新70『美作の野は晴れて』第一部、近代からの天文学の発展1

2016-09-11 09:23:16 | Weblog

70『美作の野は晴れて-津山・岡山今昔物語』第一部、近代からの天文学の発展1

 中世になっても、科学はまだ相当には発達していない間は、人々はなおも宗教や因習などに大きく影響されていた。しかし近代になると、その中から変革の思想家が現れるに至るのであるから、世の中棄てたものではない。
 ニコラウス・コペルニクスは16世紀の人、カトリック教会の司祭であった。当時の聖職者は、ある意味天体の運行についても責任を負っていたのだろうか、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることを問題視していた。そもそもの学問の話では、ギリシャのアリストテレスは天動説を唱えたが、同じギリシャのアリスタルコスは、少し違うやり方で天体運航の謎時を試みる。月のちょうど半分が照らされているのを観察していて、月は球形だから今見える月の姿は太陽光が真横からあたっているからにちがいないと考えた。アリスタルコスは幾何学を使い、太陽Sと半月M、地球Eとし、これらでつくる三角形SMEを描き、角SMEを直角とする直角三角形となるから、角SEMを測れば、角MSEも求められると考えたらしい。地球から観る月と太陽はほぼ同じ大きさに見える。だから太陽が月の何倍の大きさか比べられる。さらに地球は月の約3倍大きく見える。だから太陽が地球の何倍か見当がつくというのであった。
 アリストテレス、アリスタルコスの二人から2千年以上経ってから研究の道に入ったコペルニクスであったが、アリスタルコスの研究を知っていたに違いない。彼は、太陽を中心に置き、地球がその周りをほぼ1年をかけて公転するものと考えると、全ての観測結果と辻褄が合うとし、思索を勧め田結果、1恒星年を365.25671日、1回帰年をあ365.2425日と算出した(ここで1年の値が2つあるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる)。
 コペルニクスは1543年に没する直前までこの研究を続け、その思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。その際、天動説を真正面から批判するというよりは、地球が太陽の周りを回ると考えるという説を紹介するという体裁をとった。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。事実、この本の目次は極めて丁寧なものとなっている。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定できるようにしたのであった。これが、当時の先進的な人々に特別の高揚感を与えたことは、疑いあるまい。
 このコペルニクスが唱えた天動説は画期的であったが、いきなり、あるいは徐々に世の中に賛意が広がっていったのではなく、紆余曲折があった。最初に地動説に賛成した人物の一人に、ジョルダーノ・ブルーノ(1548年 ~1600年2月17日)がいる。彼はイタリア出身でドミニコ会の修道士であった。彼は、行動の人でもあった。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、これに沿うとみられるコペルニクスの地動説を擁護した。ブルーノの人となりはよくは知られていないものの、大層意志の強い人であったのだろう、当時の地上と天上における精神的権威であったローマ教会から異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、記録によると火刑に処せられた。彼が死刑となったことが、天動説の第一の受難だせったと言える。
 第二の受難は、1610年(慶長10年)にやってきた。それが、ローマ・カトリック教会によるガリレオ・ガリレイの宗教裁判である。この年、、『星界の報告』の発表の時に最初のシグナルが起こった。彼が自前の望遠鏡で観た「月の表面は、多くの哲学者たちが月や他の天体主張しているような、滑らかで一様な、完全な球体なのではない。逆に、そこは起伏に富んでいて粗く、いたるところにくぼみや隆起がある。山脈や深い谷によって刻まれた地球となんの変わりもない」(岩波文庫、山田慶児・谷泰訳)ものであった。
 当時の人々がとりわけ驚いたのは、彼が木星の衛星に望遠鏡を向けた時の報告であった。ガリレオが木星に望遠鏡を向けると、はじめ3つの衛星が見え、その後さらにもう一つの衛星がみえて、全部で4つが木星の回りを回っている。彼は、それらの毎日の位置の変化を観測し、それらの位置が木星を中心に日々変わり、時には木星の背後に隠れ、また現れることを突き止め、これらは恒星ではなく、木星の衛星であると結論づけた。あたかも、太陽のまわりを地球が回っているようなものだと考えられる。
 ところが、人々は、木星にも地球における月と同じように衛星が回っており、しかもそれが4個も見つかったというガリレオの報告に驚くとともに、戸惑った。というのは、天動説では地球が天体の運行の中心にあるのだと教えている。それなのに、ガリレオの説を敷延してゆくと、その先にあるのは木星と衛星の関係を地球と太陽の間に適用するとどう
