○○462『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代前半の日本経済

2016-09-15 20:33:27 | Weblog

462『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代前半の日本経済

 1990年代前半の不況については、丸尾(筆者)は、こう述べたことがある。
 「5年越しの好景気は90年末には崩れ、経済は金融を巻き込んだ金融経済危機の様相を呈しました。それでも1991年1~3月期の実質国民総生産は年率ベースで11%の高成長で、不況の度を増したアメリカの同時期がマイナス2.6%に落ち込んだのと対照的な展開でした。
 好況末期にはバブル現象が生じました。 行き場を失った大量の資金が土地や株式の神話に群がりました。日本のマネー・パワーの源は85年秋のプラザ合意以降やってきた急激な円高とともに現出した低金利であり、これが企業業績を確かなものにしているように見えました。
 低金利のカネの源泉の一つは、1200兆円もの個人資産であり、その二つは大企業の内部留保である。その3つは膨大な対外黒字という資本流出の原資もさることながら、それ以上に対外投資を殖やすべく行い続けたユーロ市場などから短期借りをして長期貸しの存在でした。「走れトロイカ朗らかに粉雪蹴って」というところだったでしょう。
 この3つめの要因については、もう少し説明しておきましょう。1985年末のユーロ銀行市場に対する債券・債務残高のネットは748億ドルの借り入れでした。それが90年になると、3891億ドルの借り入れに膨れ上がっていたのです。日本に次いで第2位の債券大国と言われたドイツ(旧西ドイツ)がそれぞれ144億ドルの借り、1104億ドルの貸しであったのと比べると大きく異なります。
 債券大国日本の銀行は、国際金融市場から外貨をせっせと調達し、それを生命保険や損害保険、信託銀行などの期間投資家が海外証券投資に向けていく。銀行はといえば、調達したドル資金を機関投資家に売るとともに、返済の準備があるので、輸出業者のドル資金を目当てにドルの先物供給予約をとり付けておく、つまり将来の輸出を当てにして短期資本を取り入れ続けるという、切磋琢磨の構図が浮かび上がってくるではありませんか。(週刊「東洋経済」91年7月6日にBank of England Quartely Bulletinのデータが引用されています。)
 日本の株式のおよそ7割は企業間の持ち合いであって、値崩れすることはないとも、まことしやかに叫ばれていました。ところが、実体経済では需
給ギャップが開きつつあって、その増大の圧力をもろに受けて至るところでは不良債権問題が積み上がっていました。
 86年12月以来の景気拡大が減速傾向に移ったのは、バブルの過熱を冷やそうと89年5月に日本銀行が実施した公定歩合の2.5%から3.25%への引き上げによる金融引き締めがきっかけでした。89年5月から90年8月まで5回の公定歩合引き下げが行われてゆくのです。
 それから90年を経て、91年秋には設備投資のかげりがはっきりして、景気後退を顕在化させたのです。民間設備投資はバブルの88年度から90年度の3年間に、平均15%も増えていましたから、急角度で減少に転じた訳です。
 従来型の不況と違うのは、原材料減らしが中心だった過去の在庫調整と異なり、今回のケースでは自動車や家庭電化製品など最終消費財まで在庫調整がおよんでいるということで、調整が長期化に向かったことがあげられます。また、株価が大幅に下落して、金融機関に含み益の減少や不良債権の増加をもたらしました。
 そこでまず貿易不均衡への批判をかわすためとはいえ、なぜあれほどまでに金融を緩めたのでしょうか。
 金融機関は、なぜ値上がりする土地を担保に信用創造を市場に与え続けたのでしょうか。政府はなぜやがて来るであろう利害の衝突を回避する措置をとらなかったのでしょうか。
 こうした複合的な問題を解決するためには、真に勤労国民の立場に立った経済運営こそが求められたのですが、80年代を通じて弱体化していた勤労者運動と革新勢力にはそれだけの力が蓄えられていませんでした。
 91年度下期の企業倒産は初めて6千件を超え、政府発表の完全失業率は上昇のテンポを早めていきました。不況になってから95年始めまでに卸売物価は約10%下がりました。85年のピーク時から見ると約20%も落ち込んでしまったのです。独占大企業は生産調整で値崩れを防ごうとしました。」


(続く)

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○○463『自然人間の歴史・日本篇』1990年代前半の景気刺激策

