○○482『自然人間の歴史・日本篇』外国為替法の内外無差別化と株式手数料の自由化

2016-09-19 18:08:54 | Weblog

482『自然人間の歴史・日本篇』外国為替法の内外無差別化と株式手数料の自由化

 外国為替法の内外無差別化と株式手数料の自由化について、1998年4月には、97年5月16日の第140通常国会で成立していた外国為替及び外国貿易法(外国為替法、名称変更あり)改訂が施行されました。外貨両替業務への参入を自由化し、外国為替公認銀行だけでなく証券会社、商社、生命保険会社なども取引が可能となりました。
 そのほか、企業や個人が海外銀行に預金口座を開いたり、外国の証券会社を通じて外国の市場で債権、株式を購入する道が開かれました。
 97年11月、国外送金等に係る資料情報制度、民間国外債に係る本人確認制度の整備等についての法律案を可決・成立。外国為替法等の改正によって、海外への投機的取引、すなわち海外への資本流出が自由化されたのです。
 98年4月になると、銀行経営の健全化を名目に早期是正措置が導入されました。政府が自己資本比率で経営状況を判断し、判断基準を下回ると自動的に「経営改善計画の作成命令」「新規業務への進出禁止」「営業停止」などの措置をとることができるようになったのです。
 一方、株式売買委託手数料は数次の段階を経て自由化されていきました。
 94年4月、約定代金が10億円を超える大口の取引については、証券会社が顧客と自由に話し合って手数料を決められることになりました。
 96年秋、橋本首相が金融ビッグバンを打ち出しました。
 98年4月、売買代金が5000万円を上回る部分について自由化されました。
 99年10月、5000万円以下でも自由化されました。
 98年10月~12月の日本銀行短期金融観測(「日経新聞、99年4月1日」)によると、個人の金融負債は0.4%減少しました。
 98年3月1日付けの朝日新聞「ビッグバンが変える」に、富裕層のカネを巡って投資顧問という商売が載った。。
 「ドル預金を中村さん夫婦に勧めたのは高橋一夫さん(52)だ。大手証券の欧州現地法人に12年勤めたあと、英国やスイスの証券、投資顧問会社で10余り働き、2年前に独立した。「独立が早すぎたかなと思っていたが、ここへきて資産運用への感心が高まってきた」。中村さん夫婦にはいま、同じシティのドル預金でも金利がより高い米国の店舗に預け替えるよう助言している。日本版ビッグバンの第一弾として改正外国為替法が4月に施行され、海外預金をしやすくなるのを生かす狙いです。
 日本の個人金融資産1200兆円の約6割は預貯金。株式などの有価証券は1割程度しかない。一方、米国では有価証券が3分の1を占める。資産運用が米国に少し近づくだけで、お金の流れは大きく変わる。
 変化を見越した金融機関も、富裕層の取り込みに力を入れは始めた。シティは不動産を含む総資産が3億円以上、うち金融資産を1億円以上持つ人を対象にした「プライベートバンク」部門を拡充し、一人ひとりに担当者を決めて資産運用全般の相談にのっている。過去1年間で1000人近く増えたが、対象層は推定で40万人から50万人もいる。モカ委託のマーケットは広い。出遅れていた邦銀各行も、ようやくシティのあとを追って走り出した。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○481『自然人間の歴史・日本篇』持株会社の解禁

2016-09-19 18:05:24 | Weblog

481『自然人間の歴史・日本篇』持株会社の解禁

 1990年代後半の独占禁止法の大資本よりの改訂について、丸尾(筆者)はこう紹介したことがある。
 「97年6月の独占禁止法の改正で、それまで禁止されていた純粋金融会社が解禁されました。これに至る経過は概ね次のようなものでした。
 95年12月、公正取引委員会の研究会が「部分解禁」の報告書を纏めました。
 96年1月中旬、公正取引委員会が「部分解禁」の当初案を自民党に提示しました。
 96年1月下旬、公正取引委員会が「原則自由」の修正案を発表しました。
 96年2月、与党(自民党、社会党、さきがけの3党連立内閣の面々)がプロジェクトチームを発足させました。
 96年4月、連合、日経連、日本経営団体連合会が労使スタディチームを発足させました。
 96年6月、与党が、持ち株会社の解禁をひとまず断念しました。
 96年10月の総選挙で自民党が勢力を示威維持。これにひきかえ社会党改め社会民主党は議席をへらしました。なかでも「部分解禁」を主張して自民党と対峙した社民党の多くの議員たちは政界を引退したり、新興勢力の民主党へ移籍していきました。こうして「原則自由」論が優位になっていったのです。
 96年12月、労働省の研究会が「あたらしい法的問題はない」との報告書を発表。連合は、持ち株会社と子会社の労働組合との関係等をめぐって納得せず、労働関連法の改正を求めました。
 97年1月、公正取引委員会が「原則自由の政府案」を作成。与党の独占禁止法協議会に提出しました。この後は、持ち株会社解禁へ動き急の感を拭えません。
 そして97年12月15日には持ち株会社の設立等の禁止の解除に伴う金融関係法律の整備等に関する法律案、銀行持ち株会社の創設のための銀行等に係る合併手続きの特例等に関する法律案を可決、成立しました。98年3月の金融持ち株会社の解禁によって、独占大企業はコングロマリットを形成する道を開かれたのです。
 99年4月の大和証券の持ち株会社化が先鞭を付けました。本体を持ち株会社化することで、法人向け部門やデリバティブ(金融派生商品)部門を分社化する手法を取りました。」

