○○406『自然と人間の歴史・日本篇』第一次石油ショック(1973~1974)

2016-09-09 19:30:10 | Weblog

406『自然と人間の歴史・日本篇』第一次石油ショック(1973~1974)

 1969年9月、リビアでカダフィ大佐の指揮で新政権が樹立されると、リビアは国内で操業している独立系石油会社に対し、原油公示価格および石油所得税率の引き上げを要求しました。独立系石油会社は当時、リビア産原油に大きく依存していましたので、リビアの要求を大筋で受け入れざるを得ませんでした。
 そして、1970年代にはいると、米欧の資本主義国を母国とする国際石油資本の支配への反撃が組織されてきます。ドル価値の下落による石油価格の実質的引き下げに対抗して、0PEC(石油輸出国機構)による値上げが数次にわたって行われました。
 最初のオイルショックは1973年10月に起きました。同年10月6日に第4次中東戦争が勃発したのを好機に、OPECは減産姿勢を強めたとの観測もあながち的はずれのものとは思えません。第4次中東戦争で原油輸出大国のサウジアラビアが禁輸したために起きました。石油危機とは、石油を輸入する国々が原油や石油製品を入手することが困難な状態ということです。先進国・メジャーズとOPEC諸国との石油を巡ってのせめぎ合いを71年から74年までに限って追跡してみましょう。
 1970年12月、OPECの第21回総会がベネズエラのカラカスで開かれました。
この会議においては、原油公示価格のさらなる引き上げ、石油の利益に対する所得税率を最低55%へ引き上げるとともに、従来行っていた石油会社に対する値引きを禁止することで、先進諸国によるインフレに伴う産油国側(発展途上国)の購買力の低下を補償する必要がある、などの方針が決議されました。
 これを受けてペルシア湾岸産油6か国が、イランの首都テヘランにおいてメジャーズ(13社)との交渉に入り、その交渉の結果、1971年2月14日にはテヘラン協定(tehran agreement/ teheran agreement)が締結されました。その内容の概略は次のとおりでした。
①として、ペルシャ湾岸原油の公示価格を一律に1バーレル当たり30セント引き上げる。ここで1バレルとは、米国のペンシルバニア州で石油の容れ物として用いられていた木樽(たる)の意味で、その容量は42ガロン=約0.159キロリットルありましたが、これが石油の容量を示す計算単位となり、現在に至っています。
 その②としては、税法上従来認められていた公示価格からの諸控除を撤廃する。③公示価格を1975年までの毎年1バーレル当たり2.5%プラス5セント引き上げていくこととするる。④として、ペルシャ湾岸6カ国は、本協定の期間中は、他地域の産油国において本協定と異なる事項を適用した場合でも、本協定を上回るものは求めないこととする。⑤として、利益に対する所得税率を1975年までに最低55%に引き上げることとする。
 このテヘラン協定の最大の意義は、何であったのでしょうか。それは、OPECが国際石油市場における全般の、もう一方の当事者として認知されたということに他なりません。これを受けて、1971年4月、リビアはメジャーズとの間に「トリポリ協定」を締結しました。
 またテヘラン協定は、1975年までのペルシャ湾岸産の石油の公式価格を固定させようというものでしたが、1971年8月のいわゆる「ニクソン・ショック」以来の度重なる米ドルの切り下げ、国際通貨変動に対処して、1972年1月20日にテヘラン協定の補正としてジュネーブ協定、さらには新ジュネーブ協定が結ばれ、アメリカを中心とする国際通貨の変動に伴って米ドル表示の公示価格をその都度変動させることになりました。
このジュネーブ協定の成立については、ニクソン・ショックに伴うドルの減価に対抗し、テヘラン協定を補足する形で公示価格を8.49%引き上げるとともに、今後の引き上げ方式も決めました。その内容は、各年の3.6.9.12月の各1日に、米ドルを除く主要9か国通貨の変動率を勘案して価格を見直すというものでした。
 続いて、1972年12月になると、もう一つの大きなOPECの攻勢が実を結ぶことになります。それは、1968年6月のOPEC総会で石油利権への経営参加という考え方が初めて示されたのに始まります。その後、この考えはさらに具体化され、1972年1月からメジャー側との交渉が始まりました。メジャーズはこれに対してはなかなか譲歩しようしませんでした。なぜなら、この潮流の拡大が続けば、やがて産油国側との石油利権を対等の立場で決めていくことも危うくなるであろうことを見通していたからです。しかし、ここでも結局、メジャー側が譲歩を余儀なくされ、1972年12月になったら既存の石油利権のうち25%分を産油国のものとして認めること、そして1983年まで産油国側の経営参加率を51%にまで引き上げることで交渉がまとまりました。これが「リヤド協定」と呼ばれているものです。
 そして迎えた1973年1月1日からテヘラン協定が適用となります。73年6月1日
になると、ジュネーブ補足協定が成立しました。同細く協定は、73年2月の大幅な通貨変動の経験を踏まえて、通貨変動時に備えて敏感で迅速な公示価格調整をねらったもので、73年10月1日からジュネーブ補足協定が適用となります。1973年10月16日
には、ウィーンにおける中東のOPEC加盟の湾岸6か国閣僚委員会の決定に基づく一方的値上げが行われます。


