○○483『自然人間の歴史・日本篇』1990年代半ばからの日米貿易摩擦と世界金融

2016-09-28 19:05:07 | Weblog

483『自然人間の歴史・日本篇』1990年代半ばからの日米貿易摩擦と世界金融

 1990年代後半からの日米貿易、そして国際金融は、大きな転機にさしかかっていた。このことを丸尾(筆者)は、こうまとめたことがある。
 「1995年6月の先進国首脳会議(ハリファスク・サミット)において、カナダの外務大臣ウェレットが議案の一つとして提案しようとした外国為替取引税は、1978年に経済学者のジェイムズ・トービンが提案したもので、世界の為替取引市場における投機抑制のため取引額の0.02%を課税しようとするものでした。これを国連ベースで浅く広く課税し、税収を国連活動に使うという案であり、フランスのミッテラン大統領が賛成しましたが、それ以上の話にはなりませんでした。この税の「味噌」は、「投機資金はわずかな証拠金で多額の資金を動かすために、わずかな税率をかけられても、その動きが抑えられ、リアルな設備投資そのほかを行おうという長期資金は、この僅かな税率であったならば、その動きは抑えられることがない、という考えである」と。(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)
 これに一番反対の気持ちを抱いたのは、自国に5大投資銀行を抱え、ITバブル崩壊(IT関連株の暴落)の後は金融業に産業の軸足・ウエイトを移してきていたアメリカでした。
 これより先、1992年のアメリカの貿易赤字の半分以上の494億ドルが日本への赤字で占められていました。日本からの輸入の増加で国内の製造業、特に自動車と自動車部品、半導体は大いなる苦戦を強いられていました。
 1993年4月、1月の就任から3か月後のクリントン大統領はワシントンで日本の宮沢首相と米日首脳会談を行い、日米経済摩擦を巡る問題で包括協議機関の設置を合意しました。会議を終わった両首脳は、共同記者会見に臨みました。宮沢首相がアメリカからの「脅し」(threat)があったことを窺わせる会見をしたのに対し、クリントンは次の4つのことを日本に要求する腹づもりであることを明らかにしました。
 ①として円高、②として日本の景気刺激策、③にはアメリカの製造業の生産性の大幅上昇、そして④としての分野別の交渉が勢揃いした訳です。
 1995年4月19日、ドルの対円相場が1ドル=79円75銭を付け、日本からはこれ以上の円高は困る、米国債を売らざるを得なくなる、と泣きつかれ、また国内の産業振興政策としてのドル安誘導にもかかわらずアメリカの自動車産業などにさほどの活性化が見られなくなっていたことなどがあり、それまでの政府による製造業立て直しの試みには暗雲が垂れ込めていました。
 このようなとき、1995年投資銀行の一つゴールドマン・サックス会長を歴任したルービンが第二期クリントン政権の財務長官に迎えられました。彼はこの後1999年に任期を終えるまで、市場をドル高に誘導し、そのことで世界中の資金がアメリカに集まり、アメリカの投資銀行はそれらの多国籍資金を元手に多様な金融商品に仕立て上げ、資金を提供してくれた全世界に売りさばくという離れ業を次々としていったのでした。
 こうしたアメリカ政府とアメリカの金融資本によるドル高誘導は世界的な貨幣資本過剰の中で業績を上げていきます。
 1996年8月には対円でのドル高が軌道にのり、96年末にはそのピッチが早まりました。そして1997年はじめになると、1ドルが120円を突破しました。1997年2月8日、ベルリンで開催された先進国財務大臣・中央銀行総裁会議において、ルービン財務長官が急速なドル高の進行に
警戒を表明、しかしアメリカ金融業とアメリカ財政に利点の多いドル高そのものについては維持する方針を貫きました。
 そのことにより、アメリカ経済は世紀末の活況を取り戻し、その熱狂の渦の中でニューヨークのダウ株価は1999年3月には10000ドルを突破しました。
 海外投資家はもともと最高150%にも達した国債の金利を目当てとして、ドル資金を調達してロシア国債を大量に買い求めてきました。しかし、IMF(国際通貨基金)の支援もなかなか効果なく、財政赤字も巨額で、国債の価格も上昇しませんでした。これでは米国国債を売ったりしてドルを調達し、そのドルでロシア国債を買って高率の利ざやを稼ぐといった裁定取引のうまみがなくなってしまいます。
しかし、このように金融大国への波に逆流もあったのは事実です。その中で、ひとたびこの波が逆になるとどのようなことになるかを教えてくれたのが1998年7月から9月にかけてのロシア金融危機でした。
 これより先、1997年からのアジア金融危機では、米英の金融機関とそれの意を汲むIMFは自らの影響力と利益拡大のために奔走していました。その傍らで、彼らはロシアに「黄金」を見つけていました。しかし、そのロシアに金融危機が近づいてくるに及んで、状況は一変します。
 そして迎えた1998年6月25日、IMFがロシア向け融資の再開を発表しました。7月13日、IMFなどによる総額約230億ドルの国債緊急融資を合意しました。伊東光晴氏は、こう論評しています。
 「IMFの融資は融資を受ける国のためのものであろうか。もちろんそうでなければならない。だがロシアへの融資をみるかぎりにおいて、それは同時にウォール街のためのものであった。IMFの融資によってロシアの通貨ルーブルの国際的価値の安定化がはかられた。その間多くのヘッジ・ファンドはロシアの短期国債を購入していた。それは一年物で年利20%とか、30%とかいうものであった。もちろんデリバティブを利用して、原資を何十倍かの権利にかえてである。この過程をみるかぎり、IMFの融資は、ヘッジ・ファンドの利益を支えるものに使われていると考えざるをえない。」(「伊東光晴「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)