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○501『自然と人間の歴史・日本篇』郵政民営化(2007)

2016-09-19 10:16:54 | Weblog

501『自然と人間の歴史・日本篇』郵政民営化(2007)

郵政の民営化は、小泉政権下の2007年10月に郵政民営化関連法の施行によりスタートしました。その主内容は、国営だった郵便事業を業態によって分割することでした。具体的には、持ち株会社の「日本郵政」と、その傘下会社としての「郵便事業会社」(手紙や宅配便を集配)、「郵便局会社」(窓口業務)、「ゆうちょ銀行」(銀行業務)、そして「かんぽ生命保険」(簡易保険)4社がこれにぶら下がる形になりました。
 ここで各社の株式はとりあえず政府が全部保有しますが、おりを見て日本郵政については政府の持ち株は3分の1超とし、ゆうちょ銀行とかんぽ生命の株式については売却して民営にしようというものです。このうちゆうちょとかんぽの民営化は、期限が決められていて、2017年9月までに全株を売却することになりました。
 郵政民営化の前は、自民党の中でたしかにいろいろよろしからぬ事が行われていました。それが、この郵政民営化の流れになっていく中で、自民党の小泉政権内での多数派形成(総選挙の前の郵政を巡る同党の国会議員に対する踏み絵、そして選挙実施での郵政民営化の大合唱による。)の過程では、それまでの自民党の郵政の組織ぐるみの選挙手法が糾弾されました。
 小泉首相はまた、国会議員の私設秘書を斡旋利得処罰罪の対象に加える考えを表明しました。特定郵便局をめぐっては、「ただでやってるんだから税金を納めなくてもいいんではないか」との声が出され、郵政民営化を批判し抵抗する議員は自民党を離党していきました。また、郵政民営化を認めるなかにも、この先採算だけを考えたことになると、僻地の農村山村には郵便物がとどかなくなるのではないかという懸念も出されました。郵政民営化は地方にはコミュニティそのものである、との問いかけがありましたが、議論はかみ合わないまま自民党の衆議院選挙大勝による大合唱にかき消されてしまった感ががあります。
(2)なぜ郵政民営化なのかで錯綜する議論
では、もっと切り込んだ郵政民営化への疑問はなかったのでしょうか。その論点は幾つか幾つかに分かれます。ここでは、その幾つかを紹介しておきましょう。
 「郵貯の完全民営化などできない相談かもしれない。220兆円の郵便貯金と120兆円を超える簡易保険の資金は、利回り1.2%程度の国債購入を完全民営化ののち、続けられるはずはない。オーストラリアの銀行の定期預金は6%の年利である。為替リスクをおかして海外に大量に流れ、国債が売られたら、金融は大きく混乱する。したがって民営化と言っても、例によって財務省は、がんじがらめに規制することであろう。成長分野での進出、例えば国際化なども時おそく、能力の点でも幻想であろう。」(伊東光晴「日本経済を問う」岩波書店、2006)
 「第一の預託義務廃止は「資金を公から民に回すために民営化が必要」という議論の論拠が失われたことを意味する。
 しかし実際には、財投機関に対する資金供給は続けられている。その仕組みが存続する限り、郵貯の経営形態いかんにかかわらず、資金はこれらの機関に供給し続ける。問題は、郵貯を民営化することではなく、この仕組みの改革なのだ。そこで、やや技術的になるが、これについて説明しよう。
 これは「財投債」という仕込みである。財投債は国債の一種であるが、一般会計の財源になる国債と区別するために、このように呼ばれる。これによって調達された資金は、財投機関に融資される。他方で、郵便貯金に対しては、このように呼ばれる。これによって調達された資金は、財投機関に融資される。他方で、郵便貯金に対しては、時限措置ではあるが、財投債の引き受け業務が課されている。そして、財投債の引受先で最大のものは、郵便貯金である。つまり、これは旧来の運用部融資と実質的には同じものなのだ。
 この仕組みが、私がかつて提案した財投機関発行の債券とは「似て非なるもの」であることに注意しよう。私が提案した債券は、その後「財投機関債」という名称で実現している。財投機関債の眼目は、「市場で資金を調達できない機関は廃止に追い込まれる」ということである。つまり、機関存続の判断を、政府から市場に移すことだ。
 これに対して、財投債は個々の機関が発行するものではないから、このようなメカニズムは働かない。財投機関をひとくくりにした一般的な債券では、市場が個々の機関を評価することはできないのだ。そのうえ、郵便貯金に引き受け義務が課されているから、資金調達は保証されたことになる。「その仕込みが存続する限り、郵貯の経営形態にかかわりなく、資金は公に回され続ける」と述べたのは、このような意味である。資金供給を絶つことによって財投機関を整理したいのであれば、財投債を廃止することが、どうしても必要である。」(野口悠紀雄「日本経済は本当に復活したのか」ダイヤモンド社、2006)
