○○465『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代の政界再編

2016-09-16 11:44:56 | Weblog

465『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代の政界再編

 政治面では、92年10月に金丸信氏が東京佐川急便事件の責任をとって議員辞職、竹下派会長も辞任、後任に小渕恵三氏が就任しました。
「天下、国家のために働いている」と公言してはばからなかった彼が、後に自宅で75キログラムの金塊を抱いていたことが判明したように、長らく権力の中枢にある人が一皮剥けば実はカネまみれであったことは、驚きでありました。
 92年12月になると竹下派が分裂、小沢一郎、羽田両氏らが羽田派を結成、小渕派は党内台4派閥に転落します。政局は麻のごとくに乱れて変動がやまず、93年6月内閣不信任案に自民党の小沢・羽田グループが合流して可決しました。衆議院は解散し、小沢・羽田グループは新生党を結成しました。
 93年8月には細川・非自民党内閣が成立しました。新保守三党を含む七党一会派による連立政権という寄り合い所帯の誕生でした。
 その後の94年4月の羽田内閣を経て、翌94年6月には今度は自民党も賛成して自社さまがけ連立の村山社会党首班の内閣が発足します。社会党は衆議院で74議席を占めていました。自民党は在野に下り、主流派は経世会を平成政治研究会に改称、返り咲きの機を窺っていました。
 一方、94年12月には新進党が結成され、海部党首、小沢幹事長に就任しました。この間に民主主義に逆行する小選挙区制が創設されるとともに、貧富の差をさらに広げる年金改悪や消費税増税が行われました。社会党はこの両方の政治課題に労働者と勤労国民の代表の立場を貫けず、このころから「現実色」を強めてしだいに体制内勢力の一部へと組み込まれていきました。
 政治改革関連法のうち、小選挙区比例代表並立制の導入に伴ういわゆる区割り法が94年11月21日に可決成立、同25日の公布、それからすでに成立を見ていた他の関連法とともに1か月の周知期間を経て94年12月25日に施行されました。これ以後公示される衆議院総選挙に際しては、1917年(大正14年)以来続いてきたいわゆる中選挙区制から小選挙区制に選挙制度ががらりと変わったのです。
 これによると、投票方法も記号式二票式になり、勤労国民と選挙の現場にとまどいが生まれました。また同時に、95年1月1日から改正政治資金規制法と政党助成法が施行されました。これで、「企業、労働組合等の団体の寄付が大幅に制限されるとともに、政治資金は政党が中心になって集めるようにして透明性を高め、同時に法人格を有する政党に対しては国から交付金が公布されるようになります。」(総理府広報室「家庭版、今週の日本、94年12月19日付け」)。選挙にカネがかかりすぎる、という反省から導入したと推進勢力によって自認されるこの制度は、政治資金規制法、政党助成法と法人格付与法、公職選挙法等に跨ったはば広型の対応を私たちに求めているのではないでしょうか。
 その不当性は、一口にいうならば民主主義の否定であり、なかんづく少数勢力が多数勢力になっていくことを拒もうとすることにほかなりません。

(続く)

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○○464『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代前半の証券不詳事

2016-09-16 11:43:15 | Weblog

464『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代前半の証券不詳事

 おりしも、1991年6月20日に野村証券の160億円の損失補填が発覚しました。いわば「損して得取れ」の故事にも重なる悪知恵で、これは次のような展開をたどりました。
 6月21日、野村の水内、日興の幸の両副社長が会見して、補填と暴力団の癒着関係をほぼ認める。
 6月22日、補てん、新たに大和、山一も発覚。野村、暴力団の東急電鉄株株買い占めと株価操縦への関与発覚。
 6月23日、野村、年金福祉事業団に約50億円の補てん発覚。
 6月24日、野村・田淵、日興・岩崎両社長辞任会見し、岩崎氏は「宴の裏に悪魔」と形容。橋本蔵相がG7から帰国。不祥事に「情けない」と発言。
 6月25日、海部首相、蔵相に「厳重対処」を指示。田淵・野村会長が日証協会長への就任辞退の表明。
 6月26日、野村・野村会長、日興・岩崎会長ら蔵相に陳謝。
 6月27日、野村の株主総会にて田淵社長が「大蔵省が補てん承認」発言。酒巻新社長が田淵発言の釈明会見。
 6月28日、警察庁、経団連に暴力団排除を要請。
 7月1日、経団連、正副会長会議で田淵副会長を解任。
 7月5日、東京国税局が証券大手4社に更正処分。神戸市、4社と取引中止表明。
 7月8日、大蔵省、4社に行政指導と処分。10-15日の4営業日、法人営業自粛など。4社が社内処分を発表。補てん額は1264億円。
 日証協会長に渡辺・日興前相談役が就任。東証。大手4社を処分。野村、日興は各500万円、大和と山一は各300万円の過怠金。
 7月9日、並木弁護士逮捕。加商株買い占めで田淵会長がたれ竹井・元地産会長に並木への紹介状を書いたことが発覚。
 7月10日、大蔵省、蔵相、次官ら3か月の減給、訓告処分。日証協、野村、日興に各1000万円、大和と山一は各500万円の過怠金。
 7月11日、自治体の4社離れ相次ぎ、51自治体に。
 7月12日、野村・田淵会長が「国会では補てん先を証言する」と発言。
 7月18日、大蔵省、4社を特別検査。衆議院大蔵委員会が承認喚問を見送り。
 7月21日、準大手も補てん発覚。
 7月22日、田淵・野村会長が辞任、相談役に。
 7月23日、4社、有価証券報告書の訂正報告。補てん先は231社(人)で、総額で1283億円に。
 7月24日、蔵相ら、補てん公表容認発言に転じ、「証券が自主的に」を強調。
 7月25日、住議員大蔵委員会で集中審議。4社の補てん先は実数200社。金融機関を含み、「政治家はない」。準大手は6社で補てん額は約350億円。
 7月26日、東商会議所が補てん関連企業ドップの引責辞任を盛り込んだ緊急提言を発表。
 7月28日、首相も証券界に補てん先の自主公表を要求。
 7月29日、大手4社が補てん先リストを公表。のべ228法人と3個人。総額1283億円。松下、昭和シェル、年金福祉事業団などの大企業、公的機関多数。多くは「補てん先の認識ない」。
 7月30日、第三次行革審議会、日本版SECなど再発防止策の検討を緊急会議で決定。
 7月31日、準大手・中堅13社が補てん先リストを公表、のべ380法人、6個人。総額437億円。新日本製鐵、三菱商事、日本郵船、創価学会も。
 8月2日、衆議院大蔵委員会で集中審議。中小証券でも総額10億円未満の補てん。東急電鉄株で集中売買禁止通達違反の疑い。東証が準大手・中堅13社を一律過怠金300億円の処分。
 8月3日、橋本蔵相秘書の冨士銀行不正融資にからむ無担保融資仲介が発覚。
 8月6日、日証協、準大手・中堅13社を処分。補てん額10億円以上の7社を500万円、同10億円未満の6社に300万円の過怠金を課した。
 8月7日、国会代表質問。野党各党による行政責任の追及があった。
 特定投資家への補てんの手口は、3つに分かれていました。ひとつは、新規公開株・転換社債(CB)の優先供与。これは、証券会社が特定投資家に対して、値上がり確実な株や転換社債(CB)を売って、それが値上がりしたところで売り戻すやり方です。