(続く)
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○○387『自然と人間の歴史・日本篇』所得倍増が叫ばれた時代

2016-09-09 10:38:16 | Weblog

387『自然と人間の歴史・日本篇』所得倍増が叫ばれた時代

 1961年1月30日、第59代・第2次池田内閣が臨んだ第38回常会(衆議院・参議院)において、池田勇人首相の施政方針演説が実行され、その中で彼はこう大風呂敷を広げた。その抜粋には、こうある。
 「(中略)
 わが国経済は、国民の能力・勤勉・創造的意欲に配するに、世界の平和と経済の自由という環境にささえられて、われわれの予想以上に急速な拡大を示しつつあり、国民総生産は、本年度十四兆二千三百億円に達するものと思われます。しかも、卸売物価は安定を保ち、国際収支も依然として黒字基調を維持し、外貨準備高は年度末には約二十億ドルに達する見込みであります。また、雇用情勢も一段と改善を見、国民生活も著しく充実向上して参りました。これは、わが国の経済が歴史的な勃興期を迎え、構造的変化を遂げつつあることを物語るものであり、この成長と発展は世界の驚異となっておるのであります。
 わが国経済のこの安定的成長を今後長きにわたって確保し、現在見られるような各種の所得格差を解消しつつ、完全雇用と福祉国家の実現をはかるためには、長期的観点から各種の施策を総合的に推進する必要があります。そのため、政府は、従来の新長期経済計画にかえて、今回、国民所得倍増計画と国民所得倍増計画の構想を政府の長期にわたる経済運営の指針として採択いたしました。

 この計画は、今後おおむね十カ年間に国民所得を倍増することを目標とし、これを達成するため必要とされる諸施策の基本的方向とその構造を示したものでございます。特に、農業と非農業間、大企業と中小企業間及び地域相互間に存在する所得格差を是正し、もってわが国経済の底辺を引き上げ、その構造と体質の改善をはかろうとするものであります。同時に、この計画は今後十年間、において新たに生産年令に達する青少年に、それぞれ適当な職場を用意する国家的責任にこたえるものでございます。
 右の長期経済計画の実施にあたっては、昭和三十六年度から昭和三十八年度までの三年間は、新規生産年令人口の急増に応じて、年平均九%の経済成長を遂げることを目標として、あらゆる施策を講ずることを明らかにいたしております。すなわち、昭和三十六年度予算及び財政投融資計画は、このような展望と期待のもとに、当面の国際経済の動向に即応し、通貨価値の安定と国際収支の均衡を保持しつつ、本計画の第一年度をになうものとして編成されたのであります。