 「さらに次の点を注意したい。「資金運用部のルートがいまや存在しないが、その代わりに債券発行で従来の仕組みが維持されている」ことを知っている人も、次のように考えているかもしれない。
 「確かに、資金運用部のルートに代わる資金供給ルートがつくられ、それによって、財投機関への資金供給が続けられているのは問題だ。しかし、郵貯を民営化すれば、このルートも狭まるに違いない。なぜなら、民営化によって意思決定の自由度が増大し、財投債の引き受けを拒否したり、有利な条件を要求したりすることができるからだ」
 しかし、この期待は間違っている。これを理解するには、次の2点を理解する必要がある。第一に、郵便貯金はその大部分を国債に運用せざるを得ない。そして第二に、財投債も一般の国債も、金融債として見れば同じものである。したがって、郵便貯金が国債を購入する際に、「一般の国債は購入するが財投債は購入しない」という判断は原理的に働くはずがない(また、当然のことながら、「一般の国債は購入してよいが、財投債は購入してはいけない」という制約もかけられない)。
 だから、財投債は発行される限り、国語も購入され続ける。したがって、郵貯が民営化されたところで、そして、郵便貯金の引き受け義務がなくなったところで、資金の流れは変化せず、財投機関は存続することになるのだ。」(野口悠紀雄「日本経済は本当に復活したのか」ダイヤモンド社、2006)
 「他方で、政府部門(国及び地方の一般会計など、非企業的な会計)は、高度成長期には、資金過剰ないしは均衡部門であった。実際、国の一般会計は、長期ににわたって超均衡財政を続け、国債を発行しなかった。
 しかし、この状況も一変した。そして90年代の後半以降、政府部門の資金不足は拡大した。大量の国債発行を反映して、金融機関の国債保有は、預金の増加を上回るスピードで増加し、その結果、資産に占める国債の比率は顕著に上昇した。
 以上で見た貯蓄・投資パターンの変化は、きわめて大きなものである。現在の条件下では、郵貯と民間金融機関は競合しているとは言いがたい。むしろ補完関係にあると言うべきだろう。」(同)
 それでも、小泉内閣は「郵政は嫌いだ」と言わんばかりの感情論で突っ走り、2005年8月に郵政民営化法案の否決を理由として衆議院の解散に打って出ました。しかし、なぜか国民の批判は彼ら推進派の本丸までは届かずに、またかれの派手な「郵政がおかしい」パフォーマンスに国民が揺り動かされたのか、選挙は「小泉チルドレン」を含め自民党が大勝、その直後の2005年10月の国会にて、郵政民営化法が成立してしまいます。ここから今日まで我々勤労国民の心を悩ませている、この長い行程がそのとき始まったのでした。
 もともと、この郵政民営化が理論的にしっかりした内容を持っていないものであるだけに、小泉内閣からこの民営化がスタートし阿部内閣、そして福田内閣、さらには麻生内閣へとバトンタッチしていく中で、これまで推進派としてまとまっていた自民党内でも、見直しを巡って意見がばらついてきました。まさに無責任、大政翼賛の「小泉イズム」に踊らされたのでした。
 このように保守の中で意見が割れてしまうのは、民営化を次の段階へと進めようとするグループと、それを引き戻そうとするグループがいるからです。麻生首相すらが、当時からあれでいいとは思っていなかった、などと無責任なことを言っている位ですから、保守勢力内にも相当の軋轢が残っていて、いまそれが吹き出してきているのでしょう。
 郵政民営化に限らず、なんでもかんでも民営化と言っていた火の勢いは2007年から経済状況が景気後退色を強めている中で、次第に下火となってきました。かつての推進派の論客を含めて、将来の株式公開でアメリカ資本による買収の懸念(野党の国会質問)に対し、「アメリカの人たちもそのときはアプローチをしてきてもらってかまわない」(小泉首相)と達観していましたが、それがアメリカの「ハゲタカ・ファンド」にどのように聞こえたのかはわかりません。それから約2年を経た今、2009年半ばの経済状況ではそんなことを無神経に言える雰囲気ではないことでしょう。
(3)鳩山・民主党を中軸とする連立政権による郵政民営化路線のストップ
 09年9月に発足した鳩山連立政権は、さっそく株式売却の凍結や、4分社化の基本の枠組みを見直すことで一致した行動を取り始めています。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○500『自然と人間の歴史・日本篇』2000~2005年の経済