 二つ目は、国債・公社債の日計(ひばか)り商い。こちらは、まず1日の市場価格の最安値で特定投資家に対して売り伝票を切る。次いで、同じ日の最高値で買い伝票を切る。そして生産で差額を与えるというものです。3つは、ワラント債(WB)・外債を使った売買です。これらの市場価格は不明確で、まず証券会社が特定投資家に対して、類似債券に比べて安値で売り、今度は逆に高値で買い戻してその差額を補てんする。いずれのケースも中間に投資顧問会社をはさむケースもありました。

(続く)

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○○462『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代前半の日本経済

2016-09-15 20:33:27 | Weblog

462『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代前半の日本経済

 1990年代前半の不況については、丸尾(筆者)は、こう述べたことがある。
 「5年越しの好景気は90年末には崩れ、経済は金融を巻き込んだ金融経済危機の様相を呈しました。それでも1991年1~3月期の実質国民総生産は年率ベースで11%の高成長で、不況の度を増したアメリカの同時期がマイナス2.6%に落ち込んだのと対照的な展開でした。
 好況末期にはバブル現象が生じました。 行き場を失った大量の資金が土地や株式の神話に群がりました。日本のマネー・パワーの源は85年秋のプラザ合意以降やってきた急激な円高とともに現出した低金利であり、これが企業業績を確かなものにしているように見えました。
 低金利のカネの源泉の一つは、1200兆円もの個人資産であり、その二つは大企業の内部留保である。その3つは膨大な対外黒字という資本流出の原資もさることながら、それ以上に対外投資を殖やすべく行い続けたユーロ市場などから短期借りをして長期貸しの存在でした。「走れトロイカ朗らかに粉雪蹴って」というところだったでしょう。
 この3つめの要因については、もう少し説明しておきましょう。1985年末のユーロ銀行市場に対する債券・債務残高のネットは748億ドルの借り入れでした。それが90年になると、3891億ドルの借り入れに膨れ上がっていたのです。日本に次いで第2位の債券大国と言われたドイツ(旧西ドイツ)がそれぞれ144億ドルの借り、1104億ドルの貸しであったのと比べると大きく異なります。
 債券大国日本の銀行は、国際金融市場から外貨をせっせと調達し、それを生命保険や損害保険、信託銀行などの期間投資家が海外証券投資に向けていく。銀行はといえば、調達したドル資金を機関投資家に売るとともに、返済の準備があるので、輸出業者のドル資金を目当てにドルの先物供給予約をとり付けておく、つまり将来の輸出を当てにして短期資本を取り入れ続けるという、切磋琢磨の構図が浮かび上がってくるではありませんか。(週刊「東洋経済」91年7月6日にBank of England Quartely Bulletinのデータが引用されています。)
 日本の株式のおよそ7割は企業間の持ち合いであって、値崩れすることはないとも、まことしやかに叫ばれていました。ところが、実体経済では需
給ギャップが開きつつあって、その増大の圧力をもろに受けて至るところでは不良債権問題が積み上がっていました。
 86年12月以来の景気拡大が減速傾向に移ったのは、バブルの過熱を冷やそうと89年5月に日本銀行が実施した公定歩合の2.5%から3.25%への引き上げによる金融引き締めがきっかけでした。89年5月から90年8月まで5回の公定歩合引き下げが行われてゆくのです。
 それから90年を経て、91年秋には設備投資のかげりがはっきりして、景気後退を顕在化させたのです。民間設備投資はバブルの88年度から90年度の3年間に、平均15%も増えていましたから、急角度で減少に転じた訳です。
 従来型の不況と違うのは、原材料減らしが中心だった過去の在庫調整と異なり、今回のケースでは自動車や家庭電化製品など最終消費財まで在庫調整がおよんでいるということで、調整が長期化に向かったことがあげられます。また、株価が大幅に下落して、金融機関に含み益の減少や不良債権の増加をもたらしました。
 そこでまず貿易不均衡への批判をかわすためとはいえ、なぜあれほどまでに金融を緩めたのでしょうか。
 金融機関は、なぜ値上がりする土地を担保に信用創造を市場に与え続けたのでしょうか。政府はなぜやがて来るであろう利害の衝突を回避する措置をとらなかったのでしょうか。
 こうした複合的な問題を解決するためには、真に勤労国民の立場に立った経済運営こそが求められたのですが、80年代を通じて弱体化していた勤労者運動と革新勢力にはそれだけの力が蓄えられていませんでした。
 91年度下期の企業倒産は初めて6千件を超え、政府発表の完全失業率は上昇のテンポを早めていきました。不況になってから95年始めまでに卸売物価は約10%下がりました。85年のピーク時から見ると約20%も落ち込んでしまったのです。独占大企業は生産調整で値崩れを防ごうとしました。」


(続く)

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○○463『自然人間の歴史・日本篇』1990年代前半の景気刺激策