2016-09-15 20:27:12 | Weblog

463『自然人間の歴史・日本篇』1990年代前半の景気刺激策

 公共事業増大を軸とする財政支出による下支えが始まりました。92年3月末の公共事業前倒しを中心とした緊急経済対策の実施と従来型の手を打ちました。
 日本銀行は90年8月30日、同3月の第4次に続いて第5次の公定歩合引き上げに踏み切りました。上げ幅は0.75%で、これによって西ドイツ、スイスと同率の6%となりました。90年5月の先進7か国蔵相・中央銀行蔵相会議(G7)の後 さらにイラクのクウェート侵攻による中東情勢の緊迫化の最中の出来事でした。この時点の日米の金利差は、短期金利としてはほとんど並んでいました。
 長期金利差は名目上はアメリカの通常もののTB(財務省証券)と日本の119回国債の名目金利差はアメリカの方が0.84%上であるけれども、物価でデフレートした実質ベースは90年4月頃から逆に日本の方が高くなっていました。
 87年7月以降92年6月末までの間に、4回の公定歩合引き下げることで金融を潤沢にする試みも従来型景気対策といえるでしょう。
 それにもかかわららず、92年6月を過ぎてからも景気ははかばかしくありません。こうしたデフレ・スパイラルが続いたのは、その効果をうち消すほどに過剰な資本の蓄積が進んでいたからなのです。
 そこで92年8月、総事業規模で10兆7000億円、名目GDP比で2.3%の総合景気対策。6兆2500億円の公共事業。これは一般公共事業+地方単独事業+施設費+災害復旧事業+農業と震災対策費の合計です。そのうちいわゆる真水分は5兆2100億円。公共事業予算追加額は国の1兆8444億円と地方の4兆7062億円の合計で6兆5506億円。公共事業追加額とは、国については補正予算の公共事業関係費のことであり、また地方のそれは決算額から地方財政計画額を差し引いた投資的経費のことを指しています。
 93年4月のそれは13兆2000億円、名目GDP比で2.8%。減税が1500億円。公共事業7兆1700億円。そのうち真水分は6兆720億円。93年9月のそれは6兆1500億円、名目GDP比で1.3%の追加景気対策。減税ゼロ。公共事業1兆9500億円。そのうち真水分は1兆6500億円。
 93年4月と同9月とを合わせた公共事業予算追加額は、国が6兆5757億円、地方が2兆3799億円の合計で8兆9556億円。
 続いて94年2月の総合景気対策としては、15兆2500億円、名目GDP比で3.2%のもの。減税は5兆8500億円の規模でした。公共事業は3兆9500億円。そのうち真水分は3兆3280億円。公共事業追加分は国が1兆6246億円、地方が9304億円の合計でしめて2兆5550億円。」


(続く)

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○351『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治