2016-09-19 10:14:53 | Weblog

500『自然と人間の歴史・日本篇』2000~2005年の経済

 1998年から2001年まで不況で厳しい世相が続きました。2000年8月から14か月連続して消費者物価 指数が対前年比割れを続けました。ここではデフレ(物価の下落と景気の低迷が共存することといっていい。)スバイラル(渦巻き)とは何であったかを探求してみましょう。
 物価の下落→企業収益の悪化→生産縮小→雇用の悪化とそれに伴う所得の減少→消費低迷→さらなる物価の下落という流れがその典型といわれているものです。これは、企業の生産性向上がもたら物価下落とどこが違うのでしょう。
 この頃、アジア価格の襲来が言われました。物価下落の底流にあるのはグローバル化だという見解でした。例えば、パソコンの表示装置である液晶の価格は、薄膜トランジスター(TFT)15インチの国内取引価格で見て、この1年間で半減しました。中華映管などの台湾メーカーが99年末から新規参入を果たして、シェア拡大を狙って価格競争を繰り広げているのです。
 鉄鋼の電炉大手である東京製鉄が鋼板やパイプなどに加工される熱延コイルなどの販売価格を28%も引き下げました。バブンル経済崩壊時1992年の同6万円の半値以下の水準です。新価格は、アジアからの輸入鋼材価格と同じ水準で、韓国の浦項総合製鉄や台湾の中国鋼鉄などの価格に引っ張られた結果であるというのです。輸入鋼材価格と同じ水準で規制緩和などのよる生き残りをかけた競争もIT価格をはじめ商品価格を低落させています。
 ここではその中から、通信を見てみましょう。そこでは。グローバル化、情報化、市場原理の徹底がありました。これらの製品輸入の拡大と浸透に伴って、国内製品の価格が直接・間接に抑制されるという効果も物価下落に寄与していることでしょう。
 その2は、国内市場における競争の激化が上げられるでしょう。企業が慎重な価格設定態度を強めてきているのは、需給ギャップが埋まっていないからです。需要側からのアプローチとしては、設備投資需要もさることながら、今回はさらに下流まで進んで大衆の購買力の低下もあります。終身雇用制の崩壊が逆に不況を長引かせたと言えるでしょう。
 この間の経済状況の総括的な把握については、つぎの記述が参考になるでしょう。
 「ここからは、政策当局が景気循環の現局面の仕組みと景気の行く末に懸念を感じていることが読み取れる。資本制社会においては、労働者の剰余労働によって生み出された剰余生産物はその一部は資本家の個人消費に吸収される。景気拡大が続いていくためには、残る剰余生産物は純輸出(輸出-輸入)、新投資需要(設備増設や在庫の積み増し)、政府需要のいずれかに振り向けられねばならない。

 しかし、新投資需要と政府需要の伸びは抑制気味で推移しながら、国内消費は2001年に入っても回復しないことで景気失速の危険が迫っていた。これを救ったのは2002年からの対外貿易の拡大であって、輸出比率が「2007年第1・四半期には一五%程度まで上昇」したため、この期間の貿易差額の対GDP(実質国内総生産、2000暦年連鎖価格)比率(速報値ベース)は2%を超え、1980年代の輸出ドライブがかかっていた頃の水準には及ばないものの今回の景気拡大の牽引力となっている。
 引き続いて、2002年からの経済拡大とその終焉への歩みについて、簡単にたどってみましょう。
(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○486『自然と人間の歴史、日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(金融再生法による処理)

2016-09-19 10:01:57 | Weblog

486『自然と人間の歴史、日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(金融再生法による処理)