 この予算の最重点は、申すまでもなく、減税、社会保障及び公共投資であり、平年度千百三十八億円に上る所得税と法人税を中心とする国税の軽減を初め、低所得層中心の社会保障費六百三十六億円、公共事業費六百八十九億円をそれぞれ増加計上しましたが、これはわが国財政史上空前のことでございます。さらに、文教の刷新充実と科学技術の振興に努め、貿易の振興と対外経済協力の推進をはかり、中小企業及び農林漁業の近代化と振興に特に配慮いたしました。地方行政水準の向上と後進地域の開発については、地方の財政力の向上をもって足れりとせず、政府におきましても積極的な助成の道を開いたのであります。

 これにより、政府活動は、その全分野にわたって画期的な改善と前進を見ることは明らかであり、経済の成長が予算を通して国民に何をもたらすものであるかを如実に示すものであると思います。しかも、本予算のもたらすものは、長期経済計画のほんの序幕にすぎず、この種の努力を年々歳々しんぼう強く積み重ねることによって、わが国の福祉国家としての内容はいよいよ豊かさと明るさを加え、先進諸国の水準に迫る日の遠くないことを確信するものでございます。
 私は、わが国の福祉国家へのたくましい前進にあたって、いわゆる低所得層に属する不幸不運な人々に対する配慮に力点を置きつつ、ようやく体系を整え始めた社会保障制度の合理的発展と充実に思い切った努力をいたしました。しかし、社会保障に関しまして、国家をサンタクロースのごときものと考えることは間違いであるといわれておりますように、私は、生活保護を必要とする状態に陥ることを防ぐとともに、この状態から自主的に立ち上がる機会を豊かに作り出すことを、われわれの長期経済計画の大きい使命の一つであると考えておるのであります。
 雇用の状態は、近時著しく好転し、職種においてはもとより、地域によっても求人難を訴える向きもあります。しかし、わが国には、昭和三十七年より向こう三年間に五百万人に及ぶ大量の生産年令人口の増加が見込まれるとともに、不完全就労の状態にあえぐ多数の労働人口がございます。