2016-09-15 20:27:12 | Weblog

463『自然人間の歴史・日本篇』1990年代前半の景気刺激策

 公共事業増大を軸とする財政支出による下支えが始まりました。92年3月末の公共事業前倒しを中心とした緊急経済対策の実施と従来型の手を打ちました。
 日本銀行は90年8月30日、同3月の第4次に続いて第5次の公定歩合引き上げに踏み切りました。上げ幅は0.75%で、これによって西ドイツ、スイスと同率の6%となりました。90年5月の先進7か国蔵相・中央銀行蔵相会議(G7)の後 さらにイラクのクウェート侵攻による中東情勢の緊迫化の最中の出来事でした。この時点の日米の金利差は、短期金利としてはほとんど並んでいました。
 長期金利差は名目上はアメリカの通常もののTB(財務省証券)と日本の119回国債の名目金利差はアメリカの方が0.84%上であるけれども、物価でデフレートした実質ベースは90年4月頃から逆に日本の方が高くなっていました。
 87年7月以降92年6月末までの間に、4回の公定歩合引き下げることで金融を潤沢にする試みも従来型景気対策といえるでしょう。
 それにもかかわららず、92年6月を過ぎてからも景気ははかばかしくありません。こうしたデフレ・スパイラルが続いたのは、その効果をうち消すほどに過剰な資本の蓄積が進んでいたからなのです。
 そこで92年8月、総事業規模で10兆7000億円、名目GDP比で2.3%の総合景気対策。6兆2500億円の公共事業。これは一般公共事業+地方単独事業+施設費+災害復旧事業+農業と震災対策費の合計です。そのうちいわゆる真水分は5兆2100億円。公共事業予算追加額は国の1兆8444億円と地方の4兆7062億円の合計で6兆5506億円。公共事業追加額とは、国については補正予算の公共事業関係費のことであり、また地方のそれは決算額から地方財政計画額を差し引いた投資的経費のことを指しています。
 93年4月のそれは13兆2000億円、名目GDP比で2.8%。減税が1500億円。公共事業7兆1700億円。そのうち真水分は6兆720億円。93年9月のそれは6兆1500億円、名目GDP比で1.3%の追加景気対策。減税ゼロ。公共事業1兆9500億円。そのうち真水分は1兆6500億円。
 93年4月と同9月とを合わせた公共事業予算追加額は、国が6兆5757億円、地方が2兆3799億円の合計で8兆9556億円。
 続いて94年2月の総合景気対策としては、15兆2500億円、名目GDP比で3.2%のもの。減税は5兆8500億円の規模でした。公共事業は3兆9500億円。そのうち真水分は3兆3280億円。公共事業追加分は国が1兆6246億円、地方が9304億円の合計でしめて2兆5550億円。」


(続く)

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○351『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治

2016-09-15 19:07:08 | Weblog

351『自然と人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの政治

 1990年代の始めから半ばまでの政治経済状況について、丸尾(筆者)はこう書いた。まずは、錯綜重ねる政界図と題し、こう言う。
 「政治面では、92年10月に金丸信氏が東京佐川急便事件の責任をとって議員辞職、竹下派会長も辞任、後任に小渕恵三氏が就任しました。「天下、国家のために働いている」と公言してはばからなかった彼・金丸氏が、後に自宅で75キログラムの金塊を抱いていたことが判明したように、長らく権力の中枢にある人が一皮剥けば実はカネまみれであったことは、驚きでありました。
 92年12月になると竹下派が分裂、小沢一郎、羽田両氏らが羽田派を結成、小渕派は党内台4派閥に転落します。政局は麻のごとくに乱れて変動がやまず、93年6月内閣不信任案に自民党の小沢・羽田グループが合流して可決しました。衆議院は解散し、小沢・羽田グループは新生党を結成しました。
 93年8月には細川・非自民党内閣が成立しました。新保守三党を含む七党一会派による連立政権という寄り合い所帯の誕生でした。
 その後の94年4月の羽田内閣を経て、翌94年6月には今度は自民党も賛成して自社さまがけ連立の村山社会党首班の内閣が発足します。社会党は衆議院で74議席を占めていました。自民党は在野に下り、主流派は経世会を平成政治研究会に改称、返り咲きの機を窺っていました。
 一方、94年12月には新進党が結成され、海部党首、小沢幹事長に就任しました。この間に民主主義に逆行する小選挙区制が創設されるとともに、貧富の差をさらに広げる年金改悪や消費税増税が行われました。さらに、いわゆる「55年体制」で40年近くの歳月名を成してきた日本社会党は、この両方の関係をどうするかの政治課題(選択というべきか)に労働者と勤労国民の代表の立場を貫けず、このころから「現実色」を強めてしだいに体制内勢力の一部へと組み込まれていきました。」
 これらのうち、社会党が大きく政策転換したのは周知のことであるが、政治面で安全保障政策とこれに関連する憲法条項(憲法第9条)、そして小選挙区制導入如何が、のっぴきならぬ命題として提出されるに至る。
我が国の安全保障からいうと、なかなかに電撃的な展開が見られた。時は1994年7月20日の衆議院本会議、出典は『日米関係資料集』(1945-97の1268-1269頁及び『朝日新聞』1994年7月21日朝刊)、村山富市首相の国会答弁には、こうある。
 「冷戦の終結後も国際社会が依然、不安定要因を内包している中で、わが国が引き続き安全を確保していくためには、日米安保条約が必要だ。日米安保体制は、国際社会における広範な日米協力関係の政治的基盤となっており、さらにアジア・太平洋地域の安定要因としての米国の存在を確保し、この地域の平和と繁栄を促進するために不可欠となっている。維持と言おうが堅持と言おうが、このような日米安保体制の意義と重要性についての認識は、私の政権でも基本的に変わることはなく、先のナポリ・サミットでの日米首脳会談では、私からこのような認識を踏まえて、日米安保体制についてのわが国の立場を改めて明確に表明した。
 私の政権の下では、今後とも日米安保条約、関連取り決め上の義務を履行するとともに、日米安保体制の円滑かつ効果的運用を確保する。在日米軍駐留経費特別協定の有効期間の終了後については、日米安保体制の円滑かつ効果的運用を図る必要があるとの観点から自主的判断に基き、適切に対応したい。その具体的内容は米側との協議を待って判断したい。」 「私としては専守防衛に徹し、自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊は、憲法の認めるものであると認識する。同時に、日本国憲法の精神と理念の実現できる世界を目指し、国際情勢の変化を踏まえながら、国際協調体制の確立と軍縮の推進を図りつつ、国際社会で名誉ある地位を占めることができるよう全力を傾ける。
 本来、国家にとって最も基本的な問題である防衛問題で、主要政党間で大きな意見の相違があったのは好ましいことではない。戦後、社会党は平和憲法の精神を具体化するための粘り強い努力を続け、国民の間に、文民統制、専守防衛、徴兵制の不採用、自衛隊の海外派兵の禁止、集団自衛権の不行使、非核三原則の順守、核・化学・生物兵器など大量破壊兵器の不保持、武器輸出禁止などの原則を確立しながら、必要最小限の自衛力の存在を容認するという、穏健でバランスのとれた国民意識を形成したものであろうと思う。
 国際的には冷戦構造が崩壊し、国内的にも大きな政治変革が起きている今日こそ、こうした歴史と現実認識のもと、世界第二位の経済力を持った平和憲法国家日本が、将来どのようにして国際平和の維持に貢献し、併せてどのように自国の安全を図るのかという点で、より良い具体的な政策を提示し合う、未来志向の発想が最も求められている。社会党においてもこうした認識を踏まえて、新しい時代の変化に対応する合意が図られることを期待する。」
次なる政治改革については、こうなっている。
 「政治改革関連法のうち、小選挙区比例代表並立制の導入に伴ういわゆる区割り法が94年11月21日に可決成立、同25日の公布、それからすでに成立を見ていた他の関連法とともに1か月の周知期間を経て94年12月25日に施行されました。これ以後公示される衆議院総選挙に際しては、1917年(大正14年)以来続いてきたいわゆる中選挙区制から小選挙区制に選挙制度ががらりと変わったのです。
 これによると、投票方法も記号式二票式になり、勤労国民と選挙の現場にとまどいが生まれました。また同時に、95年1月1日から改正政治資金規制法と政党助成法が施行されました。これで、「企業、労働組合等の団体の寄付が大幅に制限されるとともに、政治資金は政党が中心になって集めるようにして透明性を高め、同時に法人格を有する政党に対しては国から交付金が公布されるようになります。」(総理府広報室「家庭版、今週の日本、94年12月19日付け」)。選挙にカネがかかりすぎる、という反省から導入したと推進勢力によって自認されるこの制度は、政治資金規制法、政党助成法と法人格付与法、公職選挙法等に跨ったはば広型の対応を私たちに求めているのではないでしょうか。
 その不当性は、一口にいうならば民主主義の否定であり、なかんづく少数勢力が多数勢力になっていくことを拒もうとすることにほかなりません。」