 金融再生法は2001年3月までの時限立法で、銀行が経営破たんした場合の破たん処理を定めた法律です。具体的には、経営破綻した銀行の「特別公的管理」といういかめしい名による一時国有化や、金融整理管財人を派遣して整理する処理策を盛り込んでいました。
 それまでの処理法は清算による解体消滅(山陽証券、山一証券)、営業譲渡(北海道拓殖銀行)及び吸収合併にとどまっていました。山一証券の場合は、監督官庁に自ら解散を申し出て、自主廃業の形で解散しました。因みに、山一証券の債務超過が一応確定したのは、99年6月東京地方裁判所による破産宣告を受けたときです。このとき経営陣は東京証券取引所で財務状況を報告しました。それはつぎのようなものでした。
 「自主廃業を申請した97年11月時点の自己資本は1009億円あった。その後、借りていた店舗の解約費用や海外現地法人の生産に伴う損失がかさみ、98年3月末には225億円の債務超過になった。」
 さらに、不動産や有価証券など資産価格の下落が進んだことや、貸付金などの回収不能が見込まれるようになったことで、債務超過額は1602億円にまで膨らんだ。この結果、山一の甘い資産チェックが指弾されるととともに、負債のうち日本銀行からの特別融資(特融)が4890億円を占めており、債務超過額とほぼ同額分の日銀特融総額4880億円に対する返済不能が明るみに出ました。過去に日銀特別融資が焦げ付いた例はありません。さっそく日本銀行は、山一証券が破たんした97年11月に当時の三塚大蔵大臣が「山一の最終処理は寄託証券保証基金(投資者保護基金)の充実、機能強化で対応する」という談話を引き合いに出して、全額回収を政府・大蔵省と証券業界に求めました。この辺の事情について、当時の経済週刊誌「ダイヤモンド」(99年6月19日号)は、次のような説明をしています。
 「山一は破たん当時から債務超過の疑いが強く、特融に慎重だった日銀が踏み切った理由は「蔵相談話だけじやない。」(日銀幹部)。複数の関係者によれば、基金による最終処理を法的に担保するという約束が大蔵省との間にあった。
 事実、その後、証券取引法が改正され、第43条には、破たんした証券会社への再建は、投資家の保護に資すると認められば基金を譲り受けることができ、また、大蔵大臣はそれを要請することができる、とある。つまり、特融という債権を日銀から買い取ってくれと蔵相が要請できるとのことでしたが、これらを根拠に、基金・証券界に求めるのは筋違いであろう。蔵相談話、大蔵省と日銀の合意ができる経緯で基金はまったくらち外に置かれていたからである。
 また、山一の債権は投資家だけでなく、金融機関を含む一般債権者にも完全回収され、紙屑となって当然の転換社債も期限前償還され、従業員の退職金も劣後ローンの一部も払い、つまり、大判振る舞いの挙げ句に債務ョ羽化額が膨らんだ。これでは投資家保護とはいえない。
 そもそも、基金の性格は、破たん証券の財産管理に不正、日があり株券の流用などがあった場合の補償という、限定的な投資家保護の役割に過ぎない。
 山一破たん当時に特融がなければ、他の証券会社にも危機が波及したはずだと大蔵省・日銀が迫っても、基金が負担を追う理屈は成り立たないである。
 振り返ってみれば、破たん処理ルールがないままに、特融決定もその後の処理も、行政の裁量で行われたといえる。とすれば、その結果の損失は国庫、税金で補うしかあるまい。
 では、どうするか。基金が政府保証を付与した借り入れを行い日銀に返済するという案も浮上しているが、現在、基金は2団体に割れてしまっているし、「公的関与をは受けたくない。」(基金幹部)と拒否感も強い。
 日銀が損失を負担した場合は、国庫納付金が減り結局は財政負担となるのだが、日銀の信用が傷つくことが懸念される。銀行の議論は日本ではあまりなされないが、各国中央銀行や市場の日銀に対する信任の低下を招く大きな問題である。
 だが、財政が直接負担するには、法的措置と国会審議が必要で、自らの失策を追求される事実を大蔵省が受け入れるはずがない。大蔵省と日銀の間で、裁量行政のツケ、責任の押し付け合いがこれから始まる。」と。
 新法(金融再生法)になって、2001年までの時限措置として、破綻した金融機関に対して、金融再生委員会が一時国有化か、ブリッジバンクという処理ルートを選択できることとなりました。前者は、ソフトランディングにまつわる処理策といってもよろしい。再生委員会がこの決定を下すと、預金保険機構が強制的に破綻金融機関(破綻しそうなものを含みます。)の株式を買い取り・取得を行う。
 潰れるべき金融機関と見定めて事実上の国家管理に置くものといってもよいでしょう。その間に再生委員会が送り込む経営陣(金融管理人)が「独断と専権」で大鉈を振るって不良債権処理や合理化を行い行く末を決める。言い換えると、国家管理下で暫く2年とか5年とか営業を続けさせる間に、その上で資産の売却先である金融機関、投資家、つまり受け皿機関に当該資産を売却するというものです。
 それでも受け皿機関が見つからない場合の措置を取り決めたのが後者で、整理管財人により不良債権の処理、合理化を行い、受け皿先を探します。それでも見つからない場合は、預金保険機構の子会社として融資業務を継続するというものです。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○485『自然人間の歴史・日本篇』1990年代後半の金融生制度改革(全体の枠組み)

2016-09-19 09:56:13 | Weblog

485『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代後半からの金融制度改革(その全体の枠組み)