 われわれの長期経済計画は、各人の能力に応ずるりっぱな職場を豊かに作り出すとともに、産業構造の変革に応ずる労働力の適正な配置をはからなければならぬ役割を持っておるのであります。われわれがもくろんでおります経済の成長率は、その新規就労人口に見合って定められたものであり、従って、技術者、技能者の養成、職業訓練の拡充、雇用の流動化の促進等は、本予算の策定について特に意を用いたところであります。このことが、勤労人口、特に青少年に明るい希望と誇りとをもたらすことになると信じておるのであります。
 所得倍増計画の使命は、申すまでもなく、地域的、構造的所得格差の解消を期することであります。われわれは、この計画の実行によって産業構造の高度化を実現するとともに、雇用の流動化を促進し、もって所得格差解消への条件の整備を急がなければなりません。さきに述べた社会保障の拡充と中小企業と農業の近代化は、後進地域の開発とともに、われわれが特に力を置かなければならぬ課題であります。なかんずく、農業の近代化は、難事中の難事であって、われわれが最も精力を傾注しなければならない問題であります。
 わが国農業は、その置かれている自然的、経済的諸条件とも関連して、他産業に比べて生産性と生活水準が低いばかりでなく、このままに推移せんか、この不均衡はますます拡大するおそれなしとしないのであります。しかし、経済の高度成長の過程において、最近、農業の生産性の向上とその近代化を推進するに足る必要な条件が成熟しつつあります。
 その一つは、経済成長に伴って高度化する食糧需要の変化であり、その二つは、他産業の旺盛な労働力需要の増大であります。このような傾向に即応して、私は、従来の労働集約的な零細農業経営を漸次脱却して、その近代化を促進するため、農政、財政、金融、労働、産業教育、工場の地方分散その他各般の施策を展開することが、農業者に他産業従事者に劣らない社会的、経済的地位を確保する道であると信じ、予算の編成上特段の努力を払うとともに、農業基本法を中核とする一連の施策を慎重に進めて参る考えであります。
 かくて、本予算の規模は、昭和三十五年度に比し相当の増額を示しておりますが、予算規模と国民所得との比率は、例年に比して決して過大ではなく、昭和三十六年度において予想される経済の成長におおむね見合った規模であると確信いたします。
 さらに、私は、本予算を基軸とする経済の運営にあたっては、国際経済の動向に特に注意を怠らないつもりであります。昨年来、米国の景気停滞、西欧経済の上昇鈍化に加えて、米国のドル防衛措置が日程に上って参りました。政府としては、このことのわが国貿易ないしは国際収支に及ぼす影響を決して軽視するものではありませんが、国民とともに、かかる試練を克服する努力こそが政府の責務であると考えます。すなわち、外に向かっては、一そうの輸出の伸長と海外経済協力の推進に努めるとともに、内においては、長期経済計画の着実な実行を通じて、産業の体質改善と国際競争力の培養に前向きの姿勢で努力する決意であります。
 また、物価の動向も、われわれにとっては重大な関心事であります。しかし、われわれの経済成長政策は、本来、生産性の向上と供給力の増大を通じて品質とサービス内容の向上をはかり、物価水準の一般的下落をもたらすものであります。一時上昇傾向が注目されていた食料品を中心とする消費者物価は、すでに落ちつきを取り戻しており、卸売物価も高い生産性と豊かな生産力にささえられて、おおむね安定した動きを示しております。ただ、サービス関係等、人件費の上昇を生産性の向上によっては吸収することのできない一部の物価と料金については、若干上昇の傾向が見られます。これは、他の部門の生産性の向上と所得の増加に対するサービス料金の調整過程であると考えられます。所得格差の是正の上からも、また、先進諸国のそれとの比較においても、ある程度やむを得ないところであります。しかし、合理性のない便乗的値上げについては、国民的監視と並行して、政府としても消費者行政上適切な措置を講ずる方針であります。
 政府は、来年度より国鉄運賃、郵便料金等を若干引き上げることとしております。これは、他の物資の価格水準に比べ、相当期間にわたって低位のままに据え置かれてきたため、これをこのまま放置すれば、経営の圧迫となり、設備の朽廃、サービスの低下を通じて経済発展の隘路ともなることが憂慮せられたからであります。しかも、もしかかる料金改定を怠ると、その欠陥は国民一般よりの租税収入により補てんするか、あるいは借入金によってまかなわざるを得ず、合理的な独立採算性を無視するか、あるいは将来に重い負担を残す結果となり、政府としてかかる弥縫策はとるべきではないと考えたのであります。しかしながら、他面、これが急激な上昇の国民生活に与える影響にかんがみ、政府としては、極力これを最小限にとどめるべく努力いたしました。今後とも、物価水準の安定のためには一そうの努力を傾注して、インフレなき経済成長を推進して参る決意であります。」
 これより前の1960年5月から6月にかけては、岸内閣の下で、日米安全保障条約の改定締結に反対する運動(いわゆる「安保闘争」)がピークを迎えていた。結局、岸内閣が国会採決強行の責任をとる形で退陣し、代わりに池田内閣が発足した。新たな内閣は、国民の関心を政治から交わし、経済の発展で国民生活の向上に持っていこうとして出したのがこの路線であって、向こう10年間に実質国民総支出(GDP)を倍増するという意欲的な目標を建てたのだ。その規模自体は、既に1955年から1959年でだいたい年率7%の経済成長をクリアしていたので、さしたることではなかった。とはいえ、これを10年続けていくと宣言するということは、何かしら明るいムード・期待を国民経済に吹き込む役割を果たしたのではないか。
 一番喜んだのは経済界であって、すでに熱狂の入り口にさしかかりつつあった大資本家たちは、ここぞとばかりに設備投資を増やす姿勢を取る。1961年の経済白書には「投資が投資を呼ぶ」という言葉が躍って見えるに至る。たとえ国民の消費需要に制約がある中でも、そのことで景気が天井に仕えるどころか、輸出に加え設備投資が引き続き大幅に伸びることで、力づくでしょうが、持続的な経済発展が可能となっていく、そんな時代が始まった。1958年(昭和33年)の、いわゆるナベ底不況のあと、1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて、景気はピークへの道を駆け上がっていった。「もうこれは、神武(じんむ)どころではない、岩戸(いわと)依頼ではないか」ということで、「岩戸景気」ということで日本列島が沸き立った、と言われる。


(続く)
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