(続く)

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新70『美作の野は晴れて』第一部、近代からの天文学の発展1

2016-09-11 09:23:16 | Weblog

70『美作の野は晴れて-津山・岡山今昔物語』第一部、近代からの天文学の発展1

 中世になっても、科学はまだ相当には発達していない間は、人々はなおも宗教や因習などに大きく影響されていた。しかし近代になると、その中から変革の思想家が現れるに至るのであるから、世の中棄てたものではない。
 ニコラウス・コペルニクスは16世紀の人、カトリック教会の司祭であった。当時の聖職者は、ある意味天体の運行についても責任を負っていたのだろうか、彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることを問題視していた。そもそもの学問の話では、ギリシャのアリストテレスは天動説を唱えたが、同じギリシャのアリスタルコスは、少し違うやり方で天体運航の謎時を試みる。月のちょうど半分が照らされているのを観察していて、月は球形だから今見える月の姿は太陽光が真横からあたっているからにちがいないと考えた。アリスタルコスは幾何学を使い、太陽Sと半月M、地球Eとし、これらでつくる三角形SMEを描き、角SMEを直角とする直角三角形となるから、角SEMを測れば、角MSEも求められると考えたらしい。地球から観る月と太陽はほぼ同じ大きさに見える。だから太陽が月の何倍の大きさか比べられる。さらに地球は月の約3倍大きく見える。だから太陽が地球の何倍か見当がつくというのであった。
 アリストテレス、アリスタルコスの二人から2千年以上経ってから研究の道に入ったコペルニクスであったが、アリスタルコスの研究を知っていたに違いない。彼は、太陽を中心に置き、地球がその周りをほぼ1年をかけて公転するものと考えると、全ての観測結果と辻褄が合うとし、思索を勧め田結果、1恒星年を365.25671日、1回帰年をあ365.2425日と算出した(ここで1年の値が2つあるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる)。
 コペルニクスは1543年に没する直前までこの研究を続け、その思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。その際、天動説を真正面から批判するというよりは、地球が太陽の周りを回ると考えるという説を紹介するという体裁をとった。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。事実、この本の目次は極めて丁寧なものとなっている。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定できるようにしたのであった。これが、当時の先進的な人々に特別の高揚感を与えたことは、疑いあるまい。
 このコペルニクスが唱えた天動説は画期的であったが、いきなり、あるいは徐々に世の中に賛意が広がっていったのではなく、紆余曲折があった。最初に地動説に賛成した人物の一人に、ジョルダーノ・ブルーノ(1548年 ~1600年2月17日)がいる。彼はイタリア出身でドミニコ会の修道士であった。彼は、行動の人でもあった。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、これに沿うとみられるコペルニクスの地動説を擁護した。ブルーノの人となりはよくは知られていないものの、大層意志の強い人であったのだろう、当時の地上と天上における精神的権威であったローマ教会から異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、記録によると火刑に処せられた。彼が死刑となったことが、天動説の第一の受難だせったと言える。
 第二の受難は、1610年(慶長10年)にやってきた。それが、ローマ・カトリック教会によるガリレオ・ガリレイの宗教裁判である。この年、、『星界の報告』の発表の時に最初のシグナルが起こった。彼が自前の望遠鏡で観た「月の表面は、多くの哲学者たちが月や他の天体主張しているような、滑らかで一様な、完全な球体なのではない。逆に、そこは起伏に富んでいて粗く、いたるところにくぼみや隆起がある。山脈や深い谷によって刻まれた地球となんの変わりもない」(岩波文庫、山田慶児・谷泰訳)ものであった。
 当時の人々がとりわけ驚いたのは、彼が木星の衛星に望遠鏡を向けた時の報告であった。ガリレオが木星に望遠鏡を向けると、はじめ3つの衛星が見え、その後さらにもう一つの衛星がみえて、全部で4つが木星の回りを回っている。彼は、それらの毎日の位置の変化を観測し、それらの位置が木星を中心に日々変わり、時には木星の背後に隠れ、また現れることを突き止め、これらは恒星ではなく、木星の衛星であると結論づけた。あたかも、太陽のまわりを地球が回っているようなものだと考えられる。
 ところが、人々は、木星にも地球における月と同じように衛星が回っており、しかもそれが4個も見つかったというガリレオの報告に驚くとともに、戸惑った。というのは、天動説では地球が天体の運行の中心にあるのだと教えている。それなのに、ガリレオの説を敷延してゆくと、その先にあるのは木星と衛星の関係を地球と太陽の間に適用するとどう