 さて、かれら米英の金融機関の中で得意な位置を占めていたのがヘッジ・ファンドでした。その中でも、米系ヘッジファンド(私募で投下から資金を集めリスクヘッジのために開発された金融デリバティブ(金融派生商品)の技術を駆使して、あらゆる金融商品に投資するもので、ハイリスク・ハイリターンが売り。)の雄であったCTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)でした。
 そのCTCMの最大の収入源は、ロシアの国債とアメリカの国債を巡っての裁定取引(さや取り)でした。それは、簡単な例で言うと、投資家は性質(満期までの期間、クーポンレート、信用度)が似通った両方の債権を市場から探し出します。まずはアメリカの利回り10%の国債を買い入れる、としましょう。それから、いま割高感のあるアメリカ国債を売っておき、その一方で割安感のあるロシアの利回り20%の短期国債を買っておきます。この場合、支払い不能になる可能性がより高い代わりに高い利回りが期待できるの債権A(「ジヤンク債」)がロシアの国債であり、利回りは安いものの安全性に勝る債権Bとの間に発生する理論値からの乖離を利用して膨大な利益を上げていくのです。
 具体的な簡単な例で言うと、その後時間が経過して市場が動き、米国債の利回りが年20%とロシア国債のそれとの差が同一となり(または縮まり)(他の条件は変化なしとして)、両者の関係が理論値価格に届いたら、こんどはアメリカの国債を買い戻し、ロシア国債を売りますと、その差額分(収益)から取引手数料を差し引いた分が投資家の利益となるでしょう。CTCMは「平均で30倍以上」のレバリッジ(取引金額/保証金)で投資家の資金をかき集めて投資を行い、そこから莫大な利益を得ていました。
 ところが、いまロシアに金融危機が起きて、ルーブルそのものの価値がドルに対して暴落するようになると、ルーブル建てのロシア国債の利回りは急上昇することになり、本来は縮まるはずの両者の金利差が逆に拡大してしまうことで、利益が上げられなくなったのです。 
 ここにリスクの顕在化に直面化した投資ファンドがジャンク債=ロシア国債を大量に手放そうとしたために事態は悪化していきました。そのうちに彼らが背負っている債務の償還期限が来て、外国銀行からのドル建て債務の借り換えをする必要が出てきました。投資家たちはそれらの債権銀行から追証を求められるが、仕方がないので手持ちのロシア国債以外のアメリカ国債などの債権や株式のたたき売りを始めました。
 こうしたロシア金融危機の進展により、米系金融機関は大きな痛手を受けました。中でも、ヘッジファンドの雄であったCTCM(ロングターム・キャピタル・マネージメント)の損失が40億ドル、ソロス・ファンドの損失が17億ドル、米系ヘッジファンドの損失が17社を併せて55億ドル、銀行筋が60億ドルという巨額の損失を被りました。
 もっとも、この損失額については報道により相当の開きがあるので仔細を特定するのは難しく、例えばCTCMの損失を巡っては「運用資金800ドル(約9000億円余り)の損失を出し(当初は投資家から集めた自己資金48億ドルに相当する40億ドルの損失と報ぜられた)」(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)というように、時間の経過とともに損失額もまた肥大化していくいく傾向がありました。
 1998年8月17日、ロシアがついに債務不履行(デフォルト)か、という事態に見舞われました。1998年4月18日付けの米経済専門紙ウォール・ストリート・ジャーナルは、「デフォルトの衝撃ールーブル切り下げ、債務支払い停止へ」というショッキングな見出しで、注意を喚起しました。
 その結末については、1998年8月23日の日曜日、政府のルービン財務長官とFRBのグリーンスパン議長が取り持った、ニューヨーク連銀11階の会議室での金融機関14社の集まりでCTCMへの資金拠出で支えていくことが決まったことでした。後にグリーンスパンがキャピタル・ヒルの銀行委員会公聴会で「席を貸しただけで、政府機関として具体的な救済に乗り出したわけではない」と言い張ったように、あくまで民間による民間の救済を実現すめるために仲介の労をとった、ということでしたが、その会議を事実上主導したのはニューヨーク連銀のピーター・フィッシャー副総裁であり、彼は各社の代表を前にして、連鎖的な倒産を回避するには、「LTCMの破たんは絶対に避けなければならない」ことを言い放ったと伝えられています。
 このロシア発金融危機は、ニューヨークばかりでなく、ロンドン、香港、シンガポールも、モスクワも、フランクフルトも、世界の名だたる金融市場のほとんど至るところで、動きがありました。その後も数回にわたる14金融機関の会議の後、「「14社が均等に2億5000万ドルずつ出し合って、総額35億ドルの緊急資金を注入する」という線で、なんとか折り合いをつけたのではないかといわれているところです。その直後ですが、1998年10月、ロシアで投資に失敗したヘッジファンドが損失を削減するために、ドル売り・円買いに入りました。まさに、やられたらやり返すといった彼らのしたたかさを、ここに垣間見ることができます。」(拙ホームページ「アメリカの政治経済社会の歩み」より抜粋)

(続く)
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