なるかの命題なのである。それまではコペルニクスの地動説で説明するしかなく、そこでは地球の自転と公転の両方がごっちゃになって区別できていなかった。ガリレオは、その命題についての正解は、地球が自転や公転をするということだけではなくて、宏大な宇宙の中心に地球があるのではなくて、太陽系においては太陽こそがその中心の位置にあるのであって、地球は太陽の周りを回る一惑星に過ぎないことになってしまう。
 ガリレオの望遠鏡が捉えていたのはそれだけではなかった。観測ノートに記入していた時の彼は、太陽系の惑星の海王星が八等星の明るさで写っていたの目にしていたのではないか、おそらく、それを惑星ではなく、「恒星」として記録している(1612年(慶長17年)12月28日及び1613年(慶長18年)1月28日の観測日誌)。その延長で、肉眼では土星までしか観測できない太陽系の惑星に、7番目の惑星が存在することを発見したのは1781年、イギリスのウィリアム・ハーシエルの仕事によるものであって、その星は「天王星」と名付けられた。
 後日談として、1846年(弘化3年)9月23日、ドイツのベルリン天文台のヨハン・ゴットフィールド・ガレが、フランスのユルバン・ルヴエリエとイギリスのジョン・クーチ・アダムズによる天体力学による計算での予言のとおりの位置に、天王星の外側を回る未発見の第8惑星を観測した。そして、この星は「海王星」と命名された。この惑星の位置は、先の2人がその摂動が天王星によっての運動が乱されていると考え、そこに未知の惑星が存在する可能性を指摘した予報位置から、僅か52度しか離れていなかった。
 海王星は、そのさらに前のガリレオの「望遠鏡がとらえる木星付近の視野に収まる位置にあり、観測日誌に記されたのと同じ方向に来ていた」(小山慶太「科学の歴史を旅してみようーコペルニクスから現代まで」NHK出版、2012)ことをもって、先にガリレオが観測したのと同一のものなのではなかったか、とも考えられている。ちなみに、太陽を「りんご大」に例えると、4メートル離れて水星(ケシップ)が、7メートルに金星(丸薬)、10メートルに地球(丸薬)、15メートルに火星(丸薬)、52メートルに木星(パチンコ玉)、96メートルに土星(パチンコ玉)、192メートルに天王星(5ミリの錠剤)、そして300メートルのところに海王星(5ミリくらいの玉)がある例えになっている(草下英明『図説、宇宙と天体』立風書房、1987)。
 なお、これに関連して、2015年7月14日午前(日本時間では同日夜)、米航空宇宙局(NASA)の無人探査機「ニューホライズンズ」が冥王星に再接近した。ここで冥王星とは、1930年に米国の天文学者トンボーが「9番目の惑星」として発見を発表したものの、国際天文学会連合による定義見直しで「準惑星」に格下げされた。表面温度は摂氏零下220度を下回り、表面は窒素やメタンなどの氷で覆われている。それでも、この星は、約248年かけて太陽の周りを公転しているのだと言われる。こういう形での探査機による冥王星の観測は史上はじめてとのことであり、同探査機は2006年の打ち上げ後、9年半かけて48億キロの旅をしてきて、いまこの時、太陽系の端に近い、この冥王星のところをまでやってきているということなので、大いなる驚きだ。
 加うるに、1613年(慶長18年)に出版されたガリレオの『太陽黒点の研究』という論文には、当時太陽の黒点は地球と太陽との間にある小さな星と考えられていた。それをガリレオは、太陽を観察して、黒点の位置や大きさが絶えず変わることを知った。黒点は太陽の表面で起きているのであって、太陽が自転することで変化しているのだと彼は記した。イタリアで出版されたこの本の考えを敷延していけば、宇宙は普遍ではなく、変化しているのであって、地球も不動のものではありえないことを言いたかったに違いない。彼の説は天動説に敵対したとみなされ、本が出版された3年後にバチカン法王庁による世俗権力によって宗教裁判にかけられ、あれよあれよと言う間に有罪にされてしまうのだった。
 それでも、真理への道は突き進んでいく。1727年(年)、「年周光行差」の存在が確認された。ここに年周光行差とは、地球の上にいる観測者が地球の公転によって光速で動いていることを考えると、光りの速度と観測者の動く速度の合成によって、光がやってくる方向が変化して見えることをいい、地動説を裏付ける証拠の一つとなる。地球の自転を確認する方法は、さしあたりもう一つ、「年周視差」からも確認できるだろう。ここに年周視差とは、地球が太陽の周りを1公転する間に、地球の地殻にある星は1年周期でわずかに動いて見える、その角度のことをいう。その角度は微小であるから、なかなかに検出できなかった。こちらは、1838年(年)、はくちょう座六一番星の年周視差が検出されたことで確認されるに至る。続いて1851年(年)、レオン・フーコーが振り子の原理を使って、地球の自転によって、振れる向きが徐々にずれていくことを発見した。


(続く)
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★