なるかの命題なのである。それまではコペルニクスの地動説で説明するしかなく、そこでは地球の自転と公転の両方がごっちゃになって区別できていなかった。ガリレオは、その命題についての正解は、地球が自転や公転をするということだけではなくて、宏大な宇宙の中心に地球があるのではなくて、太陽系においては太陽こそがその中心の位置にあるのであって、地球は太陽の周りを回る一惑星に過ぎないことになってしまう。
 ガリレオの望遠鏡が捉えていたのはそれだけではなかった。観測ノートに記入していた時の彼は、太陽系の惑星の海王星が八等星の明るさで写っていたの目にしていたのではないか、おそらく、それを惑星ではなく、「恒星」として記録している(1612年(慶長17年)12月28日及び1613年(慶長18年)1月28日の観測日誌)。その延長で、肉眼では土星までしか観測できない太陽系の惑星に、7番目の惑星が存在することを発見したのは1781年、イギリスのウィリアム・ハーシエルの仕事によるものであって、その星は「天王星」と名付けられた。
 後日談として、1846年(弘化3年)9月23日、ドイツのベルリン天文台のヨハン・ゴットフィールド・ガレが、フランスのユルバン・ルヴエリエとイギリスのジョン・クーチ・アダムズによる天体力学による計算での予言のとおりの位置に、天王星の外側を回る未発見の第8惑星を観測した。そして、この星は「海王星」と命名された。この惑星の位置は、先の2人がその摂動が天王星によっての運動が乱されていると考え、そこに未知の惑星が存在する可能性を指摘した予報位置から、僅か52度しか離れていなかった。
 海王星は、そのさらに前のガリレオの「望遠鏡がとらえる木星付近の視野に収まる位置にあり、観測日誌に記されたのと同じ方向に来ていた」(小山慶太「科学の歴史を旅してみようーコペルニクスから現代まで」NHK出版、2012)ことをもって、先にガリレオが観測したのと同一のものなのではなかったか、とも考えられている。ちなみに、太陽を「りんご大」に例えると、4メートル離れて水星(ケシップ)が、7メートルに金星(丸薬)、10メートルに地球(丸薬)、15メートルに火星(丸薬)、52メートルに木星(パチンコ玉)、96メートルに土星(パチンコ玉)、192メートルに天王星(5ミリの錠剤)、そして300メートルのところに海王星(5ミリくらいの玉)がある例えになっている(草下英明『図説、宇宙と天体』立風書房、1987)。
 なお、これに関連して、2015年7月14日午前(日本時間では同日夜)、米航空宇宙局(NASA)の無人探査機「ニューホライズンズ」が冥王星に再接近した。ここで冥王星とは、1930年に米国の天文学者トンボーが「9番目の惑星」として発見を発表したものの、国際天文学会連合による定義見直しで「準惑星」に格下げされた。表面温度は摂氏零下220度を下回り、表面は窒素やメタンなどの氷で覆われている。それでも、この星は、約248年かけて太陽の周りを公転しているのだと言われる。こういう形での探査機による冥王星の観測は史上はじめてとのことであり、同探査機は2006年の打ち上げ後、9年半かけて48億キロの旅をしてきて、いまこの時、太陽系の端に近い、この冥王星のところをまでやってきているということなので、大いなる驚きだ。
 加うるに、1613年(慶長18年)に出版されたガリレオの『太陽黒点の研究』という論文には、当時太陽の黒点は地球と太陽との間にある小さな星と考えられていた。それをガリレオは、太陽を観察して、黒点の位置や大きさが絶えず変わることを知った。黒点は太陽の表面で起きているのであって、太陽が自転することで変化しているのだと彼は記した。イタリアで出版されたこの本の考えを敷延していけば、宇宙は普遍ではなく、変化しているのであって、地球も不動のものではありえないことを言いたかったに違いない。彼の説は天動説に敵対したとみなされ、本が出版された3年後にバチカン法王庁による世俗権力によって宗教裁判にかけられ、あれよあれよと言う間に有罪にされてしまうのだった。
 それでも、真理への道は突き進んでいく。1727年(年)、「年周光行差」の存在が確認された。ここに年周光行差とは、地球の上にいる観測者が地球の公転によって光速で動いていることを考えると、光りの速度と観測者の動く速度の合成によって、光がやってくる方向が変化して見えることをいい、地動説を裏付ける証拠の一つとなる。地球の自転を確認する方法は、さしあたりもう一つ、「年周視差」からも確認できるだろう。ここに年周視差とは、地球が太陽の周りを1公転する間に、地球の地殻にある星は1年周期でわずかに動いて見える、その角度のことをいう。その角度は微小であるから、なかなかに検出できなかった。こちらは、1838年(年)、はくちょう座六一番星の年周視差が検出されたことで確認されるに至る。続いて1851年(年)、レオン・フーコーが振り子の原理を使って、地球の自転によって、振れる向きが徐々にずれていくことを発見した。


(続く)
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○○406『自然と人間の歴史・日本篇』第一次石油ショック(1973~1974)

2016-09-09 19:30:10 | Weblog

406『自然と人間の歴史・日本篇』第一次石油ショック(1973~1974)

