当な謝罪の如き台詞をなるべく客先の少しでも英語が解る人にも解らないような捻った表現で、モゴモゴ言って深く頭を下げていて貰いたい。後は私の通訳の技術で誠意ある謝罪の意を表して置くから」と説得しました。

具体的には、品質問題話し合いの交渉の席についた際に先ず真っ先にお詫びから入って、一切の言い訳や屁理屈と誤解されかねない弁解を絶対にしないことと、繰り返し繰り返し言い聞かせました。最後には「謝るのが怖ければ何でも良いから適当に言っていろ。後は俺に任せろ。悪いようにはしないから。兎に角何とかしてお詫びの意思を表して見せろ」とまで言いました。そして繰り返してこのような勧進帳のようなお詫び行脚をさせ続けました。

時にはある程度以上英語を聞いて理解する方がおられて苦境に追い込まれた事もありました。しかし、英語で謝罪の意を表現し誠意ある通訳?を続けた結果で、アメリカ人たちも解決の交渉を進めるためには寧ろお詫びから入るのが必要不可欠な条件だと認識し始めました。

更に、その次ぎに認識出来た事は「謝罪する事で速やかに問題となった製品を救う方法とか、補償の金額を決める基準の話し合いにまで事が進むようになる」と理解するに至りました。即ち、謝罪する事が無条件で全面的に責任を負わされる事にはならないと理解し始めたのです。ここまで来るのに記憶が正しければ、5年近くを要したのです。要するに、彼らの思考体系には「先ず謝罪から」という形はないということです。

この文化と思考体系は、これまでに私が見聞してきた限りではアジアの諸国も同じで、言うなれば潔くないのです。その文化の違いというか落差の大きさは経験してみない事には到底認識出来ないでしょう。しかも、私は彼等の文化と思考体系の中に放り込まれて、彼らのために我が国との難しい交渉事の矢面に立たされて、漸く経験的に「違いの大きさ」を理解出来たのです。

それは外国の大学等に留学されるとか海外に駐在されただけでは容易にその実態に触れる事が出来ないのではと考えます。そこまで謝罪を嫌う(=無限責任を負わされかねない事を回避する)文化があるとは、我が国では容易に想像がつかないと思うのです。

今だから告白できますが「そんなに謝りたくないのだったら『この野郎、細かい難癖ばかりつけやがってうるさい。本国なら無視する言い掛かりだぞ』とでも小声で言っていろ。俺が通訳の技術で誤魔化して誠意を以てお詫びして置くから」とまで言ってお詫びを装わせた事すらありました。

それなのに、公明党は安倍総理の70年談話に「お詫びの文言を入れよ」と迫っているそうです。そんなことでは、この先何十年経っても某国から付け込まれ何のかのと介入される事態は変わらないと危惧せざるを得ません。げに恐ろしきものは文化と思考体系の違いとそれを認識出来ていない事かと思っております。

8月14日 その2 70年談話と謝罪の文化論

2015-08-14 09:56:40 | コラム
謝罪の文化論:

「頂門の一針」の3743号で匿名希望の方が「読者の声」欄で

<渡部亮次郎様 そして「頂門(ちょうもん)の一針」を支えている投稿者の皆様読者の皆様 誰にでも理解できるような言葉を持って教えてください>

と言っておられた。

私にはお教えする資格も能力もないが、この件についての意見ならある。私はそもそもこの談話を出す必要があるのかとの疑問を持っている一派である。

また、この談話が未だ素案も固まっていないだろう頃から国内外の有象無象が色々と雑音を立てていた事を大変好ましくない事だと思っていた。雑音の中には「謝罪の文言を入れよ」という声が比較的高かったとの印象がある。自称「アメリカ・スクール」の長期在学生としては、そもそもその出発時点から文化的な齟齬を来していたと残念に思っていた。

もっと解りやすく言えば、河野談話にせよ、村山談話にせよ、「謝罪の文化」が存在しない諸国を相手にして「心からなる」であるとか諸々の真剣な謝罪の意を純粋の良心と善意?から発してしまった事が近隣の両国どころか、同盟国からの注文をつけられる原因を作っていたと思っている。

「文化比較論」を長年論じてきた私からすれば、甚だ遺憾ながら「謝罪の文化」は我が国の中だけに通用する言わば内需を満たす貴重な文化で、諸外国には幾ら意を尽くしても理解されない善意の無駄な発露に終わる事」なのだ。

私はこれまでに何度アメリカのビジネスマンたちが謝罪の意を表す時に用いる言葉で最大限の単語は”regret”であると言ってきたかを、ご記憶の方がおられれば幸甚である。そうです、彼らは仮令非は自分にあると百も承知していても、自らの非を自発的に認めて”I am sorry.”という「如何なる補償のご要求にも応じます」との表現は用いない。それは彼らが性悪説信奉者であるからでも何でもない。単純な我が国との文化の違いだ。

だが、我が国では潔く自らの罪とか失敗を認めて謝罪をする事から補償なり何なりの交渉の出発点が出来る美しい文化があるのだ。だが、他国は違う。彼等は一旦謝罪に追い込むか、自発的に謝罪してきた相手は言わば「水に落ちた犬」だと見なすから、幾ら叩いても一向に構わないと考えている。そして、過失を認めたか認めさせた以上、将来にわたっても謝らせ続けても全く問題がないと見なすのだ。だから、またぞろ言いだしたのだ。