 1990年代後半の金融生制度改革は、政治の激動期に行われる。総合経済対策を策定した4月から3か月後の1998年7月の参議院選挙において、政府・自民党が惨敗した。その後は、財政再建に拘泥した感のある橋本内閣に代わって自民党総裁選で競り勝った小渕内閣が7月30日に登場し、「経済再生内閣」の触れ込みで巨額の財政資金を投入しての景気対策が復する。
 その施政方針の第1は、財政構造改革法の凍結と総事業規模で10兆円超の98年度第2次補正予算の編成、第2に総額7兆円の恒久減税でした。後者については、法人課税実行税率を46%から40%へ、所得税・住民税の最高税率を65%から50%に、中低所得層に配慮した低率の戻し減税などが語られた。同年11月には、23兆9000億円の緊急経済対策がまとめられる。4月の対策を7兆円上回る規模となった。
 1998年3月期、主要18行は合計10兆5000億円もの不良債権を直接、間接消却で消却しました。98年5月26日付け日経新聞による98年3月期決算における不良債権額は大手18行でそれまでの旧基準ベース新基準ペースで15兆6675億円、米国証券取引委員会(SEC)新ベースで21兆7779億円と伝えられていた。
 1998年5月には、金融再生法が制定され、公的資金30兆円枠を活用した金融安定化策が始動しました。銀行は潰れないとの神話はもはや崩壊し、最後の砦としての国が舞台の全面にでてきたのであった。
 これを起爆財に預金保険機構が破綻銀行の資金贈与や不良債権の買い取りに乗り出したのです。1998年6月には総理府の元に金融監督庁が発足した。これは97年の第140通常国会において金融監督庁設置法が成立したことに伴うもので、金融機関の検査・監督部門を大蔵省から分離し、総理府の外局として金融監督庁を設立。銀行や保険や証券などの監督や破綻処理を担当することになったのだ。
 1998年10月の臨時国会においては、9つもの金融関連法がどっと成立した。その内訳は、破綻した金融機関の処理策を盛り込んだ金融再生関連が8本、破綻前の金融機関に対し公的資金を注入する道を開くものが1本であった。
(1)金融機能再生緊急措置法(金融再生法)
(2)金融再生委員設置法
(3)預金保険法一部改正
(4)金融再生委員設置法関係法整備法
(5)債権管理回収業特別措置法
(6)根抵当権付き債権譲渡円滑化臨時措置法
(7)競売手続き円滑化法
(8)特別競売手続き調査評価臨時措置法
(9)金融機能早期健全化緊急措置法(早期健全化法)
 その中で、公的資金(無担保・無制限に行われる日本銀行の特別融資)の枠は、10月13日の預金保険法改正、金融機能再生緊急措置法(金融再生法)及び金融機能早期健全化緊急措置法(早期健全化法)の成立によって60兆円に積み上げられる。その内訳はつぎのようなものであった。まず、金融機関への資本注入と特別公的管理のために、政府保証枠で43兆円を設け、従来からの預金者保護のための17兆円を加えると60兆円になった訳だ。
 次に政府保証枠43兆円の中身としては、金融再生勘定(特別公的管理、公的ブリッジバンク)のために18兆円、さらに金融機能早期健全化勘定として「生かす銀行」にも25兆円ものカネが割り当てられる。後者の早期健全化法とはその名の通り経営破たんしそうな銀行がそれ以上経営を悪化させないような国の資金支援措置を定めたものだ。
 これは「資本注入」と呼ばれたり、「公的資金投入」と名付けられており、この法律でいう「注入」とはまるでカンフル注射を打たれるような情景を連想させる言葉遣いにほかならない。また、ここで公的資金の投入とは、これらの資金を管理する預金保険機構に対し日本銀行などが融資する際に政府補償を付けてやることを意味している。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○475『自然人間の歴史・日本篇』土地神話の崩壊