2016-09-15 19:07:08 | Weblog

351『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治

 1990年代の始めから半ばまでの政治経済状況について、丸尾(筆者)はこう書いた。まずは、錯綜重ねる政界図と題し、こう言う。
 「政治面では、92年10月に金丸信氏が東京佐川急便事件の責任をとって議員辞職、竹下派会長も辞任、後任に小渕恵三氏が就任しました。「天下、国家のために働いている」と公言してはばからなかった彼・金丸氏が、後に自宅で75キログラムの金塊を抱いていたことが判明したように、長らく権力の中枢にある人が一皮剥けば実はカネまみれであったことは、驚きでありました。
 92年12月になると竹下派が分裂、小沢一郎、羽田両氏らが羽田派を結成、小渕派は党内台4派閥に転落します。政局は麻のごとくに乱れて変動がやまず、93年6月内閣不信任案に自民党の小沢・羽田グループが合流して可決しました。衆議院は解散し、小沢・羽田グループは新生党を結成しました。
 93年8月には細川・非自民党内閣が成立しました。新保守三党を含む七党一会派による連立政権という寄り合い所帯の誕生でした。
 その後の94年4月の羽田内閣を経て、翌94年6月には今度は自民党も賛成して自社さまがけ連立の村山社会党首班の内閣が発足します。社会党は衆議院で74議席を占めていました。自民党は在野に下り、主流派は経世会を平成政治研究会に改称、返り咲きの機を窺っていました。
 一方、94年12月には新進党が結成され、海部党首、小沢幹事長に就任しました。この間に民主主義に逆行する小選挙区制が創設されるとともに、貧富の差をさらに広げる年金改悪や消費税増税が行われました。さらに、いわゆる「55年体制」で40年近くの歳月名を成してきた日本社会党は、この両方の関係をどうするかの政治課題(選択というべきか)に労働者と勤労国民の代表の立場を貫けず、このころから「現実色」を強めてしだいに体制内勢力の一部へと組み込まれていきました。」
 これらのうち、社会党が大きく政策転換したのは周知のことであるが、政治面で安全保障政策とこれに関連する憲法条項(憲法第9条)、そして小選挙区制導入如何が、のっぴきならぬ命題として提出されるに至る。
我が国の安全保障からいうと、なかなかに電撃的な展開が見られた。時は1994年7月20日の衆議院本会議、出典は『日米関係資料集』(1945-97の1268-1269頁及び『朝日新聞』1994年7月21日朝刊)、村山富市首相の国会答弁には、こうある。
 「冷戦の終結後も国際社会が依然、不安定要因を内包している中で、わが国が引き続き安全を確保していくためには、日米安保条約が必要だ。日米安保体制は、国際社会における広範な日米協力関係の政治的基盤となっており、さらにアジア・太平洋地域の安定要因としての米国の存在を確保し、この地域の平和と繁栄を促進するために不可欠となっている。維持と言おうが堅持と言おうが、このような日米安保体制の意義と重要性についての認識は、私の政権でも基本的に変わることはなく、先のナポリ・サミットでの日米首脳会談では、私からこのような認識を踏まえて、日米安保体制についてのわが国の立場を改めて明確に表明した。
 私の政権の下では、今後とも日米安保条約、関連取り決め上の義務を履行するとともに、日米安保体制の円滑かつ効果的運用を確保する。在日米軍駐留経費特別協定の有効期間の終了後については、日米安保体制の円滑かつ効果的運用を図る必要があるとの観点から自主的判断に基き、適切に対応したい。その具体的内容は米側との協議を待って判断したい。」 「私としては専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると認識する。同時に、日本国憲法の精神と理念の実現できる世界を目指し、国際情勢の変化を踏まえながら、国際協調体制の確立と軍縮の推進を図りつつ、国際社会で名誉ある地位を占めることができるよう全力を傾ける。
 本来、国家にとって最も基本的な問題である防衛問題で、主要政党間で大きな意見の相違があったのは好ましいことではない。戦後、社会党は平和憲法の精神を具体化するための粘り強い努力を続け、国民の間に、文民統制、専守防衛、徴兵制の不採用、自衛隊の海外派兵の禁止、集団自衛権の不行使、非核三原則の順守、核・化学・生物兵器など大量破壊兵器の不保持、武器輸出禁止などの原則を確立しながら、必要最小限の自衛力の存在を容認するという、穏健でバランスのとれた国民意識を形成したものであろうと思う。
 国際的には冷戦構造が崩壊し、国内的にも大きな政治変革が起きている今日こそ、こうした歴史と現実認識のもと、世界第二位の経済力を持った平和憲法国家日本が、将来どのようにして国際平和の維持に貢献し、併せてどのように自国の安全を図るのかという点で、より良い具体的な政策を提示し合う、未来志向の発想が最も求められている。社会党においてもこうした認識を踏まえて、新しい時代の変化に対応する合意が図られることを期待する。」
次なる政治改革については、こうなっている。
 「政治改革関連法のうち、小選挙区比例代表並立制の導入に伴ういわゆる区割り法が94年11月21日に可決成立、同25日の公布、それからすでに成立を見ていた他の関連法とともに1か月の周知期間を経て94年12月25日に施行されました。これ以後公示される衆議院総選挙に際しては、1917年(大正14年)以来続いてきたいわゆる中選挙区制から小選挙区制に選挙制度ががらりと変わったのです。
 これによると、投票方法も記号式二票式になり、勤労国民と選挙の現場にとまどいが生まれました。また同時に、95年1月1日から改正政治資金規制法と政党助成法が施行されました。これで、「企業、労働組合等の団体の寄付が大幅に制限されるとともに、政治資金は政党が中心になって集めるようにして透明性を高め、同時に法人格を有する政党に対しては国から交付金が公布されるようになります。」(総理府広報室「家庭版、今週の日本、94年12月19日付け」)。選挙にカネがかかりすぎる、という反省から導入したと推進勢力によって自認されるこの制度は、政治資金規制法、政党助成法と法人格付与法、公職選挙法等に跨ったはば広型の対応を私たちに求めているのではないでしょうか。
 その不当性は、一口にいうならば民主主義の否定であり、なかんづく少数勢力が多数勢力になっていくことを拒もうとすることにほかなりません。」


(続く)

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