故に、彼らは何度でも何年経っても「謝罪せよ」と要求し続ける権利を留保したくらいの考えて望んでくるのだ。この負の連鎖を何処かで永久に打ちきる手を講じない事には、敵は知らん顔で要求し続けるだろう。しかも我が国の場合は味方を装って自陣に居座っている偏向勢力がいて、その上にマスコミの援護射撃に支えられて、のさばっている始末だ。

私は「謝罪の文化」の相互間における有無の違いが、今日まで尾を引いていると遺憾に思っている。かく申す私でも、この明らかな文化の相違を徹底的に認識出来て、対策を打てるようになったのはアメリカの会社に転身後5年以上は過ぎてからだったと記憶する。誤解なきように申し上げて置くが、謝らない事は道徳や倫理の問題と言うよりも、経済的且つ物質的な要素が極めて濃厚なのだという事だ。

別な視点からすれば、謝らない事は彼らの責任回避策であり、他人に罪を転嫁する自己保であり、自社と自分の利益確保対策でもあると考えれば解りやすいかも知れないと思うが、如何か。

私は河野洋平にせよ、村山富市にせよ、謝罪の文化の相違を知らなかった事は無理からぬとまでは譲るが、不勉強は非難する。一国を代表して声明を出すのならば、より細心の注意が必要で、国際的な文化の違いも学んでおくべき立場にいたのではないか。乃至はその点を補佐できる官僚なり何なりが我が国にいなかったとは思いたくないのだ。しかし、今となってはこの事態を逆転させるのは至難の業だが、為さねばならない重大案件だ。


中国の3日連続の人民元切り下げ

2015-08-14 08:57:38 | コラム
中国の3日連続の合計4.5%の人民元(RMB)切り下げを考える:

中国はGDPの成長率が7%すら怪しくなったかと思えば、即刻「人民元」=”Renminbi”(RMB)の思い切った切り下げで対処してきた。一部には輸出を従来通りの高率で維持するためには10%の切り下げが必要ではないかとの説さえある。別な視点からすれば、中国経済の減速が続けば世界全体の経済に与える影響は甚大ではないかとの懸念を表明する向きもある。そこでこの際、習近平政権は形振り構わず対策を講じたかの観がある。

私はもとよりエコノミストでも何でもない「「一般人」なので、紙パルプ産業の面を中心にしてしか中国経済を語れない。だが、今更RMBを切り下げたところで、アメリカを20%以上も凌駕する世界最大の製紙産業国となった中国が、最早その発展途上にある内需を遙かに上回る過剰な生産能力を、輸出の増加で埋められる時代ではないだろうと読んでいる。私が間違っているかも知れないと承知で言えば、この過剰設備問題は他の産業にも当てはまると見ているとも言っておきたい。

その解説の前に指摘しておきたい事は、中国を始めとするアジアや南米の新興工業国の世界最新鋭の生産設備の能力は新鋭なるが故に余りにも過大というか過剰で、全世界の実需要をすら超えているだろうという現実だ。その新興勢力とはアジアでは中国、インドネシア、韓国、台湾等で、南米ではブラジルやチリが新興生産国のリストの上位に入るだろう。この際敢えて「リスト」とカタカナ語を使ったが、ご理解願えただろうか。

私が「今更」と表現した理由は簡単明瞭で、アメリカは2000年代に入ってITC化の急速な進捗で印刷媒体が衰退して高級印刷用紙の需要が大幅に減退した。その為に不振に喘ぐ国内の製紙会社を安値の輸入紙から保護すべく、中国からの輸入紙には反ダンピングと相殺関税の合計が100%を超える課税をして実質的に締め出した。中国以外ではインドネシアと韓国も課税の対象だった。明らかな保護貿易であると繰り返し指摘してきた。

関税を賦課して新興勢力からの輸入紙を閉め出したのはアメリカだけではなかった。不況に沈んでいたECもアメリカに倣った。従ってアジアの新興勢力は関税を賦課していない我が国のみが輸出相手国として残った。だが、何処も同じ秋の夕暮れで、我が国のメーカーも内需の不振に苦しみ、輸入紙に対抗する価格で対応したところに、円安に変わったために輸入紙の伸びは減速していった。

長々と国内の紙需要不振の状況を解説したが、私はアメリカにせよECにせよ、RMBがあの程度切り下げられたからといって中国からの輸入が突如栄える景気ではないいと聞いているし、従来通りに先進国向けの輸出が非耐久消費財等が中心であれば、大きな改善は望めないのではないかと危惧している。また紙パだけに限定すれば、原木や古紙の原料を大幅に輸入に依存している中国ではRMB安ともなれば効果も相殺されるのではないのか。

私はこの切り下げの影響は何も紙パだけに限られた現象ではなく、一次産品以外の輸出でも有効な促進材料になるほどではないと考えている。しかし、世界第二の経済大国の通貨を切り下げは当面は大きな懸念材料になる事は確かだと思っている。我が親愛なるマスコミは直ちに「爆買い」の勢いが弱まると危惧して見せたが、それはこの切り下げから生じるだろう世界と我が国の経済に与える影響の中では「マイナー・リーグ・イシュー」ではないか。

ここで私の得意技の英語の講釈をすれば、”minor league issue”と言えば「大きな問題ではない」とでも表現したい時に使っていたものだった。何れにせよ、当面の間はこの一連のRMB切り下げの影響を注意深く見守っていく必要があるだろう。