2016-09-19 09:27:59 | Weblog

475『自然人間の歴史・日本篇』土地神話の崩壊

 日本の1980年代バブルの時には、1984年に1万円そこそこであった日経平均株価が1989年末になると4万円に近づいていました。その一方、で1983年を100とした東京圏の地価は1989年には約340に跳ね上がっていました。その間のGDP(国内総生産)は1984年で298兆8198億円であったのが、1989年には405兆6554億円になっていました。なお、株価のピークは1989年12月、景気動向指数による景気の山は、1991年2月がピークとなっていました。
 では、なぜこのような高率の地価上昇がもたらされたのでしょうか。
まず、その間の貨幣供給からみましょう。ここでM1とは現金通貨と預金通貨を合わせたもの、M2とはこのM1に準通貨をたしたもので現金、当座預金、普通預金、定期預金の合計額となります。またCDとは譲渡性預金のことです。わかりやすく言うと、一般企業などが商売上の取引で使う譲渡可能な大口預金のことを指します。マネーサプライの一般的指標としては、M2+CDがよく用いられます。
 そこでM2+CD残高は、1983年1~3月期が247兆3193億円、1984年1~3月期が268兆1766億円、1985年1~3月期が289兆4160億円、1986年1~3月期が315兆3323億円、1987年1~3月期が343兆6531億円、1988年1~3月期が384兆1227億円、1983年1~3月期が423兆8439億円。
 また、この時期の四半期GDP(国内総生産)の推移をみると、1983年1~3月期が64兆8880億円、1984年1~3月期が68兆7140億円、1985年1~3月期が73兆3160億円、1986年1~3月期が77兆1870億円、1987年1~3月期が81兆930億円、1988年1~3月期が86兆8550億円、1989年1~3月期が92兆5380億円。
 今度は、地価の下降局面をたどってみましよう。96年1月、地価税0.15%引き下げ。96年11月、土地政策審議会答申。97年2月、「新総合土地政策推進要綱」を閣議決定。97年3月、不良債権処理のため、「担保不動産等流動化総合対策」発表。97年4月、土地有効利用促進検討会議の設置。97年4月、「担保不動産等流動化対策連絡会議」設置。97年9月、土地有効利用の具体策発表。97年12月、98年度税制改正。
 これらの動きは、やがて2001年からの量的緩和政策、つまりお世の中に出回っているおカネを増やすことで、消費や投資を促し、デフレ経済からの脱却をめざす動きにつながっていきます。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


○○476『自然と人間の歴史・日本篇』住専処理(1996)

2016-09-19 09:19:06 | Weblog

476『自然と人間の歴史・日本篇』住専処理(199)