 1969年9月、リビアでカダフィ大佐の指揮で新政権が樹立されると、リビアは国内で操業している独立系石油会社に対し、原油公示価格および石油所得税率の引き上げを要求しました。独立系石油会社は当時、リビア産原油に大きく依存していましたので、リビアの要求を大筋で受け入れざるを得ませんでした。
 そして、1970年代にはいると、米欧の資本主義国を母国とする国際石油資本の支配への反撃が組織されてきます。ドル価値の下落による石油価格の実質的引き下げに対抗して、0PEC(石油輸出国機構)による値上げが数次にわたって行われました。
 最初のオイルショックは1973年10月に起きました。同年10月6日に第4次中東戦争が勃発したのを好機に、OPECは減産姿勢を強めたとの観測もあながち的はずれのものとは思えません。第4次中東戦争で原油輸出大国のサウジアラビアが禁輸したために起きました。石油危機とは、石油を輸入する国々が原油や石油製品を入手することが困難な状態ということです。先進国・メジャーズとOPEC諸国との石油を巡ってのせめぎ合いを71年から74年までに限って追跡してみましょう。
 1970年12月、OPECの第21回総会がベネズエラのカラカスで開かれました。
この会議においては、原油公示価格のさらなる引き上げ、石油の利益に対する所得税率を最低55%へ引き上げるとともに、従来行っていた石油会社に対する値引きを禁止することで、先進諸国によるインフレに伴う産油国側(発展途上国)の購買力の低下を補償する必要がある、などの方針が決議されました。
 これを受けてペルシア湾岸産油6か国が、イランの首都テヘランにおいてメジャーズ(13社)との交渉に入り、その交渉の結果、1971年2月14日にはテヘラン協定(tehran agreement/ teheran agreement)が締結されました。その内容の概略は次のとおりでした。
①として、ペルシャ湾岸原油の公示価格を一律に1バーレル当たり30セント引き上げる。ここで1バレルとは、米国のペンシルバニア州で石油の容れ物として用いられていた木樽(たる)の意味で、その容量は42ガロン=約0.159キロリットルありましたが、これが石油の容量を示す計算単位となり、現在に至っています。
 その②としては、税法上従来認められていた公示価格からの諸控除を撤廃する。③公示価格を1975年までの毎年1バーレル当たり2.5%プラス5セント引き上げていくこととするる。④として、ペルシャ湾岸6カ国は、本協定の期間中は、他地域の産油国において本協定と異なる事項を適用した場合でも、本協定を上回るものは求めないこととする。⑤として、利益に対する所得税率を1975年までに最低55%に引き上げることとする。
 このテヘラン協定の最大の意義は、何であったのでしょうか。それは、OPECが国際石油市場における全般の、もう一方の当事者として認知されたということに他なりません。これを受けて、1971年4月、リビアはメジャーズとの間に「トリポリ協定」を締結しました。
 またテヘラン協定は、1975年までのペルシャ湾岸産の石油の公式価格を固定させようというものでしたが、1971年8月のいわゆる「ニクソン・ショック」以来の度重なる米ドルの切り下げ、国際通貨変動に対処して、1972年1月20日にテヘラン協定の補正としてジュネーブ協定、さらには新ジュネーブ協定が結ばれ、アメリカを中心とする国際通貨の変動に伴って米ドル表示の公示価格をその都度変動させることになりました。
このジュネーブ協定の成立については、ニクソン・ショックに伴うドルの減価に対抗し、テヘラン協定を補足する形で公示価格を8.49%引き上げるとともに、今後の引き上げ方式も決めました。その内容は、各年の3.6.9.12月の各1日に、米ドルを除く主要9か国通貨の変動率を勘案して価格を見直すというものでした。
 続いて、1972年12月になると、もう一つの大きなOPECの攻勢が実を結ぶことになります。それは、1968年6月のOPEC総会で石油利権への経営参加という考え方が初めて示されたのに始まります。その後、この考えはさらに具体化され、1972年1月からメジャー側との交渉が始まりました。メジャーズはこれに対してはなかなか譲歩しようしませんでした。なぜなら、この潮流の拡大が続けば、やがて産油国側との石油利権を対等の立場で決めていくことも危うくなるであろうことを見通していたからです。しかし、ここでも結局、メジャー側が譲歩を余儀なくされ、1972年12月になったら既存の石油利権のうち25%分を産油国のものとして認めること、そして1983年まで産油国側の経営参加率を51%にまで引き上げることで交渉がまとまりました。これが「リヤド協定」と呼ばれているものです。
 そして迎えた1973年1月1日からテヘラン協定が適用となります。73年6月1日
になると、ジュネーブ補足協定が成立しました。同細く協定は、73年2月の大幅な通貨変動の経験を踏まえて、通貨変動時に備えて敏感で迅速な公示価格調整をねらったもので、73年10月1日からジュネーブ補足協定が適用となります。1973年10月16日
には、ウィーンにおける中東のOPEC加盟の湾岸6か国閣僚委員会の決定に基づく一方的値上げが行われます。


(続く)
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○○387『自然と人間の歴史・日本篇』所得倍増が叫ばれた時代

2016-09-09 10:38:16 | Weblog

387『自然と人間の歴史・日本篇』所得倍増が叫ばれた時代

 1961年1月30日、第59代・第2次池田内閣が臨んだ第38回常会(衆議院・参議院)において、池田勇人首相の施政方針演説が実行され、その中で彼はこう大風呂敷を広げた。その抜粋には、こうある。
 「(中略)
 わが国経済は、国民の能力・勤勉・創造的意欲に配するに、世界の平和と経済の自由という環境にささえられて、われわれの予想以上に急速な拡大を示しつつあり、国民総生産は、本年度十四兆二千三百億円に達するものと思われます。しかも、卸売物価は安定を保ち、国際収支も依然として黒字基調を維持し、外貨準備高は年度末には約二十億ドルに達する見込みであります。また、雇用情勢も一段と改善を見、国民生活も著しく充実向上して参りました。これは、わが国の経済が歴史的な勃興期を迎え、構造的変化を遂げつつあることを物語るものであり、この成長と発展は世界の驚異となっておるのであります。
 わが国経済のこの安定的成長を今後長きにわたって確保し、現在見られるような各種の所得格差を解消しつつ、完全雇用と福祉国家の実現をはかるためには、長期的観点から各種の施策を総合的に推進する必要があります。そのため、政府は、従来の新長期経済計画にかえて、今回、国民所得倍増計画と国民所得倍増計画の構想を政府の長期にわたる経済運営の指針として採択いたしました。

 この計画は、今後おおむね十カ年間に国民所得を倍増することを目標とし、これを達成するため必要とされる諸施策の基本的方向とその構造を示したものでございます。特に、農業と非農業間、大企業と中小企業間及び地域相互間に存在する所得格差を是正し、もってわが国経済の底辺を引き上げ、その構造と体質の改善をはかろうとするものであります。同時に、この計画は今後十年間、において新たに生産年令に達する青少年に、それぞれ適当な職場を用意する国家的責任にこたえるものでございます。
 右の長期経済計画の実施にあたっては、昭和三十六年度から昭和三十八年度までの三年間は、新規生産年令人口の急増に応じて、年平均九%の経済成長を遂げることを目標として、あらゆる施策を講ずることを明らかにいたしております。すなわち、昭和三十六年度予算及び財政投融資計画は、このような展望と期待のもとに、当面の国際経済の動向に即応し、通貨価値の安定と国際収支の均衡を保持しつつ、本計画の第一年度をになうものとして編成されたのであります。