 また、1996年6月、「特定住宅金融専門会社の債権債務の促進等に関する特別措置法」が国会で成立しました。母体行責任かそれとも課して責任かということですったもんだしましたが、この法律制定と96年度予算が成立していることで、住宅金融専門会社の解体処理を巡って6850億円の公的資金が投じられることになりました。
 ここに住専問題とは、住専向けの金融機関の融資が不良債権化していたのをどうするかの問題でした。本来は、ん資金を借りる側もそれを貸す側も民間同士なのですから、かれらの間で不良債権を処理すればよいものなのですが、話し合いが紛糾したことから、国会がこれに関与することになっていったのです。結局は、母体行の責任が言われ、住専に出資していた銀行の債券は放棄、住専に融資していた農協系金融機関は贈与として5300億円を支出するが、これにより埋めきれない6800億円は政府が負担するという運びになっていったのでした。
 この政治決着には前史がありました。95年12月20日、時の連立内閣の村山首相は首相官邸で記者会見を行いました。
「日本の金融秩序に対する内外の信頼を回復するため、また契機対策からもこれ以上先送りすれば傷口を大きくし、金融界の混乱を大きくする。ぎりぎりの苦渋の決断として、公的資金を導入せざるを得ない。」
 これが総選挙で敗北した社会党籍の首相が進退極まったなかで発した節度なき「苦渋の決断」であったことは庶民なら誰の目にも明らかであったでしょう。それほどに与党・社会党の凋落は激しく、明くる96年1月5日には村山首相が閣議で退陣を表明。6日後の1月11日になるや橋本・自民党政権が発足し、ここに住宅金融専門会社に対する政治家の私利私欲による処置がまかり通っていったのです。
 この96年6月からの処理の流れで、いわゆる住専8社のうち7社の清算が決まりました。住専とは、元々は個人向け住宅ローンのために金融機関等の共同出資によって設立された、主として銀行借り入れを減資に貸し出しを行うノンバンクの一種でした。
 この住専が担保に見合った貸し出し、分散貸し出しの原則をかなぐり捨てて、大口のカネを借り手に集中的に融資し続けてきたことが、バブル崩壊とともに資金回収困難となって跳ね返ってきたのです。
 不動産融資の焦げ付きなどによって経営不振に陥った住専8社の92年9月時点の金融機関借り入れ状況は、総額で14兆885億円に膨らんでいました。住専各社は、農林系の協同住宅ローンを除く7社が母体行を中心とした金融機関から金利減免の支援を受けていたものの、不動産取引の低迷などから債権の回収が思うに任せず借入金の圧縮がすすんでいなかったものです(読売新聞、92年11月19日)。
 96年になって、彼らが持っていた債権が額面13兆円。これが不況による貸し倒れ等で価値が大幅に減価して、損失の大きさは6.4兆円に膨れ上がっていました。内訳は、3.5兆円+1.7兆円+5300億円+6850億円ということで説明され、この最後の部分を政府支出で穴埋めしようというものでした。
 具体的には、95年12月19日に発表された政府・与党による住専処理スキームと異なりません。これによると、旧住専7社の一次損失は6兆5000億円。このなかの6兆1000億円の資産を住宅金融債権管理機構に資産譲渡し、同管理機構は同額の譲渡代金(うち管理機構の自己資金
3000億円)を旧住専7社に支払う。
 住宅金融債権管理機構への資産譲渡に伴う資金の流れは、
①96年度当初予算で日本銀行は預金保険機構の住専勘定に財政資金6850億円を出資する。預金保険機構はそのカネを住宅金融債権管理機構に譲り渡す。母体行は2兆700億円、一般行は1兆8000億円、農林系は1兆9000億円、合わせて5兆8000億円の低利融資を行う。
②住宅金融債権管理機構の損失が拡大した住専勘定に欠損が生じた場合には財政支出を追加する
③住専の追加見込み額は7社合計で約6兆4000億円である④母体行は債権総額の3兆5000億円を、一般行においては1兆8000億円をそれぞれ債権放棄する
⑤農協系金融機関は住宅金融債権処理機構に5300億円を贈与する
⑥住宅金融債権管理機構は住専7社に1兆2000億円の支援を行う(日経新聞、96年12月25日付け)、というものでした。
 これは資本主義の原則である自己責任原則を金融秩序の名のもとに真っ向から葬り去ろうという最初の試みでした。
 救済の理由として持ち出されたのは、農林中央金融公庫が住専に多額の融資をしていたため、住専を破産法などの法的整理で処理すると、農林系金融機関の経営を揺るがす問題に発展しかねない、ひいては金融不安が起こる懼れがある、というものでした。といっても、債権回収を行う必要があるわけで、預金者保護のために設立されていた認可法人であった預金保険機構の従来業務に加え、住専処理機構への出資や資金援助、住専処理機構による強力な資金回収のための助言・指導、回収困難事案に対する財産調査権を活用しての取り立て等が可能となりました。
 この住専処理の一連の流れのなかで、モラル・ハザードは働いたのでしょうか。6850億円の財政からの支出については、何ら合理的根拠は見いだせません。それどころか、税金を注入する先は図体の大きいだけのノンバンクで、預金者保護とは縁もゆかりもありません。一方で、農林系金融機関が本来負担すべき6850億円であるにもかかわらず、そして彼らの経営責任こそ問われるべきであったのに、小選挙区制で怖い政治家たちはそのことにいっさい触れませんでした。結局のところ、新金融安定化基金という社団法人176社が合計8130億円の資金を出して、この基金による15年間の拠出金を国庫に納めることで、6850億円の一部をそうさいしたいというような、まさに雲をつかむような話で終幕を迎えたのです。財政民主主義からする節度あるある流れは起きず、結果として政・官・財一体となった住専処理であったことは、否めません。
 このとき、母体行に対しては、次のような「念書」を書かせたようです。
「ご当局指導のもと、全金融機関一致しての支援を踏まえた上で、金融システム安定化の観点から、再建計画に沿って責任をもって対応してまいります所存でありますので、当局においてもよろしくご理解、ご助力の程お願い申し上げます。」
 また、農協系金融機関については、なんと農林水産省との覚え書きによって元本保証をするかのような文言がしたためられていました。
「大蔵省は農協系統金融機関に今回の措置を超える負担をかけないよう責任をもって指導していく」といい、まるで預金者のように次から次へとカネを住専に貸し続けた農協系金融機関のいい加減さを放置するのですから、臭いものへ蓋の感への感を免れません。
 今一つ、「週刊読売「(98.4.5)に住宅金融債権管理機構の社長、中坊公平へのインタビユーがなされています。
「この会社は資本金2000億円、全額が国の出資という典型的な国策会社です。国策会社であって、その窓口が大蔵省です。その大蔵省の方々の監督を受けて自分が社長としての仕事をするときに、意見が分かれるというか、私の主張が大蔵省と会わない場合もあると思うんです。」
「処理すべき不良債権は8兆円あるんです。そのうち5兆円は私が管轄しとるんです。直轄するということは、かれこれ1000件近い事件を全部見とるんですよ。だから、1件1件、私が決済してるんです。」
 さらに、聞き役の宮崎 緑キャスターが「ところで、不良債権の回収にあたっては、いわゆる「闇の勢力」とも対峙するわけですが、怖いと思われませんか。」と話題を転じたことに対応して、こう述べています。
「.....不良債権を回収するとき、彼らはどう出てくるかというと、損切り屋なんです。」
「担保物件にわざわざ傷をつけるわけです。いちばん露骨なやり方が不法占拠です。あるいは架空の賃借権をつけるとか、債権を譲渡してしまうとか。」
 宮崎キャスターが「ただでさえ地価が値下がりしているのに、さらに価値が下がってしまう」としたのに対して、「おまけに傷をつけて、その担保物件を売ろうにも売れないようにするんです。すると向こうは「あんた、損切りでちょっと損しときいな。それでわしとこちょっとお金くれたら瑕疵なくすんやから」というところとで、闇の勢力が暗躍するわけです。」と答えています。私たちは、この一人の老練な法曹家の勇気ある発言から何をまなんだらよいのでしょうか。

(続く)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