 この予算の最重点は、申すまでもなく、減税、社会保障及び公共投資であり、平年度千百三十八億円に上る所得税と法人税を中心とする国税の軽減を初め、低所得層中心の社会保障費六百三十六億円、公共事業費六百八十九億円をそれぞれ増加計上しましたが、これはわが国財政史上空前のことでございます。さらに、文教の刷新充実と科学技術の振興に努め、貿易の振興と対外経済協力の推進をはかり、中小企業及び農林漁業の近代化と振興に特に配慮いたしました。地方行政水準の向上と後進地域の開発については、地方の財政力の向上をもって足れりとせず、政府におきましても積極的な助成の道を開いたのであります。

 これにより、政府活動は、その全分野にわたって画期的な改善と前進を見ることは明らかであり、経済の成長が予算を通して国民に何をもたらすものであるかを如実に示すものであると思います。しかも、本予算のもたらすものは、長期経済計画のほんの序幕にすぎず、この種の努力を年々歳々しんぼう強く積み重ねることによって、わが国の福祉国家としての内容はいよいよ豊かさと明るさを加え、先進諸国の水準に迫る日の遠くないことを確信するものでございます。
 私は、わが国の福祉国家へのたくましい前進にあたって、いわゆる低所得層に属する不幸不運な人々に対する配慮に力点を置きつつ、ようやく体系を整え始めた社会保障制度の合理的発展と充実に思い切った努力をいたしました。しかし、社会保障に関しまして、国家をサンタクロースのごときものと考えることは間違いであるといわれておりますように、私は、生活保護を必要とする状態に陥ることを防ぐとともに、この状態から自主的に立ち上がる機会を豊かに作り出すことを、われわれの長期経済計画の大きい使命の一つであると考えておるのであります。
 雇用の状態は、近時著しく好転し、職種においてはもとより、地域によっても求人難を訴える向きもあります。しかし、わが国には、昭和三十七年より向こう三年間に五百万人に及ぶ大量の生産年令人口の増加が見込まれるとともに、不完全就労の状態にあえぐ多数の労働人口がございます。

 われわれの長期経済計画は、各人の能力に応ずるりっぱな職場を豊かに作り出すとともに、産業構造の変革に応ずる労働力の適正な配置をはからなければならぬ役割を持っておるのであります。われわれがもくろんでおります経済の成長率は、その新規就労人口に見合って定められたものであり、従って、技術者、技能者の養成、職業訓練の拡充、雇用の流動化の促進等は、本予算の策定について特に意を用いたところであります。このことが、勤労人口、特に青少年に明るい希望と誇りとをもたらすことになると信じておるのであります。
 所得倍増計画の使命は、申すまでもなく、地域的、構造的所得格差の解消を期することであります。われわれは、この計画の実行によって産業構造の高度化を実現するとともに、雇用の流動化を促進し、もって所得格差解消への条件の整備を急がなければなりません。さきに述べた社会保障の拡充と中小企業と農業の近代化は、後進地域の開発とともに、われわれが特に力を置かなければならぬ課題であります。なかんずく、農業の近代化は、難事中の難事であって、われわれが最も精力を傾注しなければならない問題であります。
 わが国農業は、その置かれている自然的、経済的諸条件とも関連して、他産業に比べて生産性と生活水準が低いばかりでなく、このままに推移せんか、この不均衡はますます拡大するおそれなしとしないのであります。しかし、経済の高度成長の過程において、最近、農業の生産性の向上とその近代化を推進するに足る必要な条件が成熟しつつあります。
 その一つは、経済成長に伴って高度化する食糧需要の変化であり、その二つは、他産業の旺盛な労働力需要の増大であります。このような傾向に即応して、私は、従来の労働集約的な零細農業経営を漸次脱却して、その近代化を促進するため、農政、財政、金融、労働、産業教育、工場の地方分散その他各般の施策を展開することが、農業者に他産業従事者に劣らない社会的、経済的地位を確保する道であると信じ、予算の編成上特段の努力を払うとともに、農業基本法を中核とする一連の施策を慎重に進めて参る考えであります。
 かくて、本予算の規模は、昭和三十五年度に比し相当の増額を示しておりますが、予算規模と国民所得との比率は、例年に比して決して過大ではなく、昭和三十六年度において予想される経済の成長におおむね見合った規模であると確信いたします。
 さらに、私は、本予算を基軸とする経済の運営にあたっては、国際経済の動向に特に注意を怠らないつもりであります。昨年来、米国の景気停滞、西欧経済の上昇鈍化に加えて、米国のドル防衛措置が日程に上って参りました。政府としては、このことのわが国貿易ないしは国際収支に及ぼす影響を決して軽視するものではありませんが、国民とともに、かかる試練を克服する努力こそが政府の責務であると考えます。すなわち、外に向かっては、一そうの輸出の伸長と海外経済協力の推進に努めるとともに、内においては、長期経済計画の着実な実行を通じて、産業の体質改善と国際競争力の培養に前向きの姿勢で努力する決意であります。
 また、物価の動向も、われわれにとっては重大な関心事であります。しかし、われわれの経済成長政策は、本来、生産性の向上と供給力の増大を通じて品質とサービス内容の向上をはかり、物価水準の一般的下落をもたらすものであります。一時上昇傾向が注目されていた食料品を中心とする消費者物価は、すでに落ちつきを取り戻しており、卸売物価も高い生産性と豊かな生産力にささえられて、おおむね安定した動きを示しております。ただ、サービス関係等、人件費の上昇を生産性の向上によっては吸収することのできない一部の物価と料金については、若干上昇の傾向が見られます。これは、他の部門の生産性の向上と所得の増加に対するサービス料金の調整過程であると考えられます。所得格差の是正の上からも、また、先進諸国のそれとの比較においても、ある程度やむを得ないところであります。しかし、合理性のない便乗的値上げについては、国民的監視と並行して、政府としても消費者行政上適切な措置を講ずる方針であります。
 政府は、来年度より国鉄運賃、郵便料金等を若干引き上げることとしております。これは、他の物資の価格水準に比べ、相当期間にわたって低位のままに据え置かれてきたため、これをこのまま放置すれば、経営の圧迫となり、設備の朽廃、サービスの低下を通じて経済発展の隘路ともなることが憂慮せられたからであります。しかも、もしかかる料金改定を怠ると、その欠陥は国民一般よりの租税収入により補てんするか、あるいは借入金によってまかなわざるを得ず、合理的な独立採算性を無視するか、あるいは将来に重い負担を残す結果となり、政府としてかかる弥縫策はとるべきではないと考えたのであります。しかしながら、他面、これが急激な上昇の国民生活に与える影響にかんがみ、政府としては、極力これを最小限にとどめるべく努力いたしました。今後とも、物価水準の安定のためには一そうの努力を傾注して、インフレなき経済成長を推進して参る決意であります。」
 これより前の1960年5月から6月にかけては、岸内閣の下で、日米安全保障条約の改定締結に反対する運動(いわゆる「安保闘争」)がピークを迎えていた。結局、岸内閣が国会採決強行の責任をとる形で退陣し、代わりに池田内閣が発足した。新たな内閣は、国民の関心を政治から交わし、経済の発展で国民生活の向上に持っていこうとして出したのがこの路線であって、向こう10年間に実質国民総支出(GDP)を倍増するという意欲的な目標を建てたのだ。その規模自体は、既に1955年から1959年でだいたい年率7%の経済成長をクリアしていたので、さしたることではなかった。とはいえ、これを10年続けていくと宣言するということは、何かしら明るいムード・期待を国民経済に吹き込む役割を果たしたのではないか。
 一番喜んだのは経済界であって、すでに熱狂の入り口にさしかかりつつあった大資本家たちは、ここぞとばかりに設備投資を増やす姿勢を取る。1961年の経済白書には「投資が投資を呼ぶ」という言葉が躍って見えるに至る。たとえ国民の消費需要に制約がある中でも、そのことで景気が天井に仕えるどころか、輸出に加え設備投資が引き続き大幅に伸びることで、力づくでしょうが、持続的な経済発展が可能となっていく、そんな時代が始まった。1958年(昭和33年)の、いわゆるナベ底不況のあと、1959年(昭和34年)から1961年(昭和36年)にかけて、景気はピークへの道を駆け上がっていった。「もうこれは、神武(じんむ)どころではない、岩戸(いわと)依頼ではないか」ということで、「岩戸景気」ということで日本列島が沸き立った、と言われる。


(続く)
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○○471『自然人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの経済

2016-09-04 07:52:37 | Weblog

471『自然人間の歴史・日本篇』1990年代半ばまでの経済

 1990年代の始めから半ばまでの経済状況について、景気刺激策の度重なる投入と、消費税増税への動きが進んでいく。景気刺激については、筆者はこう振り返っている。
 「公共事業増大を軸とする財政支出による下支えが始まりました。92年3月末の公共事業前倒しを中心とした緊急経済対策の実施と従来型の手を打ちました。
 日本銀行は90年8月30日、同3月の第4次に続いて第5次の公定歩合引き上げに踏み切りました。上げ幅は0.75%で、これによって西ドイツ、スイスと同率の6%となりました。90年5月の先進7か国蔵相・中央銀行蔵相会議(G7)の後 さらにイラクのクウェート侵攻による中東情勢の緊迫化の最中の出来事でした。この時点の日米の金利差は、短期金利としてはほとんど並んでいました。
 長期金利差は名目上はアメリカの通常もののTB(財務省証券)と日本の119回国債の名目金利差はアメリカの方が0.84%上であるけれども、物価でデフレートした実質ベースは90年4月頃から逆に日本の方が高くなっていました。
 87年7月以降92年6月末までの間に、4回の公定歩合引き下げることで金融を潤沢にする試みも従来型景気対策といえるでしょう。それにもかかわららず、92年6月を過ぎてからも景気ははかばかしくありません。こうしたデフレ・スパイラルが続いたのは、その効果をうち消すほどに過剰な資本の蓄積が進んでいたからなのです。
 そこで92年8月、総事業規模で10兆7000億円、名目GDP比で2.3%の総合景気対策。6兆2500億円の公共事業。これは一般公共事業+地方単独事業+施設費+災害復旧事業+農業と震災対策費の合計です。そのうちいわゆる真水分は5兆2100億円。公共事業予算追加額は国の1兆8444億円と地方の4兆7062億円の合計で6兆5506億円。公共事業追加額とは、国については補正予算の公共事業関係費のことであり、また地方のそれは決算額から地方財政計画額を差し引いた投資的経費のことを指しています。
 93年4月のそれは13兆2000億円、名目GDP比で2.8%。減税が1500億円。公共事業7兆1700億円。そのうち真水分は6兆720億円。93年9月のそれは6兆1500億円、名目GDP比で1.3%の追加景気対策。減税ゼロ。公共事業1兆9500億円。そのうち真水分は1兆6500億円。93年4月と同9月とを合わせた公共事業予算追加額は、国が6兆5757億円、地方が2兆3799億円の合計で8兆9556億円となった。
 続いて94年2月の総合景気対策としては、15兆2500億円、名目GDP比で3.2%のもの。減税は5兆8500億円の規模でした。公共事業は3兆9500億円。そのうち真水分は3兆3280億円。公共事業追加分は国が1兆6246億円、地方が9304億円の合計でしめて2兆5550億円に膨らんだ。」
 一方、消費税については、1988年12月、竹下登首相(自民党)の下で消費税法が成立する。1989年4月 同内閣の下で税率3%で消費税法が施行されていた。それが、1994年11月、村山富市首相(当時は社会党、現在は社民党)を首班とする連立内閣の下で、消費税率を3%から4%に引き上げ、これに地方消費税1%を加え合計5%にする税制改革関連法が成立する。なお後日談ながら、1997年4月の橋本龍太郎首相(自民党)内閣の下、消費税率の5%への引き上げを施行する。(その後は、2012年6月、野田佳彦首相(民主党)内閣の下で、税率を2014年度に8%、15年度に10%に引き上げる法案を提出する。同案は、同年8月10日の参院本会議で可決成立する。2014年4月、安倍晋三首相(自民党)を首班とする連立内閣(自民党と公明党)下で消費税率8%に引き上げを施行する。2014年11月、同内閣は、2015年10月に10%に引き上げるとしていた税率引上げを2017年4月に延期する、等々の歩みとなってく。


(続く)

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